「彼女の観察者によって裸にされた少女、さえも エスキス大島弓子論覚書 半過去時活用法 その一」大和田始

La jeune fille mise à nu par sa observatrice, même.

A. 草木について

大島弓子の作品には草木が頻出する。草原、木の枝、葉むら、茂み、花、花びら。草原の中には幼い少女がいる。『バナナブレッドのプディング』について言えば、主人公の三浦衣良の幼少のみぎりの記憶の風景が冒頭のっけ、見開きの2頁である。左下と右上からは木の枝がのび、俯瞰からとらえた風景を包んでいる。
 草木の描かれた枠なし幅広のコマの頻出。ところかまわず浮遊する桜の花びら(とおぼしきもの)――しかしこれらを、少女マンガ通有の背景を描けない力量のなさの補完としてのみ捉えることは無理であるように思われる。
 三浦衣良は少女から女へと移りかわりつつある。肉体のあとを追って精神が〈発達〉すべき時期であるにもかかわらず、彼女の意識は過去に固着して動かない。衣良の心は幼時の原風景、おいらの「半村良論覚書」の用語を使えば〈半過去時〉からのがれることができないのだ。近年の大島弓子の作品のすべてに〈半過去時〉は影を投じている。
 衣良は草原で草編をする。草編の意味はもはや明らかだろう。すなわち、つまづき、とどこおることのイマージュなのだ。肉体の成熟にいらだつ衣良は、おそらくは未来を悪しきものと拒絶して、この過去の幻想のユートピアに逃げこんでしまう。草木はこのユートピアのイマージュであるだろう。

B. 鼻の高さについて

 草原が描かれていれば、読者はそこに緑色をのせてみる。緑は安らぎの色。マンガ作家としての大島弓子の魂もそこで安らぐのだろう。だがこの世界の卵も、いつか破られなければならないのだが。
 草原に住むのは子供である。子供は鼻が低い。ゆえに猫は子供に近い。
 三浦衣良はもはや子供ではないが、鼻が低い。鼻筋の通った衣良を発見することは困難である。これと対照的に、彼女の観察者として現れた御茶屋さえ子の鼻筋は通っている。
  衣良ちゃんもかわったわ
  もうおとなね

C. 〈性〉拒否宣言について。

 当然ながら、これは同級生の言葉ではない。子供に対する大人の言葉である。それに対し、衣良はこう答える。
  やだ!! わたしは外見だけよ
  あのころとちっとも変わってないのよ
 高らかなる〈半過去時〉宣言であろう。というより〈性〉拒否宣言というべきか。観察者さえ子は的確にこう述べるのだ。
  それはさ きっとボーイフレンドができれば なおるわよ

D. 『観察者の眼鏡』について

 大島弓子の作品は、過去にとらわれた主人公の少女を見つめる観察者の登場をもって発動する。そして観察者は多くの場合、眼鏡をかけている。眼鏡をかけた人物は〈現実〉の中に住んでいる。ただし彼女たちが〈現実〉の中に住むことができるのは、眼鏡をかけているからなのである。眼鏡をはずした時、彼女たちは自らが観察していた少女たちと同じ風景を見ることになるだろう。だから、眼鏡をかけるとは、大人になることと同義である。あらゆる可能性にむけてある少女を断念し、ある視界のみを選ばされたのである。眼鏡をかけているとは、だから、選ばされたということを確実にその人物が認識していることの証しであるだろう。でなければ、どうして、いつまでも過去の中にとどまっている人間を観察する必要があるのだろうか。

E. 眼鏡は鏡である

 眼鏡は大人と子供の間におかれたスクリーンである。大人は眼鏡を通して、子供を、自らの子供性を見る。この意味で眼鏡は鏡でもある。殻にこもり、おおいかくしている観察者の自我の本当の姿を映しだす鏡である。
 『ジョカへ……』には二種類の眼鏡が登場する。一つはジョカの両親の眼鏡であり、もう一つは彼女と同年代のピエロの眼鏡である。しかし両親の眼鏡が時にはずされることからして、両親は真の観察者ではない。彼らは完璧な大人であり、〈草原時界〉に封じこめられている子供を観察しつづけなければならない必然性をもってはいないのだ。真の観察者はここではピエロという男である。ただし大島弓子はこの作品では同年輩の男子に見つめられる女子という構図を十全にとらえてはいないように思える。

F. 停滞時間について

 「中年の側では時間が正常に経過していく。(……)ところが、相手の女の子のほうは縦に時間が経つんじゃなくて、横に時間が経っている。」(寺山修司)
 時間が横に経つ、いいかえれば、時間は停止している。この停止した時間の中で三浦衣良は生きている。これは現実のわれわれの日常生活の時間ではなく、聖化された〈半過去時〉の時間であり、衣良は原風景に捉えられているのだ。誰にも原風景はあり、〈半過去時〉をあこがれる気持はある。その限りでは、これが誰それの原風景であるということに大して意味はない。おいらが大島弓子の原風景と認定したものも、ごくありふれたものでしかない。
 おいらが注目するのはその原風景がほとんどすべての作品を支配してあるところなのだ。それによってすべての作品が生みだされているところなのだ。その秘密、その謎を知りたいと思うばかりである。そしてそれが積極的な意味をもちうるものなのかどうか。
 『綿の国星』は確かにこの停滞時間の中からぬけだそうとするモメントを持っていた。だが今、その可能性は、甚大なる人気のために不発に終わっているように思われる。いつの日か、近いうちに、大島弓子が〈半過去時〉を肯定しつつ、それを突きぬけて、新しい少女のあり方を開拓されんことを希望するものであります。

本稿の初出はトーキング・ヘッズ No.0号。1980年8月25日発行。発行者 志賀隆夫+新戸正明。