「犬の心臓。ブルガーコフ(分載第五回)」

 だが、ボルメンターリ医師によって約束されたシャーリコフの『いいこと』は、翌朝ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィチが家から姿を消したために行われなかった。ボルメンターリは激しい絶望に陥り、玄関扉の鍵を隠しておかなかった自分は馬鹿者だ、と自分自身を罵り、これはけしからんことだと叫び、しまいにはシャーリコフがバスにひかれればいいのにと願った。フィリップ・フィリッポヴィチは書斎に座っていたが、指を髪の中に突っ込むと言った。
 「外でどんなことが起きるか、想像がつく……、想像がつく。〽セヴィリヤからグラナダまで~。何てこった」
 「まだ住宅委員会のところにいるかもしれません」ボルメンターリはかっかして、どこかへ走っていった。
 住宅委員会ではボルメンターリが議長のシヴォンデルを罵ったので、シヴォンデルはハモーヴニチェスキー区の人民裁判所にあてた告訴状を書き始めたほどだった。その際シヴォンデルは、自分はプレオブラジェンスキー教授の養子の番人ではない、それどころか、あの養子ポリグラーフはつい昨日、とんでもないろくでなしだということがわかった、共同組合の店で教科書を買うとかで、住宅委員会から七ルーブル取っていったのだ、と叫んだ。 
 この件で三ルーブルをもらったフョードルは、建物じゅうを上から下までくまなく探しまわった。どこにも何も、シャーリコフの足跡はなかった。
 たった一つ明らかになったのは、ポリグラーフはつば付き帽と襟巻きとコートを身に着け、食器棚のナナカマド酒の瓶とボルメンターリ医師の手袋、自分の書類すべてを持って、夜明けに出ていった、ということだけだった。ダーリヤ・ペトローヴナとジーナは、自分たちの激しい喜びと、シャーリコフがもう戻ってこなければいいのにという望みを、包み隠さずに表現した。シャーリコフは前日に、ダーリヤ・ペトローヴナから三ルーブル五十コペイカを借りていた。
 「自業自得でしょうが!」フィリップ・フィリッポヴィチは両のこぶしを振り回しながら叱りつけた。一日中、電話が鳴り響き、電話は翌日も鳴り響き、医師たちは尋常でない数の患者を診察し、三日目になって書斎において、この件を警察に知らせて、モスクワの渦の中で(訳注:モスクワという街はクレムリンを中心とした渦のようになっている)シャーリコフを捜索してもらうべきではないかということに関する問題が、本格的に持ち上がった。
 そして『警察』という言葉が発せられたその時、オブーホフ横町の厳かな静けさをトラックの吠える音が引き裂き、建物の窓が震えた。それから、確固としたベルの音が響きわたり、玄関にはポリグラーフ・ポリグラーフォヴィチがいた。教授もボルメンターリ医師も、彼を出迎えに行った。ポリグラーフはひどく堂々とした態度で入ってくると、完全に沈黙したままつば付き帽を取り、コートをコート掛けに掛けたが、彼は今までに見たことのないような服装をしていた。中古の革のジャンパーをまとい、同じく革の擦り切れたズボンに、靴ひもが膝まである、丈の長い英国ブーツ。信じがたいほどの猫臭さが、すぐに玄関中に広がった。プレオブラジェンスキーとボルメンターリは、号令でもかかったかのように腕組みして敷居のそばに立つと、ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィチの最初の言葉を待った。当人はごわごわの髪をなでつけると、咳払いしてあたりを見回したが、そのように無遠慮に振る舞うことによって、ポリグラーフが困惑を隠したいと思っているのは明らかだった。
 「フィリップ・フィリッポヴィチ、俺」ついに彼は口を切った。「就職したよ」
 二人の医者は喉ではっきりしない乾いた音を発し、身じろぎした。プレオブラジェンスキーが先に我に返り、手を差し伸べて言った。
 「書類をよこしなさい」
 タイプで打たれている。『本状の提示者、同志ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィチは、モスクワ公共事業部モスクワ市清掃局野良動物(猫その他)駆除部部長であることを証明する。』
 「さて」フィリップ・フィリッポヴィチは苦しそうに言った。「誰の取り計らいかね? ああ、もっとも、自分でも想像がつきますがね……」
 「そうさ、シヴォンデルだよ」とシャーリコフは答えた。
 「お尋ねしますが、何だってそんな嫌なにおいをさせていますかね?」
 シャーリコフは不安そうにジャンパーのにおいを嗅いだ。
 「仕方ないさ、におうのは……当然だ。仕事柄で。昨日、猫を絞め殺しまくったんで」
 フィリップ・フィリッポヴィチは身震いし、ボルメンターリの方を見た。ボルメンターリの目は、シャーリコフに真っ正面から向けられた、二つの黒い銃口を思わせた。何の前置きもなく彼はシャーリコフに近づくと、その喉を素早くがしっと掴んだ。
 「助けて」シャーリコフが青くなりながら悲鳴を上げた。
 「先生?!」
 「何も悪いことはしませんから、フィリップ・フィリッポヴィチ、ご心配なく」しっかりした声でボルメンターリは応じ、大声で叫んだ。「ジーナ、ダーリヤ・ペトローヴナ!」
 二人が玄関の間に現れた。
 「さあ、復唱しなさい」ボルメンターリはそう言って、シャーリコフの喉を毛皮コートに軽く押しつけた。「私をお許しください……」
 「うん、わかったよ、言うよ」びっくり仰天したシャーリコフはかすれた声で返事をすると、急に息を吸い込んでもがき、『助けて』と叫ぼうとしたが、叫び声は出ず、その頭は毛皮コートの中にすっかり埋もれてしまった。
 「先生、お願いだから」
 シャーリコフはおとなしくする、復唱するつもりであるという意味で、うなずいてみせた。
 「……私をお許しください、ダーリヤ・ペトローヴナ様、ジナイーダ……」
 「プロコーフィエヴィナ」ジーナがびっくりしてつぶやいた。
 「うう。プロコーフィエヴナ……」息を詰まらせながら、かすれた声でシャーリコフは言った。
 「……私はとんでもないことをしました……」
 「……しました……」
 「……夜、破廉恥なふるまいをしました。酩酊状態で……」
 「酩酊状態で……」
 「もう二度としません……」
 「しま……」
 「放して、放してやってください、イヴァン・アルノリドヴィチ」二人の女性が同時に懇願しはじめた。「絞め殺してしまいます!」
 ボルメンターリはシャーリコフを自由にしてやり、言った。
 「トラックは待っているのか?」
 「いいえ」ポリグラーフは丁寧に答えた。「俺を乗せてきてくれただけです」
 「ジーナ、車を帰らせて。さて、次のことを忘れないでいただきたい。あなたはまたフィリップ・フィリッポヴィチの家に戻ってきたんですね?」
 「他にどこへ行けますかね?」シャーリコフが目をきょろきょろさせながら、びくびくした様子で答えた。
 「よろしい。水よりも静かに、草よりも低く、おとなしくしていること。そうでない場合には、けしからん振る舞いをするたびに、私がただではおきませんから。わかりましたか?」
 「わかりました」とシャーリコフは答えた。
 フィリップ・フィリッポヴィチは、シャーリコフが脅されている間中、沈黙を守っていた。敷居のところで、彼は何だかあわれっぽく身を縮め、寄木細工の床に目を落として爪を噛んでいた。それから突然、その目をシャーリコフに向けて上げると、低い声で思わずこう尋ねた。
 「それをどうするのだね……殺された猫を?」
 「コートになるんだよ」シャーリコフが答えた。「労働者向け分割払い用のリスのコートを作るんだと」
 それ以降、家の中は静かになり、静けさは二日間続いた。
 ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィチは、朝、やかましいトラックに乗って出かけ、晩に姿を現し、フィリップ・フィリッポヴィチ、ボルメンターリと一緒に、静かに食事をとる。
 ボルメンターリとシャーリコフは同じ部屋――応接室で眠るのにもかかわらず、二人はお互い話しもせず、ボルメンターリの方が先に退屈になったほどだった。
 二日後、クリーム色のストッキングをはき、化粧を施した目の、やせたお嬢さんがアパートにやってきたが、部屋の豪華さを目にして、ひどく戸惑っていた。すりきれたコートの彼女は、シャーリコフのあとについて歩いていたのだが、玄関の間で教授と出くわした。
 呆気にとられた教授は立ち止まり、目を細くして尋ねた。
 「どういうことですか?」
 「この人と結婚の登録をするんだ。この人はうちのタイピストで俺と一緒に住むの。ボルメンターリには応接室から出ていってもらわなけりゃ。あの人には自分の住まいがあるんだから」ひどく憎々しげに顔をしかめて、シャーリコフは説明した。
 フィリップ・フィリッポヴィチは目をぱちくりさせると、真っ赤になったお嬢さんを見ながらしばらく思案した。そしてとても丁重に彼女に声をかけた。
 「少しの間、私の書斎に来ていただけませんか」
 「俺も一緒に行く」シャーリコフがとっさに疑わしそうに言った。
 と、そこへ毅然とした様子のボルメンターリが、忽然と姿を現した。
 「失礼ですが」と彼は言う。「教授はご婦人とお話があるのですから、あなたと私はしばらくここにいましょう」
 「俺は嫌だ」恐ろしくて居ても立ってもいられないお嬢さんとフィリップ・フィリッポヴィチのあとを追って走り出そうとしながら、シャーリコフは憎らしげに答えた。
 「いや、いけません」ボルメンターリはシャーリコフの手をつかみ、二人は診察室へ向かった。
 五分ほど、書斎からは何も聞こえなかったが、突然、お嬢さんの激しい泣き声がかすかに聞こえてきた。
 フィリップ・フィリッポヴィチは机のそばに立ち、お嬢さんは汚れたレースのハンカチを目に当てて泣いている。
 「あの人、あの悪党、戦争で怪我をしたんだって言ったのです」お嬢さんは声を上げて泣く。
 「嘘ですよ!」フィリップ・フィリッポヴィチは毅然として答えた。彼は頭を振ると、続けた。「あなたのことは本当にお気の毒に思いますが、職務上の地位だけのために、初対面の者とこんなことはいけません……。お嬢さん、だってこれはけしからんことですからね……。さあ、これを……」
 教授は机の引き出しを開けて、三チェルヴォーネツ札を三枚取り出した。
 「わたし、食中毒になってしまう」お嬢さんは泣いている。「食堂では毎日塩漬け肉で……自分は赤軍の指揮官だって言って脅すのです……俺と豪華な部屋で暮らそうぜって言うのです……毎日パイナップル……俺は善良な精神の持ち主だぜって、猫だけは憎んでいるって……。記念にと、わたしの指輪を取ってしまいました……」
 「なんとなんと、善良な精神とな。〽セヴィリヤからグラナダまで~」フィリップ・フィリッポヴィチはつぶやいた。「耐えなければいけません。あなたはまだそんなにお若いのだから……」
 「本当にあの門口で?」
 「お金を持っていきなさい、私の気が変わらんうちに。貸してあげますから」フィリップ・フィリッポヴィチが大きな声で言った。
 それから厳かに扉が開き、フィリップ・フィリッポヴィチの要望に従い、ボルメンターリがシャーリコフを部屋に入れた。シャーリコフは目をきょろきょろさせていたが、その頭の毛はブラシのように逆立っていた。
 「ろくでなし!」泣きはらして化粧が崩れた目と、おしろいが崩れて縞模様になった鼻を光らせながら、お嬢さんが言った。
 「なぜ額に傷跡があるのか、こちらのご婦人に説明していただけますかな」教授がおもねるように尋ねた。
 シャーリコフは賭けに出た。
 「俺はコルチャークの前線で怪我したのだ」と怒鳴ったのだ。
 お嬢さんは立ち上がり、大泣きしながら出て行った。
 「やめなさい!」次に怒鳴ったのはフィリップ・フィリッポヴィチだった。「ちょっとお待ちなさい!」。彼はシャーリコフに向かって「指輪を、いいですか」と言った。
 当人は、エメラルドのついた見かけ倒しの指輪を、おとなしく指から外した。
 「まあ、いいさ」と、突然憎らしげに言う。「覚えとけよ。明日、人員削減でくびにしてやる!」
 「こいつをこわがらなくても大丈夫」後ろからボルメンターリが叫んだ。「何もさせやしませんから」そして向き直り、シャーリコフの方を見た。その様子にシャーリコフはあとずさりし、後頭部を戸棚にぶつけた。
 「あの人の名字は?」ボルメンターリがシャーリコフに尋ねた。「名字!!!」ボルメンターリは突然そうがなり立てると、荒々しく恐ろしい様子になった。
 「ヴァスネツォーヴァ」シャーリコフは逃げ口を探すような目つきをしながら答えた。
 「毎日、」ボルメンターリが、シャーリコフのジャンパーの襟をつかんで話しはじめる。「私自ら、清掃局で尋ねますからね。市民ヴァスネツォーヴァが解雇されていないかどうか。そしてもし……解雇されたとわかったら……、あんたを……この手でこの場で撃ち殺す! 用心するんだな、シャーリコフ、ロシア語で言っているのだから意味はわかるな!」
 シャーリコフは目を離さずにボルメンターリの鼻をじっと見つめていた。
 「リヴォルヴァーはどこにだってあるさ……」ポリグラーフはつぶやいたが、ひどく元気がなかった。と、突然、隙をねらい、扉に向かって走り出した。
 「用心するんだな!」彼を追うように、ボルメンターリの叫び声が響いた。
 その夜と次の半日、住まいの中には雷雨の前のような暗雲が垂れ込めていた。しかし、みなは沈黙していた。そしてこの日、朝方嫌な予感にさいなまれた陰気な様子のポリグラーフ・ポリグラーフォヴィチが、トラックで職場に出かけていった時、プレオブラジェンスキー教授はまったく診察時間ではない時分に、以前の患者の一人である、軍服姿の太った長身の人物に応対した。その男はしつこく面会を要求し、会うことに成功したのである。書斎に入ると、彼は靴のかかとを礼儀正しくかちっと打ち鳴らした。
 「痛みがぶり返しましたか?」やつれたフィリップ・フィリッポヴィチが尋ねた。「どうぞお掛けください」
 「メルシー。いえ、教授」客人はヘルメットを机の隅に置きながら答えた。「先生にはたいへん感謝しております……。ううむ……。他の用件で参ったのです、フィリップ・フィリッポヴィチ……。先生のことは大変尊敬しておりますが……ううむ……。お知らせに。まったく馬鹿げたことです。本当にあれは悪党で……」
 患者はかばんに手を入れると、書類を取り出した。
 「私に直接伝えに来てくださったとは、ありがたいことです……」
 フィリップ・フィリッポヴィチは眼鏡の上から鼻眼鏡をかけると、読み始めた。しきりに顔色を変えながら、長い時間をかけて独り言のようにつぶやく。

 『……また、住宅委員会議長、同志シヴォンデルを殺すと脅したが、このことから銃器を保有していることは明らかである。そして反革命的な言を述べ、社会主義的使用人ジナイーダ・プロコーフィエヴナ・ブーニナにエンゲルスの著作すらペチカで焼き払うようにと命じ、秘密裏に登録することもなく彼の住居に居住している助手のボルメンターリ、イヴァン・アルノリドヴィチともども、明らかにメンシェヴィキである。清掃局部長P・P・シャーリコフの署名――証明いたします。住宅委員会議長シヴォンデル、書記ペストルーヒン』

 「これを私の手元に置かせてもらえませんか」顔をまだらにしながらフィリップ・フィリッポヴィチが尋ねた。「あるいは、すみません、もしや事を法にかなったやり方で進めるためには、あなたに必要ですかな?」
 「失礼ですが、教授」患者はひどく気分を害し、鼻の穴をふくらませた。「あなたは実際に、我々をひどく見下していらっしゃる。私は……」そしてすぐに、雄の七面鳥のようにふくらみはじめた。
 「ああ、申し訳ない、申し訳ないです」フィリップ・フィリッポヴィチはつぶやくように言った。「許してください。本当に、あなたを傷つけるつもりはなかったのだ」
 「我々は書類を読めるんですよ、フィリップ・フィリッポヴィチ!」
 「君、怒らないでくれたまえ。あれにはまったく閉口させられているのだ……」
 「わかります」患者はすっかり落ち着きを取り戻した。「しかしそれにしても、とんでもなくくだらん奴です! ちょっと見てみたいものですよ。モスクワではあなたに関するとんでもない作り話が語られています……」
 フィリップ・フィリッポヴィチは、ただ絶望的に片手を振ってみせただけだった。その時患者は、教授の背が丸くなっていて、ここ最近のうちに白髪が増えたらしいのにも気づいた。
――
 犯罪はたいていそういうものだが、熟して石のように落ちた。ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィチは苦しく嫌な心持ちで、トラックに乗って戻ってきた。フィリップ・フィリッポヴィチの声が彼を診察室に呼んだ。驚いたシャーリコフはやってくると、うすぼんやりとした恐怖を感じながら、ボルメンターリの顔にある銃口をのぞきこみ、それからフィリップ・フィリッポヴィチの顔にある銃口をのぞきこんだ。黒雲が助手のまわりを漂い、紙巻き煙草を持ったその左手は、婦人科検診台の光る肘掛けの上でわずかに震えている。
 フィリップ・フィリッポヴィチがひどく不気味な穏やかさで言った。
 「今すぐ荷物をまとめなさい。ズボン、コート、必要なものを全部。そしてこの家から出ていきなさい」
 「一体どういうことだ?」シャーリコフは心底驚いた。
 「この家から出ていきなさい。今日」目を細めて自分の爪を見ながら、フィリップ・フィリッポヴィチが抑揚もなく繰り返した。
 何か悪霊のようなものがポリグラーフ・ポリグラーフォヴィチにとりつき、どうやら、破滅は既に彼を待ち構え、運命は彼の背後に立っているようだ。彼は避けられない腕の中に自ら飛び込み、憎らしげに鋭く声を上げた。
 「一体何なんだよ? あんた方を止める手段を俺が見つけられないとでもいうのか? 俺はここの十六平方アルシンに住んでいるし、これからも住む!」
 「この家から出ていきなさい」フィリップ・フィリッポヴィチはしみじみとささやいた。
 シャーリコフは自分の死を自ら招いてしまった。彼は左手を上げると、噛まれた痕があり、耐えがたいほどの猫の臭いがする女握りを、フィリップ・フィリッポヴィチに見せつけた。それから右手で、ポケットのリヴォルヴァーを、危険なボルメンターリに向けて引き抜いた。ボルメンターリの紙巻き煙草が流れ星のようになって落下し、数秒後、フィリップ・フィリッポヴィチは割れたガラスの上を飛び跳ねながら、おそるおそる戸棚から寝椅子へと向かっていた。寝椅子の上では体を伸ばし、かすれた声を出しながら、清掃局部長が横たわっていて、その胸の上では外科医ボルメンターリが、白い小さなクッションで彼を窒息させようとしていた。
 数分後、ボルメンターリ医師はいつもと違う顔つきで玄関へ行き、呼び鈴の隣にお知らせを貼り付けた。

 『本日は教授病気のため休診です。ベルを鳴らさないようお願いします』

 光るペンナイフで彼は呼び鈴の線を切断すると、鏡の中にある、引っかき傷だらけで血の出ている自分の顔と、微かな震えで揺らいでいる傷だらけの両手をしみじみと眺めた。それから台所の扉のところにやってくると、緊張しているジーナとダーリヤ・ペトローヴナに言った。
 「教授が家から出ないようにとおっしゃっている」
 「わかりました」びくびくしながらジーナとダーリヤ・ペトローヴナが答えた。
 「裏口を閉めて鍵を持っていきますので、よろしく」扉の陰に隠れ、顔を片手で覆いながらボルメンターリが言う。「これは一時的なことで、あなたたちを信用していないからではないのです。だが、誰かが来たら耐えきれずに開けてしまうかもしれないから。邪魔してほしくないのです。我々は忙しいので」
 「わかりました」女性たちは答え、すぐに顔を青くした。
 ボルメンターリは裏口の鍵をかけるとその鍵を手にし、玄関の鍵をかけ、廊下から玄関の間に通じる扉の鍵をかけ、そして彼の足音は診察室のところで消えた。
 静けさが住まいを覆い、隅々にもぐりこんだ。忍び込んできたのは、忌まわしく緊張した黄昏、一言で言えば闇である。
 中庭の向こうに住む近隣の人々が、その晩、中庭に面したプレオブラジェンスキーの診察室の窓は、すべての明かりが灯っていたというようなことを言い、教授の白い帽子を見たというようなことまで言っていたのは本当だ……。これを確かめるのは難しい。すべてが終わってボルメンターリと教授が診察室から出てきたあと、書斎の暖炉のそばにいたイヴァン・アルノリドヴィチに死ぬほどびっくりしたとジーナがもらしたのも本当だ。彼は書斎の中でかがんで、教授の患者たちのカルテを束にしたものの中にあった青い表紙の帳面を、暖炉で自らの手で燃やしたらしい。医師の顔はすっかり緑色で、顔じゅう、そう、顔じゅうが……引っかき傷だらけだったそうだ。その晩のフィリップ・フィリッポヴィチもいつもとは違っていた。そしてさらに……。もっとも、プレチーステンカのアパートの無垢なお嬢さんは、もしかしたら嘘をついているのかもしれない……。
 一つだけ確かなことがある。あの晩のあの部屋には、この上なく完全でこの上なく恐ろしい静けさがあったということである。

  エピローグ

 オブーホフ横町にあるプレオブラジェンスキー教授宅の診察室における合戦から、ちょうど十日後の夜、激しいベルの音が鳴った。ジーナは扉の向こうの声に死ぬほど驚いた。
 「刑事警察官と予審判事です。開けていただけますか」
 どどっという走る足音がしはじめ、人々が入ってきた。ガラスをはめ直された戸棚のある、灯火で光り輝く応接室には、たくさんの人。二人は警官の制服姿、一人はかばんを持ち黒いコート、いい気味だとでも言いたげな、青白い顔のシヴォンデル議長、男子のような女、玄関番のフョードル、ジーナ、ダーリヤ・ペトローヴナ、ネクタイのない喉元を恥ずかしそうに隠している、服を着かけのボルメンターリ。
 書斎の扉からフィリップ・フィリッポヴィチが出てきた。彼は例の瑠璃色のガウンを着用していたが、この一週間で彼がとても健康的になったと皆がすぐに納得できるような様子だった。以前のように威圧的、精力的で威厳に満ちているフィリップ・フィリッポヴィチは、夜の来客たちの前に現れると、ガウン姿であることを詫びた。
 「大丈夫ですよ、教授」私服の男がきまり悪そうに答えた。そのあと一瞬口ごもり、話しはじめた。「ひどく不愉快なことなんですが。お宅を家宅捜索するようにとの令状がありまして」男はフィリップ・フィリッポヴィチの口ひげをちらりと見ると、話を結んだ。「結果次第では逮捕します」
 フィリップ・フィリッポヴィチは目を細めて尋ねた。
 「それでどういう罪名で? あえてお尋ねしますが。そして誰を?」
 男は頬をかき、かばんの中にあった書類を読み始めた。
 「プレオブラジェンスキー、ボルメンターリ、ジナイーダ・ブーニナ、及びダーリヤ・イヴァノーヴァをモスクワ公共事業部清掃局部長ポリグラーフ・ポリグラーフォヴィチ・シャーリコフ殺害の罪で」
 ジーナがわっと泣き出し、その泣き声が男の言葉の終わりをかき消した。ざわめきが起こった。
 「さっぱり分かりませんな」フィリップ・フィリッポヴィチが王のように肩をそびやかしながら答えた。「シャーリコフとは一体何ですか? ああ、すみません、うちの犬のことですか……私が手術をした?」
 「失礼ですが、教授、犬ではありません。彼が既に人間になってからのことです。それが問題なのです」
 「つまり、あれがしゃべっていたから?」フィリップ・フィリッポヴィチが尋ねる。「それではまだ人間になったとは言えませんな。まあ、それはどうでもいいのですが。シャーリクは今もいますが、誰もあれを絶対に殺したりはしていませんよ」
 「教授」黒コートの男がひどく驚いて言いかけ、眉を上げた。「それでは、彼を見せていただかないといけません。姿を消してから十日ですし、情報証拠が、こんなことを申し上げるのも何ですが、大変よろしくない」
 「ボルメンターリ先生、予審判事にシャーリクを見せてさしあげてください」令状を取り上げながら、フィリップ・フィリッポヴィチが命じた。
 ボルメンターリ医師は苦笑いすると出ていった。
 ボルメンターリが戻ってきて口笛を吹くと、彼のあとに続いて書斎の扉から、ひどく奇妙な犬が飛び出してきた。まだらにはげているかと思えば、和毛がまだらにはえてきている部分もある。芸を仕込まれたサーカス犬のように後ろ足だけを使って出てきたのだが、それから四つ足になってあたりを見回した。応接室の中で、通夜のような沈黙がゼリーのように固まった。額に赤黒い傷跡のある、悪夢のような外見の犬は、再び後ろ足で立つと、にっこりして肘掛け椅子にすわった。
 二人目の警官は突然大きく十字を切り、後ずさりした拍子にジーナの両足を踏んでしまった。
 黒コートの男は口を開けたまま、こんなことを言った
 「一体、どうして? 清掃局に勤めていたのに……」
 「私があそこに勤めさせたのではないよ」フィリップ・フィリッポヴィチが答えた。「シヴォンデルさんが推薦したのだ。私の勘違いでなければ」
 「さっぱり訳が分かりません」黒コートの男が途方に暮れながら言い、一人目の警官の方を向いた。「これが彼かね?」
 「そうです」警官はささやくような声で答えた。「まさしく彼です」
 「やつですよ」フョードルの声がした。「だが、畜生め、また毛むくじゃらになった」
 「これがしゃべっていた?……こほん……こほん……」
 「今はまだ話しますが、だんだん少なくなってきていますから、この機会を利用するといいでしょう。さもないと、もうすぐすっかりしゃべらなくなってしまうでしょうから」
 「しかし、一体なぜ?」黒コートの男が小声で問うた。
 フィリップ・フィリッポヴィチは肩をすくめる。
 「科学はまだ、動物を人間に変える術を知りません。そこで私が試してみたのだが、失敗に終わったのです、ご覧のとおりね。少ししゃべりましたが、元の状態に変化しはじめたのです。先祖返りですよ!」
 「失礼な言葉を使うな!」突然、犬が肘掛け椅子から怒鳴り、立ち上がった。
 黒コートの男は急に青ざめてかばんを取り落とし、横向きに倒れかけ、警官が彼を脇から、フョードルが後ろから抱きかかえた。大騒ぎになり、その中で一番はっきり聞こえたのは次の三つの発言だった。
 フィリップ・フィリッポヴィチ「カノコソウチンキを! これは失神だ」
 ボルメンターリ医師「シヴォンデルが、もしまたプレオブラジェンスキー教授のお宅に現れることがあったら、俺がこの手で階段から突き落としてやる」
 そしてシヴォンデル「お願いですから、あの言葉を調書に書いてください!」

  ――
 管でできた灰色のアコーディオンが暖気を発している。カーテンは、星が一つだけ出ているプレチーステンカの夜を覆い隠している。最高の人物、犬の大恩人は肘掛け椅子に座っていて、犬のシャーリクは革のソファのそばのじゅうたんの上に、くつろいで横たわっていた。三月の霧のせいで、犬は毎朝頭痛に苦しむ。頭の輪状の縫い目が痛むのだ。しかし、晩に近づくにつれ、暖かさで痛みはなくなる。そして今、痛みはどんどん和らぎ、犬の頭の中には素敵で心が暖まるような考えがわいてくる。
 『俺はかなり運がよかったんだな、運がよかった』と、うとうとしながら思う。『言い表しようのない運のよさだ。俺はこの家に落ち着いた。ついに確信したぞ、俺のうまれはよろしくないものだったって。ニューファンドランドの血がないわけではないんだ。俺のばあさんが浮気性だったのだ。ばあちゃん、天国で安らかに。確信した。なぜだか頭をぐるっと切られちまったけど、すぐによくなるだろ。気にするほどのものじゃないや』
 遠くでかすかに、ガラス瓶がかちゃかちゃ音を立てている。噛まれた人が診察室の戸棚の中を片づけているのだ。
 白髪の魔法使いは椅子にかけたまま口ずさむ。
 「〽ナイルの聖なる岸へ~」
 犬は恐ろしいものを見ていた。偉大な人物がつるつるの手袋をはめた手を容器の中に沈め、脳を取り出す。粘り強く根気づよいその人は、絶えずそこに何かを探し、切り、観察し、目を細め、歌う。
 「〽ナイルの聖なる岸へ~」

終わり

ミハイル・ブルガーコフ
一九二五年一月~三月
モスクワ