「神」大梅健太郎

 ある日曜日の午後。梅雨のジメジメした空気の中で、男はうたた寝をしていた。日々の仕事に追われる男には寝ている暇などなかったが、急な眠気に襲われてしまい、抗うことができずに眠りに落ちてしまったのだ。
 深く息を吸いこみ、はく。呼吸のリズムがだんだんと遅くなる。目を閉じているはずなのに、視界が急に白く開けた。
 座り慣れたデスクの椅子以外、何も存在しない真っ白な世界。
「あれ。これは夢か」
 男が呟くと、背後から声をかけられた。
「夢のような、夢でないような場所です」振り返ると、そこには白いスーツを着た青年が立っていた。「ご無沙汰しています」
「ご無沙汰?」
 男は青年の顔をのぞきこみ、記憶をたどる。見覚えがあるような無いような、つかみどころのない表情。
「以前、私は仕事中に貴方に助けていただいたことがありまして」
「僕が、貴方を?」
「ええ。覚えておられないかもしれませんが。あれは二年前の冬至の日のことでした」
 二年前の冬至の日。確か仕事が終わらずに、柚子湯に入り損ねた記憶がある。そんな日に、この青年を助けた?
「記憶が無いのですが、誰かと間違っていませんか?」
「いえ、確実に貴方です。魂が一致しているので誤りようがありません。あの時のご恩をお返しするために、わざわざ貴方の担当を私にしてもらったのですよ」
 よくわからないことを言う青年を、あらためて見つめなおす。ふと、この白いスーツに、白い蛾の姿が重なって見えた。
「そういえば、蜘蛛の巣にかかった白い蛾を、助けたことがあったような」
 低い高度で昇った満月。その月明りに照らされた、季節外れの蜘蛛の巣と捕らわれた白い蛾。まるで仕事に捕らわれている自分の姿のように思えた。男は嘆息とともに蜘蛛の巣を破り、その哀れな蛾を解き放った。
 男の言葉に、青年はニコリと微笑んだ。
「ええ、そうです。あのとき私は、死神に対抗するすべをもった対象者から反撃されていました。貴方に蜘蛛の巣を壊してもらわなければ、仕事を遂行するどころか、私という存在を消されかねませんでした」
 死神。思い浮かぶイメージは、長い鎌を持った黒づくめの骸骨の姿。しかし、目の前の男はそれとは正反対だ。
「あの時の蛾が、君だというのか」
「そうですね」
 やはりこれは夢だ。男は椅子に深く座り直し、目を閉じた。きっと次に目を開けると、見慣れた仕事場の光景が広がるに違いない。
「それで、あのとき助けていただいたお礼をしに来たのです」
「お礼?」
 男は目を開けた。周囲は白い世界のまま、変化がなかった。
「はい。大変申し上げにくいのですが、あなたは今、死に直面しています」
 青年は、悲しそうな眼をして言った。
「死? 僕が? なんで?」
「そうですね、過労がたたっての突然死といえばご理解いただけますでしょうか」
 過労。確かにここ数ヶ月、いや数年の仕事量は大変なもので、いつ死んでもおかしくないと自分で笑いながら言うレベルではあった。しかし、本当に死ぬなんて、これっぽっちも思っていなかった。そんな突然に、自分が死んでよいのか?
 男は自分の手を見つめる。年相応の、皺の入った手ではあったが、まだ死ぬような年齢ではない。
「信じられないのだけれども」
「まぁ、みんなそうおっしゃいます。しかしこれが現実でして」
 さっと青年が手をあげると、眼前に映像が浮かび上がった。見慣れたオフィスの席で、机に突っ伏している男の姿があった。日曜日の昼で、周囲には誰もいない。きっと発見は遅れるだろう。このままここで死を迎えるということか。
「このまま死ぬのか」
 男がそういうと、青年は再び微笑んだ。
「そこで、先だってのお礼をしたいと思いまして。貴方の本来の寿命はここで尽きるのですが、お礼として特別に一日分の命を進呈させていただきます」
「たった一日。しかも翌日には死ぬことが確定している命で、何ができる」
 男は溜息をついた。
「少なくとも、こんなところで誰にも看取られることなく死ぬよりも、何倍もマシな死を迎えられると思いますが」
 青年は、すっと手をおろす。すると眼前の映像も消えてしまった。
 男はじっと考える。確かにこのまま死んでしまうのも、寂しいもんだ。妻、そしてまだ小さな息子の顔が浮かんだ。しかし、どの面下げて『お父さんは明日死んでしまうんだよ』と言えるのだろうか。持病もなく、そんな兆候もないのに、信じてもらえるとは思えない。それどころか自殺を考えているのではないかと、疑われかねない。
「一日分、って言ったかな」
「ええ。そのとおりです」
「その一日分を、何年かに分けて分割して使うことはできないだろうか?」
 青年の顔に、少し動揺した色が浮かんだ。予想していない問いかけだったのだろう。しかし、すぐに平静を取り戻したのか、軽い笑みをたたえながら答えた。
「可能ではありますが、その場合肉体は滅びてしまうので、魂のみとなってしまいます。いわゆる幽霊状態、と言えるかもしれません」
「幽霊状態になったとして、生きている人間とのやりとりは可能なのだろうか」
「霊感のある人間には接触可能ではありますが、基本的には無理ですね」
 青年は腕組みをして、もったいつけるように言った。
「基本的には無理ってことは、例外的には可能なんじゃないか」
「そうですね。このような空間に、会いたい対象の魂を連れてくれば可能です。ここでは,魂から魂へと、直接語り掛けることができますので。ただしそれには、自分に残された魂の時間を消費しなくてはなりません。つまり、貴方と誰かがこの空間で過ごせるのは、一日分ではなく、半日分、十二時間ということになります」
 男はうなずいた。
「よしわかった。それでは、これから毎年自分の命日に三十分ずつ二十四年間、私の息子の魂と話をさせてくれ」
「承知しました。それでは早速、お呼びしましょう」
 青年が身をひるがえしたかと思うと、小さな少年の姿が現れた。
「あれ。お父さん」
「よく来てくれた。実はお父さん、もうすぐ死ぬらしいんだ」
「え?」
 まだ状況を掴めていない少年に向かって、男は話を続けた。
「母さんと一緒に小学校の入学式に行けなくてごめん。ランドセルの色、良いのを選んだと思っているよ」
「なんの話をしているの? 小学校の入学式はまだ半年以上先だよ」
「ああ、そうなんだけどね。お母さんに、申し訳ないが後のことをよろしく頼む、と伝えてくれ」
「自分で言いなよ」
「そういうわけにはいかないんだ」
 どうも話が噛み合わない。初めての三十分は話が上滑りしたまま、あっという間に過ぎてしまった。
「それじゃ、また来年」
 男がそう言うと、少年の姿は消えてしまった。
「言いたいことは言えましたか?」
 青年の言葉に、男は「なかなかに難しいな」と答えた。
「それではこのまま一年間、貴方の魂を凍結します。来年またお会いしましょう」
「よろしく頼む」
 すっと、消えていく意識の中で、次はうまくやろうと男は考えた。

 目を開けると、そこには白いスーツを着た青年が立っていた。
「ご無沙汰しています」
「ああ、一年ぶりってことなのかな」
 男は意識を失ったときのことを思い返す。肉体は消えてなくなると言っていたわりに、男は一年前と同様に、慣れた椅子に座っていた。
「体があるようだが」
「それはそう見えているだけで、実際にはもう何も残っていませんよ。一年たちましたから、肉体は滅びてしまっています」
「そうか」
「では、ご子息をお呼びしましょう」
 そう言うと、一年分成長し少し背丈が伸びた少年の姿が現れた。
「やぁ、元気にしていたかい?」
「お父さん! これは夢?」
「夢のような、夢でないような場所だよ」
 一年前よりも精神面で成長したのか、少年は冷静にこの一年間にあったことを話してくれた。
「そうか、大変だったんだな。お父さん、先にさっさと死んでしまって申し訳ない」
 男が言うと、少年は泣き出してしまった。
「本当にすまない。小学校の生活はどうだい? お父さんが小学一年生になったときはこんなことがあったんだけどね」
 前回よりは話が伝わっている手ごたえを感じつつ、男は話を続けた。そして、三十分が過ぎる。
「それじゃ、また来年。元気でな」
 男がそう言うと、少年の姿は消えた。
「今年はどうでしたか」
 青年の言葉に、男は溜息をついた。
「やっぱり難しい。よく小説や漫画で、余命幾ばくも無くなった親が、将来の子供に向かって手紙を書いたりビデオレターを用意したりするシーンがあるが、いざ自分でやってみると、どうすればいいのか悩ましいな」
「うまいことやってるように見えますけどね」
「だったらよいのだけれども」
 男は、頭を掻いた。
「それではまた一年間、貴方の魂を凍結します」
「よろしくな」
 すっと消えていく意識の中で、次はどうやって話を進めるべきか男は考えた。

 それから毎年、着実に成長していく息子と男は話をした。話題は成長とともに、どんどん幅が広がっていった。
「お母さんとケンカばかりでさ」
「たぶん、あいつのことを好きなんだけど」
「最近、物価上昇がすごくて」
「宿題の提出を忘れてばかりでさ」
「計画停電のせいで、夜に勉強がしにくくて」
「田舎の方に引っ越した方がいいんじゃないかって、母さんが」
「前線に送られた友達から手紙がきて」
「葬式ばっかりで、いやになるよ」
 男は、話を聞くだけしかできず、そばにいて力になってやれないことが、もどかしかった。

 そして、十九歳となった息子との話が終わり、いよいよ次は二十歳を迎えることになる。男はたくさんの祝福のメッセージを伝えようと思いながら、目を閉じた。

 目を開けると、白い蛾が宙を舞っていた。
「ご無沙汰しています」
「あれ? どういうことだ」
 男は周囲を見回す。白い空間はそのままで、いつもの椅子に座っているのは変わりない。ただ、眼前にいるはずの青年は、一匹の蛾となっていた。あの、冬至の日に助けた蛾。
「大変申し上げにくいのですが、ご子息はすでに亡くなってしまいました」
「え。どういうことだ。一年前はあれだけ元気そうだったのに」
 男は、爽やかな青年に成長した自分の息子の姿を思い浮かべる。体調に問題などなかったはずだ。
「私はご子息を担当していなかったので、詳細についてはわかりません。あの瞬間の前後は、私ども死神にとってもかなり激務でした。地球上の人類のほぼすべてが、ほぼ同時に死んでしまったのですから」
 白い蛾が、宙をくるりと一回転した。
「人類が滅びた、ということか」
「人類だけではなく、今地球上のほとんどの生物が死に絶えてしまっています。これだけの壊滅的な破壊から回復するには、相当時間がかかるんではないでしょうかね。我々の仕事も、しばらくはお休みです」
 それで、蛾の姿となっているのか。男は椅子に深く腰掛けた。
「僕の寿命はあと十回、五時間残っていると思うが、それはどうなる?」
「そうですね、今ここで使ってしまって、地球上に降り立ってみることもできますよ」
「今更、生命が滅びてしまった地球を見てもなぁ」
 男は失った息子のことを思い、涙した。
「それでしたら、また知的生命体が地球上に出現し、死神としての仕事が再開されるまで、眠り続けますか」
「そんな日は、どれくらいで来るのだろうか」
「少なくとも、何億年単位の時間が経過すればまぁ、出てくるんじゃないですかね。文明のレベルがどれくらいまで到達できるかはわかりませんが」
「そんな未来の知的生命体と、会話できるのか?」
「この空間では精神に直接語りかけているので、おそらく会話は成立すると思いますよ」
 白い蛾は、パタパタと羽ばたいた。
 次に地球上に現れる知的生命体は、どのような姿をしているのだろうか。きっと男とは違った姿形の、異形の者になるに違いない。そうなると、向こうから見た自分は、まさに異形の神となるだろう。
 深く息を吸いこみ、はく。呼吸のリズムがだんだんと遅くなる。
 何億年後かに、神として降臨することを夢見、男は目を閉じた。