「最初の筏の最初の人々」アルカジイ&ボリス・ストルガツキー(大野典宏訳)

最初の筏の最初の人々――バイキング

アルカジイ&ボリス・ストルガツキイ

大野典宏訳

 マルコフの乗る車は曲がり、小村に入った。運転手に五十カペイカを支払い、暗い車内から飛び出した。気温は十五度(氷点下九・五度)だった。マルコフには、鼻孔を突き刺すような刺激を感じた瞬間にわかった。鼻孔を突き刺すということは、氷点下十度程度になっているとわかるのだ。トラックが唸り、氷の上でタイヤをバックの方向に空転させた。凍結した悲惨な状況から抜け出ようと、ガソリンの排気ガスの毒々しい臭いを吐き出しながら空転を続けていた。マルコフは一人だった。彼はこんな時間が大好きだった。一緒に来た者は角の向こう側に行ってしまったために見えず、まったくもって静かで、そこらじゅうに雪が吹き寄せ、頭上には灰色の低い空があり、雪が積もった森のようだった。彼は一人で、背中にリュックと銃を背負い、冷気は時を追うごとに頬に刺さり、空気は感心してしまう強烈な冷たさだった。そして目前には、森のように静かな二週間があり、その間の探索、雪上の足跡、暖かい森林警備の家で過ごす緩やかな冬の午後、そのときはその他の事など考えられなかった。ただ、健康な生活や雪、静かで感じの良い人々、友人同士で過ごすような気楽な日々が楽しみだった。

 マルコフはスキーに履きかえて背中のリュックを背負い直し、水路の上を渡って視界の定かでない森に入った。森の中に住んでいるパル・パリッチの家までの道はわかっている。数時ほどトラックの音が聞こえたが、やがて静かになり、雪の上に張った薄い氷が足下できしむ音、かさかさとした音、そしてどこかで鴉が鳴いているだけだった。

 家までは八キロあった。足跡は見られなかったが、マルコフは、パル・パリッチが足跡を残すようなことはなく、すべてが消されることを知っていた。足跡、黒い雷鳥が雪から舞い上がる際の音、銃声、そして命中した時にはっきりと感じる激しい興奮、そして巨大な鳥が吹き寄せた雪の中に重たい音を立てて落ち、大地を打ち付けて震えるように見えるのだ。

 いつものようにパル・パリッチの家は、親しげな音を立ててマルコフを迎え入れた。たくましい犬のトレゾルが、森全体を一斉に轟かせ、騒々しい音が鳴った。「黙れ!馬鹿野郎!」と、脅かすように、パル・パリッチの母親のマリヤ婆様が叫んだ。突然、鶏が鳴き始めた。しかし、一瞬の後には静かになり、その時、マルコフはいきなり空き地をかき分けるように右側に行き、家を見ようと思った。彼はそのとき、何らかの事態が起こったと思った。門は開き、庭は生気のない静けさで、何かがおかしく、異様な状態だった。

 この不吉な感じはどこからくるのか、彼にはまだ全く理解できなかった。が、しばらくしてやっとわかった。たくさんのドアが開いているのだ。家のドアは大きく開け放たれ、鶏小屋の戸はこじ開けられ、一部分が地面に落ちており、牛小屋の戸も同じで、なぜだか屋根裏部屋の戸も開けられていた。家の壊された部分には、トレゾルの犬小屋も入っている。小屋はひっくり返され、庭全体に赤い羽根が散らばり、踏み荒らされた雪には、赤い泥の穴があちこちにあった。マルコフは、呼吸を保ちつつ、大急ぎでスキーを脱ぎ、家に入った。家の中の全てのドアもまた開けられており、壊された窓から冷気が入り込んで来てはいたが、まだ暖かかった。マルコフは「おーい、主はどこだ!」と呼んだが答えはなかった。部屋の中は、いつもきれいで片づいていたものだが、大きな羊の皮をひいた床の上には物が散らかっていた。

 マルコフは庭に出て、口に掌をあてて叫びながら、家の周りを走った。夜が近くなり、縞模様の年老いた雌ムル猫(ムルとは、ホフマン「牡猫ムルの人生観」に出てくる人語を解する猫)が、彼の足元に飛び出してきて尻尾を膨れ上がらせ、鶏小屋の上にひょいと飛び乗った。マルコフは、立ち止まって猫を呼んだが、猫は斜めに見て、短い耳をこちらに向けると、暗く激しく、突然はっきりと「ヅアウア」と鳴いた。猫は、しばらくは落ち着くことも、誰かを信じることもできないように見えた。

 家の周りを回り終えるとマルコフはスキーを履き、リュックを降ろし、銃を再充填した。「二等警備員」である彼は雪の中をまっすぐ滑り降り、身を固くして銃身を「射撃位置」にした。犯罪が行われたことを疑う余地はなかった。この考えはそれほど突飛なものでもなく、他の可能性は頭に浮かんで来なかった。そして、門越しに血で汚れた重い何かを雪の上で運び出した跡を彼は発見した。林の中に跡を残しながら木々の中に消えて行く跡を見た。あたりには多数の痕跡があり、それらもマルコフには奇妙に映ったが、調べている時間は無かった。彼は撃てる状態にした銃を肩に背負い、赤い泥の塊が散らばりかき乱された、気味の悪い雪のわだちを追った。「悪党ども、けだものめ……」彼は酷い嫌悪を感じた。全ては明らかだった。パル・パリッチは、悪意ある誘拐者によって拘束され、たとえ解放されたのだとしても――例えば酔っぱらった花嫁の付添人が復讐に現れ、パル・パリッチと母親を殺し、その後正気に戻って恐怖に駆られ死体を森に隠すために引きずっていったとか――彼には酷い顔とウォッカで赤くなった目がはっきりと見え、また弾丸は足にではなく、身体の正面に打ち込まれているのだと思った。

 木々の間についている足跡は分かれていた。右側には、連なって彷徨う跡が続いていると判断し、マルコフは当惑して立ち止まった。それは裸足の跡だった。雪上の薄氷がそのままで壊れていないところは、裸足の足跡だと断定できる。これは不可解だった。ちょっとの間マルコフは迷った。何があったのかは知らないが、泥にまみれた血のわだちがはるか前方へと向かっているのは事実だ。溝はのびており、茂みの間をぬい、曲がった香木の緑の枝によって雪をかぶり乱雑になっている。時として、続いている裸足の足跡が、わだちを横切っていた。そしてマルコフは、前方の動きに気づき、立ち止まるとおおざっぱに銃を構えた。

 正面の茂みにいる何かは生きていて、光るまだら模様で、彩色された人形のようだった。マルコフは、とっさにそれが何かを推し図ろうとしたが、無理だった。雪の積もった枝を通して、黄味がかった赤い蝶が見え、マルコフには、それが大きく呼吸しているように見えた。前に進み、大声で叫んだ。「誰だ? 撃つぞ」。答えはなかった。するとマルコフの視界の左片隅に動くものが見えたので、銃口の向きを鋭く変えた。

 突然、木々の中から、なんとも驚くべき姿の人が走り出してきた。もし、この人物が毛皮のショートコートかキルト地のジャケットを着て、手に斧か銃を持っていたら、マルコフは反射的に雪の中に身を伏せ、自分のダブルバレルの銃を正面に構えて冷静に狙撃していただろう。しかし、男は裸で、全身が赤と黄色のまだらに染まり、手の中には長くて尖った棒を持っていた。マルコフは口を開き、男が尋常でないほど軽やかでしっかりとした足取りで雪の中を走っている様を目にした。そして、男は走る速度をゆるめ、全身をたわませると、野性的な叫びを上げてマルコフに向かって槍を投げた。マルコフは本能的に身を屈め、スキーを履いているのもかまわず、身を翻した。飛んできた槍がいた場所に突き刺さるのを見て驚き、恐怖を感じた。力まかせに放たれた槍は、ペイントを施した男の腕から離れ、空中をゆっくりと泳いでいた。 槍は頭を下に向けると、速度を上げて頭上を飛び、ヒューと音を立てながらマルコフの背後に刺さった。マルコフは、より大きな切り裂くような音を再び聞き、茂みに向かって断続的な射撃を行ったが、マルコフには四方から攻撃が加えられていた。たくましく短い腕がマルコフの顔をつかみ、顔が後ろに回された。ひどく不快な感じがしたかと思うと鼻に酷い衝撃を受け、攻撃されて耳が聞こえなくなった。

 気が付くと、雪の中に倒れていた。知らない声が聞こえた。わけのわからない、きしるような音だった。不快で強烈な臭いがした。彼はすぐに全てを思い出し、腰を上げ、銃身を向けようとした。彼の正面には広大な空き地があり、そこには大勢の人々がいた。マルコフの目が見え始めた。いたるところで喉から声を出しながら、小さく、裸にきらびやかな赤いペイントを施した人々が走り回っていた。マルコフの近くでは、そんな人間が叫び、槍を振っていた。そして、みすぼらしい大群衆の真ん中には長くて灰色の何かが置かれていたが、それは聖堂というわけでもなく、巨大な何かでもなく、どことなく胡瓜を思わせた。作業を終えようとしている一人は、ガレー船の船尾のような変な物の端にいた。男の仲間は斜面にいて、持ち上げていた。

 マルコフのすり切れた額と頬には雪が付いていた。帽子とジャケットが無くなり、銃も消えていた。近くに立っていた人物がマルコフのほうを向き、無愛想に口を動かして何か言った。広くて頬骨の張った顔、描かれた黄色いジグザグ模様、硬そうな黄色い髪、大きく開かれた邪悪な目が、野蛮で荒々しく見えた。明らかに、厳しく凍てつく寒い地域からやってきた人々のアだった。

 「どうしたいんだ? お前はいったい何者だ?」マルコフが聞いた。

 そいつは再び邪悪な、喉の奥から出すような声で何かを言い、そしてマルコフを槍で殴った。槍は重くて大雑把で、石突きなどはなかった。マルコフは足で立とうとした。すると、気分が悪くなり、頭がくらくらした。そいつは再び何ごとかを叫び、再び槍で殴った。それほど強くはなかったものの、充分に強烈だった。マルコフは時間を稼ぎ、混乱した現状を整理・理解しようとしたが、そいつが彼にぴたりと付いていて、四六時中右から左から槍で押し、方向を指した。マルコフを牛のように扱った。マルコフは自分が完全にまずい立場にいると感じていた。しかし、何らかの策を考えることはできそうになかった。頭がかなりいかれていたのだ。

 マルコフはガレー船の近くで止められ、そして向きを変えられ、誇るかのように自分の船を見せつけれた。連中は何かを大声で叫び、槍で脅かすような仕種をし、場所をはっきり示した。その時、広場の全員が凄まじい声で絶叫し、 甲高く恐ろしげに叫ぶ豚の声が聞こえた。 豚はガレー船の方に引きずられているようだった。豚は手で持ち上げられ、狭い隙間に運ばれたが、マルコフは最初それに気が付かなかった。広場の人々は叫ぶのも槍を振るのも止め、群がるとガレー船に押し寄せた。マルコフは意識を保って連中を数えようとした。ペイントをした小さいのが三十人と、灰色の肌をした大きいのが四人いた。小人は、大きな方に対しては態度が横柄だった。彼らには力があり、大声で作業を指示し、押したり足で蹴ったりしていた。そして、手で顔を覆い、ただ目配せするだけで人々をどこに行かせるかを指示していた。これは妙なことだ。選民は、巨大な肉体を持った強い人間のはずだ……。

 その場から逃げようとした時、騒音が聞こえた。マルコフの頭は調子が悪いようで、時としてずきずき痛んだ。頭頂に大きくて柔らかい円錐が刺さり、髪が凍って突き刺さっているように感じた。

 血色の悪い肌をした、大きくて鈍い連中がガレー船をいじり、マルコフの近くで列を成して作業をしていたが、あまり楽しそうではなかった。そして十人ほどの槍を持った小さな連中は反対側に適当な間隔で集まって叫び合い、マルコフや大きな男を指刺した。マルコフは自分の隣を見た。彼は、沈みこみ、意気消沈した様子で、希望も何も無いように見えた。ここでマルコフは自分のキルトジャケットを見つけた。それは小人の一人が着ており、これはたぶん頭から足までペイントをしていたなかの一人だろう。その小さい人間は全員に向かって大きな声で叫び、荒っぽく動き、手で仲間を押していた。彼らは従ってはいたが、それほど従順でもなかった。そしてついには、働いている人間の頭を殴り、大きい方に走り寄ると、一人を腕でつかみ、引っ張っていった。そして小さな男は弱々しく立ち止まり、静かに泣き言を言った。全てが騒々しかったが、次第に静かになり、マルコフに視線が集中した。キルトジャケットを着た小人は大きいのを放すと、マルコフに駆け寄り、腕をつかんだ。マルコフは殴りつけ、手を離させた。全員が話し始め、手を振り、皆が皆、いきなりガレー船に登り始めた。マルコフから気力が抜け落ちた。狭い隙間に押し込まれて働いていた、大きな奴ら三人が最後に登った。

 草地は沈んでいた。ガレー船の近くにはキルトジャケットを着た小人が一人残っており、大きな仲間を捕まえ、黙って近くに立たせようとしていた。マルコフも一緒だった。小人はガレー船の周りを走り回り、空を見上げ、平地に目を戻して木々の見ると突然野性的な声で叫び、大きい方の胸に槍を向けた。そして後ずさりし始め、横に背を曲げたが、目は槍を見ていなかった。小人は全てを投げ出し、餌入れのほうに行った。マルコフもまた餌入れのほうに戻った。小人は再び飛び、怒り、喉を枯らさんばかりに叫び始めた。マルコフには、彼が何をしたいのか、理解できなかった。「お前は何を叫んでるんだ?」と訊ねた。小人はまだ大声で叫んでいた。マルコフは大きい方を見た。大きい方は、足を開き、全身で広くて頑丈な壁を押しつぶし、覆い被さった。明らかに彼はガレー船のシーリングを動かそうとしており、マルコフには、それが二階家を動かすくらい無意味なものにしか見えなかった。しかし、大きい奴にはその無意味さがわかっていなかった。緊張して唸り、船尾にもたれかかり、腕に力を込めていた。その時、マルコフも同じく船尾に取り付いていた。

 船尾は頭上三メートルもあった。感触は木製ではなく、しいて言えば、金属で、灰色で多孔性の暗く光る表面だった。小人も槍を置いて体重をかけ始めた。三人とも力一杯にあえぎ、泥に埋もれた機械を取り出そうと押した。マルコフはすでに、いきなり船尾を動かしてしまうなどという、この馬鹿げた試みを投げ出したくなっていた。だが彼はそうしなかった。船尾は動き、離れていった。

 だが、加速が付いているわけではなく、徐々にであった。彼は重たい筏を水の中に押し込んだと感じた。小人は槍を持ち上げて叫んだ。大きい方は立ちつくしていた。マルコフも、一歩踏み出して立ちつくした。

 それは異様な光景だった。巨大で不格好なガレー船はゆっくりと雪の表面を這い、しだいにきしむ音が聞こえてきた。大きい方が小人のほうをみると、船尾に向かってゆっくりと歩き始めた。小人はマルコフの腕を棒で叩いた。マルコフは飛びすさって構えた。小人も飛びずさり、槍を正面に構えた。動きは攻撃的で獰猛だった。そして大きい方はいきなり歩くのを止め、のろのろと進むガレー船に向かって走り始めた。ガレー船は、少し速く動いていた。

 すると小人は横に飛び、マルコフも向きを変えるとガレー船に向かって突進した。マルコフには何が起こっているのか、わからなかった。ガレー船は速度を速めていた。小人は大きい方に追いつき、飛んで隙間の端に手をかけた。前方に手を伸ばしてつかみ、腋をかけ、中に入った。大きい方は声をあげて駆け出すと足をかけた。小人は恐ろしげに吠え、槍を落とした。ガレー船はすでに音を立ててはいなかった。空中に浮き、速度はますます増していた。樹をなぎ倒す音をたてながら、頼りなさげだが何とか持ちこたえていた。マルコフは後ろで見ていた。それは摩訶不思議でありながら、雄大だった。粗末で不格好、巨大で大雑把な作りのものが空に浮いていた。全ては突然だった。しばらくの間、大きい方の足がまだ空中でバタバタしていたが、そのうちスリットの中に入った。光を放つガレー船は雲の中に入っていった。マルコフは、飛行体が飛ぶことによって起こる汽笛のようなうなりを聞いた。そして見えなくなった。音が静まり、マルコフは一人残された。

 彼は草地をざっと見渡した。かき乱された雪、雪についた赤い泥の穴、地に残った広くてまっすぐな溝……。彼は確かに感じた――たいへんやっかいな事態だった。彼は唸った。家まで戻らなくてはならないのに、どこにいるのかわからず、たとえどこかに向かおうとしようとも頭の中は混乱しきっていた。

 雪が降り始め、あたりは暗くなってきた。頭をはっきりさせ、一歩一歩を確実に、マルコフはガレー船が残していった溝に沿ってさまよい始めた。彼は小人が捨てた槍を見て拾い上げ、痛みで目を覆っている涙ごしに見てみた。槍は重く、黒く、表面は粗かった。槍で身体をささえながら、マルコフは遠くまで進んだ。一面に雪が厚く降り積もり、頭はさらに強く痛み、間もなくマルコフはどこに、なぜ行こうとしているのか、考えるのを止めた。

 パル・パリッチは音を立てて皿から紅茶を飲み干した。サモワールの下に大きな飾りの付いたカップを置き、コックをひねり、熱いお湯が渦を巻いてくるのを見ていた。

「バイキングどもだと、お前さんは言う……」彼は大きくない声で言った。

 マリヤ婆さんは斧を振り、燃料にするチップを切っていた。家の中は暖かく、壊れた窓は羊皮で閉じられていた。マルコフはテーブルで自分の手で頭に包帯を巻いていた。

「悪いな、兄弟」パル・パリッチが言った。「私はお前さんのリュックを見て、すぐに思った。戻ろうってな。悪いな……」

「なぜ悪いと」弱々しい声でマルコフが言った。「逆だ! 発見なんだ、パル・パリッチ! 発見だ!」

「いや、そうだ、な」パル・パリッチはあいまいに唸り、目をそらすと皿に紅茶を注いだ。

「私はこう思うんだ」マルコフは小声で続けた。「連中は遠くから飛来した。どこからかはわからない。だが、たぶん、特殊な事情で木か何らかの鉱物を得るためにいたんだ。そして連中は空飛ぶ船をこしらえ始めた。大胆な悪魔どもだ!……」そして彼は不愉快になって表情を曇らせた。

 パル・パリッチは音を立てて皿をテーブルに置いた。

「お前の前にどのように現れたのかは、オレグ・ペトロヴィッチ」彼は言った。「知らない。知らないが……。裸の野蛮人で、空を飛び、知っての通り豚を盗んだ……。無茶苦茶だ! もう考えるなよ、オレグ・ペトロヴィッチ。もう一杯、ラズベリー入りのお茶を飲みなよ。ウオッカは、多くはやれないが、頭を癒してくれるかもしれん。だが、茶を飲め。お前のことが理解できんのが心配だ……」

 マルコフは、不愉快な気分が収まるまで待った。

「早くモスクワに知らせなければ」彼は言った。「学術的科学の問題だ。そして裸の野蛮人が現れたことも……。十万年前だよ、パル・パリッチ、我々の祖先、まさにあんな野蛮人どもが、最初の筏を作り、海岸を伝って航海した。彼らも、なぜ筏が浮くのか、なぜ木が沈まないのか、知らなかった。アルキメデスが出てくるまでの十万年残った問題だ。もちろん今でも多くの人は知らない。しかし祖先は筏を作って漕ぎだし、後には船になって航海に出た。周知のとおり、アルキメデスの原理は鉄の船を造るヤツだけに必要で、原理が無くても木は立派に浮いた。そういうことだ……。奴らには、なぜこの物体が空を飛ぶのかなど知った事じゃない。船を造り、集団で探して奪うために出発したんだ。」

「ん。そうか」パル・パリッチが言った。「お前さん、オレグ、ええっと……。お前さんに話したくはなかった、だが、たぶん言う必要はある。お前さんは精神錯乱していたんだ」

 マルコフには理解できないことが起こっているようだった。

「誰が錯乱精神だって」

「こういうことさ。森がお前さんを錯乱させたんだ。錯乱状態にあって、お前さんは全部自分でやったんだ。銃はどこかで投げ出して、私はまだ見つけていない……」

「立て、立てよ、パル・パリッチ」マルコフは言った。「なぁ、家はこんな具合に空っぽだろ? 雪の上の槍は? あの跡は?……。窓は割れて、全部の戸は開いていて……。そして猫のムルコットは……」

 パル・パリッチは、ぶつぶつ言いながら、後頭部を掻いた。

「言うな」彼は言い、楽しそうな目つきで見た。「お前さんは全部変わってしまった!……。豚は私が潰したんだ、オレグ、豚はな!……。あれは逃げたんだ。ナイフを付けたまま、庭を越えて森だ!私が草地で肘で転ばせたんだ……。わかったか?頭を冷やせ、母さんも豚が逃げ出したとき一緒に行った……。そうだろ、母さん?」

「何のこと?」マリヤ婆さんが言った。

「豚のことを話しているんだ、潰したろ!」パル・パリッチは怒った。

「で?」

「豚のことを話しているんだ!」

「もういないよ」婆さんはすぐに言った。「豚はもういない……」

「全くわからない」マルコフが言った。

「これじゃあわからないが」パル・パリッチが言った。「学術的な科学など必要はない。豚を連れて戻ってきて、お前さんのリュックを見つけた。私は跡を追った。そしてお前さんが倒れているところを見つけた。その後でスキーを見つけた。さらに、午後になってお前さんが行って、林で倒れているのを見つけた。私が考えたのは、何かお前さんのものが盗まれていないか……」

「それはどこだ?」マルコフが聞いた。

「北へ五キロ、お前さんと一緒にここ数年、野ウサギを追っている場所だ」

 マルコフは黙り、思い出そうとした。

「じゃあ、槍は?」彼は聞いた。「私の近くに槍があったろ?」

 パル・パリッチは、思いめぐらすように彼を見た。

「お前さんのそばには何もなかった」彼は決心したように言った。「槍も、キルトジャケットも無かった。もうやめろ、忘れるんだ……」

 マルコフはゆっくりと目を閉じた。頭は、痛み始める前のように、静かだった。『精神錯乱が真相だという可能性もある』と彼は思った。

「パル・パリッチ」彼は言った。「ウォッカもいただけないか。ここで眠るようなことはないから」

「痛むのか?」パル・パリッチが聞いた。

「痛む」マルコフが言った。空飛ぶ船……。空飛ぶバイキング……。そんなものはないし、あり得ない……。最初の筏の最初の人々……。ナンセンスな詩だ。

 彼は寝ているベンチのうえで唸り、身体を動かした。

 彼が寝入った頃、パル・パリッチは、皮のショートコートを投げ、何かを掴むと庭にある鶏小屋の戸を閉めに行った。夜中を過ぎて雪は止み、太陽が輝き、庭の雪は手つかずの白色に輝いていた。パル・パリッチは怒りにまかせて手を動かし、自分のハンマーで爪に血をにじませながら大きな閂を二つ打っていた。彼のそばでは母親が協力し、ふさぎ込みながら、腕の横を支えていた。

「鶏はまた持ってこれるのかい、パシェニカ?(パルの愛称)」彼女が言った。

「補おう」パル・パリッチは不機嫌に答えた。「鶏を補って、豚も。でも、すぐにじゃない。モスカーリ(モスクワ人)の犬どものところに充分あるから、好きなだけ来るさ……」彼は立ち上がると、膝に付いた雪を振り落とし始めた。

「完全な蛮人だね、あいつら」婆さんは言い、すすり泣いた。

「蛮人が来て、あんたが地下室に隠れていなかったら」パル・パリッチが言った。「もちろん、私も逃げなかったら……。あんたはどうなったか、母さん……。あんたにはやつらの言葉が通じないし、絶対にあの棒で私は殺されて、あんたは焼かれていた」

「でも私にはわからないよ、パシェニカ!……棒で刺すなんて」

「そのとおりさ。焼かれるなんて。この話はいっさいしてはいけない。オレグ・ペトロビッチがここを発つまでは。彼はたいへん傷ついているし、私も彼を傷つけたくはない。それに彼があんたに対して腹を立てるなんていうことも望まない。わかったかい?」

「ああ、わかったさ」婆さんが言った。「そうだ、棒といえば、あの棒はなんできれいに燃えてしまったんだろ! 赤くて、青くて、澄み切ったエメラルドのような緑色!……。ところで、実際、あれは誰だったの、パシェニカ? 蛮人はまた来るの?」

「バイキングどもだ!」パル・パリッチは怒ったように言った。「バイキングどもがいたんだ。野蛮なね。わかった?」

初出 一九六八年 雑誌「コステル」 掲載時題名「空飛ぶ流浪者」

元本 ストルガツキー全集 別巻2

■作品解説

 本作は、一九六八年に書かれた、ストルガツキイ兄弟にしては驚異的に短い短編です。もちろん他にも短編はありますが、連作の形式で他の短編と設定を共有していたり、登場する人や事件が関連している作品が多く、独立しているワンアイデアストーリーとしては珍しいものかもしれません。

 ちょっと古い作品なのですが、私がこの作品を日本語にしてみようと思ったきっかけ、それはショートショートの基本とも言える「考えぬかれた皮肉な結末」が用意されていたからです。

 宇宙からの来訪者……これって一般的に、我々人類よりも優れた生命体であるに違いないと思っています。でも、その根拠は何なんでしょうか。私たちが宇宙に行こうと考えて試行錯誤してきた短くない歴史を考えれば、もちろん宇宙に出ることには困難がともなうとわかってしまっています。そんな歴史があるので、宇宙を旅して来られるのは高度に進んだ文明を有しているに違いないと思い込んでしまっているだけでは無いでしょうか。

 大航海時代には造船技術が進んで長期に渡る航海が可能になったのですが、でも、そんな造船技術が無ければ、人々は海を渡れなかったのでしょうか。

 そんなことはありませんよね。それよりも遥か以前から丸太を組み合わせれば海に浮くことは知っていたんです。小さな筏や船で海に乗り出し、島々を巡りながら海図を作り、各地に影響を与えていった例は決して少なくありません。

 ロシアの建国もそうでしょう。スカンジナビア人ヴァイキングであるリューリクがノヴゴロド公国を作ったのが歴史の始まりだとされています。日本も諸説はありますが、ポリネシアや朝鮮から海を越えて来た人達が住み着いたという説もあります。

 もし、偶然、重力に反して宙に浮かぶ材料を偶然に発見したのだとしたら……。原理は知らなくても、よりうまく応用する技術がなくても、宇宙を渡ってくることは可能でしょう。

 故意に侵略をしてくるわけでもなく、観察するためだけに来るわけでもなく、単に食糧補給で寄ってみたという、それ以上の意味が無い来訪者がいてもおかしくはないですよね。それこそ宇宙の海賊です。

 また、本編には、ロシアに見られるコスミズムの影響も考えられます。ツィオルコフスキーの昔からロシアでは常識となっている考え方で、「地球の資源は有限であり、必ず枯渇するので、さらなる進歩には宇宙への進出が不可欠である」というものです。

 ソ連時代からロシアにいたるまで、国がどれだけ苦しくても、宇宙開発を止めることがなかった理由には、こんな背景もあります。

 海賊が海をわたって略奪を繰り返すようなことが惑星間で行われても何の不思議もありません。

 深宇宙探査や民間での宇宙旅行など、宇宙開発が盛んになっている今だから、この短編の意味もあるんじゃないかと思いました。