「いきちみっけ」吉澤亮馬

 吸血鬼に噛まれるのもぼちぼち慣れたな、と思いながら、スマホをいじっていた。
「す、すごい! なんだこれ、レビュー以上だ……」
 若い吸血鬼は私の首を?みながら、ふがふがと言った。
「すみません、噛んでいる時はあまりしゃべらないでもらっていいですか? 息がくすぐったくて」
「はーい」
 吸血鬼は静かになった。真夜中の公園は静かで人の気配はない。そんな中、血を吸う音だけが聞こえていた。
 背後に体温と吐息を感じる。最初のうちは抵抗があったものの、今では何も感じない。注射器で採血されるのとほぼ同じだ。スマホで欲しい服をチェックしていると、やがて吸血鬼は口を離した。
「ごちそうさまでした。最高でした」
「ご満足いただけで良かったです」
 私はもってきたガーゼを首に当てる。ほんの微かに血が滲むのを感じた。
「一ヶ月くらい葉蔵(はくら)さんを探していたんですけど、粘って正解でした。謝礼をどうぞ」
「わあ。ありがとうございます」
 吸血鬼から封筒を受け取る。ちょっと厚みがあって嬉しかった。
「また吸いたくなったらいいですか? よければ連絡先を教えてもらえると」
「ごめんなさい。他の方からもよく言われるんですけど、すべてお断りしてまして。また運良く出会えた時はぜひ」
「わかりました。じゃあ絶対にまた来ますね」
「アプリで高評価をつけてくれたら、次は大目に吸ってくれてもいいですよ」
 吸血鬼は一礼してベンチから立ち上がった。数歩進んだところで全身が真っ黒に染まり、やがて夜の闇に溶けて消えた。
 公園で独りになってから、私はスマホアプリの【いきちみっけ】をタップした。
 メインメニューから『ランキング』をタップする。週間ランキングが表示されると、そこに自分の名前があった。
『三位:葉蔵ひびき』
 やった。先週の八位からランクアップしている。今週は頑張って吸われたから、こうやって結果が見えて嬉しくなった。
 私は求められて評価されている。例えそれが人外からであるとしても。

     〇

 次の夜、公園のベンチに座っていると、常連さんがやってきた。外見は人間の五十代くらいで、いつもスーツとシルクハットを身につけている。
「こんばんは、シラーさん」
「やあ、葉蔵さん。月の綺麗な夜だから、君の血が吸いたくなってしまったよ」
 並んで座って夜空を見上げる。満月は大きくて明るく、鈍色を灯していた。
「今日はラッキーですね。一番手ですよ」
「それは僥倖。やはりいい夜だ」
 私は背中を向け、シャツを引っ張って首筋を露わにした。夜風が肌寒い。
「体調はどうだい?」
「ちょっと寝不足気味で。でも少し多めでも大丈夫ですよ」
「それでは、お言葉に甘えて」
 シラーさんが首筋を噛む。本来、吸血鬼特有の鋭い犬歯が刺さっているはずなのに、違和感や痛みは皆無だった。
「いつも思いますけど、本当に噛み方が芸術的」
 シラーさんが微かに笑ったと、吐息で分かった。
 そのまま終わりを待った。吸血鬼の中で最も安心できるのがシラーさんだった。なぜなら、彼が私を見出してくれたのだから。
 半年ほど前、バイトを辞めたその足で公園を通りがかった。夜道の暗さと明日からの生活で不安になっていると、シラーさんから声をかけられたのである。
 私は吸血鬼である。あなたの素晴らしい血を吸わせてほしい――。
 普段なら不審者だと思って相手にせず、その場を立ち去ったことだろう。けれどその時の私は自暴自棄になっており、立ち止まって話を聞いてしまった。
 そこでいきちみっけというアプリの存在を教えてもらった。人間で言うところのグルメレビューアプリである、シラーさんは言った。周辺のマップから吸血鬼が好むであろう人間をピンで表示する――吸血鬼のためだけに作られたアプリだ。仕組みは知らないが、そのアプリに私も表示され、たまたま声をかけたとのことだった。
 ふっとシラーさんが離れた。ハンカチで自分の口を拭き始める。
「あれ、今日はもういいんですか?」
「そうだね。あまり……吸うのも良くないかなって。これくらいにしておこうか」
 私がペーパーで首筋を拭き、シャツを正し終えると、シラーさんは封筒を差し出した。
「ありがとうございます。謝礼もレビューも、いつも助かります」
「道楽だから、あまりに気にしないで」
「そんな。いきちみっけのトップレビュアーですよ? 気にするなっていう方が無理がありますって」
「そんなものかな。人間の考え方は愉快だね」
 シラーさんはスマホを取り出した。
「まあ、そんな人間のおかげでいきちみっけがあるんだ。昔よりも遥かに効率よく極上の血と巡り会える時代になった。それは素晴らしいことだね」
「このアプリって人間が開発したんですか?」
「高名な吸血鬼が出資したらしいよ。ウェブでフリー公開とは太っ腹だがね」
「でもいいんですかね。人間にバレちゃいそうですけど」
「チュートリアルも用途も省いているから、人間がインストールしても意味が分からないだろうね。せいぜい葉蔵さんのようにランキングを確認する程度と思うが――おや」
 シラーさんが公園の入り口に目をやった。私もそちらを見ると、人影がこちらに向かって歩いてきた。
「次のお客さんかな。ではお暇するよ」
「はい。ありがとうございました」
「今宵も良い夜を」
 シラーさんはシルクハットを深くかぶると、ベンチに座ったまま黒い霧になって消えた。
 シラーさんは本当に良い。穏やかな口調で癒されるし、人間のマナーも弁えているタイプだからだ。他の吸血鬼は基本的に雑談を好まず、吸血ばかり。シラーさんはたまに話し相手になってくれたりもした。
 いい気分だったのだが、人影の正体に気づくとすぐに萎えた。
 背は高いが体の線が枝のように細く、顔色に血の気はない。長い前髪が目元を隠し、落ち着きなく自分の顔を?いていた。
 いきちみっけでトリクロと名乗っている常連だった。
「……きょ、今日も吸わせてください」
 その声はか細く震えていた。もう何度も私の血を吸っておきながら、未だに極度に緊張しているように見えた。私は黙ったまま首筋をさらけ出した。
 この吸血鬼に噛まれたくない、というのが本音だった。不気味で陰気、また癖なのか、血を吸う際に歯型がつくほどしっかり噛みしめるのだ。
 噛まれた瞬間、激痛が走った。けれど断るわけにもいかない。この吸血鬼がシラーさんと対をなす有名レビュアーであることが、心底憎らしかった。

      〇

 シラーさんとトリクロに会ってから二週間後のことだった。
 なぜか、体調の悪い日が続くようになった。常に倦怠感がまとわりつき、身体がずっしりと重い。高熱が続いてまともに動けなかった。
 独りぼっちの私を心配してくれる人間はどこにもいない。
 高校を卒業後、ろくでもない両親から逃げるようにして、遠くの知らない町に引っ越した。それからバイトを転々としたけれど長続きせず、仲のいい友人もいない。無職になった今では、吸血鬼以外とのコミュニケーションはなかった。
 SNSに『具合が悪い』と書きこめば、見ず知らずのアカウントが心配してくれる。でも、それだけ。辛い時に手を握ってくれるような温かい存在にはなりえない。
 私は人間が大嫌いだ。これまでの人生でまともな人間と出会えたことがない。皆、自分のために平気で?をつき、簡単に人を傷つけて、欲望に忠実な弱くて卑しい生き物に違いない。
 いきちみっけを開いてみれば、ランキングに自分の名前がある。私は必要とされている、存在価値があると教えてくれる。また、バイト代なんかと比べ物にならないほど、立派な報酬だってもらえるのだ。
 吸血鬼の方がよっぽど素晴らしい存在だ、と今では心の底から思っていた。
 だからこそ、この体調不良も悪くない、と感じていた。
 血を吸われ始めて間もない頃、ある吸血鬼がこんなことを言っていた。
『太古の吸血鬼はね、噛んだ人間を吸血鬼に変貌させるウイルスを媒介していたんだ。今となっては衛生面が改善されたから根絶されたと考えられているがね。もし人間が感染すると、数週間ほど体調を崩したあとに吸血鬼へとなる』
 もしかすると、私はそのウイルスとやらに感染したのではないだろうか。そうであってほしいと思った。どうしようもない人間から、夜の闇に身を置く吸血鬼になれる。そう考えると不思議と心が躍った。
 そんな妄想の傍らで、冷静な自分もいた。
 この体調不良は日ごろの不摂生が原因だろう。いきちみっけで報酬をもらうようになってから、それ以外の用事で外出しなくなった。食事も一日一食で適当に済ませている。睡眠も不規則で昼夜逆転していた。
 元気になれたら規則正しい生活をしよう――そう思いながら横になっていた。

      〇

 体調がほんのり回復した夜、公園に行った。
 公園のベンチにトリクロが座っており、その時点で不穏な気配がしていた。
「今日も……お、お願いします」
 ため息をぐっとこらえて、首筋を露わにした。強い痛みをこらえ終えると、トリクロは小さな声で言った。
「あ、あの。ちょっと、伝えたいことが」
「……は?」
「えーと、その何というか……味、といえばいいのですかね。いつもはこう、いい感じの香りもあるんですけれど、やけに薄いというか。ご、誤解しないでくださいね。批判じゃないんですよ、ええ」
 はっきりしない物言いに苛立ちを覚えた。どうして上から目線で文句を言われなければならないのだろう。
「だったら、飲まなければいいじゃないですか」
「す、すみません。そうじゃなくて、気になっちゃって」
「そもそもね、あなたは噛むのが下手すぎます。他の吸血鬼を見習って欲しいくらい。あなたにどうこう言われたくありません」
「そんな……」
「今回はお金もいりません。いきちみっけのレビューも好きに書いてもらって結構です。だからもう二度とこないでください」
 私がきっぱり言うと、トリクロは肩を落として項垂れた。とぼとぼと帰っていく後ろ姿は寂しげだった。
 その後、続々と吸血鬼がやってきた。皆、淡々と私の血を吸い、用が終えるとすぐに去っていく。夜明け前には家に帰り、午後になるまで惰眠を貪った。
 寝起きでぼうっとしたまま、いきちみっけを開く。寝起きに今の自分の評価を確認するのが日課だった。
 だが、アプリを開いた途端、眠気が吹き飛んで冷汗が滲んだ。
 私の評価ポイントが星五つから四つに下がっている。何が起きた、と思い慌てて直近のレビューを見た。
『凡百の血。探し出してまで飲む価値は皆無』
『アボカドと絵具を煮込んだような感じ。淀んでいる』
『持ち腐れ。どうして他の吸血鬼がこんなに高評価なのか理解に苦しむ』
 いずれのレビューも二十四時間以内に書きこまれている。ランキングにある私の名前は八位まで急落していた。
 あの吸血鬼め――これはトリクロが何か工作をしたのだろう。いくら私が拒絶したとはいえ、あまりに陰湿なやり口である。対応を誤ったせいで面倒なアンチを生んでしまったのかもしれない。ともかく、今まで以上に血を吸ってもらい、高評価を維持しなければならなかった。
 夜になって公園へ向かった。ベンチで待機していると、この日最初の吸血鬼がやってきた。初めて見る顔だった。
「高評価らしいっすね。でも、俺は厳しいんで」
 妙に自信あり気だった。このような美食家気取りの吸血鬼は珍しくなかった。むしろ、望むところだった。
「お好きにどうぞ。ただ、嘘はやめてくださいね」
「もちろん。それじゃあ、いただきますよ」
 吸血鬼が私の首筋に噛みついた。微かな痛みがある。
 だが次の瞬間、吸血鬼は口を離して、地面に私の血を吐きだした。
「ぐぅえ、ま、不味っ! おいおい、レビュー詐欺かよ」
「ちょっと、当てつけにしては悪質ですよ!」
「はあ? こんな不味い血、誰が飲むか!」

      〇

 私の評価が急落するのは早かった。
 評価ポイントの星の数は二つ以下、レビューには辛辣な言葉が並んでいる。最近はレニューを一切見ず、星の数だけを確認していた。
 どうして私の評価が急に変わったのか、理由がまったく分からなかった。
 最初はトリクロが工作員を雇い、私を貶めているのではないかと思っていた。しかし、レビュアーを一人一人見ていくと、ちゃんと個別のユーザーであり、荒らし用の捨てアカウントではなかった。
 焦って何度も公園へ通った。けれど吸血鬼たちは立ち止まらない。私と目が合うと、汚いものを見るかのように冷ややかな視線を向けてくる。そして足早に去っていき、独りになると胸が苦しくなった。
 それでもなお、私は公園に通い続けた。通うしかなかった。
 あれだけ絶賛されていたはずなのだ。私を必要としてくれる世界は、ここにしかないのだ。吸血鬼たちに相手にされず、恥ずかしさや悔しさで苦しくても、夜になれば勝手に体が動いていた。
 血を吸われなくなって二週間、ベンチに座って足元ばかりを見ていた。この日も声さえかけられず、間もなく夜明けを迎えようとしていた。
 ふと、気配があった。公園の暗闇からよく知った吸血鬼が現れた。私の前に立つと、なぜか涙が出そうになった。
「シラーさん……」
「かわいそうに、酷い顔色だ」
「な、何が起きたんでしょう。もう私の評価がぼろぼろで……」
「知っているさ。急落していたね」
「もしかしてですけど、私、吸血鬼になったんじゃないですかね。人間を吸血鬼に帰るウイルスがあるとかって。私はそれに感染して同族の血になったから、美味しく感じられなくなったとか――」
「冗談にしては陳腐、自惚れにしては度が過ぎているな」
「……え?」
 その時、シラーさんの冷淡な眼差しに気づいた。
「安心したまえ。君は紛れもなく人間だ。そのウイルスは既に根絶されている」
「じゃあ、どうして評価が」
「シンプルな話だよ。君の血が劣化したからだ」
「劣化? 何もしていないのに?」
「我々がただの食料である人間に、大金を渡している理由が分かるかね。我々の身体能力をもってすれば、襲って吸血する方が遥かに楽であるというのに」
 私が何も言えずにいると、シラーさんはため息をついた。
「人間の血はいとも容易く劣化する。加齢、病気、ストレス、食事、生活習慣。いずれかの要素であっさりと、それも劣化が始まれば質は落ちていく一方。我々が人間に大金を渡していたのは、心身ともにメンテナンスをして血の味を保てという意味だよ」
 シラーさんが背を向けた。
「葉蔵君、君は自堕落な生活をしていたようだね。ろくでもない食生活と不規則な暮らしだったのだろう。メンタルも健全とは言い難い。肉体こそまだ若いが血の味は取り返しがつかなくなっている。何もしなかったからこそ、今の評価なのだ」
「ま、待って……」
「元来、人間は愚かだが、君は突出していたよ。我々に捕食されるだけの存在であるというのに、そこに喜びと優越感を見出していたとはね。家畜の心情はまるで理解できん」
 シラーさんの体が暗闇に溶け始めて、私は手を伸ばした。
 やがて夜明けを迎えると、そこには何も残っていなかった。

     〇

 私はスマホからいきちみっけをアンインストールした。
 私に存在価値がないことを突きつけてくるアプリなど見る気にならなかった。アプリの削除にためらいはなかったけれど、かといってすっきりもしなかった。
 ただ、その後も公園通いは続いていた。
 ベンチに座っていると常連がやってきた。枯れ木のような細い体つきと、顔を隠すような長い前髪。
「こ、こんばんは」
 トリクロは相変わらず挙動不審だった。
 私の血の味が劣化してからも、彼だけは私を欲してくれた。トリクロの噛み方は改善されず、その都度激痛が走る。以前は憎々しかったがこの痛みが、今となってはありがたくなっていた。
「どうして、まだ私の血を吸うんですか」
 私を噛み終えた彼に尋ねた。
「ぼ、僕には美味しいから。皆、不味くなったって書いてますけど、少しだけっていうか。ほんの少しの差なので僕には最高です」
「トリクロさんって味音痴なんですね」
「誤解です、誤解。本当にそう思います。葉蔵さんの血は良いです」
 最近、吸血されたあとに話す機会が増えた。歯切れの悪い喋り方や上ずった声は生理的に好きになれない。
 けれど、彼は未だに私を認めてくれている。求めてくれている。そんな相手が世界でたった一人でもいてくれるだけで、どれだけ心強いものか。
 吸血鬼と人間は同じ世界にいるけれど、違うモノを見て生きている。きっとお互いに理解することもできず、友人になれるような間柄でもないのだろう。
 それを知っていながら、私はトリクロに縋っていた。シラーさんから愚かだと言われたのも否定できないな、と素直に思う。
「もっと吸ってもいいですよ。どうせ、トリクロさんしかいませんし」
「いえいえ、満足ってやつです」
 トリクロがいるだけでほんの僅かに乾きは癒せたが、それでも物足りなさはあった。
「あ、そうだ。もし吸血鬼の友達がいたら連れてきてくださいよ。トリクロさんと同じ味覚の方がいたら、ぜひぜひ」
「ふふっ、それは無理ですよ」
「どうしてですか?」
「だって、僕、人間。女の体を噛んで血を飲むのが好きなだけですし」
 初めてトリクロが口を開けて笑った。私の血で染まった口元には、吸血鬼特有の鋭い犬歯がなかった。