「副作用」井上史

1.

 鈴木博士は画期的な発明を完成させた。それも、誰でも頭のよくなる可能性のあるウィルスを。このウィルスを人間に感染させると、ウィルスが脳に達して、記憶野を活性化させる。それによって、感染者は目の前の情報を画像として記憶する『写真記憶』の能力を得るのだ。この記憶はいわゆる短期記憶と呼ばれる一時的なものなので、一日もすれば大半の情報が失われてしまう。しかし、何度か同じ情報をインプットすれば、普通に学習するよりも簡単に、しかも少ない回数で学習した情報を思い出すことができるようになる。つまり、短期記憶をいつでも取り出すことのできる長期記憶に変えやすくなるのだ。
 この学習ウィルスを、発明者である博士は知恵の女神ミネルヴァにちなんでミネルヴァ・ウィルスと名付けた。
 このウィルスがあれば、子どもたちは勉強時間を大幅に減らすことができる。誰でも一定の知識を苦労することなく手に入れることが可能だ。授業についていけない子やそもそも学ぶ時間がない子、学校に通うことが困難な子の役に立つことだろう。また、十分な教育が受けられないまま成人した大人の、学びなおしのハードルも下がるはずだ。早速、製薬会社に売り込むことにした。
 地元の田中製薬会社の社長は鈴木博士の大学の先輩であったため、ものは試しと製品化してくれることになった。
 製品化するにあたって、決まったことがある。ミネルヴァ・ウィルスは人間の肉体に病気を引き起こすようなものではない。それでも、簡単に人から人へ感染するのでは、効果の範囲をコントロールできなくなる。そのため、ウィルスはインフルエンザのワクチンのように、一人一人に注射することによって感染する仕組みにすることになった。
 また、風邪やインフルエンザのように、ウィルスが変異を起こしてしまえば、効果が大きく変化しかねない。そこで、変異のしにくいウィルスを作る工夫を凝らした。
 こうして動物実験を経て製品が完成した。治験の許可が下りれば、次は実際に人々に投与して効果を確かめることになる。ただ、このような種類のウィルスは世界で初めて。鈴木博士は、治験の前に自分自身で実験しておこうと考えた。
 その実験を何の知識で行おうか。あれこれ検討していると、助手の佐藤氏が彼に言った。
「博士、将棋で試すのはどうでしょう?」
 佐藤氏と博士は何気なくスマホアプリの将棋ゲームを始めたところ、すっかり夢中になってしまった。しかし、どちらも初心者で強くはないため、初心者モードをクリアできないでいる。スコアも常にどんぐりの背比べといったところだ。
「将棋ねぇ……。我々はルールを知っているが、なかなか勝てないじゃないか」
「ルールだけではダメなんですよ。この前、プロの棋士の出版した本を読んでいたら、将棋に勝つには定石の研究こそが近道なのだそうです」
「確かに、このウィルスの効果は、さまざまな場面で使えるはずだ。そのことを実証するためにも、将棋の定石の研究に使ってみよう」
 早速、鈴木博士は実験用のミネルヴァ・ウィルスを自分と助手に投与した。
「博士! 早速、定石を覚えましょう!」
「待て、佐藤君。投与の効果が現れるのに、三日ほどかかる。それより何だか寒気がしてきたぞ……?」
 投与の日から翌朝まで三十七、八度の熱を出して寝込んだ。もっとも、これは動物実験でも分かっていたことである。投与された対象は、どうしても副反応として発熱してしまう。
 熱が下がって出勤すると、佐藤氏がいそいそと将棋の定石本を取り出した。博士も用意していた電子書籍の将棋本を学習し始める。集中して定石を覚えること二時間。二人は将棋アプリを起動して、ゲームをプレイしてみた。
「博士、中級者モードが初めてクリアできたんですよ!」
「私もだ。やはり定石を覚えると、勝ちやすくなるな」
 二人は将棋ゲームで対局を始めた。すると、どうだろう。かなりいい勝負で対局が続く。最終的に、決着が着いたのは二時間後。鈴木博士の勝利だった。自分の発明したウィルスの効果を鈴木博士が実感した瞬間だった。
 田中社長は大喜びで、ミネルヴァ・ウィルスを政府に売り込むことに決めた。早速、知り合いの国会議員に会いに行った田中社長は、翌日、上機嫌で出勤してきた。
「議員が大変、興味を示していたよ。知識を得るのが簡単になれば、公教育への予算支出を大幅に削減することができる。何より、完成した暁には世界中の国々が欲しがるだろう。国からの出資の手筈を整えてくれるそうだ。まずは治験をしよう!」
 その後、国内で五百名ほどの成人の有志を対象に治験の第一段階が行われた。治験前に行われた学力テストでは、皆、分野の差はあれど高校卒業までの知識の何割かを忘れているという結果が出た。この人々にウィルスを投与して参考書を読んでもらい、再度試験を行ったところ、全員が学力テストで満点を取った。
 治験の第二段階は一万人の被験者で行われた。対象は学び直しがしたい人や、経済的な理由で十分に学べなかった人。この治験の第二段階も成功裏に終わった。被験者の中にはさまざまな基礎疾患を持つ人々も含まれていたが、副反応は発熱だけ。それでも一万人の大人たちの多くが、簡単に復習して習得することができた。事情によって義務教育までしか修了していない被験者たちの中には、高卒認定を取得して大学に進学する者もでてきた。今回はウィルスの効果を確認するための試験が広範囲であったため、復習に飽きて脱落する者も少数いたものの、これは大した問題にはならなかった。ウィルスの主な対象は子どもたちだからだ。義務教育の年齢の子どもたちは、嫌でも授業を受けさせられる。復習をサボると短期記憶は長期記憶になりにくいが、それでも一定の知識はつくだろう。
 好感触を得た鈴木博士と田中社長は、政府にウィルスの承認を申請した。国内でもふたたび治験が行われて承認が下りると、大変なニュースになった。何しろミネルヴァ・ウィルスはこれまでの教育をガラリと変えてしまう可能性のあるものだ。国会でミネルヴァ・ウィルスをどう扱うか議論され、ウィルスは六歳以上に投与することになった。マスコミはこの決定を報道した。
 早速、政府からの依頼があった。同時期に他国からもミネルヴァ・ウィルスを求める声が寄せられた。
 こうして、ミネルヴァ・ウィルスは各国で承認されて広く使われるようになっていった。子どもたちは長時間の勉強に苦しむことなく、のびのびと学校生活を送ることができる。また、大人たちの多くも希望し投与を受けた。おかげで、投与開始から五年ほど経過すると社会のいたるところで人々が新たな発明をして、日本も世界も発明ラッシュに活気づいている。特に日本では、次々に起こるイノベーションで経済が刺激され、数十年ぶりに大幅な経済成長を記録した。
 成長による税収の増加と公教育の費用削減の効果によって、財政は黒字に好転した。ミネルヴァ・ウィルスは日本の輸出品目の上位になり、博士にはメディアの取材がたびたび入るようになった。

2.

 ミネルヴァ・ウィルスの発明から十年後。鈴木博士はノーベル化学賞を受賞することになった。授賞式に向けて、彼が妻とともにスウェーデンに到着した夜のことだ。スマホでCNNを観ている最中に、妙なニュースが取り上げられた。何度、学習しても間違った知識を記憶してしまうという二十歳の男性の話題だった。当初、その男性は、自分が学習したテキストが間違っていたのだろうと考えていたという。しかし、同じ教科書を使う同級生たちは、正確に知識を学習できている。次に脳の機能の問題を疑って医療機関を受診したが、検査の結果、脳は健康そのものだという。
『僕の症状について、研究者がいくつか実験を行いました。そうして分かったのが、僕が教科書を音読するときには正しく読めているのに、数時間後、テストを行うとその知識が違うものになっているということです』
 さらに画面に映し出された男性の主治医が、患者は短期記憶に問題があるようだとコメントしていた。この男性のような症状は、アメリカで五百人ほど見つかっているという。
 それを見て、博士は不安になった。短期記憶といえば、ミネルヴァ・ウィルスによって活性化する部分だ。ニュースに取り上げられた症状には、ミネルヴァ・ウィルスが関係しているのではないか。
 そこで、念のため助手に指示して日本での同じような症例のニュースを収集してもらうことにする。二日後、ノーベル賞の授賞式が終わった日の夜、ホテルに戻ると佐藤氏からメールが届いていた。そこには日本の新聞や英語メディアの記事のリンクが添付されている。鈴木博士は記事にざっと目を通してから佐藤氏に電話をかけた。
「調査してくれてありがとう。さっき軽く記事を読んだんだが、例の奇病は日本でも発見されていたのか? アメリカだけでなく?」
『ええ。今はさまざまな国で例の奇病の症例が報告されています。謎の病という意味で、エニグマ病と名付けたそうです。エニグマとは、ラテン語で謎を意味するのだそうで』
「エニグマ病……」
『何と一番古い症例の発生は、日本らしいんですよ。アメリカで騒がれだしたために、医師たちが遡って疑わしい症例を報告したようです』
「田中社長に頼んで、エニグマ病のある人の血液を入手してもらってくれ。……あまり考えたくはないが、もしかするとミネルヴァ・ウィルスが関係しているかもしれない」
ウィルスの一種であるため、ミネルヴァ・ウィルスを投与すると抗体ができる。エニグマ病の感染者の血液にできる抗体がどんなものか、博士は比較してみるつもりだった。
 日本に帰国すると、要望どおり社長はエニグマ病の患者たち十人の血液サンプルを用意してくれていた。ミネルヴァ・ウィルスが治療に使えるかどうか、確認するためと政府に言ったようだ。早速、博士は解析に取りかかった。
 まず、血液サンプルを使ってミネルヴァ・ウィルスの投与歴を調べる。と、すべてのサンプルからミネルヴァ・ウィルスが発見された。ミネルヴァ・ウィルスを投与すると、脳に到達して記憶領域を刺激しつづける。ウィルスが排出されてしまうと記憶領域の活性化が終わってしまうので、ミネルヴァ・ウィルスは脳に留まりつづける仕組みだ。
 今となってはミネルヴァ・ウィルスの接種率はどの世代も八割ほどとなっている。血液中にウィルスがいても不思議ではない。それよりも――。
「ミネルヴァ・ウィルスがエニグマ病に関係しているのだとしたら、なぜ、今なんだ?」
「ええ、それが気になります。やはり、変異株では?」
「それなら、ミネルヴァ・ウィルスから取り除いたはずの感染力を変異株が獲得して、水面下で無症状感染が広まっていることになるが……全国でこれほど小規模に発生しているのは説明できない」
 いったい何が起きているのか分からない。しかし、ミネルヴァ・ウィルスがそこに何か関係しているようだ。このまま放置すれば、より大きな問題が起きかねない。
 鈴木博士は田中社長に状況を報告し、世界各地で今日も行われているミネルヴァ・ウィルスの投与を中止した方がいいと提案した。しかし、社長は「とんでもない」と首を横に振る。
「因果関係が証明できないのだろう? そんな理由で全世界で行われているミネルヴァ・ウィルスの投与を中止することはできない。もう各国と契約してあるんだからな」
「そんな……! それは倫理に反します」
「因果関係が証明できない以上、仕方のないことだ」
 鈴木博士はこの研究所を辞めて、真実をマスコミに話すことを考えた。だが、どうしても踏ん切りがつかない。というのも、田中製薬会社の研究所にはこれまでのミネルヴァ・ウィルスのデータや最新の設備がそろっているからだ。
「分かりました……。では、私はもっと深くミネルヴァ・ウィルスの影響について研究します。最初の投与からすでに十年間が経過していますから、長期での影響も分かってくるはずです」
 翌日から、鈴木博士はエニグマ病の解析を始めた。データを集めて分析し、エニグマ病の患者にも会いにいった。特に気になったのは、最初にエニグマ病と診断されたアメリカ人の若者、リアムが話した内容だ。
「ミネルヴァ・ウィルスを投与されてから大学に入るまで、僕はかなり順調に学習してきました。何しろあのハーバード大学に入れたんですからね。問題はその後でした。僕の専門は児童心理学です。一年生の長期休暇のときに、少し前に読んだことのある絵本を見ていて、細部が僕の記憶とかなり違うなと気づいたんです」
「どんな風に違ったんです?」博士は尋ねた。
「絵本の絵です。羊の出てくる絵本だったのですが、僕の記憶の中では羊はもっと歪んだ形をしていたんです」
「……おっしゃる意味が分かりません。昔、読んだ絵本が落丁や印刷ミスだったとか、そういったことは?」
 博士の質問にリアムは首を横に振った。
「いいえ、そうではありません。同じ本を改めて読んだのだから……。それに奇妙なのは、僕の学習障害でも同じことが起きているということです」
「同じこと?」
「最近、」学習した教科書のあるページの記憶が、おかしいんです。一部のページだけ、文字がぼやけている記憶しかないんです。他のページはちゃんと覚えているのに」
 博士は他の患者にも会ってみたが、彼らは皆、リアムと同じような内容を訴えていた。つまり、写真記憶したはずの記憶がおかしいのだと。しかも、リアムや数人の患者はその症状が次第に進行しているという。最初は一冊の本を読んだ際に数ページ分の記憶がおかしかったのが、今では三分の一、あるいは半分ほども内容の記憶が狂っているという。
 いったいどういうことなのか。
 研究を続けていた矢先のこと。佐藤氏がエニグマ病を発症したらしいと言う。きっかけは、娘が子どもの頃に読んでいた絵本を、整理していたときのことだ。開いたページに見覚えのない絵が描かれていたのだという。
『こんなときに申し訳ありません、博士』自宅から電話を掛けてきた佐藤氏はひどく悔しそうだった。
「君は悪くないさ。それより、エニグマ病を発症して、どうだね? 何か気になる症状はあるか?」
『おかしいんです。久しぶりに将棋アプリで遊んでいて、定石を思い出そうとすると、記憶がおかしくて。将棋の駒がぐちゃぐちゃに歪んだ記憶が浮かんでくるんです……。念のため、算数の問題集をやってみたら、そちらは問題なかったんですが』
「そうか。分かったぞ!」
 博士は思わず飛びあがって叫んだ。
 エニグマ病は人間の知識を無制限に狂わせてしまうわけではない。ミネルヴァ・ウィルスを投与して数年間が経過すると、一部の人間の記憶領域では写真のように記憶する際に画像にエラーが起きてしまうのだろう。ミネルヴァ・ウィルスの長期の副作用――それがエニグマ病の正体だった。
 エニグマ病の拡大を防ぐ第一歩は、これ以上のミネルヴァ・ウィルスの接種を止めることだ。鈴木博士は田中社長にそう提言したが、彼は渋い顔をした。
「前にも言ったが、ミネルヴァ・ウィルスの変異がエニグマ病の原因だということは、明かすわけにはいかないんだ。今や日本の主要な輸出品目の一つだからね。それより、何とかワクチンや治療薬を作ってほしい。それが皆の幸せになる道だ」
 そう説得されて、鈴木博士は仕方なくエニグマ病のワクチンの研究に取りかかった。その間にもエニグマ・ウィルスは全世界に広がっていった。しかし、多くの人は自分がエニグマ病にかかったと気づかない。その結果、社会に大きな影響が出始めた。
 最初の兆候は航空機の墜落だった。エニグマ病に感染して治った整備士が整備を行ったため、計測器の狂いに気づかなかったのだという。エニグマ病に感染した職員のせいで、電車のダイヤが大きく乱れるという出来事も起きた。さらに、さまざまな会社で経理の帳簿が合わなかったり、仕入れの個数が間違っていたりといったことが頻発した。こうして、社会の混乱はどんどん広まっていった。
 ワクチンを求める声は日に日に高まっていた。
 鈴木博士は皆の期待に応えて、早くワクチンを開発しようと懸命に努力した。そんなある日のこと。
 朝、出勤して前日の研究の記録をもう一度、確認しようとパソコンを開いたところ、そこに保存しておいた研究データがおかしい。記憶にあるものとはまったく違っているのだ。
「まさか、この症状は……」
 博士はエニグマ病の検査を受けてみることにした。結果は案の定、陽性。エニグマ病のワクチンはグループで開発していたとはいえ、メインとなる鈴木博士がエニグマ病を発症しては絶望的だ。研究を引き継ごうにも、いつからエニグマ病だったか分からないため、どこまでの研究成果は使えるのかが分からない。ワクチン開発は行き詰まり、田中社長もワクチンを求める各国に「開発不能」と回答するしかなかった。
 そうこうするうちにエニグマ病患者はどんどん増えていった。このことを憂慮した各国では、まだエニグマ病を発症していない研究者や技術者が一丸となって、AIの普及や仕事の機械化を行った。やがて、スーパーマーケットの店員もレストランの従業員もロボットに置き換えられ、人の手は不要となっていった。
 そればかりか、店員ロボットが壊れたとしても、それを修理するためのロボットすら存在している。研究や開発だけでなく、芸術分野にもAIが進出し、次々と素晴らしい絵画や音楽を発表した。
 初めてのミネルヴァ・ウィルスの投与から十五年後には、人類の六割がエニグマ病を発症し、さらにその数は増えつづけている。しかし、エニグマ病のワクチンの開発を引き継いだAIが、成果を出したというニュースは聞こえてこない。
 それでも、社会はまったく混乱していない。ありとあらゆる場所に配置されたロボットやAIが、社会を動かしているからだ。もはや人間は仕事をする必要がない。また、研究や開発を行わず、芸術分野など他の分野においてもAIの方が優れているため、学校へ行く子どもはかなり減っている。というのも、今や勉強は完全なる趣味の世界になったためである。今後、勉強をしようとする子はさらに減ることだろう。
 鈴木博士は公園を散歩しながら、そこで遊ぶ子どもたちを眺める。子どもたちの相手をしているのは、丸っこいフォルムの保育士ロボットだ。今は平日の昼間だが、誰も学校へ行ってはいない。
 博士の手元のスマホの画面では、昼過ぎのニュースが流れている。ロボットのキャスターが伝えているのは、本日、政府機能を代替するAIが公教育の費用を全廃すると発表したニュースだ。すでに他国でも教育関連の予算は削減された国が多いという。
「私は子どもたちがテストに苦しめられることのない世界を願っていたが……本当にこれでよかったんだろうか」
 鈴木博士は自問自答する。その呟きを、保育士ロボットと楽し気に遊ぶ子どもたちの声がかき消した。