新作紹介『トーキングヘッズ叢書 TH91 特集・夜、来たるもの』前田龍之祐

  ジャンルを問わない多彩な執筆陣で話題の季刊アート誌『トーキングヘッズ』91号。今回の特集はズバリ「夜、来たるもの」です。

  「マジカルな時間のはじまり」との副題が付けられているように、〈夜=闇〉の先には常に不気味なものを想像させ、昼の世界にはないさまざまな物語を喚起してきました。まさに無意識に訴えかけるそうした「夜」へと、本特集は多様な切り口の記事でもって、私たちを連れ出してくれます。

  まず、鈴木一也「神は闇を渡る」は神話における「夜」との関係という、壮大なテーマを扱います。「呪術、妖術、魔術は夜のものだ」というように、「夜を渡る者」としての神々を祀る儀式は、深夜(午前零時)におこなわれ、その時刻は同時に神霊が活動を開始する、その瞬間でもあるというのです。「地に目に見えぬ力が満ちるのが、夜なのである」。この一文は、本特集で語られる「夜」に通底する特徴であると言えましょう。

  八本正幸「夜ごとの妖怪――『稲荷物怪録』をめぐって」では、古くから伝わる日本の怪異譚を紹介しています。怪異や妖怪と「夜」との親和性については、本特集のいくつかの記事で度々指摘されている点ではありますが、この『稲荷物怪録』は、十代の青年によって語られた体験記だという事実がポイントです。なぜならその物語は「思春期独特の妄想」、すなわち性的なものへの関心によって喚起されるものだからであり、おそらくそのことは、青少年(少女)にとっての「マジカルな時間」こそ、「夜」にほかならないのだと、暗示しているのかもしれません。

  その点で、馬場紀衣「夜を駆ける子どもたち――児童文学と少年少女の夜」と、梟木「真夜中の女たち――あるいは夜に少女が出歩くことの奇跡について」は、併せて読まれたい文章です。前者は、児童文学に登場する子どもたちにとって「夜」とは、大人の束縛から一時的に解放されて、ベッドを抜け出して冒険へと繰り出す、自由な時間として描かれ、また後者は、絵画や文学、サブカルチャーまでを通覧しつつ、現実の女性たちに許されていなかった「夜歩き」の夢を、フィクションが代替することで生じる感動を考察しています。

  両者ともに、私たちが子どものころに感じていた「夜更かし」に対するある種の憧れを、さまざまな作品を通して解き明かす興味深い論考です。

  しかし、では、夜の時間とは単にわくわくするような、愉しいだけの時間なのでしょうか。決してそうではありません。そこは闇の浸された世界であり、不安や恐怖が否応なく押し寄せてくるからです。「夜」とは私たちを脅かす、非常に危険な時間でもあります。

  浦野玲子「夜のストレンジャー――『にんじん』『ナイトホークス』『悪魔が夜来る』などに描かれた夜の恐怖について」は、そうした「夜の恐怖」にまつわる三作の映画を観ていきます。ジュリアン・デュヴィヴィエの『にんじん』は、幼少期におぼえる「夜のトイレ」への恐怖を主題にする興味深い一作です。20世紀以降の文明開化期のアメリカにて制作された、エドワード・ホッパーの代表作『ナイトホークス』(夜更かしする人々という意味)は、当時の均質化されたアメリカ都市民の存在の稀薄さ、あるいはその背後に存在する夜の闇の不気味さを、〈光と闇〉という対照的なイメージで写し取っています。そして、ナチスドイツ占領期のフランスにて制作された『悪魔が夜来る』で見られるのは、悪魔としてのナチズムの恐怖に対峙する、フランス人の密かなレジスタンスであり、「夜の恐怖」への抵抗の一例を示していると言えるでしょう。

  ‘‘夜の悪魔‘‘といえば、忘れてはならないのはドラキュラの存在です。浅尾典彦「ドラキュラにまさる? ‘‘夜の悪魔‘‘」では、『吸血鬼ドラキュラ』シリーズの変遷を詳しくたどっていきますが、一九五〇年に日本でも劇場公開されたシリーズ三作目の『夜の悪魔』は、吸血鬼の能力を利用して恋人と遺産を手に入れようとするストーリーだというのです。「夜」は人間の隠れた欲情を掻き立てる、そんな時間なのかもしれません。

  さて、「夜」に関する骨太な論考も見逃せません。黒田誠「〈極限〉を目指す夢追い人――埴谷雄高『闇のなかの黒い馬』試論」は、終生〈存在〉への問いを深めていた埴谷雄高の夢をめぐる連作である『闇のなかの黒い馬』を論じていきますが、そこでは、深く夢の世界に潜り込み、「夜」に浸された作中人物が遥か「宇宙の果て」にまで到達するといった、内宇宙(極小)と外宇宙(極大)の一致を目指す、『死霊』等にまで続く埴谷文学の主題を捉えています。

  宮野由梨香「夜から生まれた『百億の昼と千億の夜』――光瀬龍と萩尾望都」は、光瀬龍の代表作におけるタイトルの成立事情を問い直しながら、漫画版の作者である萩尾望都と光瀬との関係を問う、非常にユニークな論考です。また本稿では、光瀬が作中のエピグラフに「R・M」というイニシャル表記を用いていたことに注目します。この「R・M」(リアル・ミー)こそ、ペンネームとしての光瀬龍の裏側にひそむ「夜の存在」なのであり、そんな光瀬の「夜」が、萩尾作品の根底にある「繊細な不安感」と共鳴したのではないか、と。初めて読んだときは目から鱗の議論だと思いましたが、『百億の昼と千億の夜』とは、光瀬龍自身の二面性を示す作品としても読むことができるのでしょう。

  藤元登四郎と岡和田晃の二人は、揃ってベルトラン『夜のガスパール』を扱っています。藤元氏の「『夜のガスパール』の魔法を精神分析する」のほうは、若き日の著者が、夜のパリのある古書店で『夜のガスパール』と出会った体験から語り起こし、理性と欲望を両立させる詩作という、ベルトランの芸術観を明らかにしています。他方で岡和田氏の「『夜のガスパール』でのディジョンと音楽」では、ベルトランが本作の舞台に地方の周縁(ディジョン)を選んでいた点にゴシック的な雰囲気、あるいは〈近代都市=パリ〉の影の側面というピクトレスク性を見出しており、そんな「夜」の雰囲気漂う詩集を楽曲化したモーリス・ラヴェルを取り上げます。ベンヤミンがボードレールに託して述べていたような「遊歩者」のイマージュを、ベルトランは先駆けて描いていたのです。

  本誌初登場の菅原慎矢は、「俳句の夜を蠢くもの――第六回芝不器男俳句新人賞の受賞作家たち」で、季語や定型を崩していく〈前衛俳句=夜の俳句〉の数編を紹介しながら、いっけん荒唐無稽なそれらの句が、しかし綿密な言葉の配置でもって形成されていることを、丁寧に解説してみせます。著者自身「解釈しようとすると陳腐化してしまう」と断っているものの、素人目には解らない‘‘俳句の読み方‘‘を指南してくれる貴重な論考です。

 最後に、阿澄森羅「寝惚けた人が見間違えた…のか?――金縛り・過眠症・夢遊病の科学と非科学」。ここでは睡眠にまつわるさまざまな奇怪な事例を挙げていくのですが、なんと金縛りに遭遇する方法(!)を教示するオチになっています。なるほど、「夜の恐怖」へと読者を呼び込む具体的なやり方を記しているという意味では、本特集の締めに相応しいのかもしれないと、そんなことを思いました。

 もちろん、特集評論以外でも、シャルル・ノディエ、ロラン・バルト、諸星大二郎……等々「夜」に関する著作のレビューが多数掲載されており(ちなみに私は、アーシュラ・K・ル=グウィン『夜の言葉』について書いています)、そのどれもが発見と刺激に満ちたテキストになっているはずです。

 その他、恒例の「THE FLEA MARKET」では、とりわけ釣崎清隆「ウクライナより愛をこめて」が必読です。「アクチュアルな戦場」に降り立った死体写真家による現場からの報告は、メディア報道には決して乗らない凄惨な光景を、ありありと物語っています。

 これを読んでいる貴方も、「マジカルな時間」が支配する「夜」の世界へと、勇気を出して一歩踏み入れてみてはいかがでしょうか。

前田龍之祐(まえだ・りゅうのすけ)

1997年生。「「ユートピアの敗北」をめぐってーー山野浩一「小説世界の小説」を読む」(「SFマガジン」2020年8月号)で商業誌デビュー。その他、「近代とSFーースペキュレイティヴ・フィクション序説」(「江古田文学」109号)など。論壇誌「表現者クライテリオン」や「TH(トーキングヘッズ叢書)」等に書評を寄稿。