「聞いてません」片理誠

 首相官邸の閣議室ではその時、この国の美しい伝統をいかにして守り、後世へ継承してゆくかについて、閣僚たちが真剣に話し合っていた。
「つまるところ国家とは歴史なのであり、歴史によって生み出されるものこそが伝統である。“あるべき国の姿”というのもまた、この伝統の中の一つの形態にすぎず、それ自体が一つの様式美なのだ。
 しかるに昨今の巷に流れる言説ときたら、我が国の由緒正しい歴史認識を歪め、あまつさえ祖先より連綿と受け継いできた誇るべき私たちの伝統の正当性を、疑問視するがごときものばかり。これは由々しき大問題である!」と首相。力一杯、閣議室の中央に設置された直径五メートルもある円卓を拳で叩く。室内に大きな音が響き渡った。
 彼とともにテーブルを囲む十七人の男女らも全員、沈痛な面持ちだ。
「マスコミどものせいでしょう」と大臣の中の誰かが吐き捨てた。
「連中は我々を嫌っておりますからな。内閣をけなせば、アクセスは伸びるし視聴率は上がる。太鼓と政治家は叩くに限る、とでも思っとるんでしょうよ」
「下々の者どもの言うことなど、わたくしたちが一々真に受けることもないかと存じますが」
「とは言え、いずれまた選挙があります。近頃は野党どもも“悪しき慣習は即刻、改めるべし”と勢いづいておりますので、このまま放置しておくのは少々危険かと」
「このところ、こちらの側はスキャンダルが続きましたからねぇ」
 首相が立ち上がり、身を乗り出した。
「他のことならいざ知らず、この一線だけは断固譲るわけにはいかない。野党どものあの下らないキャンペーンに我々は何としてでも対抗しなくては!
 そこで私は皆さんに、国民たちの心に我々の美しくも正しい歴史認識を届けるためにはどうするのが最も効果的かという点について、お知恵を貸して頂きたいと思うのです。
 学校教育の場はもちろんですが、職場や家庭など、この国のあらゆる場所、あらゆるシーンにおいて、市民たちの歴史観をより美化してゆくためにはどうしたら良いか、ぜひ忌憚のないところをお聞かせ頂き――」
 だがこの時、不意に異変が起きた。
 閣議室の壁の一部に突然、漆黒の染みのようなものが現れたのだ。
 最初は直径五センチほどの小さな円だったが、見る間に大きくなり、やがて縦二メートル、横幅一・五メートルほどの楕円形になった。染みの中はさながら嵐のようで、黒やどす黒い紫がマーブル模様となって目まぐるしく渦を巻いている。そして激しく踊り狂う青白い稲妻と、この世の終わりのような暴風がそこから室内に一気に雪崩れ込んできた。
 あまりに唐突だったため、居並んだ大臣たちには為す術もない。全員、悲鳴を上げる間もなく、反対側の壁に吹き飛ばされ、叩きつけられた。雷に撃たれて痙攣している者もいる。
 誰か、テロだ、助けて、と彼らは口々に叫んだが、その声は荒れ狂う雷鳴や風音にかき消されて、本人の耳にさえ届かない。
 だがこれらはほんの些細な前兆でしかなかった。
 誰かが、震える指で壁の染みを指さす。
 染みは、どうやら何らかの穴であるらしかった。横穴だ。トンネル、と言うべきか。
 なぜそのようなことが分かるかと言うと、染みの奥から何者かがこちらに向かって歩いてくるのが見えるからだ。黒と紫とが狂ったように混じり合う嵐の中を、誰かがえっちらおっちらとやってくる。ゆらゆらと揺れる影のようだが、そのシルエットは紛れもなく人間の形をしていた。
 それも一人ではない。ぞろぞろとやってくる。
 十八人の政治家たちはまさしくパニックに陥った。あまりに不条理な眼前の光景に言葉もない。顔を両手で覆ったり、髪を掻きむしったりしている。泣き叫ぶ者、タコ踊りのような奇妙なダンスを始める者、両手をこすり合わせながら「神様助けてアーメン」と祈る者、ただひたすら右顧左眄(うこさべん)を繰り返す者、ウケケケと笑う者。
 だが染みの中から最初の一人が出てきた時、彼らは皆、異口同音に「ギャーーーッ!」と声の限りに叫んでいた。
 全員で反対側の壁にへばりつく。まるで壁画だ。浜辺に打ち上げられた魚のように口をパクパクさせている。
 こ、ここ、殺されるッ、と誰かが叫んだ。
 確かにゆらゆらと炎のように揺らぐその黒いシルエットは、どことなく幽霊か死に神を思わせた。
 次々に出てくる。全部で十八体。こちらと同数だ。
 全員が出終わると壁の染みは瞬時に小さくなった。直径五センチ。最初の姿に戻る。まだ時折ちろちろとスパークを吐き出すが、最大だった時と比べれば可愛いものだ。
 そして不意に、揺らめく十八体の影が全て、一瞬で剥がれるようにして消え、その中から人が現れた。
「んんッ!」と政治家たちが目を剥く。
 どんな恐ろしい化け物が現れるのかと思えば、出てきたのはくたびれたスーツを着た、地味な中年の男女だった。よどんだ瞳、ぱっさぱさに乾燥した肌と髪、力なく丸められた背中。冴えない風体。疲れ切って一切の活力を失った、いかにも凡庸そうなおじさんとおばさん。
 だが驚くべき点は他にあった。
 初めて見るはずの顔なのに、どこかに見覚えがあるのだ。他人とは思えない何かが、その突然の侵入者たちの姿にはあった。
 大臣たちがざわめき始める。
「お、おい、あそこの男、総理の若い頃に少し似てないか?」「それを言ったらあそこのおばさんなんか、幹事長にそっくりだ」「君に似てる奴もいるぞ」「あなたにそっくりな人も」ひそひそ……。
 侵入者たちがひっくり返った椅子を戻し、閣議室の円卓の周囲に座り始める。
「あ! おい!」首相が鋭く叫んだ。一歩前に出て、室内の無礼者どもを指さす。
「そ、それは大臣の椅子だ! 君たちのような訳の分からん輩が座ってもいい席ではないぞ!」
 つい数秒前までは壁に張り付いて人目もはばからずに泣き叫んでいた彼だったが、早くも目の前の状況を“どうやらさほど恐れる必要はなさそうだ”と判断していた。いやそれより何より、今は燃えるような激しい怒りがその全身を突き動かしていた。その椅子に座れるようになるまで、我々がどれほど苦労してきたと思っているんだ!
 だが指さされた方は、ただ薄笑いを浮かべただけ。総理の席に座っている男だ。
 なら問題はないでしょう、と彼。口の端を歪める。
「我々もまた、この国の閣僚なのですから。まぁもっとも、百年後の、ですがね」
「な、何だって!」
 室内がざわつく。
 大臣の何人かが思い出したように出口に向かって走ったが、彼らがドアを開け放つことはなかった。駄目だ、びくともしない、という絶望的な声。
「無駄ですよ」と百年後の総理が告げた。「誰もここからは出られないし、誰もここには入れない。ああそれから、電話もね」
 スマートフォンを必死に操作している女性を指さす。狂ったように画面を指でつついていた彼女は、やがてそれを力任せに床に叩きつけた。
「この空間はロックさせてもらいました。我々の許可なくして出入りすることはできません、人も、情報もね」
 そう言うと、両手で頬杖をつく。愉快そうに目を細めた。
 ひゃ、百年後の、内閣?
 現代の首相は再び目の前のことが信じられなくなる。
 つまりここへは時間跳躍してきたということか。だとするとあの壁の染みは、タイムトンネル! でもいったい、何のために?
 呆然と立ちつくし、首相の椅子に座る男を見つめる。相手は笑っていた。
「フフ、この状況について、皆さんももう大体の予想はついているんじゃないですか? ところで挨拶がまだでしたね。初めまして、私の曾お爺ちゃん」
「ひ、ひひ、曾?」
「そうですよ。つまり、あなたから見れば私は曾孫ということになりますな。私だけではない。ここにいる我々のほとんどは、あなた方の子孫だ」
 円卓の周囲に座った男女が一斉に肯いた。
 な、ななな、何だってぇぇぇッ、という絶叫が室内にこだまする。
「我々が遠い未来の内閣なのだということ、分かっていただけますよねぇ? ククク! 血のつながり。これほど確かで、直感的に分かりやすい証拠も他にないでしょうから。実際のところ、我々はよく似ているじゃないですか。ほら、よく見てください」
 ああ、と今現在の首相。腰が砕けそうな衝撃にどうにか耐え、自分の曾孫の方へよろよろと歩み寄る。
「き、君たちが私たちの百年後の子孫であり、ひゃ、百年後の内閣なんだね? ああ、何ということだ……」
 そのとおりだ、と彼の曾孫が残忍そうに微笑んだ。
「ここまで話せば我々の目的の察しもつくだろう。そうだとも。我々は貴様らを糾弾するために、ここへ来たのだ!
 この時代のお前らが滅茶苦茶な政治をしてくれたおかげで、我々の時代の我が国はもはや破綻寸前。国家としての体をほとんど成していない。
 経済はどん底で、今や世界で最も貧しい国の中の一つだ。科学技術は衰退の一途。文化面での堕落は目を覆わんばかり。国土もほとんどを失い、国民の減少はますます進んで、このままでは本当に消滅してしまう!
 この国を少しでも良くしようと、我々はあらゆる力を振り絞って最善を尽くした。だが、貴様らの残した負の遺産はあまりに巨大で、我々の代ではどうすることもできなかったのだ。
 いったいお前らはいかなる目算があって、あんな出鱈目な政治を続け――私の話を聞いているのかッ!」
 怒りにまかせてテーブルを両手で叩き、未来の首相が立ち上がる。悪鬼のような形相だ。
 だが現代に生きる十八人の政治家たちは、もはや彼の話を聞くどころではなかった。
 皆、目に大粒の涙を浮かべ、互いに肩を叩き合ったり、固い握手を交わしたり、ハグし合ったり、ハイタッチをしたりしている。中には床に座り込んで号泣している者もいた。
 良かった、本当に良かった、と彼らは口々に叫んだ。
「我々の、古式ゆかしい世襲政治の伝統は、百年後も受け継がれているんだ!」