新作紹介『トーキングヘッズ叢書THNo.87 特集・はだかモード』高槻真樹

 多方面に知的刺激を発信し続ける季刊アート誌『トーキングヘッズ』の最新87号が出ました。なんと今回のテーマは「はだかモード」。人によってはちょっと電車の中では開きづらいかもしれない大胆な装丁ですが、グラビア部分とともに、男性目線に寄りがちな週刊誌のヌード写真とは一線を画しており、クオリティの高さを実感していただけるのではないかと思います。
 いきなり「はだか」と言うと戸惑いますが、あえてエロにこだわらない裸体表現を考えてみようというわけです。カウンターカルチャーや個人の内面表現の手段としても、裸体表現が多用されてきた歴史があります。誰もが強い関心を持ちつつも、時には嫌悪してしまうこともある。そんな矛盾した存在としての「はだか」に迫ります。今回はアートや思想に詳しくない方でも、比較的とっつきやすく、興味深く読んでいただけるのではないかと思われます。
 とはいえ、裸体表現に対する社会の受け止め方は、日々激しく変化しており、書く側としてはなかなか大変でした。そんな「難行」に果敢に挑んだ、各執筆者の工夫を、楽しんでいただければ幸いです。
 仁木稔は「加工され、隠蔽される肉体」と題し、中南米の裸体文化に対する、西洋の誤解を、丁寧な分析とともに指摘してみせます。裸体に対し「野蛮」と嫌悪するのも「無垢」を見て憧れるのも、一方的に自身を投影しているだけにすぎません。中南米には彼らなりの歴史と文化的事情があり、そこから見えてくるのは、悲しいまでに普遍的な「人間らしさ」です。世界のどこに行ってもいるであろう、やたらと性器を気にする男というものは、本当に愚かです……
 渡邊利通は「不定形の裸、シミュラクルとしての裸」において、正統派の硬質な評論タッチで、バタイユとクロソウスキーを比較してみせます。肉体論を発表する一方で、ファシズムから距離を取り続けた研究者マリオ・プラーツを紹介した岡和田晃の「『肉体と死と悪魔』と『生の館』が赤裸々に語る」も大変興味深いものがあります。
 その一方で、人気の絵本「すっぽんぽんのすけ」に注目し「幼児は、なぜ裸で逃走するのか?」を書いた宮野由梨香には、育児体験をもとにした、まったく異なる視点が感じられます。裸で走りたがる幼児が、その羞恥心のなさによって「最強」になってしまう、というのは、確かに不思議であり、今回の特集の本質に迫るものと言えます。
 逆に大人の目線で、「脱ぐことを決断した芸能人」たちの小史をまとめた阿澄森羅「必然性があれば脱ぎます!」もユニークです。現代社会風俗史的な視点が、ツボを押さえたものになっています。同時代的に知っているはずの名前も多く登場しますが、多くを忘れていました。当時はそれなりに驚いたはずなのですが、時の流れは本当に残酷です。
 素材を探しやすいこともあってか、今回は映画を題材にした原稿が多いのですが、私は少し趣向を変えて、荻野茂二という個人映画作家について書いてみました。最近ネットで注目が集まりましたが、影絵アニメ「百年後の或る日」(1932)は、日本SF映画史における最初の自覚的SF映画といえるでしょう。そんな荻野が戦後に、一人の女性が全裸で登山するという怪作「山の女」(1966)を作っていました。本当に衝撃的な謎の作品で、いつかきちんと上映されることを願ってやみません。
 なお今回も、岡和田晃による連載評伝「山野浩一とその時代」が掲載されています。山野が映画制作に関わった、幻の一作目に迫ります。偶然が重なり特定に至ったフィルム探しの過程は、謎解きの面白さに満ちており必見。私もちょっとだけお手伝いさせていただきました。それにしても、こんなところに山野の原点のひとつがあったとは!