「瑪瑙の記憶」大野典宏

連作:ミネラル・イメージ

瑪瑙の記録

大野典宏

■ナビゲーター

 本日ご覧に入れるのは、日本国内で一連の紛争が始まる数年前に製作されたドキュメンタリーです。

 ご存じのように、ほんの少し前まで国内はいじめの問題、目に見えない権力構造、カルト宗教問題、男女格差、反社会的組織の問題など、さまざまな理由から多数の分断が可視化され、各地で武力紛争が起こっていました。その原因は、新自由主義者および支持者たちが意図を隠すことすらしなくなり、格差の拡大政策に乗り出したためであるとされています。

 紛争のきっかけは、とある既得権勢と反対する勢力との衝突でした。紛争においては銃器などが用いること無く、原始的な武器での衝突が主でしたが、終結の頃には一部で相手から奪われた武器が用いられる悲惨なものとなりました。

 この一連の紛争は問題が多岐にわたったことにより、一つの解決策では済みませんでした。結果として、自衛隊の治安維持出動といった最悪の手段は用いられず、最初こそ警察は政治家の命令に従うのみでしたが、最終的には警察の中でも分断が起こりました。時の政府は、いったん解散されるしかなくなってしまったのです。

 そのおかげで紛争は二年で終結しましたが、本日は製作された当時、いたずらに分断を煽るという理由で封印されてきたこの作品を初めて公開します。

 紛争終了後から一年。やっと公開が可能な状況になったということです。

――報道ドキュメンタリー「未成年少女の危機。虐待・いじめ・死」――

■ナレーション

 深刻化する未成年少女たちへの性的搾取、家出や自殺などの問題。未成年の少女が家に帰らなくなる原因としては、家庭内暴力や学校内でのいじめにある例が多い。そしてSNSなどのネットワークにおけるいわれのない誹謗や中傷、さらには政治家や反社会勢力からの圧力が問題を大きくしている。
 富める者と貧しき者、男女間における社会的対応の不平等が加速する現代において、我々にこの問題を強く問いかるきっかけとなった二十数年前の事件を再検証してみることにした。

 まず、我々は、この問題を社会心理学の立場から細かに解説していただくため、積極的にいじめ問題や未成年少女に対する性加害といった問題の専門家として第一人者とされる研究者の部屋をたずねてみることにした。

 日本で年間の最低気温を記録しかねない土地の大学に所属する研究者の部屋で目にしたのは、本と奇妙な石に囲まれて事例研究に没頭する先生の姿だった。

■心理学者

 今日はよろしくお願いします。

 なんだかお気になさっているようなのでお答えしておきます。周りに飾ってある石ですけど、これは瑪瑙(メノウ)の原石です。研磨されていないので単なる変わった石にしか見えないかもしれませんけど、私は瑪瑙を集めるのが趣味なんです。

■取材者

 名前は聞いたことがありますけれど、原石って変わった石なんですね……。

 それはさておき、本題をお聞きします。質問事項はすでにお伝えしてありますが。

■心理学者

 わかりました。今日の本題は、異なる立場に位置する勢力同士の対立が激化するきっかけとなった一冊の本、「洗濯槽の蛹」に関するものですね。
 本書で提起された問題、つまりは無関心と分断、それによる虐待に関して、まず原則からお話します。

 集団心理とは恐ろしいものです。「他の人もやっているから」との理由だけで善悪の判断や倫理的判断が鈍ってしまいます。独裁政権やカルト宗教に見られる異常な行動は、洗脳状態であることを差し引いても行き過ぎた結果になります。その原因は集団化することで罪悪感や責任感が希薄になり、「悪いのは自分だけじゃない」と思い込んでしまうからです。

 なぜ他の人が止めないのでしょうか? なぜなら、集団に逆らうことで次は自分が標的になるのかもしれないとの恐怖、そして誰も止めないとの理由から責任感や正義感が希薄になってしまうなど、要素は様々です。これを傍観者効果と言います。

 つまり、一度暴走した集団は、やりたい放題になるわけです。人の心がそのようにできている以上、この現象を止める方法は見つかっていません。

■少女の告白(当時の記録)

 なぜ私がいじめの対象になったのかはわかりません。元から原因なんてなかったのかもしれません。不運なことに私が標的になってしまいました。

 こういう時、暴力だったらどれだけ楽だったでしょうか。傷やアザができればわかりますからね。でも、暗に暴力を前提にした脅迫って、抗い難いものです。最初はお金でした。でも、中学生の私にお金を無心したところで限界があります。それは彼らも周到でした。心理的な暴行が中心になっていきました。

■心理学者

 言葉での攻撃、これは人間特有のものです。全てを否定し、なじる。自尊心を徹底的に破壊するんです。軍隊やカルト宗教、自己啓発セミナーなどで用いられる一般的な手法です。その状態から人格の再プログラムを行います。すると、再プログラムされた人格は、無条件で相手に従ってしまうんです。家畜の調教と同じプロセスだと考えていただいてもかまいません。

 こんな状態からの復帰は困難を極めます。時間をかけて慎重に行っていくしかないんです。

■主犯格だった少年の証言(当時の記録)

 オレは特に何もしていないよ。他の連中のほうが熱心だったね。あいつと友達でも知り合いでもなかった奴らが真似をし始めて同じことをやっていたし。あれはオレだけが悪いとは思ってもいないし、どうなるのかなんて考えてもいなかったね。

 事件が起こったときもさぁ、オレは知らなかったんだ。だから、オレには関係ない話だろ。そうだよな。だいたい、なんでオレがここで話をさせられているのかもわかんないし。

■少女の告白(当時の記録)

 中学生の女子ですから、周りから性的な目で見られることは仕方がないと諦めていました。でも、実際にそれを強要されるとなると話は別です。

 手口は巧妙でした。まず、「裸の自撮り画像を送れ」というメッセージから始まりました。最初は拒否していましたが、言葉でのなじりが加速していきました。時には、ロッカーの中に入れておいた弁当箱の蓋を開けたら分解されたリチウム電池や虫の死骸が入っていたこともありました。私はその時、本当で命の危険を感じました。入れたのが誰かはわかりませんが、有毒物であるかどうかなんて気にもしていないんでしょう。私はそんな環境に耐えられなくなったので、ついに一枚を送ってしまったんです。

 その一枚が終わりの始まりだったなんて思ってもいませんでした。でも、その時は追い詰められていたんです。

 すると、「写真を拡散するぞ」と脅かされました。次々と無理な要求をされるようになりました。

■クラスメイトの証言(当時の記録)

 あ、あいつのことですか。自分からは加担していませんよ。ただ、みんながやっているから、それをやっても良い奴なんだなぁって。そりゃあ、皮肉を言ったりとか、ちょっとのことはしましたよ。

 でも、主にやっていた連中が見えないところで何をやっていたのかは事件の後で知りました。ひどいことをしますよね。不思議なんですけど、あいつはなんで先生なり親なりに相談しなかったんでしょうね。たぶんバカだからだと思います。

■少女の告白(当時の記録)

 私は誰にも相談できませんでした。もし、行われていた事が世間に知られたら私の裸が親や先生に見られてしまうんです。そんな恥ずかしいことはとてもできません。だから、言いなりになるしか方法がなかったんです。

■心理学者

 中学生の知識では、本格的な人格破壊とか、再プログラムの方法などという本当に危険なことをできるはずがありません。本事件が明るみに出たのは、彼女の人格破壊が完全に行われていなくて、自らすすんで無条件に従っていたわけではないからなんです。

 しかし、時間をかけて状況に慣らされてしまうと、徐々に異常な状態が普通の状態へと変わってしまうんです。たとえば、ここに水を用意しましたが、インクを垂らしてみましょう。どうですか。不思議な広がり方をしますよね。これを元に戻すことは不可能です。では、さらに別の色のインクを垂らしてみたらどうなるでしょうか。ご覧のようにさらに混沌としてゆきます。

 今の状態なら、少し不思議な感じというだけで済んでいますが、さらにインクを垂らしてかき混ぜたらどうなるんでしょうか。

 そうなんです。混濁した色になってしまいます。

 これは中学生とクラスだけの問題ではありませんでした。家庭環境や教師の側にも問題があったんです。

■弟の証言(当時の記録)

 アネキの話ですか。僕の印象ではとにかく暗い性格だったね。家では本を読んだり映画を観ているくらいで、あとは勉強ばっかりしていたね。確かに成績はすごく良かったよ。でも、何を考えているのかわかんなかったし、ちょっと不気味だったね。

 なんでアネキのことを話したのかって……。相手は年上で、ちょっとは知られた不良グループだったから、話さないわけにはいかないでしょ。読んでいる推理小説の題名を教えると犯人をバラされていたとか、観ていた映画の題名を教えたら徹底的に映画の悪口を言っていたなんて後で知ったことだし。僕としては安全な生活をしたかっただけだし。

■担任の証言(当時の記録)

 まったく気がついていませんでした。彼女は何も言わなかったし、クラスの雰囲気も笑顔が絶えませんでした。ときおり、彼女がからかわれていましたが、私はそれを見ても「仲が良いんだなぁ」としか思えませんでした。

■母親の証言(当時の記録)

 家の子がこんなことになっていたなんて……。確かに、友達が何かと家の子を誘いに来ていましたが、友達が多いことは良いことだと思っていたので、進んで行かせていました。時折り、会いたくないとか、出かけたくないとは言いましたが、世間とのつながりを自分から拒否するのはやはり良くないので、とにかく行ってきなさいと送り出していました。でも、それが……。

■少女の告白(当時の記録)

 気がついたときにはもう手遅れでした。呼び出されて裸の写真をみんなで撮影されていましたし、性行為の動画まで残されてしまったんです。逆らいようがありませんでした。

 無理難題を押し付けられても、拡散される恐怖のほうが勝っていました。電柱に登らされたり、ドブ川の水を飲まされたり。その時にはもう従うしかなかったんです。そういった行為もすべて写真や動画で残されてしまいました。

■心理学者

 事態が行き過ぎた場合、残された手段はすぐに逃げることしかありません。でも、今の社会では中学生が一人で勝手に逃げるなんて不可能です。家出しようにも捜索願いが出されたり、補導されたら、すぐに帰されてしまいます。虐待やいじめを受けている少女たちへの保護は何もかもが不完全です。相談する相手がいない、逃げ込む場所がないなどの問題ですね。都会では現在、そういった子どもたちが性産業の犠牲になっていることは否定できません。

 ここまで来てしまうと、もう手遅れだとしか言えません。第三者の介入がないと解決できるものではありません。まさに、さきほどご覧いただいた混ざってしまった水と同じなんです。

■少女の告白(当時の記録)

 最悪の事態がやってきました。そうです。氷点下の環境で、下着姿で橋から川に飛び込まされたんです。とにかく寒いとしか感じませんでした。怖いなどといった感情はありませんでした。そのままでいたら凍死していたでしょう。

 でも、何とか人気を気にしながら夜の町を歩いていたら、コインランドリーがあったんです。深夜だったので他には誰もいなかったのが幸いでした。とにかく逃げ込み、暖かそうな場所を探しました。

 そうしたら、一つだけあったんです。洗濯機の中です。そこに入ってうずくまったら風もないし、蓋を閉めたら暗く温かい繭の中にいるようで少し安心しました。何とか逃げ切れたんだなあと。そうしてじっとしているうちにいつの間にか眠ってしまいました。

 そして朝になったらコインランドリーの管理人さんに発見され、すぐに警察が来て保護されました。

 それが事件の全てです。

■心理学者

 この事件に関する限り、命の犠牲はありませんでした。それが唯一の救いだと考えます。

 子供の間だとは言っても社会は社会なんです。ひどく狭くて常識がなくても、彼らや彼女らはその中で生きていかなければならないんです。大人からは見えない閉鎖された社会ではとくに珍しいことではありません。時には加担する大人がいることは残念ですが、それは真相が見えていないからです。深刻ないじめであっても、些細なじゃれ合いに見えてしまうんです。

 その後、彼女がどうなったのか、みなさんはご存じでしょう。そもそも、他でもない私に取材に来ているんですから。

■取材者

 それが先生の体験談を小説の形でまとめたデビュー作「洗濯槽の蛹」になったわけですね。当時は話題になりましたし、先生としてはすごく勇気のいることだったと考えます。

■心理学者
 まず自分から包み隠さず表に出さない限り、永遠に誰にも知られないままになったんでしょうね。それが許せなかったんです。もし、私が凍死していたら、事件として大きく報道されていたことでしょう。でも、生き残ってしまったら、事件としては取り上げられません。それが許せませんでした。自費出版の費用は珍しく親が出してくれました。でも、話題になったのは無料で配った電子書籍のほうですけどね。

■取材者

 そのような経緯があって現在もいじめや少女への性的搾取に関する調査や著書をたくさん出版されることになったわけですね。

■心理学者

 事件が知られてから、今の司法では裁けないことを知りました。周りの全員が自分の犯した加害行為に対してまったく無自覚だったことなどには、たいへんな衝撃を受けました。だから、自ら積極的に社会に問題を訴えていかなければならないと決意して、恥をしのんで作品という形にしたんです。心理学に興味をもったのも、そんな人の心にある闇の正体を知りたくなっからです。

 もし、私があのまま凍死していたら、私の心にある水に邪悪というインクが広がったまま凍りついたことでしょう。私が瑪瑙に興味を持ったのは、それを想像してしまうからです。

 これをご覧ください。研磨された瑪瑙です。このへんは鉱物類の産地なので、簡単に入手できます。これは縞瑪瑙と言いますが、色が混ざり合って縞を作っています。もう一つ、これなんですけど、苔瑪瑙と言って、先ほどの水と同じように透明な水の中にインクが広がっているようにも見えますよね。

 このような瑪瑙は鉱物ですから、分離することもなく、ずっとこの形を保ち続けるのです。

 均一な石英の結晶は一般に水晶と呼ばれますが、それでも不純物が混ざってアメジストなどの多彩な水晶が出来上がります。

 それ以外に分類できない石英が瑪瑙と呼ばれているだけなんです。水を閉じ込めたままになったり、不純物が不自然に混ざり合って多彩な瑪瑙が出来上がるんです。先ほどお目にかけた縞瑪瑙や苔瑪瑙のようなものですね。

 私が洗濯槽の中にいたとき、そのままだったら凍っていたはずの氷を心の中で瑪瑙に変えてしまったのかもしれません。石英は融点が高いのでそうそう簡単に融かすことなどできません。水が凍っているだけなら自然と融けてしまいますからね。

 たぶん、私はすべてが明らかになったとき、氷を瑪瑙に変えてしまったんだと思います。そうでなければ恥ずかしくて死んでいたでしょう。

 いままさに取材されている例の事件は確かに私を変えました。氷が瑪瑙になったと確信したのは、あの事件が融け始めてこないからなんですよ。

 ここでお話したことが心の奧底深くに残っている瑪瑙の記録なんです。

 不自然というか理不尽に思われるかもしれませんが、人は心の中でこうやって無理矢理にでも自分を説得するというか、勝手に自分の中で折り合いをつけながらでないと生きてはいけない時もあるんです。だから今でもSNSなどで当時のことをほじくり返す人はいますけど、私にとって、そのような意見は瑪瑙に混ざっている不純物でしかないんです。そんな人たちが何人かかってこようとも、私の心にある瑪瑙を融かすことはできません。

■ナレーション

 PTSDという言葉で知られているように、一般的に傷ついた人の心を治療するのは困難であるとされている。しかし、それを自分で結晶に変えたと信じることが精力的な活動の原点になっているとの証言だった。

 はたして生きている人間にそのようなことが可能なのだろうか? 生きるためにそう思い込むようにしているのだろうか? 我々に正解はわからない。人にとって社会という存在が生きる足かせになっている以上、先生の心に石を作ったのは、この不平等に満ちた社会なのかもしれない。

――終――

■ナビゲーター

 紛争のさなか、「洗濯槽の蛹」は表向き入手が不可能になりましたが、紛争中も電子ファイルが拡散され続け、今になって再び我々が堂々と内容を確認できるようになりました。二十世紀最大のロシアの小説家、ミハイル・ブルガーコフが書いた「原稿は燃えない」とは、まさにこのことです。また、本書に記されているような一方的な加虐と不平等の連鎖が誰にも止められなくなるまで加速した結果、国内での紛争が起こってしまったことを我々は決して忘れてはなりません。

*本作は、旭川女子中学生凍死事件を元に、作者が独自の変更を加えております。
また、伊藤詩織さんの勇気ある抵抗、一般財団法人Colaboなど支援活動を行っている団体による報告など、多くの事例を参照しました。