「光の国と魔法とおじさんと4」市川大賀(画・蓮鯉)

あくる日。
おじさんはまる一日、夜が来るまでゆっくりと体をやすめていた。
目覚めると、少し元気が回復していた。
おじさんは、この夜に光の国に帰ると昨夜から決めていた。
同じことばかりだ。
あの光の国でも、この地球でも、同じことばかりがくり返される。
だとしたら、自分は自分が生まれ育ったあの光の国にかえろう。
あの、自分の一生で一番大切だった人と夢をもち、めざしたこの星は、決して夢見たような星ではなかったことがわかったのだ。
ならば帰ろう。
あの人の思い出を、この星に永遠に残して、光の国へ帰ろう。

おじさんの心には、くやしさも悲しさも、すべてなくなっていた。
体がすこしずつ動きはじめていた。
ちゃんと動くようになったら、光の国へ帰る儀式をはじめよう。
そう思っておじさんは、ゆっくりと星空をながめ続けた。
この星へ来ることは、ずっとずっと夢だった。
たった一人愛したあの人と、地球という星へ行ってみよう。
そう夢見て必死にがんばった。
だけど、それもこれも、きっとはかない夢でしかなかったのだ。
この星に来て、たった一人の人を失ったとき、おじさんは果てしないこどくにつつまれた。
自分がここに存在していることを、誰も知らない、誰も気づかない。
その果てしない孤独の時間が永遠に続いていたので、おじさんは、光の国へかえる力とひきかえに、自分の命とひきかえに、この星のひとたちに、この星の子どもたちに、自分がここにいたのだと、覚えてもらう道を選んだのだった。
しかし。
結果は、やはり孤独のままだった。
おじさんは、この星で選んだ道が全部まちがいだったのだろうかと思っていた。

おじさんは、夜空にむけてゆっくりと立ち上がった。
そして、川原のこかげに立てかけておいた、黒い傘をとりだした。
傘をひらき、頭の上にかまえて、石を持った手も空へかかげる。
おじさんは、光の国へ向けて、帰るぎしきをはじめようとしたのだ。
しかし、空にむかって石をかかげようとして、ふっと気になったことがあった。
川原をあがった土手の道に、エンジンをかけたまま止まっている自動車があったのだ。

光の国に帰るぎしきを、いまさら誰に見られても困ることはないおじさんだったが、おじさんには、どうしてもその自動車が気になってしかたなかった。
おじさんは、少し考えて傘をたたみ、石をポケットにしまうと、ゆっくりと川原をのぼった。
見ると、エンジンがかかったままの自動車の運転席には、ハンドルによりかかって目をつぶっている女性がすわっていた。
「どうしたんですか? エンジンかけっぱなしで。だいじょうぶですか?」
おじさんは、運転席のまどをコンコンとノックしながらたずねてみた。
しばらく女性は目をつぶって動かなかったが、おじさんが何度かノックをつづけると、ゆっくり目をひらいて動き出し、ゆっくりとした動作でまどをあけた。
「何か用ですか? わたしのことは放っておいてください……」
女性はじゃまそうにそう言うが、そのことばに力はなかった。
「こんなところでエンジンをかけたまま自動車をとめていては、まわりにもめいわくだし、あなたも危険ですよ」
「放っておいてって言ったでしょう!」
女性はどなった。そしていきなり泣き出してしまった。
「何があったんですか? ふつうじゃないですよ」
おじさんはやさしい声でそう聞いた。
開いた運転席の窓からは、お酒のにおいがたちこめていた。
女性はおそらく、たくさんのお酒を飲んで、自動車を運転してここまで来たのだ。
よっぽどの理由があったのだろう、おじさんはその理由をたずねた。
「死ぬのよわたし。死ななきゃいけないの」
女性は、酔っているとは思えないしんけんな表情で、そう言いきった。
「死ななきゃいけないとは、おだやかじゃないですね。いったいどうしたんですか?」
こういうときは、とにかく会話をしておちつかせなければいけない。
おじさんはそう思って、女性の言うことを否定しないで、続けさせるようにした。
「好きな人がいたの。本当に好きで愛していて、ずっといっしょにいようねって約束してたの。一生を約束していて、本当に好きで……世界で一番大事な人だったの……」
女性は、ボロボロと涙を流しながら言葉を続けた。

「あの人とわたしは、故郷で結婚を約束していた。でもあの人は仕事で東京へひっこししなければいけなくなった。距離がはなれれば、いろいろ心配や不安もふえる。でもわたしとあの人はぜったいにだいじょうぶ。そんな自信が二人にはあった。なのに……それなのに……あの人は変わってしまったの」
「変わってしまった……? 」
「あの人はこの東京で、新しい恋人をつくったの。わたしをうらぎったの」
「それは本当にうらぎったのですか? あなたがごかいしてそう思い込んだのでは?」
「そんなことはなかったわ! あの人はわたしの知らない女性を抱きしめていた!」
おじさんはくちびるをかみしめることしかできなかった。
女性は自分のことばに暗示をかけられたように、うわっと泣き出してしまった。
「愛していたのに! あんなに信じていたのに!」
「だけど……」おじさんはやさしく言葉にした。「だけど、だからといってあなたが何も死ななければいけない理由なんか、ないんじゃないでしょうか」
「もう遅いの! もう何もかも、どうしようもなくなっちゃったの。とりかえしはもうつかないの。わたしは死ななければならないの……」
そうつぶやいて、ハンドルをつかんだまま泣きくずれる女性。
「とりかえしがつかない人生なんて……ないと思うんです」
おじさんはそう言ってあげることしかできなかった。
「時間は元にもどせないけど、失ったものはもどらないけれど、でもそれはきっと、いらないものも大事なものもいっしょで、それでも生きていくんだから、つらい過去がきえないように、失った大事なものも、きっとなくならないんじゃないでしょうか」
「知ったふうなことを言わないでよ!」女性はヒステリックにさけんだ。「あなたに何がわかるのよ! わたしのこと、わたしと彼のことなんか、何も知らないあなたがかってなことを言わないでよ!」
泣きさけぶ女性。
おじさんは、女性からはみえないところで、光る石をぎゅっとにぎりしめていた。
「わたしはずっと、あの人といっしょになることだけを夢みてがんばっていた。仕事もつらかった。心がちぎれそうだった。でも、がんばっていけばいつかきっと、想いがつうじて夢はかなうんだって。それだけを信じてがんばって生きてきた。あの人は、たまに電話をくれたけど、いっしょにがんばろうねっていつも言っていてくれた。二人でがんばって、幸せになろうねって、いつもいつも言ってくれていた。その何日かに数分の時間と言葉だけが、わたしには支えだった。その時間があるから、その時間が生んでくれる夢があるから、心がちぎれそうになるほどさびしい毎日を、がんばってたえてこれたの。それなのに……それなのに!」
女性の必死なことばを聞いていたおじさんは、ふっと自動車のうしろのトランクが開くのをみつけた。
座席のうしろにある、にもつを入れる場所のふたが、少しひらいて動いているのだ。
なんだろう? おじさんはゆっくりと、自動車のうしろに向かって歩いた。
「やめて! そこはあけないで! 見ないで!」
いきおいよくドアをあけて飛びだした女性がさけんだ。
おじさんに向かって走りよってすがりつこうとする。
しかしおじさんは、自分でトランクのふたを開けるまでもなかった。
自動車うしろのトランクの中には、おなかにナイフをさされた男性がつめこまれていた。

「これは……」
ささったナイフから、たくさんの真っ赤な血がながれている男性の体は、まだひくひくと動いているけど、もうすぐ死んでしまうことはおじさんにもわかった。
「見なかったことにして!」
女性はおじさんにすがりついた。
すがりついて「ゆるして」とわんわん泣きつづけた。
おじさんにすがった女性の手は血まみれだった。
おじさんは、途方にくれるしかなかったけれど、くちびるをかみしめて星空を見上げたあと、ゆっくりと、女性と目をあわせるようにしゃがみこんだ。
「だいじょうぶですよ。おちついてください。ぼくにまかせておけばだいじょうぶですから」
おじさんはそう言って、女性の体を抱きしめてあげた。
女性の体はガクガクふるえていたけど、おじさんが抱きしめてあげたら少しふるえがおさまった。
「だいじょうぶですよ」もう一度同じことを言って、おじさんは立ち上がった。「あなたは孤独にはなりません」
おじさんは、女性からはなれてトランクにちかよった。
持っていた光の石を、死にかけている男性の体の上において、そのまま右手をナイフがささっている場所にあてた。
あわい光が、石と右手から発せされ、ナイフと傷口を包み込みはじめた。
この人を死なせちゃいけない、この人をこのまま死なせたら、この女性が一生罪を背おって生きていかなくてはいけなくなる。
何があったにせよ、人が本気で愛したひとのために罪を背おい、残りの一生を生きていかなければいけないなんて、そんな人生はつらすぎる。
だから死なせちゃいけない。死なないでほしい、死なないでくれ。
おじさんは必死にねがいながら、右手に神経を集中させた。
石と光から放たれた光は、どんどん強くなっていって、男性を包んでいく。
まずは、傷口からナイフがすぽっと抜けて、宙を飛んでおじさんの背中のうしろへ落ちた。
そのあと、傷口がふさいできて、体の中の血が増えていく。
まだだ、もうちょっとだ。
おじさんは、自分の命がちぢまっていくことも、石が小さくなっていくことも気づかずに、いっしょうけんめい、その男性を救おうとがんばった。
生きてくれ、生き返ってくれ。君のためだけじゃない、この女性のためにも。
そして、この女性に愛されて幸せになる君のために、生きのびてくれ。
おじさんはそう祈って、力をこめつづけた。
「う……ん……」
やがて、血の気がもどってきた男性が、ひくくうめきはじめた。
状態がよくなってきたのだ。意識がとりもどされかけたのだ。
助かるぞ。助けることができるぞ。
おじさんは、もう小粒ほどの大きさになってしまった石をにぎりしめて、その手を傷口にあてつづけた。
傷口はもうすっかりとふさがって、もとどおりになりかかっていた。
「もう少しだ……」
おじさんは、心臓のうごきが弱くなりつつ、めまいがしつつも男性のためにがんばった。
それはまるで、消えかけた男性の命へ、自分の命をうつしかえるような行ないだった。
おじさんの、必死な努力は成功した。
男性は意識こそはっきりしないものの、ナイフでさされた傷は完全に消え去り、体は健康な状態をとりもどしたのだった。
「これでもう……だいじょうぶだ」
おじさんは、大量の汗を流しながらも、ふうとひといきついて背後の女性に話しかけた。
その直後。
おじさんの背中に、するどい痛みと熱さと、しょうげきが走った。
男性の傷口から放り投げられたナイフが、おじさんの背中に突きさされたのだ。
「え……」
おじさんは何のことか、いっしゅんわからなかったが、少しふりむくと、ナイフをにぎった女性が、自分の背中に体当たりをしているのが見えた。
「この人は……この人はようやく、わたし一人のものになったのに!」
女性はそうさけぶと、さらにぐいっとナイフをおじさんの背中にさしこんだ。
おじさんは声もだせないまま、その場にくずれて倒れた。
女性は、おじさんが倒れたのを見るとすぐに自動車のトランクをしめた。
そして運転席にもどり、ドアをしめ、自動車を急発進させて、その場から走り去ってしまった。
あとには、血まみれのおじさんだけが取り残された。

おじさんは、血まみれの体をひきずって、元の川原まではいつくばってもどってきた。
もう、何も考えていなかった。
誰もうらんではいなかった。誰のことも考えていなかった。
この川原で出会った、誰のことも頭になかった。
この星で失った、大事な人のことも思い出せなかった。
ただ、この川原のこの場所に、戻らなければ。
それだけを考えていた。

血まみれの手には、米粒ほどの大きさになった石がにぎられ、あわく光っていた。
おじさんは、最後の力をふりしぼって、その小さな光の粒を川原の地面にうめた。
おじさんは泣いていた。
大事な人との夢がはたせなかったからか。
出会った人々のことを思って泣いたのか。
最後に光の国へ帰る夢がはたせず泣いたのか。
それは誰にもわからなかった。

おじさんは、血まみれで倒れたまま泣いていた。
もう、立ち上がる体力も、動く力もなくなっていた。
おじさんの心の中では、小さなころにやさしかったお父さんやお母さんがほほえんでいた。
大切だった人もほほえんでいた。
それがおじさんが見た、最後の夢だった。

動かなくなったおじさんを、夜の闇の中で赤い光が包み込んだ。
その赤い光は、まるい形になっておじさんを包み、おじさんを包んだ赤い光の球体は、ゆっくりと空へまいあがった。
やがてその赤い光球は、地面におちる流星の逆回転のように、カーブをえがいて空のかなたへ消えていった。
その夜以降、おじさんの姿を川原で見る人は、誰もいなかった。

あれから何回の、春と秋がくりかえされたのだろう。
年月は重ねられ、人々は生活を送っていた。
かつて「手品のおじさん」と会った川原に、ひとりの青年がおとずれた。
青年は、近くの高校の制服を着ていて、右手に学校のかばんとサッカーボールをさげていた。
青年は、何かを探すような、複雑な表情で川原をみつめていた。
「おういシンイチ! お前そんなところで何をしているんだよ!」
同じ制服を着たもう一人の青年が土手をかけおりてきて声をかけた。
「なんだよショウゾウか」
シンイチとよばれた青年は、ふりむいて笑顔でそうこたえた。
ショウゾウは、シンイチのわきにまでかけよってきて、シンイチと同じ川原を見つめた。
「こんなところでぼーっと立って、何かあるのかよシンイチ」
「おまえさ……」シンイチがぼそぼそと答えた。「おれたちが小学生のころ、ここに昔いた手品のおじさんって覚えているか? ここで毎日、手品を見せてくれていたおじさんなんだけど……」
シンイチのことばに、少し記憶をさぐったショウゾウだったが、答はそっけないものだった。
「いんや、覚えてねぇ。そんな人いたっけ?」
「そうか……」
ショウゾウは、ふりむいた土手の通学路に、同じクラスの女子が歩いているのをみつけると、「おーい!」と声をかけ「悪いなシンイチ、先にいくぞ、また明日な!」と言い、土手をかけのぼって行ってしまった。
シンイチは、ふたたび一人になって、川原を見つめつづけていた。
なぜか涙がでそうになった。
あの日、母親の手をふりはらっておじさんをかばっていれば、今もまだ、おじさんの魔法を見せてもらえていたのかもしれない。
いや、せめて、光の国へ帰るおじさんを、見送れたのかもしれない。
でも、そんな後悔がおそすぎるのを、シンイチはもう知っていた。
おじさんはもう、光の国へ帰ったのだ。
自分が遠いむかし、まだ子どもだったころに、とっくに光の国へ帰ったのだ。
だから泣いてはいけないんだ。
シンイチはそう自分に言いきかせながら、でも、うつむいた自分の顔から、ぽつぽつと涙が川原の地面に落ちるのに気づいていた。
「……?」
シンイチは、涙が落ちるあたりが少し光ったのを目にした。
川原の小石にうもれて、何か光るものを見つけたのだ。
なんだろう。
シンイチが気になって、少し石をどけて見ると、そこには小さな光る石がうめられていた。
シンイチはすぐに思い出した。

おじさんが大切にしていた、あの石だった。
最後に自分の手の中で大きくなった形より、かなり小さくなっているが、まちがいない。
おじさんの持っていたあの石だ。
シンイチはその石の正体に、すぐきづいた。
けれど、シンイチは思った。
おじさんが光の国へ帰るために必要だった石が、どうしてこんなに小さくなって、ここにうめられていたのだろう?
この石は、おじさんが帰るために必要だったのだから、この石がまだここにあるのなら、おじさんは光の国へ帰ってはいないことになるけど、あれから何年も、シンイチも誰もおじさんを見た人はいない。
じゃあ、とシンイチは思った。
おじさんは、ぼくのためにひとかけらだけ、この石の一部を残しておいてくれたんだ。
光の国へかえるとき、ぼくにだけそっと、石の一部をうめて残しておいてくれたんだ。
これは、おじさんからぼくへの、お別れのプレゼントなんだ。
シンイチはそう思うことにした。
そして、米粒くらいの光る石のかけらを、大事そうに両手で包み込んだ。
「おじさん、ありがとう」
いろいろ考えたシンイチは、それだけを誰もいない川原にむかって言った。
川原には、春風がふきこんでいた。
少しはなれた場所では、小学生くらいの小さな男の子が、転んでひざをすりむいたみたいで、わんわん泣いている声が聞こえてきていた。
しかたないなぁ。シンイチはちょっと苦笑いすると、その少年に向かって、歩きだしていた。

【おしまい】