
もう一つの神話
Haemophilia is, like enlargement of the prostate, an exclusively male disorder. But not in this work―Samuel Beckett
西垣 学
序
言葉の持つ表象の力に疑義が生じたとき、どのような文学が可能だろうか。ジェイムズ・ジョイスはこの難問にひとつの解決策を提示した。誰でも知っている古典の題名と基本プロットを新作の小説(『ユリシーズ』(1922))に与えることによって、陳腐で日常的でしかも嘘(虚構)の物語に必要最小限の信憑性と推進力を持たせることに成功したのである。同時代の詩人T・S・エリオットが「神話的方法」と名付けることになるこの仕掛けは、小説の作者に新しい自由をもたらした。リアリティの確保という@@軛(ルビ:くびき)から解放されたならば、「語って、語って、語って参ります」という小説も可能になるだろう。虚構を語ることは騙ることでもあって「騙って、騙って、騙って参ります」が主軸となる小説も生まれるだろう。ジョイスは衒学の限りを尽くして言及、引用、仕掛け、遊び、を張り巡らしモダニズムの幕開けを告げる記念碑にふさわしい解読困難な小説を完成させた。したがって『ユリシーズ』を読む際に、何が起きるか(ストーリー)、なぜそうなるか(プロット)を追うだけで満腹し、文中に仕掛けられた謎の解明、諸所に隠されたアイテムの探索という心踊るゲームに参画しないとしたら、ジョイスが用意してくれた盛宴のほんの一部を齧りとっただけに終わってしまうことになる。小説本体と同じくらい大部な攻略本(注1)を参照しつつ読むならば、『ユリシーズ』を読む喜びは幾層倍にも増すだろう。
『ユリシーズ』刊行からおよそ80年の歳月を隔てて出版された村上春樹の長編小説『海辺のカフカ』(以下『カフカ』と略記)では、主人公「田村カフカ」は「父」を殺し、「母」(あるいは、母かもしれないという仮説を否定しきれない女性)と性の交わりを持つ。オイディプスの物語をコピーしていることは一読瞭然である。誰でも知っている古代ギリシャの物語を枠組みに採用しているという点では、『ユリシーズ』と『カフカ』は、同じ「神話的方法」の上に成り立っていると言える。しかしジョイスと村上には大きな違いがある。ジョイスが素知らぬ風を装いつつ一旦読者を突き放した後に、縦横無尽の引用、『オデュッセイア』との細部にわたる照応をちりばめて読者を謎解きへと誘惑するのに対し、村上はソフォクレスの戯曲、あるいはフロイトの理論を通じてよく知られているオイディプスの物語についてすら、自ら懇切丁寧に説明する。
「・・・人はその欠点によってではなく、その美質によってより大きな悲劇の中にひきずりこまれてゆく。ソフォクレスの『オイディプス王』がその顕著な例だ・・・」(文庫上巻421頁)
「君はいつか君の手でお父さんを殺し、いつかお母さんと交わることになる―そうお父さんが言ったわけだね」
僕は何度かうなずく。
「それはオイディプス王が受けた予言とまったく同じだ・・・」(『海辺のカフカ』(文庫上巻426~427頁))
このような過剰なまでの説明癖はいたるところに見られる。
「カッサンドラ?」と僕は尋ねる。
「ギリシャ悲劇だ。カッサンドラは予言をする女なんだ。トロイの王女だ。彼女は神殿の巫女になり、アポロンによって運命を予知する能力を与えられる。彼女はその返礼としてアポロンと肉体関係を結ぶことを強要されるがそれを拒否し、アポロンは腹を立てて彼女に呪いをかける。ギリシャの神様たちは、宗教的というよりはむしろ神話的なんだ・・・」
「彼女の口にする予言はいつも正しい。しかし誰も彼女の予言を信じないだろう。それがアポロンのかけた呪いだ。おまけに彼女が口にする予言はなぜか不吉な予言ばかりだ―裏切り、過失、人の死、国の没落・・・もしまだ読んでなかったら、君はユーリピデスなりアイスキュロスなりの戯曲を読むべきだよ・・・」 (文庫上巻326-327頁)
人によってはこのような解説を鬱陶しいと感じるだろう。しかし、このような演出された大衆性、注釈本のパロディであるかのような記述こそ、ポストモダン文学の特徴ではないだろうか。
しかし、『カフカ』が下敷きとしている「神話」は実は『オイディプス王』だけではない。直接の言及はないものの、モーツァルトのオペラ『魔笛』からの要素が濃密に@@鏤(ルビ:ちりば)められているのである。以下、『カフカ』と『魔笛』の共通点を探っていきたい。
「3」という数
村上春樹は意識的に数字を用いる作家である。久居つばきによれば、『ダンス・ダンス・ダンス』は「6」という数字に覆われている。(注2)。『海辺のカフカ』については、加藤典洋が「3」という数字(あるいは概念)が頻出することを指摘している。
この小説では「3」という数字が何度も反復されている。星野青年が聴くベートーヴェンの曲『大公トリオ』と『幽霊トリオ』。死んだナカタさんの口から出てくる「白いもの」を含めるとジョニー・ウォーカーが殺されるのは三回。佐伯さんと田村カフカのセックス、星野青年とカーネル・サンダーズの紹介した女のセックスもともに三回。佐伯さんが残したファイルも「三冊」・・・(注3)
「3」という数字(あるいは概念)は加藤の列挙した場面だけにとどまらない。例えば
・ 「古い写真」に写っている「田村カフカ」の年齢は三歳(文庫上巻15頁)。
・ ナカタさんが探す猫は三毛猫(文庫上巻99頁)
・ ナカタさんが初めて登場する場面。彼は三毛猫を探して「えーと、今日で・・・・・いち、にい、さんと3日目であります」(文庫上巻100頁)
・ ナカタさんが空から降らせるヒルの長さは「3センチくらい」(文庫上巻408頁)
・ 「絵、少女、僕、その三つの点が、部屋の中に静止した三角形を作り上げている」(文庫下巻73頁)
・ 「ホシノさん」と「ナカタさん」が最後に滞在するマンションは「**3丁目・・・高松パークハイツ308号室」(文庫下巻242頁)
・ 「大島さん」の兄「サダさん」は年齢「30歳近く」で「顔には3日分くらいの髭をはやしている。」(文庫下巻504頁)
モーツァルトもまた、「3」を『魔笛』の随所に配した。例えば
・ 3という数を体現した登場人物(「三人の童子」、「三人の侍女」)
・ 3回のノックを模した和音、もしくは打楽器の音
といったあからさまな「3」だけではなく
・フラット3個の基本調性(変ホ長調)。
・3度音程の多用。
・記譜上は4拍子となっていても最終拍に置かれたスフォルツァンドのために3拍子プラス1拍子に聞こえる序曲
のように音楽に隠された「3」も存在する。『魔笛』を引用元として明示している『ねじまき鳥クロニクル第3部』にも、当然「3」は頻出しなければならないだろう。
口笛吹きのボーイは機械人形のように歩調を崩すことなくしっかりと歩き続け、僕は少し距離を置いてそのあとを追った・・・彼は208号室に新しいカティー・サークと氷とグラスを届けようとしているのだ。そしてじっさいにボーイが立ち止まったのは、208号室の前だった。彼はトレイを左手に移し替え、ドアの番号を確かめ、背筋を伸ばし居ずまいを正してドアを事務的にノックした。三度、それからまた三度。(『ねじまき鳥クロニクル第3部』文庫414頁)
ロッジの扉を3回叩くことは、フリーメイソンの参入儀礼に欠かせない行為である(注4)。
家族
一筋縄では解釈できない『魔笛』の台本に関しては古来さまざまな見解が表明されてきた。映画監督イングマール・ベルイマンや指揮者ニクラウス・アルノンクールのように、ザラストロと夜の女王がかつて夫婦であったという解釈も充分説得力を持つ。夜の女王がザラストロの元妻(あるいは元妻かもしれないという仮説を否定しきれない女性)であるなら、パミーナはザラストロの娘(あるいは娘かもしれないという仮説を否定しきれない女性)ということになる。「家族」という視点から『魔笛』と『カフカ』を見比べてみると、村上が読者への公開返信で再三注意を喚起している「○○かもしれないという仮説を否定しきれない××」という論理も含めて、両者は同一と言っても過言ではない軌跡を描く。
『カフカ』では
主人公「田村カフカ」は母親に捨てられる→母と再会→不可思議な力を通じて同性の親を殺す→途中で出会った異性と家族の再構築を目指す
『魔笛』では
ヒロインのパミーナが母親に捨てられる→母と再会→父親の力を通じて同性の親を殺すという行為に参画→途中で出会った異性と聖なる世界を目指す
不思議な二人組と臨死体験
『魔笛』と『海辺のカフカ』それぞれのプロットは、全体が相似を示すだけではなく、極めて特徴的なある出来事をも共有している。『魔笛』第二幕、フリーメイソン参入儀礼を前にしたタミーノとパミーナの前に、突然黒い「二人の兵隊」(zwei schwarz geharnischte M?nner)が現れ、風変わりな歌をうたう。それまで全く登場しないばかりか、言及されもしない「二人の兵隊」が何の必然性もなく唐突に現れること自体充分に奇妙であるが、音楽的にもまた異例かつ異様である。およそモーツァルトらしからぬ旋律はコラール”Ach Gott, vom Himmel sieh’ darein.”から引用されたもの。しかし何よりもこのアリアの特異な不気味さを醸し出しているのは、和声の教科書が禁じているはずの並行8度音程が32小節にわたって延々と続けられることによる。

『カフカ』には、この‘zwei schwarz geharnischte M?nner’によく似た「二人の兵隊」が登場する。森の奥へと踏み入ることを決意した「田村カフカ」は自身のアルターエゴたる「カラスと呼ばれる少年」と対話する。しかしある時点を境に「カラスと呼ばれる少年」は姿を消し、代わりに何の前触れもなく、それまで物語に一度も登場することのなかった「二人の兵隊」が出現する。
僕は返事を待つ。長いあいだ僕は口を閉ざしている。しかし返事はない。
僕はうしろを振り向く。でもそこにはもうカラスと呼ばれる少年はいない。僕の頭上に乾いた羽ばたきの音が聞こえる。
君は途方にくれている。
やがて二人の兵隊が僕の前に姿を見せる。
二人とも旧帝国陸軍の野戦用軍服を着ている。(文庫下巻381頁)
モーツァルトが「二人の兵隊」に2オクターブ離れたテノールとバスというコントラストをつけたように、村上はここで二人に「背の高い」と「がっしりとした」という差違を与えている。
それぞれの主人公は兵士たちに導かれて死を擬似的に体験する。「二人の兵隊」に連れられて辿り着く場所で「田村カフカ」が死者と語らうことから、森の奥もまた死の象徴と考えられる(注5)。
モーツァルトは参入儀礼をフルートの旋律と簡素なリズムを刻むティンパニにわずかな金管楽器を加えただけで表現した。単純、簡潔を極めた和声、旋律、楽器編成から抽出された最高の音楽美は、モーツァルト以外の誰にもなしえない天上の音楽にのみふさわしい。

「田村カフカ」が森の奥に入り込むとき、彼はコルトレーンのMy Favorite Thingsを真似て口笛を吹く。村上はコルトレーンのこの曲について「魔術的」というコメントを残している。(注6)
これ以外にも『魔笛』と『カフカ』に見られる内容上の相似は以下のようなものが挙げられるだろう。
*放浪者となった主人公が物語を開始する。田村カフカは家出し、狩衣を着たタミーノは女王の支配する異国に迷い込む。
*『カフカ』でたびたびプラトンから引用されるアンドロギュノス幻想が、元々は一心同体であり男性女性と分離した際に語尾だけそれぞれの性を示す形に変化したかのようなパパゲーノとパパゲーナ(日本名で喩えるなら本田尚と本田尚子になるだろうか)
を想起させずにはおかない。また、老婆から一瞬にして18歳の少女へと若返るパパゲーナは、「田村カフカ」の前に15歳の姿で現れる「佐伯さん」に似ている。
*「ジョニー・ウォーカー」が猫の魂を素材にして作る楽器が魔の「笛」である。
*『魔笛』には、「永遠の闇に落ちる」夜の女王、三人の侍女、モノスタトス以外にもパミーナ、パパゲーノの自殺未遂という形で「死」が色濃く影を落とす一方、『海辺のカフカ』には自殺とも病死とも判然としない「佐伯さん」の死の他、「ジョニー・ウォーカー」、田村父、「ナカタさん」、猫数匹、など、「死」のモティーフが頻出する。
*どちらも主人公が人格的に成長する物語を内包する、いわゆる教養小説の系譜に列なる物語である。
構成
両者の相似は内容だけに留まらない。『海辺のカフカ』文庫上巻は総頁数486頁。これは文庫下巻(528頁)の92%に相当する(小数点以下切り捨て)。「やがて二人の兵隊が僕の前に姿を見せる」のは文庫下巻381頁で、下巻の72%が進行した時点である。一方、『魔笛』について、ベーム/ベルリン・フィル盤(1964年録音)を例に総演奏時間との比率を計算してみると、第二幕が全体で77分46秒。第一幕は69分43秒で第二幕の89%。二人の兵隊が現れて「タミーノを『中へと導き入れる』(Zwei Schwarz geharnischte M?nner f?hren Tamino herein.)のは51分42秒が経過した時点でここまでの演奏時間は第二幕の66%に相当する。
つまり『カフカ』と『魔笛』の構成は
(1)第一部は第二部のおよそ90%の長さ
(2)第二部のおよそ70%経過したところで「二人の兵隊」が出現する
という二点において同一なのである。
構成における類似はまだある。邪悪なものとの最終的な対決場面は驚くほど短い。『海辺のカフカ』では「ホシノさん」が化け物を退治する第48章が頁数18で全体(上下巻合わせて1014頁)のわずか2.1%。『魔笛』の該当部分、モノスタトスが邪悪な者の一群を引き連れて現れる”Nur stille, stille, stille!”から彼らが永遠の闇に沈む”Wir alle gestuerzet in evige Nacht.”までは2分16秒(ベーム/ベルリン・フィル)で全体(第一幕、第二幕合わせて147分29秒)の1.5%しかない。エピローグもあっけないほど短く、「田村カフカ」が希望に向けて旅立つ最終章は224頁で全体の2.3%、『魔笛』の勝利宣言“Die Strahlen der Sonne vertreiben die Nacht”は3分06秒で全体の2.1%である。懲悪的なプロットを持つ他作品、例えば『アベンジャーズ エンドゲーム』と比べてみると両作品の特異さが際立つだろう。『アベンジャーズ エンドゲーム』は総上映時間181分、そのうち最終戦闘シークエンス(敵ミサイルによる戦闘開始からトニー・スタークの死まで)は32分間あり、全体の17%。12分間のエンドロールを除くと上映時間は169分になるので戦闘シークエンスの占める比率は19%にも及ぶ。
神話と謎
中条省平は『ねじまき鳥クロニクル』の謎に解答を与えないまま小説を終了させた村上を「倫理的責任の放棄」と非難した(注7)が、『ねじまき鳥クロニクル』にさらに謎に満ちた「第3部」を書き足した村上は、小説中に超自然的な事象をあまりに数多く挿入したことによって、中条の非難を待つまでもなく小説のリアリティを維持しきれなくなりつつあることを悟ったに違いない。
神話的方法に拠るならば、謎は謎のままでいることを許される。誰にでも知られた神話という枠組みを導入することによって物語はとりあえず前進できるだけの説得力を持つことになるだろう。それが古代の崇高な叙事詩を卑俗化することになるにせよ、レオポルド・ブルームという凡人のおよそ語るに値しない凡庸な一日は、とりあえず素材として小説の内部に存在することができるだろう。
村上の場合、『ねじまき鳥クロニクル』から『カフカ』に至る創作技法上の進化は、ジョイスの@@顰(ルビ:ひそ)みに倣って神話的方法を採用したことである。神話的方法は非日常的、超自然的な物語にいわば仮のリアリティを付与し、物語それ自体に推進力をもたらした。『ねじまき鳥クロニクル』では『泥棒かささぎ』、「予言する鳥」、「鳥刺し男」といったクラシック音楽からの引用はそれぞれ第1部~第3部の題名に組み込まれてはいるものの、実質的には物語の外部に存在して言及されるモティーフに過ぎず、物語全体の成立に有機的に関与してはいなかった。『カフカ』では、『ねじまき鳥クロニクル』第1部~第3部でロッシーニ、シューマン、モーツァルトなどのモティーフが担っていた役割は「フランツ・カフカ」と「烏」に引き継がれているが、それに加えて物語全体を支える神話的枠組みとして明示的レベルにおいてオイディプス神話、暗示的レベルにおいては『魔笛』が組み込まれている。その結果、非現実的なファンタジーがとりあえずのリアリティを持ち得たばかりではなく、オイディプスが迎えることになっていた悲劇的な結末が、もう一つの神話である『魔笛』を重ね合わせた二重構造を通じて「闇から光へ」というフリーメイソン的な思想に橋渡しされ、家族の再生という希望の持てる結末へと変容している。
血友病
村上にある種の世界認識の甘さがあることは周知の事実である。たとえば『1973年のピンボール』では当時のフォルクスワーゲンには存在しない「ラジエーター」を故障させている(注8)。『海辺のカフカ』でも村上は初版初刷での記述
・ 高松市に月曜に開いている公立図書館が存在しないにもかかわらず「田村カフカ」が月曜に図書館に行くこと。(文庫上巻75頁、火曜日となっている)
・ 佐伯さんのかつての恋人を殺した学生たちの罪名が過失致死となっていること。(文庫上巻275頁、傷害致死となっている)
が現実的ではないことを読者にも指摘され、二刷で改訂している。
『カフカ』の主要な登場人物の一人である「大島さん」の血友病についてはどうだろうか。血友病のほとんどは遺伝子に原因があり、女性は血友病遺伝子を保有しうるが重篤な病として発現するのは男性の肉体上にほぼ限られる(注9)。肉体は女性であるはずの「大島さん」が血友病患者であるという設定になっているのはなぜか。血友病に関する事実誤認のためなのか。
ジョイスの弟子であるサミュエル・ベケットは、ファクトと表象(言語)との乖離に苦しんだ作家であった。その意味ではベケットが小説を捨てて演劇の世界へと転身したことには必然性があった。小説の代表作と言える『モロイ』は次のようなフレーズで締めくくられる。
Then I went back into the house and wrote. It is midnight. The rain is beating on the windows. It was not midnight. It was not raining.
言語は事物を離れて独立することができる。 言語は事物を指し示しはするものの、既知の事物に縛られない言語表現も可能である。そうでなければ「新奇」(novella)を描くことで始まった「小説」は存在できないだろう。宇宙航行を可能にするスパイスや、理由もなく失踪した後に突然教会内部に現れるバスを「描く」小説も成立しないだろう。
神話的方法は事物からのさらなる自由を作家にもたらす。『カフカ』の基盤として二つの神話を据えた村上はより大きな自由、より多彩な表現の可能性を感じたに違いない。「大島さん」の血友病はベケットへのオマージュ、あるいはベケットの顰みに倣った言語表現の独立宣言なのかもしれない。
(注)
1 例えば、Gifford & Seidmses,Ulysses Annotatedが基本の注釈書として挙げられる。
2 『群像日本の作家 村上春樹』
3 『村上春樹イエローページ(Part2)』 193頁
4 以下、フリーメイソンに関する情報は吉村正和『フリーメイソン』(講談社)による。
5 二人組の冥界巡りという原型的な物語はオルフェウス神話、イザナギ・イザナミ神話、ダンテの『神曲』から映画『ソルジャー・ブルー』に至るまで数多いが、ここで重要なのは『カフカ』と『魔笛』においては脇役として突然出現した奇妙な二人組が主人公(たち)を死に誘うという点が共通していて、しかも他に類例が少ないということである。
6 音楽評論家福島彰恭がノリントン版の『魔笛』を高く評価する理由として、フリーメイソンの神秘性を表現するのにより自然に近い古楽器が適していて「古雅で暖かなガット弦の響きがよく、より原始的で素朴な管・打楽器の響きが良い」からだ、と述べている(『モーツァルトをCDで究める』166頁)。福島はここで「原始的」という言葉を用いていて、モーツァルトの音楽とコルトレーンのプリミティヴィズムが、音響的にも通底する要素があることを示唆している。
7 『リテレール』1994年夏号
8 水冷エンジンを持つ初代ゴルフが発表されたのは1974年。
9 本小論冒頭のエピグラフの文章をベケットが書いた時代には、血友病は男性固有のものと考えられていた。その後この病気はX染色体上の遺伝子の異常によることが明らかになった。理論的には血友病患者の父親と保因者の母親というカップルの間に四分の一の確率で女性血友病患者が出現しうるが、現実には女性の血友病患者は皆無と言っていい。一方近年では、片方のⅩ染色体に異常のある保因者であって、血液の凝固因子が少なく、月経過多や月経困難症がおきる場合も、女性血友病であると認識されている。
拙文の執筆にあたっては敬愛するHNさんに特に音楽に関して多くの貴重な示唆を頂いた。また畏友KAさんには改訂版執筆の提案から叱咤激励、内容と表記に関する助言に至るまで多くのご助力を頂戴した。お二方にこの場を借りて謝意を表したい。
本編の初出は「明治大学教養論集 巻号(通号396)-(通号397) 2005年9月刊」。SFPW掲載にあたり改稿したものである。改稿にあたり『海辺のカフカ』および『ねじ巻き鳥クロニクル第3部』本文の引用は新潮文庫版を参照した。
