「Utopia」川嶋侑希(第2話)

【楽曲 暗星 SFPW.mp3】

分かたれた天文街と大図書館

 年中、雨か霧に包まれたその街の西地区には、世界的にも有名な大図書館が建っている。この街では、多くの研究者たちが宇宙開発に携わっていた。あらゆる地域から最高の頭脳が集結し、国の支援を受けて巨大な施設を建て、天体の観測を盛んに行っていた場所だった。しかし研究者たちの活動は、街の近くにあった川の流れが大きく変わった事によって、困難になった。天文街としての衰退を迎えたのである。
ある時、山を削り取るほどの勢いで雨が降った日、川が突然流れを変え、街を東西に分断するようになった。原因は今でも調査中だが、〈月〉の反乱を支援するための工作だったという噂が、今でもまことしやかに囁かれている。川の流れの変化はたちまち周囲の自然環境を大きく変え、霧と雨を頻繁に発生させるようになり、やがて星の見えなくなった街から、天体観測に携わる者たちは、大量のデータと書物を残して次々と撤退した。
それからしばらく経ち、街中の書物がかつての王宮に集められた。それが現在の大図書館である。
「宮殿全部を本の避難場所にしちまうだなんて、物好きな王様がいたものだ。たった一つの功績だがな」
大図書館の外壁を修復している作業着の男は、ひとしきり街の事を話した後、そう言って再び壁に向き直った。セイラはただ図書館の開館時間を尋ねただけなのに長い話を聞かされて、少々うんざりしている。
「また明日来ればいいのね。ありがとう」
あまり人の手を借りたくはないが、計画は必ず実行したい。〈情報街〉で展覧会の情報は手に入ったがまだ知識が足りていないことが多いため、この街でそれを調べるのが目的だ。図書館はあらゆる知識が詰め込まれた場所と聞いている。
博覧会、天文台、国際宇宙機構、……覚えておきたいことがいっぱいだ。そして、ここなら必ずある、星間探査船スリツアンの操作マニュアル。昨日聴いた博覧会に向けたラジオの五分ほどの宇宙船特集で、星間探査船160~232シリーズはパイロット用操作マニュアルが大図書館に保管されていると言っていた。これを見つけて手に入れておきたかった。これさえあれば、宇宙船を飛ばせるはずだった。
星間探査船スリツアンは特別な機体だった。数多くの星間探査船のうち、唯一〈妖精〉が開発に関わった機体は、小型で、機動性に富み、それまでの多段式ロケットを使った星間探査船とは違って、離陸させるだけならばマニュアルを見ながらでも操縦できる。
離陸さえできればそれでいい。動きさえすれば。

壁の修復をしていた男と話している間に分厚い雲が太陽を隠してしまった。水分を大量に含んだ重たい雲だ。太陽は、しばらく雲の中だろう。まだ日暮れには早いというのに辺りは薄暗く、雨の気配を感じる。
もっと探検してみたい。
星が好きなセイラはこの街の存在を聞いた時に、これこそ一石二鳥だと思った。〈妖精の森〉でこっそり読んだ天文図鑑には輝かしい天体が美しく写真で並んでいた。誰も物言わぬ空間の中でただひたすらに生き、それが見る者を圧倒する輝きになる。それに何より憧れるのだ。そんな星々を、街を挙げて研究していた所なのだから興味が湧かないはずがない。日が落ちる前に宿だけは見つけておきたいため、セイラは宿探しも兼ねて街を歩いてみることにした。
元々が宮殿だったという大図書館は立派だったが、豪華な建物はそれだけのようだ。この街のどことなくどんよりとした雰囲気は天気のせいだけではなく、所々にある放棄された天文施設が現在の街の状況を教えてくれている。高い塀と鉄の門扉、巨大な観測用ドームが、かつて研究が活発に行われていたことを思い起こさせるが、それらは全て主を失っていた。
川を覆う霧が流れてきたのか、それとも霧雨が降り始めたのか、急に空が暗くなった。もう少し散策を続けたかったが、雨の中ではそれもままならない。いつの間にか通りの街灯に灯が入り、足下には水たまりもできている。日が落ちて、雨脚も強くなった。〈バックノーム〉に聞いた宿で大人しく身体を休めることに決めたセイラが早足で歩くと、ぱしゃぱしゃと薄い水面が、夜道に一瞬輝く。
翌日、霧の中を歩き再び大図書館へとやって来た。今日はあの修復屋はいない。木製の艶めいた大きな扉を三度押し開け、やっと書架が見えたかと思うと、それは吹き抜けになっている広間の壁を覆い尽くしている。まるで本で壁に装飾を施しているようだ。この広い図書館のどこの部屋にも本が並べられているなんて、足を踏み入れた今でも想像が難しい。
【天文関係書】と書かれた銀色の看板が高い天井から釣り下がっていた。どうやらこの広間にある本は全てその部類らしい。そこからいくつもの本を書架から抜き出し、机に積み重ねては、それを読みふける。本当はあまり勉強したい訳ではないのだが、〈バックノーム〉のアドバイスを無視はできない。
入館してから二時間。三つ目の本の塔がまた書架から生まれたが、どうも操作マニュアル全般が見当たらない事が気になった。もしこれが手に入らなかったらスリツアン強奪が出来ても〈月〉に向かえない。丁度近くに棚から埃をはらっている職員らしき人物がいたため、尋ねてみる。
「探査船の操作マニュアルはどこにあるかしら?」
眼鏡の男性職員は、
「それならこちらです。ご案内しますよ」
と、手慣れた様子ではたきをズボンのベルトに挟みセイラを広間二階の奥の部屋へと促した。マニュアルがあるようで安堵しながら男性についてゆく。だがその扉には【関係者以外立入禁止】の文字がある。男性が扉を開けて部屋に入ると、セイラは足を止めた。
「ここは、入っても、いいところなの?」
セイラは警戒していた。入ってはいけないところに入ってしまえば、セイラが進んで決まりを破ったことになってしまう。万一、トラブルになってセイラが〈妖精〉だと知られるのはまずいし、もしかしたら、さっきまで夢中で本を読んでいたので何かのタイミングでまた耳でも見られたのかもしれなかった。
「大丈夫ですよ。ここは希望があれば自由に閲覧できるところで、少し大切な本を収蔵しているので皆さんに注意深くなってもらおうというだけです。その証拠に、ほら、鍵をかけていないでしょう」
男性が微笑みながら説明する。セイラは半信半疑だったが、マニュアルを読みたいので警戒しながらそろりと部屋へ足を踏み入れた。あまり広くないが石造りの装飾で美しく飾られた部屋に、所狭しと本が並べられている。スリツアンの資料が見たいと告げると男性は場所を教えてくれた。
「マニュアルならこの辺りです。この一列がスリツアンですね」
『星間探査船トゥセンノーク(Tcennoc)』の小さなプレートの下に、『星間探査船スリツアン(Sulituan )』のプレートが輝いていた。ずらりと並んだ資料の中に操縦マニュアルも確認できた。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
セイラがそう言うと、男性は軽くお辞儀をして先に部屋を後にした。バインダーで綴じられた分厚いマニュアルはスリツアンの物だけで三冊あるようだ。背表紙を軽くなぞってみる。日の当たらない所で沈黙していたそれは、変色せずに綺麗な白を保ったままだ。
しばらくすると、館内に音楽という空気が注ぎ込まれた。王が愛した『Moon River』は錆びついた閉館のチャイムだ。帰りがけ、ふとカウンターの前に並べられた〈新聞〉に目がいく。『宇宙科学博覧会』の文字が見出しの中にあったのだ。そこに記された日付は今日から十七日後。必要な情報が調子良く揃ってきていると思う。
「星が好きですか。それなら第三観望所に行くと良い。廃れてはいますが昔の住民たちが撮った状態の良い天体写真がまだ残っていますよ」
地図を差し出しながらそう声を掛けてきたのは、先ほどマニュアルの案内をしてくれた男性職員。慎ましやかな筆致で『オールト』と書かれた名札を胸に付けた彼は、暖かな声色に似合わず、この街のように曇った瞳を持つ人だ。
「ありがとう。いってみるわ」
これだけ立派な施設を持つ街なのだからさぞ鮮明な写真が撮れたことだろうと期待が膨らむ。博覧会まで二週間以上の猶予があるとわかったため、せっかくなので行くことにした。

セイラは一旦、宿に戻ってから第三観望所に向かった。雲に遮られて夕焼けを迎えられず空がそのまま暗くなってゆく時間、少し坂を上がる川沿いのまばらな街灯の下に第三観望所の傾いた看板がある。
手前の二階建ての四角い建物は小さく、壁に所々ヒビが入っていたり窓ガラスが割れていたりする。入口のドアの窓から中を覗いてみたが、がらんとしていて何もなさそうだ。事務所か何かだろうか。奥には長い蒲鉾屋根の背の高い大きな建物があった。
多分、観望エリアだろう。様子を聞こうにも、周囲に人影はない。
セイラは真っ直ぐに奥の建物に向かい、正面入口の扉を開いた。
向かって正面の対面する壁が、全て取り去られている。まるで巨大な飛行機の格納庫の様で、その先には雨降りの夜空が見える。誰もいない。視線を左右に振るとぼんやりと簡易照明が点いていて、壁の両側に大小様々の色鮮やかな天体写真が飾られているのが見えた。
建物の中に入ったセイラは、壁に展示された美しい写真を一つ一つ確かめるように覗き込んでいった。惑星、星雲、銀河、星団、小惑星に彗星……多くの人々がその美しい色彩を捉える腕を競ったのだろう。撮影者と天体の名前、撮影日が写真の下に簡素に貼られている。
「すごい。ここではこんなに綺麗に星が見えていたのね」
 月面の観測基地の写真もあった。大きなドームの背景には、湾曲した〈月〉の地平線に切り取られた地球が写っている。その先には、クレーターの一つ一つまでくっきりと捉えた満月の写真があった。セイラは悲しげな顔でそれを見つめ、満月の縁をそっとなぞった。
「あなたの孤独が羨ましい」
その時、奥の方で雨音の中に誰かのくしゃみが響いた。
少し驚いて音の出所をよく見ると奥の中央の方に薄い明りが灯っている。〈望遠鏡〉をいじる人の影がその中で動いていた。その人物もこちらに気づき、
「あ、電気、点けましょうか?」
 と案外穏やかな声を投げかけてきた。セイラは一瞬戸惑いながらも、お願いします、と一言返した。
「気づかなくて申し訳ない。どうぞ好きに見て行って」
 明るくなった建物の中で、セイラは目の前に無数の〈望遠鏡〉や何かしらの観測器、機械の塊のような物が並べられているのに気付いた。そしてその中に声の主の青年がいる。
「直しているの?」
セイラは機器の隙間から青年に声を掛けた。が、自分の中でその行為をすぐに反省した。用もないのに自分から話し掛けてしまうという、今まで避けてことを、思わずしてしまった。セイラが計画しているスリツアンの強奪は、どう言い訳したって犯罪行為だし、無事成功したとしても、〈妖精〉が関わっていることが知られたら、きっと多くの〈妖精〉に迷惑をかけてしまう。そんな行為だったからだ。
「そう。街中の観測機器をここに集めてる」
 考える間もなく簡素な返答が返ってきた。なんだろう。この人は、なんだか……
姿を現した青年は、背が高く薄紫の髪を持った大人しそうな人物だった。何故か彼の落ち着いた声と透けるような瞳はセイラを安心させる。自分と同じような雰囲気を纏っていると感じるのだ。その姿を見ただけでこの人物は安全そうだと、直感してしまう。
「私はセイラ。名前は?」
「……〈エジワース〉です」
 そう言ってまた新たな〈望遠鏡〉の修理に取り掛かる。ざっと見渡しただけでも三十台は置いてあり、綺麗な物も壊れた物もある。屈折式、反射式、本で見た通りの構造だ。
ああ、そうだ。あれは目的以外に興味がない目だ。だから関わっても大丈夫だと思えるんだ。視界の隅で彼を見て、その感覚を思い出した。安心感の根拠が判明すると、彼に対する興味が湧いてきた。
「昔はここでみんな星を見ていたのね。あなたも観測が好きなの?」
「……いや、僕より僕の恋人がとても好きだった」
 作業を続けながら彼は答え、言葉を続けた。
「今は川の向こうの東側にいる。あの日までは一緒に星を見ていたんだけど……今は、会えないから……。彼女が〈セドナ〉がいつかこっちに来た時に悲しまないように。修理をしてるんだ」
「〈渡し船〉が一日一本あるわよね。乗ればいいのに」
 川を覆う濃い霧は、橋の再建を妨げている。強力な護符で守られた船でしか川を越えられないのだ。
「どうやって〈セドナ〉に声をかけて良いかわからない。ずいぶん、会っていないからね」
「不器用なのね」
「そうだね、きっと不器用なんだろう」
 言い終えてやっと工具を置いた彼は一息ついて片づけを始めた。展示された写真の一部しか見ていなかったので、また来ても良いかとセイラが訊ねると、毎日いるから好きな時にとのことだった。
 外はまだしとしとと雨が降り続いている。観測所の近くには街を分断する川につながる水路があり、そこには小さなボートがあった。中には頑丈そうな箱があり、〈エジワース〉が持っていた工具にある名前と同じ筆跡で『レンズ』と書かれていた。多分、重たいものを運ぶのに便利なのだろう。けれど、ボートもあるのに何故彼は恋人に会いに行かないのだろう。
 セイラは、ふと、思いつく。この船で川を渡れば、〈渡し船〉を使わずにすむ。賑やかだった頃に比べ、人がずいぶん減ったとは言え、一日一本しかない〈渡し船〉は混み合う。万一、船のような逃げ場のない場所で、セイラが〈妖精〉だと知られてしまったら。
 小さなボートで霧に覆われた川を渡るのは危険かもしれなかった。それでも沢山の人とぎゅうぎゅうになって乗り込むよりは良い。それに、セイラは〈妖精〉なのだ。川はきっと、セイラの味方をしてくれる。
 セイラは、〈エジワース〉と〈セドナ〉のことを思う。どうして、〈エジワース〉は川を渡って〈セドナ〉に会いに行かないのか。それを言えば、〈セドナ〉も同じだ。天文街を引き裂いた川が、二人の間をどのように引き裂いたのか。天に見放された天文街に、また同じく川に阻まれ取り残された星座神話のような彼ら。セイラは、二人が再会できたならいいのにと考えた。いつか読んだベガとアルタイルの物語……。
〈月〉に行くというセイラの目的に、川に引き裂かれた二人は関係が無い。それでも、二人が幸せになってほしいと願うのは、セイラ本来の性格だ。彼女は本来世話焼きなのだ。

翌日もセイラは大図書館に向かった。人気のない図書館で、セイラは一人でスリツアンのマニュアルに向かう。マニュアルは思ったよりページが多く、書き写すのは大変だったが、セイラは焦ってはいなかった。何より、博物館での展示が始まるまで時間があるし、展示会は一ヶ月以上続くのが当たり前だ。それより、間違って書き写し、スリツアンを操縦できなくなることの方が心配だった。
マニュアルの中には、いくつも図面があった。流線型を基調としたスリツアンの姿は、かつてセイラが夢に見たものに似ている。マニュアルを書き写す手を止め、セイラは〈月〉へと向かうスリツアンを夢想し、そのスリツアンを操る自分自身を夢想する。それは、〈妖精の森〉にいた頃のセイラには想像できないほどの具体性を持っていた。
「あまり根を詰めるのは良くないですよ」
 セイラに声をかけたのは、マニュアルの場所を教えてくれた〈オールト〉だった。
「第三観望所で〈エジワース〉という人に会いました。どこか、あなたに似ているような気がします」
もしかすると、〈オールト〉はセイラを〈エジワース〉に会わせようとしたのではないか。セイラはそんな疑問を抱いた。
「あれは、私の弟です。弟と恋人の〈セドナ〉は星を見ることが好きでした。それなのに、この街は雨と霧の街になってしまった」
「お気の毒です」
 そう言ったセイラを、〈オールト〉の鋭い視線が射貫いた。
「あなたは〈妖精〉ではないのですか? 図書館の中でもフードをかぶり、耳を見せようとしないし、それに、あなたはスリツアンのことを知りたがった」
〈オールト〉の言葉を否定してみても始まらない。フードの下にある耳はごまかしがきかない。
「まあ、その耳は隠しておくことです。特に、この街では」
セイラは〈オールト〉の発した言葉の意味が飲み込めない。
「どういうことですか?」
「知らないとは言わせませんよ。〈月〉で起きていることを隠すために、〈妖精〉がしたことです」
「……私は何も知らない」
 セイラの言葉に〈オールト〉はため息をついた。
「あなたが知らないと言うなら、それでも良いでしょう。ただ、この部屋を自由に使わせる代償として、弟を〈セドナ〉に会わせてください。さもなければ、あなたの旅はここで終わることになります」
 〈オールト〉は重そうな鍵の束をセイラに見せ、灰色の瞳でセイラを見据えた。同意しなければ、この部屋を使わせないという意味なのか、セイラは黙って頷くより無かった。

 大図書館の閉館時間が来て、セイラは第三観望所へと向かう。〈エジワース〉は〈望遠鏡〉の修理にしか関心が無く、話を続けるのも難しかった。何を話していても修理の手を止めようとしないし、あまりしつこくして追い出されては元も子もない。だから他愛のない天文関係の事を中心に話題を振っては、時々川や街、彼の恋人の話をし、会いに行ってはどうかと軽く訊ねた。
大図書館でマニュアルを書き写し、閉館したら観望所にいる彼の元に向かう。そんな日が続く。
「〈セドナ〉も東側にいるんでしょ。私も東に行きたい」
そう言ったセイラに〈エジワース〉はあまり驚く様子もなく、頑張ってと微笑むだけだった。他人に無関心なのだ。
それでも、セイラは粘り強く〈エジワース〉に話しかけ続けた。そのうちに、自分のことを話すのに積極的ではなかった〈エジワース〉が、ぽつりぽつりと話し始める。
川の流れが変わったあの日、彼はありったけの勇気を振り絞り、同棲を申し出るつもりで〈セドナ〉を夕食に誘っていた。今では川に分断された東側にある小さな店で、仕事が終わってから向かうには、ちょうど良いところだった。
「……でも、僕は行かなかった」
朝はいつものように晴れていた。それが、昼過ぎから急に大粒の雨が降り出した。街を東西に分けていた小さな水路に、上流から大量の水が流れ込んだ。街の一部に避難勧告が出されたのはちょうど仕事が終わる頃。
「でも、その頃にはもう東側には行けなくなってたんでしょう?」
セイラの言葉に、〈エジワース〉の表情がゆがむ。
「行こうとして行けなかったのならまだいい。僕は行こうともしなかったんだ」
水路から大量の水があふれ出していた。吹き荒れた風に飛ばされた木の枝が、観測所の窓を破り、雨が吹き込んでくる中、〈エジワース〉は展示物を守らなければならなかった。貴重な写真、標本、観測機器。三日の間降り続いた雨の中、〈エジワース〉は展示物を守るために休む間もなく働いた。
「でも、それは仕方の無いことではなくって?」
やっと雨が上がった四日目の朝、街は川に分断されていた。
「今更、どんな顔をして〈セドナ〉に会いに行けば良かったって言うんだ? 僕は、〈セドナ〉のことをすっかり忘れてしまっていたんだ。それに、〈セドナ〉だって……」
自分から連絡するのは怖かった。あの日、仕事を早くに切り上げ、約束の店に向かうべきだったのだ。でも、それをしなかった自分を〈エジワース〉は責めていた。
〈セドナ〉からの連絡も無かった。もう、〈望遠鏡〉のことなどどうでも良いのだろうと、〈エジワース〉は思った。川を覆う霧が、街の東西の連絡を難しくしていたのを知ったのは、ずいぶんと後になってからのことだ。
時間の経過と共に、〈セドナ〉に会いに行くことが怖くなっていた。〈セドナ〉を夕食に誘ったときの勇気は消え失せ、会うことすら拒絶されるのではないかという恐怖に変わっていたのだ。
〈分かたれた天文街ノーフォレイヴ〉に着いて一週間ほどで、大図書館にあったスリツアンのマニュアルは全て書き写し終わっていた。セイラは〈オールト〉の言葉を思い出す。〈オールト〉は、〈エジワース〉を〈セドナ〉に会わせなければ、セイラの旅がここで終わると言ったのだ。
 状況が変化したのは、マニュアルを写し終わったその夜。雨音が響く夜だった。
「ラジオ聴いた?」
「いや、ニュースとかは見ないし聴かない」
「東側で起きてる暴動知らないの?」
「東のどこで?」
〈エジワース〉のコーヒーを淹れる手が止まった。
「それ以上の事はわからなかったわ。でも怪我人が出てるってのは聞き取れたの。まだ、続報があるかもしれない」
 セイラがラジオのスイッチを入れると、雑音の中に確かに暴動や放火、けが人が出ているといったことが断片的に聞き取れる。
「ねえ、〈セドナ〉のことを放っておいても良いの?」
心配そうに呟いたセイラの言葉。この一言が〈エジワース〉に突き刺さる。嫌われてしまうくらいなら、まだ耐えられる。でも、〈セドナ〉の身に何かあったら、それこそ取り返しがつかない。きっと、今以上に後悔することになるだろう。
「君は〈妖精〉だろ。君がいれば、小さなボートでも霧に覆われた川を渡れる」
 また見抜かれている。フードが怪しまれたから、髪で隠すようにしたのに、十分じゃなかった。
「なぜなの?」
「あの霧は〈妖精〉の仕業だからさ。〈月〉を巡って、諍いがあったのは知ってるだろ?」
 セイラは〈エジワース〉の言葉に虚を突かれた。〈荒れ野の賢者〉は、人と〈妖精〉が疎遠になったと言った。その原因が〈月〉なのだろうか。
「今は暗いし、雨も降ってる。準備もあるから、明日にして」
「じゃあ、明日の朝だ。夜明けと同時に向こうの水路にある船着き場に来て」
〈エジワース〉は急いで鞄に荷物を詰めて観測所から走り去って行った。
 セイラがそれを見届けて観望所を出ようとすると、建物の陰に誰かが立っている。
「あなたでしょ。どうやったの?」
「いろいろとコネがあるからね。君の方は……本当に〈月〉に行くのか?」
「もちろん」
「〈月〉は死んだ世界だ。死んだ世界に行ったって、何にもならない」
 灰色の瞳の男は、冷たく言い放った。
「本当ならね」
「自殺しに行くようなものだ」
「放っておいてよ。それより、マニュアルに抜けがあるわよ」
 書き写した中に、別冊参照と書かれていた。その別冊が抜けている。
「真面目に書き写してたようだね。本気で〈月〉に行きたいみたいだ。あまり重要じゃないと思うけれど、〈セドナ〉に聞いてみるといい。彼女はマニュアルの別冊に興味を持っていたようだから」

霧の匂いにはなじみがあった。〈妖精の森〉を人里から隠す霧と同じ匂いだ。霧の正体をその身に感じながら、船は濃い霧をかき分けて進んでゆく。セイラは日の昇らぬ内に〈エジワース〉と船に乗り込んだ。雨が強くなるという天気予報を、〈エジワース〉も聞いていたらしい。
船はゆっくりと川を横断する。早朝の川は沈黙を守りつつ従順に、実に穏やかに流れていた。次第に夜が明ける。見えてきた白い粒子による閉鎖が二人を少し息苦しくさせた。
「もう間もなく対岸に着く。危ないから……着いたら君も一緒に〈セドナ〉を探してくれ」
 双眼鏡で対岸を確認し、〈エジワース〉は言った。
「少しならいいけど危険な所には近寄りたくない」
「わかった。それで構わないよ」
船がざりざりと音を立てて浅瀬の砂利に滑り込む。その音以外には何も聞こえない変わらぬ静寂がこの東側も包んでいた。
「〈セドナ〉!」
突然、〈エジワース〉が叫んだと思うと、目の前の土手を駆け上る。そこには、黒い髪の女性がいた。
「〈エジワース〉!」
土手の上で抱き合う二人を、セイラはあきれた様子で見ていた。何で、こんなことに付き合わせられることになったのだろう。
「あなたが、セイラね。とても勇敢なのね。〈エジワース〉を連れてきてくれてありがとう」
目の前の〈セドナ〉を見て、セイラは誰かに似ていると思った。
「連れてきたかったわけじゃないわ。でも、私は、こっち側に来る必要があったし、あなたに聞かなければならないこともある」
 マニュアルの別冊。スリツアンの操作方法そのものではなく、スリツアンの記録装置のこととか、知らなくてもなんとか動かせそうな情報だったが、それでも欠落を見過ごすことはできない。
「〈オールト〉から聞いてるわ。私には結局、理解できなかったけど、あなたならわかるかも。これが別冊の写しよ」
 写しを受け取ったセイラは、差し出された手を見て気づいた。〈セドナ〉は〈バックノーム〉に似ている。
「気がついたようね。私には〈妖精〉の血が混ざっているの。あの日からしばらく身を隠していなければならなかった私は、川を渡るのが怖かった。居住エリアが多い東側と違って、天体観測施設があった西側の方が危険だから」
 セイラの反応を〈セドナ〉は誤解していた。でも、〈セドナ〉に〈妖精〉の血が混ざっているのなら、〈オールト〉や〈エジワース〉がセイラのことを、すぐに〈妖精〉だと見抜いた理由がわかった気がする。彼らからすれば、どこか似た雰囲気をまとっているのだろう。
明け方の濃密な霧が体に纏わりついて煩わしい。結局、〈セドナ〉と〈エジワース〉は、お互いに臆病だっただけじゃないかと思うと、セイラは少しばかり腹立たしい気分になる。
「こうして会えたんだから、良かったじゃない。でも、なぜ、身を隠さなければいけなかったの?」
「もうどうでも良いことよ。〈月〉は死の世界なのだから」
セイラは〈セドナ〉の言葉に拒絶を感じる。まことの独立を果たしたという〈月〉と、死の世界。そのどちらが本当なのか、行ってみればわかることだ。
「君は、本当に〈月〉に行きたいのか?」
〈エジワース〉の言葉に、セイラはなぜかいらだちを覚える。まるで、馬鹿なことをしようとしていると言われたかのように感じてしまうのだ。
「あなたには関係ないわ。ずいぶん時間を無駄にしたから、これで失礼するわ」
そう言って歩き出した東側の街は、居住エリアが多そうなだけで西側とあまり変わらない。何の気配もない奇妙な街を早足で歩く。
町の東の門には駅がある。その駅からは、次の目的地、スリツアンが展示される博覧会が開催される街まで、鉄道が通じている。
すべてのマニュアルを手に入れた以上長居は無用であり、名残惜しさなどないのだ。
「やっぱり、暴動の痕なんてどこにもないじゃない」
 そう、独り言を言ったセイラの耳に、どこからか霧笛が聞こえた。

「Utopia」第3話に続く。