「海の向こうの気になる本 気になる人――ハンガリー編」深見弾(「SF宝石」1979年12月号)

『ガリヴァ旅行記』をつぐ、カリンティの異色SF

深見 弾

 これまで文学とみなされて紹介されてきた作品も含めると、海外の古典SFはかなりの点数にのぼる。これほど簡単に古今東西のSFが読める国は、まず日本をおいてほかにはあるまい。だが欲をいえば、現在、政治地図の上で赤く塗りつぶされている<共産圏諸国>の古典は、残念ながらけっして多くはない。前回も触れたチャペクのほかは、ソ連のザミャーチン、ブルガーコフ、ベリャーエフぐらいのものだ。中国の老舎が残した『猫城記』(一九三三)や、レムが絶賛しているポーランドのイエジイ・ジュワフスキーの<月>三部作(一九〇三―一三)などは、まだ読むことができない。
 そうした知られざる古典のなかにハンガリーのフリジェシ・カリンテイ(KARINTHY Frigyes 1887―1938)の異色SFがある。
 これは、スウィフトの『ガリヴァ旅行記』の続編ともいうべき作品だ。第五回の旅に相当する『ファレミド国渡航記』(Utazás Faremido, 1937)と第六回の旅『カピラリヤ国渡航記』(Kapillaria, 1921)がそれ。ほかにもSF史上注目すべき作品に、精神病院での自己体験にもとづいて書いた中編『わが頭蓋骨周遊記』があるし、短編もある。SF作品はこの作家の創作活動の一部で、散文のほかに詩や戯曲、評論も書いた。哲学、科学、技術にも関心を寄せ、自ら<エンサイクロペジスト>を称した才人。ハンガリー近代文学を代表する国民的作家の一人である。余談だが息子のフェレンツも現在、作家として活躍しており、SFに近い作品も書いている。
 <続>ガリヴァ旅行記は、スウィフトの作品の主人公が登場し、文体も物語の構成も似せているが、パロディではない。
 『ファレミド国渡航記』は、ガリヴァが音楽を言語としている、オートメーションとサイバネチックスが極限にまで到達した機械<ソラシス>が人間を支配している惑星を訪れる話。その無機的な魂をもたない存在の目から見た人類は、危険な病根というより、つまらぬ、苛立たしい存在でしかない。いたるところにはびこる、寄生虫的細菌なのだ。ソラシスにしてみれば、人間どもの戦争や理想、空想、信仰などといったものは、愚かしいほど短命で、意味がない。物語は、なんの感慨もこめず、驚くほど予言的な情景を淡々と語っている。とても半世紀以上前に書かれた作品とは思えない。みごとな機械文明の風刺だ。たしかに語り口は、スウィフトの文体に似せてか、わざと古風に、癖のある表現が使われているが、作品の視点と結論は、まさに現代にぴったりと当てはまるし、生き生きとした根拠をもっている。

男が女に抱いている幻想をひんむく

 ガリヴァの第六回目の旅『カピラリヤ渡航記』は、女が男を支配し君臨している世界を訪れる話。辛辣な風刺がきいた、奇想天外な<セックス戦争>が描かれている。優勢を誇るセックス=女はオイハス。彼女たちに頭があがらないし、あえてその支配に挑戦しようともしなければ、できもしない親指大のセックス=男はブルポプスと呼ばれている。オイハスたちは一切の束縛から解放されていて、知的固定観念や道徳的なためらい、集団的社会責任など屁とも思わずやりたいほうだいをやる。
 作者はもちろん女嫌いであったわけではないが、男が女に抱いている幻想を、もののみごとにひんむいて裸にしてみせる。あまりのみごとさに読者は度肝を抜かれ、不安に陥る。類のない異常な作品だ。この二作は近い将来翻訳が出る予定。