中・短編, 小説 「湯屋」澤井繁男 2022年7月11日 父が肺癌で母の手厚い看病にもかかわらず他界して半年ほど経つと、母は郊外に土地を捜し始めた。生前にも何度か夫婦で土地を見に出かけていて、ここがやがてうちの所有地になるという空き地を教えてくれもした。私は札幌市の西部まで街中の家から自転車で向かって、近い将来建つことになるだろう新居のことをあれこれと空想した。友だちも連れていって、ここに引っ越すつもりだと誇らしげに吹聴したこともある。しかしその山鼻地域の土地は結局わが家のものにはならなかった。父の遺産を相続した母にはおそらく土地を即金で購入できるくらいの現金が入ったのだろう。母は今度こそきちんと土地をみつけ家を建てて転居すると言った。母は不動産業者をブローカーと呼んでいた。私はなぜだかブラックを連想して、どことなく悪辣な人相の男たちを思い浮かべた。勝ち気だがひとのよい母がそういう業者に騙されなければよいがと思った。それを思い余って母に忠告めかして口に出してみると、大丈夫よ、ちゃんと森口先生がついて下さっているから、とすました顔で応えた。中学生になってもう占いの信憑性に疑問を抱いてもいいはずの私も、あっそうかそうだったねと変に納得したように言ってそれ以上何も追求しなかった。だがあとでよく考えてみると、だからどうだっていうんだという気が起こって、得心した自分がおかしかった。しかし森口先生の名はそれくらいの威力を持っていた。森口先生は占いをするひとだ。本職は仕立て屋さんなのだが、方位や家相や姓名判断をみるのを副業としていた。針を持って縫い物をしながらこちらの話を聞いて、それはねえといつも前置きして説いてゆくのだった。五十過ぎだということだが、私にはもっと老けてみえた。額が禿げ上がりぶ厚いレンズの眼鏡を小鼻の上にちょこっと載せて、下から覗き込むようにこちらをみた。それは童話の挿し絵に描かれている魔法使いの仕草によく似ており、だから今でも私は森口先生が黒っぽい服を着ていたという一方的な記憶しかない。 母はいろいろなひとに占いをしてもらっていたが、森口先生が一番よく当たると言った。あるとき材木商を営むという中年の四角い顔の男が客としてやってきた。母は始めはそのひとをさん、と呼んでいたが、話の中心がいよいよ占いに移ると急に先生と言い出して居住まいを正した。母は癌にかかって死去した父のことをみてもらった。父の名前を書いて差し出した。それをその男は文字の画数を計算したり、最初の字と最後の字の字画をたしたりした。そして父のからだが虚弱なことを、各部の障害を例に引きながらとつとつと語った。いちいち頷かざるをえないほどよく当たっていた。母は黙り込み、私はすっかり感心した。私は自分の名もみてほしいと申し出て、父の名の横にさっさと自分の名を書いた。母はこれ、と制したが、男はにこにこして紙を手に取った。計算をせず私の名前に目を凝らした。私は待つのももどかしく、何でも好きなものになれますか、たとえばバスの運転手にでも、と問いかけた。すると男はおもむろに、なれますよバスの運転手にと低い声で応えた。この名前は自分の思い通りのものになれる強い運勢です。よかったあ。私は素っ頓狂な声を上げた。母と男が笑った。もうおまえは部屋にいっていなさいと母が言い、私はその場を離れた。この男はこれっきり家には来なかった。母に訊くと、鑑定料が高すぎるし言っている内容がおおざっぱすぎるからもうやめにしたと話した。森口先生に一回どれくらいのお礼を支払っているかはわからなかった。それよりも母が礼金をわたしているところをみたことがなかった。副業というのは私の思い込みで、趣味でやっているのかもしれなかった。先生によると、七月に入った頃に西線区のべつの不動産屋を訪ねてみるのがよいということで、そのときは私も同行することになった。業者にはあらかじめ電話をしてあったらしく、応接室に通されるとさっそく市電の、山鼻や西線区沿線の地図がテーブルに展げられた。母は藻石山に近いこの二つの地域に住むことを一種の憧れのように思っていた。たぶん札幌市のなかでは中流以上の人間が暮らす地域という定評を信じていたからに違いない。またこの地区には母が私を進学させたいと思っている公立高校があって、その道内随一の学校があるおかげで教育熱が高かった。母にはとにかく私を大学まであげるという強い望みがあった。いまのところ、この二つの土地がよいと思うのですが。実際にご覧になってみませんか。 口髭をたくわえた三十過ぎくらいの男が丁寧な口調で言った。二つは山鼻と西線地区沿線に一つずつあった。母はみてみますと積極的に応えた。そこで私たちは業者の乗用車に乗せてもらって出発した。その車も並の自動車ではなくホワイトボディの大型車で、私はどこかの会社の重役になった気がした。最初に向かったのは遠方の山鼻地区の土地だったが、私は目的地らしき所に近づくにつれてまさかと勘繰りだした。母の横顔を盗み見ると、わざと素知らぬ表情を繕っているふうだった。果たして車は、購入を予定していたが結局買えなかった例の土地の前で止まった。私と母は何食わぬ顔をして車を降りた。六十坪あります。草ぼうぼうですが、もちろん整地したら立派なものです。私は何度も目にした長方形の土地をいまさらのようにみわたした。母も同じ素振りで、どうして売れないんですか。こんなにいい場所にあって、と探るように質問をした。そうお思いですか。私どもも不思議なんですが、土地を囲んでいるアパートが嫌だと言ったお客様もいらっしゃいました。業者の言葉はもっともだと思った。この土地は三方を木造の古アパートに囲まれていて窓には洗濯物がかけられていた。家を建てたとしても、二階三階の窓から家のなかや庭を覗かれる恐れがあった。これには私も不快な感じを抱いて母に文句を言った覚えがあった。わたしも同じ意見ということになるかしら。母は応えて、もういいというふうに車にもどりかけた。業者は目敏く察知して、では西線地区沿線へ回りましょう、とドアを開けてくれた。それから車は十五分ほど走って西線地区の土地に着いた。藻石山が俄然目の前に迫ってきた。市電の通りから、一本中に入った閑静な所にある土地で、間口が十メートルくらい、奥行きが二十メートルはあった。草はそれほど生えておらず、私らは業者に促されて足を踏み入れた。前に建てられていた家の土台が土の中に埋まっていて、地面が灰色っぽい感じがした。歩いていけるのは残骸がある所までで、奥は草が生えていた。奥行きはあの家の手前までですが、この土地はちょっと変わっていまして、奥の右手に鳥の嘴(くちばし)みたいに突き出た部分がついているんです。草のため行けませんが、長方形プラスアルファなんです。私と母は瓦礫の上にたたずんで奥を望み、周囲も眺めた。今度はアパートではなく、隣は普通の民家だ。いいわね。母が言った。私もうんと頷いた。あのう。ここの図面貸して下さいますか。母が振り返って業者に問うと、業者はもちろんですと頷いた。母は図面を森口先生にみせて意見を聞くつもりなのだ。母が図面を携えて森口先生の家に向かうときにはもちろん私もついていった。それ以来母から相談を受けることが多くなった。 遺産を土地購入費や新築費用に当てたあと残りで何かしたいと、とある種の分野の仕事の相談もあった。大金を得た母の胸は事業欲で膨らんでいるようで私相手に夢を語った。母の話を私なりにまとめてみると、どうも接客業をしたい気持が強いと見て取れた。母の言葉では水商売となるのだが、私にはどこかいかがわしさがつきまとった。夜の女というテレビドラマや流行歌から覚えた印象が勝(まさ)った。日銭(ひぜに)が入り不景気でも傾かないので水商売ほどいい商売はないというのが母の持論で、姓名判断からみても客相手の仕事がふさわしいと信じ込んでいた。私にしてみれば回答に困ることが多く、明確な応えは控えてただ聞き流していた。しかし一度、バーやキャバレーや呑み屋は絶対嫌だと強調した。母は目を丸くしていた。土地購入についてはべつだ。買えば当然家を建て、そこに住むことになるのだから、黙っているわけにはいなかった。私は話に割り込んだ。幸い母は私を無視することはなかった。森口先生は図面をみると、おもしろい形の土地だなと一言口走ったあと首を傾げた。そして、この土地の前の持ち主、またその前の持ち主も女の方だな、おそらく……夏木さんが今度所有すれば、三代つづけて女性の持ち物になる。というより、この土地は女性の手に落ち着く運命にある、と断言するように言って、嘴の部分を指した。ここね。この出張りの部分ね。我の強い人を惹きつけるんだなあ。女性だと、その我の強さゆえに、夫の力を凌いでしまう。へたすると未亡人になってしまう。それがいま夏木さんを呼び寄せている。ほとんど運命的なものだな、これは。運命的? 先生と一緒に図面に見入っていた母が顔を上げて呟いた。そうです。前とその前の持ち主を調べてみて下さい。きっと女の方ですよ。何代前かわかりませんが、ある女性が嘴の部分を購入したと思います。そのお二人ともご亭主に先立たれたんでしょうか。それはわかりませんが、女ひとりで気丈な方だったと思います。女系の土地ですね。かもしれません。これはえらい土地に巡り合ったものだと母は溜息をついている。気味悪いな、どことなく。ふいに口からもれた。母は私の顔を横目でみた。何も言わなかった。先生、わたし、買う運命にあるのでしょうか。恐る恐る母が訊いている。奥さん、買うか買わないかはご自分が決めることです。運命的といま言いました。実際、そう思います。しかし、運命をただ受け入れて宿命にしてしまっては、あまりにも消極的で、生きる立場が弱くなります。運を切り拓いていくためには運命を利用すべきです。先代、先々代の所有者がどういう経緯(いきさつ)で土地を手離したかはわかりませんが、奥さんは夏木の家がこの土地を永久に所有すると、あえて挑む気持を持つことが大切で、そうすれば積極的に、強く生きる場を有するようになるはずです。買う運命じゃなくて、買おうという定めだとして受け取るべきですね。 母は土地の購入を決めたようで、住民票や謄本類の用意を始めた。私は適当な日を選んで土地までひとりで市電に乗って出かけた。街中の停留所からは三十分くらいかかってようやっと着いた。土地のなかに入り込んで奥をめざした。草藪は乾いた北国の夏風になびいていた。みずみずしさにあふれ草いきれが胸を塞いだ。奥にたどり着くと、右寄りに方向を取って、嘴の方を望み見た。板塀が長方形の空間を囲んでいる。そこにはなぜか丈高い草は生えていず、芝地のようになっていた。あそこが例の女系の土地の素か。土地としては何の変哲もない所だが、張り出しているというそのこと自体がやはり不可思議に思えた。行ってみよう。そのとき脹ら脛(ふくらはぎ)のあたりを風がさすり上げ、そのまま背中へと冷気が忍んできた。私はとっさに後ろを振り返った。誰もいない。背後霊に取り憑かれたようなざわざわした気分に陥った私は嘴の土地に進むことを忘れて、大急ぎで引き返して、自転車に跨った。 一級建築士である山崎とどういうつてで知り合ったのかはわからない。眼鏡をかけて丸顔の小柄な彼が訪ねてくると私までわくわくした。二人の話し合いに必ず私も加わって、設計には自分の意見も反映させてもらおうと細心の注意で耳を傾けた。子供の頃積み木で家を作るのが大好きで、種々のブロックを買ってもらって家の模型をこしらえていた私は、これから建てられていく家の内部構造にとても関心があった。頭のなかでキッチンや居間や子供部屋などの組み合わせを思い描いた。間取りの設計図を好き勝手に引いてもみた。机の上は消しゴムの屑でいっぱいになった。山崎は母から予算や間数(まかず)などのおおかたのことを聞き出すと、たたき台として図面を描いてきてくれた。私も目を輝かせて覗き込んだ。 母は一目みるなり、玄関は北向きになってますから東向きに変えて下さい。西に窓があるとお金が出ていきますから、西側に窓はつけないで下さい。トイレの位置が家の中央にあって、その向かい側にあるお風呂も真中ですね。不浄なものは端の方にして下さい、と一気にまくし立てた。山崎は呆然と母の顔、いや口の動きをみつめていた。私はまた始まったと下を向いたり宙を仰いだりした。奥さんは家相にお詳しいんですか。ほんの少しだけ。耳学問ですの。いまのご指摘だと、この設計図は失格ですね。まいったなあ。がっかりするというより山崎はおかしそうで、苦笑いをしていた。はじめからおっしゃって下さればよかったのにとつけたした。私は穴があったら入りたいという心境で、すみませんと心のなかで山崎に謝った。 山崎は何度も足を運んできた。母の注文は一定していない気がした。というよりも玄関の位置を決めると勝手口が定まらず、居間をここにと思うとキッチンとの関係がうまくいかなかった。母の言う通りに引かれた図面は歪(いびつ)な形をしていた。奥さんこんなふうになってしまいますよとなかば諦め顔で山崎は言った。それでも母は廂(ひさし)を張り出すようにして屋根をふけば正方形に近い格好になると突っ撥(つっぱ)ねた。これは使いづらいよ。どう考えたって。 母が子供はだまってなさい、と叱った。私が言った。いや、ぼくも住む人間のひとりだから……。子供部屋を二階にしてよ。二階の仏間を下にしてほしいな。仏様は大切なのでね。だからこそ下にして、そこでお母さんが寝ればいいんだ。ぼくが二階を守ってあげるからさ。手前勝手なこと言わないの。奥さん、仏間は下の方がいいと思いますよ。山崎が助け舟を出してくれた。家相も大切かもしれませんが、東南方向をこうして半分以上も塞いでしまうのは考えものですよ。第一陽の光が入ってきません。家のなかも暗く湿っぽくなってしまいます。北海道の家はとりわけ陽差が大切です。素人の私が申すのもあれなんですが、家相というのは自然環境を完全に利用して建てるのが最適だと思うんです。そうお考えなら採光や換気や通風をよくすると、しぜんと家相もよい家になるのではないでしょうか。自然の恵みを活かすべきだと考えます。住む人の健康も確保できます。正論だと思った。私もじめじめした感じの家は嫌だと主張した。母はどうしてそうなってしまったのかしらねえとこぼしながらも、なんとか修正して、その案を押し通そうとした。山崎は困惑して、私も嫌悪さえ感じた。しかしいつまでも議論を重ねているわけにもいかなかった。雪の降る前に家が完成するためにはもう決定案を作る必要があった。この時期をのがすと、積雪のため冬中工事ができず、建築は来春に延びることになる。焦ることはなかったが、母にも私にも年内に引っ越すというはらがあった。 街中の家を引き払って郊外に転居するというのは家族三人で散歩をしている最中に出た父の案だった。一年前の春の日曜日に私たちは小学校の解体工事がどれくらい進んでいるかを見がてら、夕暮れの街中(まちなか)を散策した。小学校は取り壊されてそのあとに市役所が建つことになっていた。札幌冬季オリンピックの開催の十年くらい前、都市のドーナツ化のせいで、中心部の人口が激減し、私の卒(で)た小学校は隣町の小学校と統合合併を強いられ、校舎が移転することになった。その小学校は父も卒業した学校で、私よりもむしろ父の方の落胆が大きいようだった。ここに十二階建ての市役所が出来ると、時計台は影のなかにすっぽり入ってしまうな。父は道路をはさんで北隣の時計台を眺めて言った。鐘の音が聞こえなくなるかもしれないね。ああ。だから市では、市役所の屋上に大きな拡声器を設置して、音を流すらしいけど、もうそうなると観光事業のひとつだ。父は天幕が張り巡らされた解体中の小学校を恨めし気に見遣りながら、時計台にも目を移して、街が発展していくのはいいが、見慣れていたもの、風景のひとつ、生活の一部となっているのが失われていくと、心のなかにぽっかり空洞が出来る感じだ、と続けて、道路拡張のために切り倒された樹木、営業不振でつぶれてなくなった下駄屋、ビルが建ったために眺望不可能になった西の方の山並などを挙げた。いつのまにか店をたたんだ下駄屋の店構えや独特の風情は私のなかにもしっかりと根を下ろしていた。あの店の前を通るとなぜか木の香りとともにここちよい郷愁にかられ、ほっとしたものだ。店の奥に坐っているおばさんがこちらに語りかけてくるような気もした。父はこのままこの街中にいても精神衛生上よくないから、静かな郊外に引っ越そうと提案した。母は先立つものが、とすぐに返してきた。父は土地や家屋を売却すればいいさとこともなげに言った。 山崎さんとの案はだんだん固まりつつあったが、母は自分と私の星の位置を頑固に主張して東側を塞ぐことを改めなかった。南側はかろうじて窓として残すことに落ち着いた。西側にも窓がなく、なぜか北側に出窓までこしらえた。玄関は母の望み通りに東向きにあった。廊下が家の真中を貫いていて幅広だった。階段の幅も大きく踊り場があって逆向きに二階へ上げる仕組だ。トイレもやたら細長かった。部屋は逆に、そうした廊下やトイレにくっつくように並んでいた。納戸、浴室、居間兼キッチン、仏間、客間が一階にあり、二階に私の部屋があった。私の部屋の下は浴室になるらしい。山崎はこれでいきませんかと母に最終的な打診をした。母は勝手口の位置にまだ不満を残しながらも、お願いしますと頭を下げた。 内装も外装も門も塀もすべて出来上がり、庭までもが完成したのは十一月の初旬だった。もう雪が降ってもよい頃で、ストーブが必要だった。引っ越しは吐く息が透明な大気を白濁させる早朝から行なわれた。専門の業者が来て、あっという間に荷物が運ばれていった。引っ越しの二日前、母と二人で新居を下見した。塗料と建材のにおいがぷんぷんとして芳しかった。図面通り幅広の廊下に細長いトイレといった造りで、全体としてがらんとした感じだ。しかしこれも家具が納められればしっくりいくだろうと思った。庭は芝生が前面に敷かれていて、奥が日本式庭園となっていた。嘴の部分は芝生が植えられていた。結構な広さの長方形の土地だ。母は土地の購入契約のときに所有者が代々女性であることを確かめていた。森口先生の言葉がまた当たったとびっくりしていたが、私はどことなくしっくりこなかった。というのもその女性たちはみな未亡人で、すべて夫と死別していたからだ。この土地には隠された何かがあると予感された。しかし新居が完成したという歓びはそうしたものを打ち消してくれた。引っ越しは順調に進み、昼食を摂ったあとは荷物の整理にかかった。学校は区域外になったが、市電で三十分かけて通学することにした。朝七時半には家を出なければならなかった。帰りの電車ではうたた寝をして目覚めてひんやりしたからだのまま新居にたどり着いた。母の友人たちが遊びに来ていることが多く、笑い声が門のところまで響いていた。母は親戚をはじめとしていろいろなひとに家をみてもらうため招待していた。みせびらかしているといってよかった。皆は口々に大きなおうちねえ、廊下がこんなに広いし、トイレなんてびっくりするくらいと叫んだ。私にはびっくりでなくて、あきれるくらいの方が正しいと思えた。トイレは扉を開けるとすぐ洗面台があってその隣が男子用の便器があった。しかし大便の方はそこから二メートル奥にまた扉があってそのなかにあった。当時はもちろん和式の汲み取り形式だった。こういうわけで家具を入れても、また客が大勢来て歓声に充ちても、殺風景な感じはぬぐえなかった。家に帰り着いて玄関を開けると、ほっとするよりも首筋が風で撫でられる感じがした。 母は仏間が出来たことがうれしいらしく、そこで寝起きをし、毎日朝と夕方にはお経をあげた。家相や方位に関心を寄せるのと同じく、信仰問題にも一家言持っていた。父方の祖父がまだ健在だった頃わが家に神棚があって、毎月一度神主がお参りに来てくれたが、祖父がたまたま不在だったある日、母と若い神主との間で口論が起こった。母は狐を拝むとは信じられないと食ってかかった。神主がどう回答したか忘れてしまったが、母の剣幕はすさまじかった。また母の実弟が新興宗教に入信したときも、仏教系のその宗教の非をついて叔父はたじたじだった。しかしそういう母でありながらも、母の信ずる宗教は次々と変わった。父の家は門徒で母も最初それを信仰していたが、いつのまにか法華さんとなり、と思えばお大師さんになったりした。唱える題目がころころと変化した。私はこの移り気な信仰態度にいらいらした。本当のところ何を信じているのか不明だった。いつのまにか私も仏様の有難味を植えつけられていて、母をみているとその大切な仏様をないがしろにしているのではないかと疑念がわいた。母を非難し、いい加減やめてしまえとののしった。それでも効き目はなかった。新しい家では母は私のこれまで耳にしたことのない題目を唱えていた。なんでも朝夕百回ずつ唱えると家内安全なのだそうだ。もっと早く、少なくとも一年前にこのお題目を知っていたら、お父さんは助かっていたのにねえ、という母の嘆息まじりの述懐を聞いて、私は冗談じゃないよと苛立ち、ふとある考えが思い浮かんだ。そしてこれは実行に移す価値があると踏んだ。新居のある意味での犠牲者にもし私がなるとして、それを母が痛感すれば、効果ありということになるのではないか。一泡吹かせてやろう。そう思った。次の日、私は母に腹が痛いと訴えた。母が学校を休みなさいと言ったが、今日は英語のテストがあるからと突っぱねて無理に登校した。帰宅してもベッドに横たわって、夕食もおかゆにした。母は心配そうな顔をしたが、笹山内科に行きなさいとは言わず、易の本を開いて、私の十二月の星を調べた。 おかしいわねえ。今月はいい月なのに。……そんなのあてにならないよ。……ま、とにかく、早めにやすみなさいね。翌日も腹の不調を告げた。しかし母は真剣に取り合ってくれなかった。薬を服むほどでもなく学校を休むまでもないくらいの仮病は難しかったが、一週間続けていると、さすがに母は不安の色を濃くした。十日目、帰宅すると、森口先生が来ていた。兼司君、大きな家だね。二人で暮らすにはもったいないくらいだ。先生は私の顔色をさぐるように覗きみた。奥さん、いま、ひと通り拝見しましたけどね、建てる前に設計図を一度みせていただきたかったですね。土地の図面の方は拝見していたのにねえ。 はあ。この造りのままだと、兼司君に禍(わざわい)がおきますよ。お風呂の真上が兼司君の部屋になりますからね。そうですか……。母の返事は心ここにあらずという呈だった。兼司君、そのうちからだをこわしますよ。特に内臓の病気にね。やっと母は私と顔を見合わせた。でも、まあ、きょうはお祝いにきたのだから、こういうしんきくさい話はやめにしましょう。母の驚きようったらなく、さっそく私がいま腹の調子が悪いことを告げて、どうしたらよいかを尋ねた。森口先生はうーんと腕組みをして宙に視線を浮かせながら、法華経を毎朝、毎晩、あげて下さい、と静かな口調で言った。法華経ですね。そうです。かしこまりました。森口先生は新築祝いに掛け時計を持ってきてくれて、これを居間に取りつけてほしいと言った。母は平身低頭で時計を押し戴いた。そして、兼司君がもし病に掛かったら、面倒でも相談に来てください、と不安げでありながら自信に充ちた口吻で言った。 その晩、母は戸袋の中から日蓮上人の小さな像を取り出すと、仏壇の奥に供えて南無法蓮華教と繰り返した。私はどうしようかと思った。快癒の方向に向かえば母の信仰を認めることになり、目的は達成できない。このまま仮病を続けるしかなかった。風呂の真上がよくないということは、汚水の流れる所の上ということらしい。不浄な部分が家の長男の部屋の下にあるのは、そのことだけでも不吉なのだという。それに浴室の湿気がからだに悪い影響を及ぼすに違いなかった。冬休みに入っても私は仮病を続けた。母は法華経三昧だ。暮の三十日、私は朝から右下腹部に激痛を覚えた。仮病の痛みを越えていた。こらえ切れずつい母に笹山内科という言葉を出した。母はこれまでとちがって蒼白な私の表情をみて、すぐさまタクシーを呼んだ。診断は急性の虫垂炎だった。個人医院から総合病院を紹介されて即刻手術。一週間の入院となった。母は額に汗していた。術後、私はやれやれと思った。森口先生の占いはまた当たってしまったが、私は徒労と空虚がないまぜになった、居ても立ってもいられない気持で、クソッタレ! と心のなかで叫んだ。正月の五日まで私は病院で過ごすはめになった。森口先生が言っていた運命を利用するという域に早く達しなければ、こんどかかったとしてもその病気を克服できなければならない。母が運命に対処するだけで挑んではいけない、とたしなめた。私は少なくとも運命を操作して自分の支配下に置きたいと念じた。この期に及んで母が思い出したように、森口先生宅を訪ねたようだ、きっと先生は待ってましたといったふうに母を迎えただろう。 退院すると、母は私に寝るときだけ下で寝るように求めだが、私は断固したがわなかった。負けてなるものかと思った。そしてすぐに森口先生に電話をかけた。翌日、森口先生がやって来た。母はしょげ返っていた。二度目に訪れた先生は家のなかを丹念に見て歩き、異常がないことを確認すると、仏壇の前に坐って掌を合わせ、静かに呪文めいた文句を唱え始めた。母と私は後ろに正座して仏壇を直視した。私は先生の本業が仕立て家ではなく僧侶なのかと錯覚をするほど、その声は朗々として家中に響きわたっているように感じた。蝋燭の炎が吊られたようにひょろ長く伸び、盛んに燃えた。燃焼の音が響いてくるような勢いがあった。先生はときたま誰かの話に耳を傾けるようにうんうんと頷いた。さぞかし苦しかっただろうねえ、とかすれ声で呟いた。そして急に女のひとの声になり、ありがたいありがたいと言った。女の声は涙声に変わり、ありがたいがしばらく続いた。やがてその声も聞こえなくなると、先生の声に変わり、はたと呪文はやんだ。奥さん。はい。母は先生の横に膝を進めた。この土地は呪われています。その呪い主が奥さんの法華経をうれしく思って出てくるのです。女のひとが持ち主になるやいつの日か病にかかって死去し、またべつの女性が所有して、その方も病没して、の繰り替えしです。それがどうやらあの「嘴」の土地の購入と関係しているようです。先生……ここ、問題のある土地なんですね。すっかり肩を落とした母がようやく言った。奥さん、とにかく法華経は止めないで下さい。そして毎朝、塩をお皿に盛って家の四隅に置いて下さい。初夏まですれば大丈夫です。 先生、こんど父をお願いします。話をしてみたいです。私が言うと、兼太郎さんは成仏されて浄土から、お二人を見守っていらっしゃいます。もうこの世のひとではないんです。無理に降霊することは控えなければ。……そうですか。残念だなあ。母は次の日から盛り塩を始めた。長方形の出張った土である嘴にも皿を置いた。二階の私の部屋の隅にも念のため盛り塩がされた。私はどことなく自分も呪われているような気がして蒲団をすっぽり被って眠った。春が待ちどおしかった。雪が融けて庭が現われると、外にも塩盛りをせねばならないが、それで完全に呪いも鎮まると思うとうきうきした。一ヶ月ほど経つと母の表情もやわらぎ、何者かが去ったことを知った。ほっとしたわ、と母が安堵の吐息をもらした。そして父の墓を建てるという新しい計画を提案した。父の遺骨は寺に預けてあるのだが、母は放っておけない気持に駆られていたらしかった。墓地は藻石山にあり、現にそこには夏木家先祖代々と刻まれた墓が建っている。母は雪が解けたら、その墓に父を納めるつもりだ。 三学期も終わりに近づいてきて中学校では卒業生を送り出す準備が始まった。私もその委員会の委員のひとりに選ばれて放課後おそくまで居残って企画を練った。帰りの電車のなかでは疲れて居眠りをしてがらんとした家と母に迎えられ、食事をして入浴し床についた。くたびれていてすぐ寝入ったが、朝が起きられなかった。目は覚めているのだが、からだが言うことをきかなかった。だるくて力が出ないのだ。何度か気合いを入れてようやく上体を起こしてベッドを降りた。母は目敏くそうした私の様子を見抜いて、どこか内臓に故障が生じているにちがいないと踏んで、内科へ連れていこうとした。私は家相から判断する母のやり方にいつもなら反発を覚えてはむかったが、からだが綿のようにけだるく感ずるに及んでついに根をあげた。私の方から笹山内科に行きたいと申し出た。笹山医院では検尿と血沈、脚のむくみが調べられた。結果はタンパクが多量に下りていた。これはまずいな。運動は控えて。暖かくして、栄養のよいものを食べて。少し様子をみましょう。でもとりあえず、週一回、注射に通って下さい。笹山先生は腎臓にちょっと異状があることを言って、安静をすすめた。母はやっぱり内臓だわといらいらとした口調で、父の納骨を急がなくてはと呟いた。そして私に下で寝るように強く求めた。気持の絆(ほだ)されていく自分を感じながらも、私は意地を張って拒否した。墓よりも家を建て替えろ、と心の中で思った。笹山医院には言われたとおり週一回まじめに通った。ピンク色の液の静脈注射が打たれ、二回に一回の割で尿が検査された。いつも二プラスのタンパクが出ていた。先生は春休みに念のため検査入院をすることをすすめた。腎生検をしてもらった方が将来的にも安心だから。入院の心づもりをしていて下さい、と助言された。私は盲腸炎で入院した一週間のことを思い出して乗り気にはなれなかった。母に伝えると、母はさっそく森口先生に電話をした。受話器を置くと、お風呂の上にぼくの部屋があるからだ、きっと、と言われたわ、それに腎臓の病は放置しておくと命にかかわるときつく忠告された、と応えた。通院は怠らなかったが、タンパクは二プラスのままだった。私は大学病院に転院して腎生検を受けることになった。後で知ったが、往時の医療では腎臓の悪化を止められず、後年、人工透析治療が確立されて、対処療法だが延命が可能となった。 腎生検そのものはそれほど困難な手術ではなく、予後の経過もよかった。組織検査の結果、急性の腎盂炎と判明して、続けて一ヶ月近くの入院を言いわたされた。もう雪解けも始まっていた。自分に腹が立つやら、悔しいやらで、いたたまれなかった。運命に負けぬ気でいても、呪われてしまっている身には無理ではないか。思うように事が運ばぬ苛立ちがあり、世のなかの流れの中心が自分とはかけ離れた所にあるとだんだん感じ始めていた。ベッドの上で、病室の、毎日代わり映えのしない天井のしみを仰ぎ見る日が続いた。飛び跳ねたいと切に願った。外泊ができるようになった四月の中旬に、やっと家に帰った私は、家に工事の手が入っていて、豪勢な作りの風呂が嘴に建てられていることに驚いた。母は胸を張って森口先生の見たてなの。ここはこの嘴のせいで、代々女系だし。きっとどの家もお風呂の位置が悪かったのよ。まさかの出来事だった。以前の湯舟を潰し、物置に変わっていた。あっけにとられて、いくら先生の口添えとはいえ、その独断専行ぶりには空いた口がふさがらなかった。いい、ここはもうお風呂でなくて「湯屋」と呼ぶのよ。湯屋? それは銭湯や風呂の体裁によい名にすぎなかった。こうした母の見栄には悪臭さえただよった。 新学期はすでに始まっていて気にもなっていたが、どうにもならなかった。次の朝、病院にもどるため家を出るとき私は母に内緒話をするように訊いてみた。もう、家相にこだわらないでね。そううまくいかないんだから。大丈夫。そんなことないわ。じき病気も治るわよ。お風呂の場所、気に入ってくれたわね。ああ、びっくりの方は本音だけどね。兼司の命がかかっているもの。母はそう言い切ってにっと笑った。私は反吐(へど)が出そうな気がして、玄関の三和土(たたき)にツバを吐き捨てた。と同時にこんな母親にいつまでも良い子ぶって相対している自分に嫌気がさして来た。ひとつ穴のむじななのだ。顔の神経を鼻に集めるくらいに絞り、鬱屈を抱え込んで私は家をあとにして病院に向かった。一旦外に出ての入浴はもはや内風呂ではなく、湯屋でもなく銭湯そのものだった。 〈了〉【プロフィール】澤井繁男(さわい・しげお)。1954年、札幌市生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。作家・イタリア文学者・元関西大学文学部教授。1984年、「雪道」で北方文芸賞受賞受賞・北海道新聞文学賞佳作。2020年、翻訳書トンマーゾ・カンパネッラ『哲学詩集』で日本翻訳家協会賞特別賞受賞。著書に『魔術と錬金術』、『イタリア・ルネサンス』、『魔術師たちのルネサンス』、『評伝カンパネッラ』、『澤井繁男 小説・評論集』ほか、訳書にエウジェニオ・ガレン『ルネサンス文化史』、ウイリアム・J・バウズマ『ルネサンスの秋』などがある。 Tweet