「サイエンス/フィクションをめぐる座談会」大野典宏×伊野隆之×岡和田晃

サイエンス/フィクションをめぐる座談会

大野典宏×伊野隆之×岡和田晃

構成:岡和田晃

 本コラムは、「SF Prologue Wave」編集部員有志が、SFを書き、読む際に引っかかったあれこれを、時に激烈に、時にゆるやかに語り合う座談会です。

◯ハードSFは陳腐化する?

大野:「SF Prologue Wave」は「SF Prologue Wave宣言」にあるように、SFを「スペキュレイティヴ・フィクション=思弁小説」と広く捉えていますが、「思弁小説」はもともと、「サイエンス・フィクション=科学小説」としてのSFへのカウンターとして出てきた言葉でした。ただ、最近、思弁小説を「現実と地続きではない」文学ジャンルだと主張する人も出てきているようです。

岡和田:それは端的に間違いですね。J・G・バラードや山野浩一が提唱した「思弁小説」の観念世界は、まさしく現実と地続きであり、科学によって変容する風景としての「テクノロジカル・ランドスケープ」を凝集的・幻想的・直接的に表現したものですから(山野浩一「内宇宙からの抒情」、「海」1971年8月号、中央公論社)。

大野:そこから立ち返って、サイエンスとSFを語るうえで、「ハードSF」をどう読むかという問題に突き当たることがあります。下手な外挿(エクストラポレーション)は基本的に外しますが、原則に沿った話だったら動かないと。ハードSFが数年経ったら陳腐になるのは、その原則を無視しているからだという話もあります。

伊野:市川大賀さんが書評で、当方の作品(『樹環惑星ダイビング・オパリア』、徳間文庫、2010年)を「現代型理系ハードSFの情報量と、情報アウトプットラインを有している」と評してくださいましたが(https://shimirubon.jp/reviews/1674051)【←リンクをお願いします】「ハードSFが数年で陳腐化する」という発言はおかしいです。ひょっとして大野さんはハードSF自体の否定派なのですか?

大野:いえ、ハードSFに分類される作品そのものをすべて否定しているのではなく、外挿の方法を問題にしております。科学的原則にそった外挿であれば外れませんが、そうでなくいきなり持ち出してくるガジェットは陳腐化すると思うのです。これが物語に大きな意味を与えるのであればともかく、単なる思いつき程度だと陳腐化するのは事実です。たとえば、「シンギュラリティ」というバズワードを生み出したカーツワイルの「収穫加速の法則」は明らかに恣意的で正しいとは考えられません(https://bit.ly/3ULbUOQ)。

伊野:なるほど。「収穫加速の法則」の件は、まあ、ご指摘の通りかと思いますが、それを「ハードSF」でくくる必要は必ずしも無かろうと思います。科学的な外挿が出来ていないなら、そもそも「ハードSF」としてもダメなわけですし。言葉の使い方が雑だと、批判すべきでないものまで巻き込んでしまいます。

大野:科学は自然科学だけではなく、社会科学や人文科学も含みます。ブルガーコフの『犬の心臓』は自然科学的には話になりませんが、社会科学的には今でも新しい外挿としてなりたっていますし、チャペックの『R.U.R』やメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』も自然科学ではなく、社会科学的に、そして人文科学的にはまるで古びていませんから。まぁ、これらの作品がハードSFと言われることはないのですが、先まで生きるアイデアと、陳腐化するアイデアの違いはここにあるんだなぁと。

伊野:ハードSFをどう定義するかは神学論争になりがちですし、科学的進歩によってアイデアが陳腐化するのは、ある意味宿命的なものがあります。ただ、ハードSFの価値はガジェットの予見性によって決まるわけでも無いので、そのガジェットはダメだからと言って、作品自体の価値が決まるわけでもない。『R.U.R』はともかく、『フランケンシュタイン』は、もし当時ハードSFと言う概念があれば、十分にハードSFに分類され得るものだと思います。ルイージ・ガルヴァーニの生体電気の発表が1791年ですから。

大野:『フランケンシュタイン』が歴史的な作品になったのは、ハードSFであれ、ゴシックロマンであれ、ジャンル的な価値判断を乗り越えられるだけの文学作品としての強度によるものだと考えます。

伊野:そこは100%同意します。ですから「分類され得る」としてます。ただ、『フランケンシュタイン』がハードSFに分類されうる事が否定されない以上、「ハードSFは数年で陳腐化する」とは、必ずしも言えないのではないでしょうか。

大野:ですから、「すべてのハードSF」ではなく、「外挿の方法を間違えたハードSF」と限定しています。

伊野:それならば「ハードSFは数年で陳腐化する」ということではないので、同意できます。

◯「ハードSF」という定義の問題

岡和田:ハードSFについては、海外では昔から定義が出てきておりますが、日本では柴野拓美さんの定義が有名です(「ハードSF」、『SF入門』所収、早川書房、2001年。今は『柴野拓美SF評論集』、東京創元社、2014年で読めます)。柴野拓美はアメリカSFにおけるハードSFの定義を参照した後、石原藤夫らの定義をふまえつつ、「現代(もしくは近代)自然科学技術の成果およびそこから外挿される方法論を作品のテーマと一体不可分の形で根底に据えたSF」と仮定しています。SFコンベンションの放談であれば定義を拡散させたほうが参加のハードルは下がりますが、きちんと論じるのであれば、ある程度文脈をしっかり明示することが必要だと思いますね。私自身の試みとしては、円城塔さんの『シャッフル航法』の書評「ハードSFのポエジー」(「新潮」2015年11月号、『世界にあけられた弾痕と、黄昏の原郷』所収、アトリエサード、2017)で、柴野定義を援用しつつ検証しています。
 
大野:考証自体は厳密でありたいのですが、他方で「ただの一読者」として見ると、センス・オブ・ワンダーとか、ハードSFって定義がモヤッとしているから面白いんじゃないかと考える私がいます(笑)。神学論争をできているうちが自由で良いと考えている私です。社会科学のハードSFがあっても良いし、人文科学のハードSFがあっても良いくらいのレベルです。ハード/ソフトというサイエンスの分類もナンセンスですから、余計に。

岡和田:定義はしばしば排除にも使われるので、おっしゃりたいことはわかります。そもそも人文科学や社会科学は単線的な「進歩」の概念じたいにも批判的ですし。ただ、だからこそ、ある程度の科学史や文学史・文化史の意識は必要だと思います。私としては、『フランケンシュタイン』の時代にハードSFという概念があったら、という見立ては少し気になります。当時は自然科学と自然哲学が混淆していた時期で、容易には解きほぐせませんから、ハードSF概念を想定するのは難しいのではないでしょうか。『フランケンシュタイン』の出版は1818年ですが、ゲーテの『親和力』が1809年。『親和力』のタイトルは人と人とが惹かれ合う不思議な力のことを指すのですが、この発想の源の一つは、ガルヴァーニ電気から来ています。ですが『親和力』をハードSFとして読むのは無理があります(笑)。

伊野:そのあたりは、ハードSFという概念が発表当時にあったという仮定の上での話ですので、ハードSF成立の前提となる自然科学と自然哲学の分離が生じているというという仮定を内包しているということでご理解下さい(笑)。

大野:その点に関して述べるのなら、ニュートンですら、『プリンキピア』で行った議論は宗教や哲学とは切り離せなかったわけですからね。ギリシア時代には数学ですら哲学でしたし、ケプラーですら哲学的な信念から離れられずに惑星系の計算に時間がかかった……。未だにキリスト教系のカルト宗教ではダーウィンの理論を否定している……。自然科学と哲学、そして宗教との関係は、いろいろと難しいですね。その中で「純粋な科学とは?」と問うのって意味があるんだろうかとも考えてしまいますが。

伊野:柴野さんの定義は秀逸だと思いますが、一方で実際に「ハードSF」として捉えられているものとの間に乖離があるんじゃないでしょうか。つまり、ハードSFを論ずる際に、その自然科学が、ほぼ物理学に限られているという事実があります。生物学や、化学を作品の根底に据えた場合、その作品は、まま「ハードSF」とは呼ばれないと言う現実があります。当方の作品は、生物学や、化学を作品の根底に据えた作品であり、その意味では柴野定義によるハードSFに該当しますが、一般的にはハードSFと呼ばれないでしょう。

岡和田:『樹環惑星』がハードSFか否かという点に関しては、柴野さんの定義では自然科学についての考証がしっかりしていることからハードSFに分類されるでしょうが、伊野さんがおっしゃるように狭義の「ハードSF」においては生物学や化学はしばしば周縁化されますね。同時に、『樹環惑星』は社会科学的な関心も強く打ち出されております。例えば行政学など。こうした混交的なスタイルは狭義のハードSFというよりは、別のサブジャンルとして語られることが多いようです。ポリティカル・フィクションでもあることから、眉村卓の提唱した「インサイダーSF」とか。私も『樹環惑星』について語る際には、しばしば「インサイダーSF」として論じていました。

伊野:それはそれでアリだと思っています。要するに当方が言いたかったのは、「伊野隆之」という作家を作り上げてきた多くの作品の中にはハードSFと呼ばれる作品が多数含まれており、私にはそうした作品群へのリスペクトがある、ということなんです。岡和田さんとやっている『エクリプス・フェイズ」のルールブックには多数の海外作品があって、それらの中は「ハードSF」として認識されている作品が多数あります。それが数年で陳腐化すると言われたらたまらないでしょう。

岡和田:『エクリプス・フェイズ』(新紀元社、増刷改訂版2022年)はルールブックの翻訳やそれを使った設定考証にも参加し、私自身シナリオや小説も書いてきましたが、確かに参考文献に多数のハードSFが言及されています。ただ、それらを換骨奪胎して設定にまで昇華させる際に、設定としての耐用年数が短かくなりそうな箇所は巧妙に迂回されていますね。そのうえで、ゲームマスターやプレイヤーが共有できそうなところに、的を絞って設定化していて、なかなか巧妙です。

◯バックボーンが異なれば

大野:ところで最近、ある有名なSF小説のギミックとして使われていたことから、「ブラックホールが直線の運動量を持つのか?」ということが頭を離れなくなりました。これが全くわかりません。力を受けない限り運動は起こらないのですが、ブラックホール同士ならお互いに重力によって引き合います。これが何らかの質量が衝突してもビリアードのようなニュートン力学レベルの作用が起こるのか? ブラックホールに関する重力相互作用は謎の部分が多くて皆目見当が付きません。

伊野:多分、宇宙は平らではないので、「直線で動く」ものはない(近似的には直線で近似できる)と思いますが……。その上で、衝突の方は、ビリアードの球は接触した時点で運動エネルギーが瞬時にひずみに変換され、そのひずみが解放される事で運動エネルギーの球AからBへの移動が起こるという現象なので、この球をブラックホールに置き換えるとそもそも接触が起きた時点で二つのブラックホールの間で強い引力が働くため……、と言う事になりそう。ただ、接触さえ起きなければ、相互に運動量を交換し行き交う感じになるので、超マクロ的にはビリアードのように見えるものの、接触は起きていないと言う事になるのかと想像します。

大野:運動量保存の法則と直線と書いたのは、ニュートン力学的な立場で考える場合、熱エネルギーとしてのエネルギー損失を考えると違う答えが出てしまうからです。アインシュタインによって質量はエネルギーであると定義されてしまっていますし。伊野さんのおっしゃるとおり、宇宙論では宇宙が平らであるという考え方がナンセンスなので、「直線で動く」ものはないのですが、近似的には直線で近似できるものの計算には運動量を使うというわけです。この場合、相手がブラックホールであろうとも、光速よりも十分に遅い場合では相対性理論的な考えでは無く、ニュートン力学的に直線とみなさないと話が進みません。ただ、もうちょっと精密にシュヴァルツシルト半径よりも近くなったときに何が起きるのか? 仮に量子重力論の立場で考えた場合には……まるで想像ができません……。
 その作品で採られた高質量の物体をブラックホールにぶつけることで進行方向をずらすという発想そのものがニュートン力学なので……。根本からアイデアがおかしいということになります。孤立したブラックホール自体は存在しますが、それがなぜだかスカスカの宇宙において太陽系を目指して飛んでくると考えた場合、奇跡的な確率ということになるので、それが謎です。また、それをどう観測し、計算するのか、仮にX線やγ線で補足できるのなら、もっと早くからわかっていたはずです。そのへんの論理がまったく想像できません。

伊野:大野さんの紹介で最近読んだ別の小説で、メタンを呼吸する話が出てきました。私はそちらの方が気になりました。念のためスーパー簡単に説明すると、呼吸は生物にとってエネルギー生産の手段で、管理された燃焼によってエネルギーを取り出すものです。この燃焼反応は、燃やされるものが、酸素などの酸化剤によって、燃やしようのないものに変化する過程で、内部エネルギーの差分を取り出す反応です。つまり、メタンを呼吸するなら、メタンと反応してエネルギーが得られるものが体内にないといけない。それって、何? ……あ、酸素ですね(笑)。酸素以外であれば、それぞれ問題はあるんですが、塩素やフッ素などの気体の酸化剤(ものを燃やすには酸化剤が必要です)にしとけば良かった、って話でした。まあ、作家が小説を書く際には、ストーリー上の要請で、ある種の異質性を強調するために、こんなこと本当にあり得るかなぁ、と思いつつ書いてしまう事があるので、まあ、理解は出来るんですが。

大野:なるほど。その作品では私もその点が気になりました。ただ、もっと大きな問題が先に出ていたので、そちらのほうが気になりました(https://bit.ly/3dRWJms)。つまるところ、専門的なバックボーンが違えば、気になる部分も異なってくるわけですね。作品を書き、読むときには、そのあたりを考慮しておくことが大事ということですね。

伊野:その通りです。ですから、何を大きな問題として捉えるかもバックボーンによって異なってくると思います。ところで先ほど出たブラックホールの話にしてもそうなんですが、ブラックホールそのものを理解しようとすると、どうしても量子力学の領域に入ってしまうんですが、星系内での質量点の運動と考えるとニュートン力学で十分なので、考慮する対象によって科学的なアプローチが変わるんだと思います。一方で、既に分かっていると思っている光合成のような過程を量子論的に研究するようなアプローチもあるようなので、注意が必要なところだと思いますが。

◯ハードSF十則を読む

岡和田:そういえば、もっとも早い時期のハードSFの定義として、柴野さんの「ハードSF十則」が「宇宙塵」39号(1960年、科学創作クラブ)に掲載されているのを思い出しました。先述した柴野さんの「ハードSF」コラムでも再掲されています。

一、その作品は多少とも架空の設定を基礎に据えていなければならない。
二、その設定は現実世界とまったく相容れないものであってはならない。
三、その設定の上に立つ物語の展開に内部的な矛盾があってはならない。
四、作品の内部に飛躍の次元の異なる複数の設定が混在してはならない。
五、基礎となる設定とは無関係な小説作法上の意図があってはならない。
六、設定自体の価値とは別途に文芸作品として価値がなければならない。
七、難解な科学技術の理論や用語で粉飾しあるいは韜晦してはならない。
八、日常的な科学知識に照らして明白な誤りが含まれていてはならない。
九、夢ないしはそれと類似の安易な解決で物語を終わらせてはならない。
十、作者は自分の作品を読む相手が人間であることを忘れてはならない。
付則 才能に自信のある作者は右の十則を墨守しようとしてはならない。

柴野さんはハードSFを「もっともSFらしいSF」だと捉えており、私としてはそうした柴野さんの意見については必ずしも賛同できないのですが、この「十則」は面白い。ミステリにおけるノックスの十戒のパロディなんでしょうが、付則では「才能に自信のある者は右の十則を墨守しようとしてはならない」とあるんです。これは公理系が自己矛盾を孕むというゲーデル的なものへの含意かもしれないと深読みしたくなります(笑)。
 何にしても、根本的には作品を書き、読むための物差しを常に複数用意しつつ、評価軸自体を不断に見直し更新させていく、という姿勢が必要不可欠でしょう。SFとは何か、あるいはSFに何ができるかを考えていくうえでは、サイエンスに対する書き手や読み手の姿勢も問われてくるというわけですね。

伊野:まさにその通りだと思います。この、柴野さんの「ハードSF十則」はよく読むと面白くて、最初の一から三は読者にも判断できる基準だと思いますが、四から六は作者の主観が相当に入ってくる。例えばつい最近僕が「SF PrologueWave」に書いた「Grandma’s Heartbeat」では火星への移住と分離不安の話が一緒に出てくるんですが、火星への移住に現実味を感じていない人からすれば、ある意味現実べったりな分離不安の話が同一作品の中で語られる事に飛躍を感じ、柴野定義の四に引っかかってくる。五の小説作法上の意図や、六の文芸作品としての価値なんかは、まさに読者と作者の判断がすれ違ってしまう。七の科学技術理論や用語は粉飾・韜晦か作品の演出かの判定が微妙ですし、九は夢オチはともかく、何が安易かは難しい。一番微妙なのが八で、日常的な科学知識って、人によって相当違いがあるわけで……。十は、はぁ、って感じですね。付則はブービートラップだな、と。「才能がある」ではなくて「才能に自信がある」ですから(笑)。

岡和田:この十則は1960年の段階で書かれており、これは「SFマガジン」創刊とほぼ同時期。まさに戦後日本SFの草創期にあたるのですが、とりわけ六や十については、「SFとは何か」を考えるうえで、まず科学論文との差別化をしようとしたのではないかと思います。もちろんSFにはスタニスワフ・レムやホルヘ・ルイス・ボルヘスの諸作など架空論文スタイルの傑作もあるわけなんですが、書くにはかなりの技術が必要です。そこで大枠としては、まずは小説としての結構を整えろ、独りよがりになるな、論文で書いたほうがいいと思うことは論文で書け、ということだろうと思います。このあたりはベン・ボーヴァの『SF作法覚え書』(酒井昭伸訳、東京創元社、1985年)でも似たようなことが言われていたと記憶します。

大野:いずれにしても、レムの『捜査』で統計学者が出てくる、『枯草熱』が確率を扱っている。これらは間違いようがないわけです。それこそが「作品の強度」を保証しているのは間違いありませんね。

伊野:ここまで話をしてくると、大野さんのおっしゃるとおり、科学への向き合い方が作品の強度に密接に関係しているなぁ、と言う、ある意味当たり前の感想になるんですが、一方で科学の領域が拡大し、精緻化しているという現実もあるわけです。読者の科学への理解の水準も多様ですし、作家は全ての科学領域での専門家にはなれないので、その限界をどう乗り越えていくのか、いかにも大変だと思うんですが、それでもチャレンジしていかないといけないと思います。

岡和田:そのチャレンジこそが大事で、批評性の軽視、SFをめぐる言説の地盤沈下を脱するためには求められているものだと思います。お話をありがとうございました。