「犬の心臓。ブルガーコフ(分載第四回)」

(承前)

 「駄目、駄目、駄目です」ボルメンターリがしつこく言った。「ナフキンを付けなさい」
 「何だよ、まったく」不満そうなシャーリコフがつぶやく。
 「ありがとう、先生」フィリップ・フィリッポヴィチが優しく言った。「私はもう、注意するのにうんざりしてしまってね」
 「とにかく、ナフキンを付けるまで、食べてはいけません。ジーナ、シャーリコフのマヨネーズ和えを下げてください」
 「『下げてください』って何だよ?」シャーリコフはしゅんとなった。「すぐ付けるよ」
 左手で皿をジーナから覆い隠し、一方、右手でナフキンを襟元に突っ込むと、床屋の客に似た姿になった。
 「それにフォークを使ってくださいよ」ボルメンターリが言い足した。
 シャーリコフは長いため息をついてから、濃厚なソースの中のチョウザメのかけらをとりはじめた。
 「俺、もっとヴォトカ飲もうかな」シャーリコフが尋ねるように言った。
 「まだ足りないのですか?」ボルメンターリが訊く。「最近、ヴォトカを飲みすぎですよ」
 「もったいないのか?」シャーリコフが訊き、眉をひそめて上目遣いをした。
 「馬鹿なことを言って……」フィリップ・フィリッポヴィチが厳しい口調で話に割り込んだが、ボルメンターリがそれをさえぎった。
 「ご心配なく、フィリップ・フィリッポヴィチ。ここは私が。シャーリコフさん、あなたは馬鹿げたことを言いますし、一番けしからんのは、そういう馬鹿げたことを断固としてきっぱり言うところですよ。私はもちろん、ヴォトカがもったいないと思っているわけではありません。それに私のではなくて、フィリップ・フィリッポヴィチのヴォトカなのですから。ただね、ヴォトカは体によくないのです。これが第一点。第二に、あなた、ヴォトカなしでもひどい振る舞いをするでしょう」
 ボルメンターリは補修テープを貼られた食器棚を指した。
 「ジヌーシャ、私にもっと魚をくださいな」と教授が言った。
 その間、シャーリコフはガラスびんに手を伸ばし、ボルメンターリを横目で見てから、脚付きの小さなグラスを満たした。
 「それに、他の人たちに勧めなければいけません」とボルメンターリが言う。「さて、まずはフィリップ・フィリッポヴィチに、それから私に、最後に自分です」
 シャーリコフは、かすかにそれとわかるような嫌みな笑みを口元に浮かべると、ヴォトカをグラスに注ぎ分けた。
 「うちは何でもかんでもパレードみたいだな」彼はそう口を切った。「ナフキンはそこ、ネクタイはここ、『申し訳ありません』だ、『お願いします』だ、『メルシー』だ、だが、本当にするには、こういうのでは駄目なのだ! 自分で自分を苦しめている、帝政時代みたいに」
 「その『本当に』というのはどういうものか、訊いても構いませんかね?」
 シャーリコフはフィリップ・フィリッポヴィチのその問いには何も答えず、グラスを持ち上げて言った。
 「さて、皆様の、願って……」
 「あなたのも!」いくぶん皮肉っぽく、ボルメンターリが応じた。
 シャーリコフはヴォトカを喉に流し込むと、顔をしかめ、一切れのパンを鼻先まで持ち上げてにおいをかぎ、それから飲み込んだが、その際、目が涙でいっぱいになった。
 「実体験」突然、フィリップ・フィリッポヴィチが、まるで我を忘れたように口走った。
 ボルメンターリは驚いてそちらを横目で見た。
 「失礼ですが?」
 「実体験だ」フィリップ・フィリッポヴィチは繰り返し、悲しそうに頭を振った。「もうなす術はないのだ、クリム!」
 ボルメンターリはあふれるような好奇心で、フィリップ・フィリッポヴィチの目を鋭く見つめた。
 「そう思っていらっしゃるのですね、フィリップ・フィリッポヴィチ?」
 「思っているのではない、確信しているのです」
 「しかしまさか……」ボルメンターリは言いかけたが、シャーリコフの方をちらりと見て口をつぐんだ。
 当の本人はいぶかしげに顔をしかめた。
 「Spëter(後ほど)……」フィリップ・フィリッポヴィチが小声で言った。
 「Gut(わかりました)」と助手は答えた。
 ジーナが七面鳥を運び込んできた。ボルメンターリはフィリップ・フィリッポヴィチに赤ワインを注ぎ、シャーリコフにも勧めた。
 「いらない。ヴォトカを飲む方がいい」その顔は脂でてかてかし、額には汗がにじみ出て、本人はご機嫌だった。フィリップ・フィリッポヴィチも、ワインのあとは優しくなった。その目は晴れやかになり、前よりも好意的な眼差しでシャーリコフの方を見ている。ナフキンを付けて座っているシャーリコフの黒い頭は、サワークリームの上にとまっている蝿のようだ。
 ボルメンターリはというと、食事が済んで元気づき、何かしたいようである。
 「さて、今晩は何をしましょうか?」とシャーリコフに尋ねる。
 シャーリコフは目をぱちぱちさせると、答えた。
 「サーカスに行くのが一番いいな」
 「毎日サーカスですか?」ひどく優しく、フィリップ・フィリッポヴィチが意見を述べた。「それはずいぶん退屈ですよ、私が思うには。私だったら、一度くらいはお芝居に行きますね」
 「お芝居には行かない」シャーリコフは嫌そうに答えて、口元で十字を切った。
 「食卓でのしゃっくりは、他の人の食欲をなくさせます」ボルメンターリが機械的に注意した。「失礼……。お芝居が好きではないって、一体どういうわけで?」
 シャーリコフは双眼鏡でものぞくように空のグラスの中を見ると、しばらく考え、唇をとがらせた。
 「くだらないだろ……。しゃべって、しゃべって……。反革命的なだけだ」
 フィリップ・フィリッポヴィチがゴシック様式の椅子の背の上で反り返り大笑いしたので、口内の金の柵のような金歯がきらきら光り出したほどだった。ボルメンターリは頭を振っただけだった。
 「何か読んだらどうですか」ボルメンターリが提案した。「さもないとですね……」
 「もうたくさん読んでるよ……」シャーリコフはそう答えると、急に猛獣のように素早く、自分のグラスに半分のヴォトカを注いだ。
 「ジーナ!」フィリップ・フィリッポヴィチが不安そうに声を上げた。「ヴォトカを片づけておくれ! もういらないから。それで、何を読んでいるのかな?」
 教授の頭の中に、突然ある光景がひらめいた。無人島、やしの木、動物の毛皮を身につけ、帽子をかぶった人物。『ロビンソン・クルーソーに違いない……』
 「あれは……。何と言ったっけ……。往復書簡集、エンゲルスと……あいつ何という名前だったかな?――カウツキーだ」
 ボルメンターリは白身肉を運びかけたフォークの動きを止め、フィリップ・フィリッポヴィチはワインをこぼしてしまった。その隙をねらって、シャーリコフはヴォトカを飲み干すのに成功した。
 フィリップ・フィリッポヴィチは食卓に肘をつくと、シャーリコフを見つめ、尋ねた。
 「教えていただけませんか。読んだものに関して、どんな考えがおありか?」
 シャーリコフは肩をすくめた。
 「俺は賛成しないね」
 「誰に? エンゲルスですか、カウツキーですか?」
 「二人ともだよ」とシャーリコフは答えた。
 「それは素晴らしい、神かけて!〽他の娘が君と大差ないと言うやつら、皆~。では、ご自分の方からこうしたらいいという意見はありますかね?」
 「うん、意見か……。書いて書いてるだろ……大会、どこかのドイツ人……。頭が破裂しそうだよ。全部取って、それから分ければいいんだ……」
 「私もそう考えていましたよ!」テーブルクロスを手のひらでばんと叩き、フィリップ・フィリッポヴィチが叫んだ。「まさにそのように思っていました!」
 「どういう方法がいいのか、ご存知なんですか?」ボルメンターリが興味深そうに尋ねる。
 「方法なんて」ヴォトカを飲んでおしゃべりに拍車のかかったシャーリコフが説明する。「難しいことではないんだ。こういうこと。ある人は七部屋の家で広々と暮らし、ズボンを四十本持っている。一方で、ぶらぶらして、ゴミ箱で食べ物を探すやつもいる」
 「七部屋って――あなた、もちろん私のことをほのめかしているんですな?」勝ち誇ったように目を細めたフィリップ・フィリッポヴィチが尋ねた。
 シャーリコフは縮こまり、黙り込んだ。
 「まあ、よろしい! 私は分配に反対ではないのでね。先生、昨日断った患者は何人でした?」
 「三十九人です」ボルメンターリが即答した。
 「ふむ……。三百九十ルーブル。我々男性三人の責任としましょう。ご婦人のジーナとダーリヤ・ペトローヴナは勘定に入れないことにします。シャーリコフ、あなたからは百三十ルーブルいただきます。がんばって払ってください」
 「たいしたもんだ」シャーリコフがびっくりして答えた。「何のためだ?」
 「水栓と猫のため」フィリップ・フィリッポヴィチが、皮肉を帯びた穏やかさから脱して、突然怒鳴った。
 「フィリップ・フィリッポヴィチ!」ボルメンターリが心配そうに声を上げた。
 「ちょっと待っておくれ! あなたがしでかした騒ぎのためです。あのせいで、診察ができなかったんですよ! まったく許しがたい。人間が原始人みたいに家じゅうを跳び回って、水栓を壊すなんて! 誰がマダム・ポラスーヘルの猫を殺しましたか? 誰が……」
 「シャーリコフさん、あなた一昨日、階段でご婦人に噛みつきましたね」ボルメンターリが叱りつけた。
 「あなたはね!」フィリップ・フィリッポヴィチが叫んだ。
 「あの人、俺の顔をはたいたんだぞ!」シャーリコフがきーきーわめき始めた。「俺の顔は公共物じゃないんだ!」
 「それはあなたがあの人の胸をつねったからですよ!」ワイングラスをひっくり返して、ボルメンターリが叫んだ。「あなたはね……」
 「あなたは発達の最低段階にありますよ」フィリップ・フィリッポヴィチがさらに大きな声で叫んだ。「まだまだ形成途上で、知力に関しては弱い生き物で、あなたの振る舞いのすべてがまるで獣のようだし、大学教育を受けた二人の前で、いかにすべてを分配するかといった、宇宙的規模で宇宙的馬鹿馬鹿しさの助言をまったく鼻持ちならない無遠慮さで披露してくださるし、それと同時に、歯磨き粉をたくさん食べましたね!」
 「一昨日のことです」ボルメンターリが確認するように言った。
 「そうですよ」フィリップ・フィリッポヴィチが怒鳴った。「肝に銘じなさい――ところで、なぜ鼻の亜鉛軟膏をふきとってしまったのだ?――あなたがしなければならないのは、人の話を黙って聞くこと! 勉強して、少しでも受け入れられるような社会人になれるように努力しなさい! ところで、どこのろくでなしがその本を寄越したのかね?」
 「あなたにとっては、みんなろくでなしなんだな」二方向から攻撃されて唖然とさせられたシャーリコフは、驚きながら返事をした。
 「私にはわかるぞ!」憎しみで赤くなりながら、フィリップ・フィリッポヴィチが叫んだ。
 「そうですか。うん、シヴォンデルが寄越したのだ。あの人はろくでなしじゃない。俺が成長できるように……」
 「カウツキーを読んでどんな風に成長したか、私にはわかりますよ!」声を荒らげ顔色を黄色くしながら、フィリップ・フィリッポヴィチが叫んだ。そしてすぐに壁のボタンを猛然と押した。「今日の出来事がそれをこのうえなく証明している! ジーナ!」
 「ジーナ!」ボルメンターリが叫ぶ。
 「ジーナ!」驚いたシャーリコフが吠える。
 青ざめたジーナが走ってやってきた。
 「ジーナ! 応接室に……。それは応接室にあるのかね?」
 「応接室に」シャーリコフは従順に答えた。「緑色、硫酸塩みたいな」
 「緑色の本だ……」
 「ふん、今から焼いちゃうのだな!」シャーリコフが絶望して叫ぶ。「あれは公共物なんだ、図書館から借りた!!」
 「往復書簡集、何という名前だったかな? エンゲルスとあの何とかというやつ……。それをペチカへ!」
 ジーナは向きを変えると飛んでいった。
 「まったく、あのシヴォンデルを今すぐ縛り首にしてやりたい」フィリップ・フィリッポヴィチは七面鳥の手羽に猛然と食らいつきながら、声を上げた。「驚くべき屑人間がこの建物の中にいる、できものみたいに。それだけでなく、ありとあらゆる無意味な怪文書を新聞に書き散らしている……」
 シャーリコフは教授を憎らしげに、そして嫌みったらしく横目で見始めた。フィリップ・フィリッポヴィチも相手を流し目で見て、黙り込んだ。
 『ああ、この家ではどうやら、よいことは何も起こらないらしい』ボルメンターリは突然、予言めいたことを思った。
 ジーナが、丸い大皿に載せた、右側がにんじん色で左側がきつね色のラムケーキと、コーヒーポットを持ってきた。
 「俺は食べないよ」すぐにシャーリコフが、威嚇的かつ憎らしげに宣言した。
 「誰もあなたには勧めていませんよ。礼儀正しくしなさい! 先生、どうぞ」
 沈黙の中で食事が終わった。
 シャーリコフはポケットからしわくちゃになった紙巻き煙草を取り出すと、ふかしはじめた。コーヒーを飲み終えたフィリップ・フィリッポヴィチは懐中時計に目をやり、そのボタンを押した。すると、それは優しく八時十五分を知らせた。フィリップ・フィリッポヴィチはいつものようにゴシック様式の椅子の背の上で体を反らせると、小卓の上の新聞に手を伸ばした。
 「先生、これと一緒にサーカスに行ってくれませんか。ただ、お願いですから見てください。演目に猫はいませんね?」
 「あんなならず者がサーカスに入れてもらえるもんか!」シャーリコフが頭を振りながら、不機嫌そうに言った。
 「うむ、入れてもらえるものはいくらでもいるのだ」フィリップ・フィリッポヴィチは曖昧に答えた。「どんなのがありますか?」
 「ソロモンスキーでは」ボルメンターリが読み始める。「四人の何とか……ユッセムスと死点人間」
 「そのユッセムスとは何ですか?」フィリップ・フィリッポヴィチが訝しげに尋ねた。
 「さっぱりわかりません。初めてこういう言葉に出会いました」
 「ふむ、ではニキーチンのところを見た方がよいですな。すべてはっきりしていないといけないから」
 「ニキーチンでは……。ニキーチンでは……ふむ……象と、人間の敏捷性の極限」
 「そうですか。象に関してはどう思われますかな、シャーリコフさん?」フィリップ・フィリッポヴィチはシャーリコフに、疑い深そうに尋ねた。
 相手はむっとした。
 「何ですか、俺にはわからないってことですか? 猫は別問題で、象は役に立つ動物だ」とシャーリコフは答えた。
 「それなら結構。役に立つというなら、行って見てきなさい。イヴァン・アルノリドヴィチの言うことには従いなさいね。そして、軽食売り場ではどんな会話もしないように。イヴァン・アルノリドヴィチ、シャーリコフにビールを勧めないよう、心からお願いします」
 十分後、イヴァン・アルノリドヴィチと、つば付き帽をかぶり、襟を立てたラシャのコートを着たシャーリコフは、サーカスに出かけた。家の中が静かになった。フィリップ・フィリッポヴィチは自分の書斎にいる。緑色の重厚な笠の下の灯りをつけると、巨大な書斎の内部がとても穏やかになり、教授は部屋の中を歩き回りはじめた。長いこと激しく、葉巻の先に灯っているのは、薄緑色の火。教授は両手をズボンのポケットに入れた。重苦しい思いが、禿げあがったその学者らしい額の頭を悩ませる。唇を鳴らし、歯を閉じたまま『〽ナイルの聖なる岸へ~』と歌い、何事かをつぶやく。ついに葉巻を灰皿の上に置き、ガラスでできている戸棚の方に向かった。そして書斎全体が天井からの強力な三つの灯りで明るくなった。三段目のガラス棚から、フィリップ・フィリッポヴィチは細いびんを取り出し、顔をしかめてそれを灯りのもとで観察しはじめた。透明でどろりとした液体の中で底に沈むことなく、シャーリコフの脳の奥底から取り出された白っぽい固まりが浮いていた。肩をすくめ口元をゆがめ、ふむと言いながら、フィリップ・フィリッポヴィチはそれをむさぼるように見つめた。まるで、白くて沈まない固まりの中に、プレチーステンカの家での暮らしの天地をひっくり返した、驚くべき出来事の原因を見つけ出そうとしているかのように。
 この碩学がそれを見つけ出したということは大いにありうる。少なくとも、教授は脳下垂体を満足するまで見つくしてしまうと、びんを戸棚にしまって鍵をかけ、その鍵はヴェストのポケットに入れ、頭を両肩の間に埋めて、両手を上着のポケットの奥底に突っ込んだ姿勢で、革のソファに体を投げ出しのだった。二本目の葉巻を長い時間かけて吸い、その端をすっかり噛みつくすと、ついに完全なる孤独の中で、緑色に照らし出され、白髪のファウストのように叫んだ。
 「神かけて、やってみるぞ!」
 それに対して返事をする者はいない。家中でありとあらゆる音がやんだ。オブーホフ横町では、よく知られているように、十一時には往来がおさまる。ごくごく稀に、帰宅が遅くなった歩行者の足音が遠くで響き、カーテンの向こうのどこかでこつこつと音を立てているが、やがて静かになる。書斎では、フィリップ・フィリッポヴィチの指の下で、ポケットの中の懐中時計が優しく鳴っている。教授はボルメンターリ医師とシャーリコフがサーカスから戻ってくるのを、今か今かと待っていた。

 フィリップ・フィリッポヴィチが何を決意したのかは分からない。次の一週間、教授は何も特別なことは始めなかったが、もしかしたら、教授が何もせずに過ごしたために、この家の暮らしが事件でいっぱいになったのかもしれない。
 水と猫の出来事から約六日後、住宅委員会からシャーリコフのところに、実は女性だった若い人がやってきて、シャーリコフに書類を手渡し、シャーリコフはそれをすぐに上着のポケットにしまい、そのあとすぐにボルメンターリ医師を呼んだ。
 「ボルメンターリ!」
 「いけません、私のことは、どうか名前と父称で呼んでください」ボルメンターリは顔色を変えながら返事をした。
 注目すべきは、この六日間で外科医は自分の被養育者と八回ほどけんかをし、オブーホフの部屋の雰囲気が息詰まるようなものであったということだ。
 「それでは俺のことも名前と父称で呼んでくださいよ」シャーリコフが至極当然の返答をした。
 「駄目です!」扉口でフィリップ・フィリッポヴィチが怒鳴った。「私の家の中で、あんな名前と父称で呼ぶのは許しません。『シャーリコフ』となれなれしく呼ぶのをやめてほしいというのなら、私とボルメンターリ先生は『シャーリコフさん』と呼ぶことにしますよ」
 「俺は『さん』じゃないや。『さん』の付く人はみんなパリにいるのだ」とシャーリコフは怒鳴った。
 「シヴォンデルの仕業だな!」フィリップ・フィリッポヴィチが叫んだ。「まあ、よろしい、あのろくでなしには仕返しするつもりだ。私がこの住まいにいるうちは、ここには『さん』が付く者以外は誰も存在しないのだ! そうでない場合、私、あるいはあなたがここから出ていく、最も正確に言えば、あなたですがね。今日、新聞に広告を出して、本当に、あなたに部屋を見つけてあげますから!」
 「ふん、そうかい、俺はここから出ていくような馬鹿なのか」ひどくはっきりとシャーリコフが答えた。
 「何だって?」フィリップ・フィリッポヴィチが尋ね、ひどく顔色を変えたので、ボルメンターリがそばに飛んでいって、優しく心配そうに教授の袖をつかんだ。
 「あなたね、生意気な態度でいてはいけませんよ、ムシュー・シャーリコフ」ボルメンターリがひどく口調を荒げて言った。シャーリコフは一歩後ろに下がると、ポケットから三枚の紙を引っ張り出した。緑色、黄色、白。そしてそれらを指で突つきながら話しはじめた。
 「ほら。住宅組合のメンバーである俺の住まいは、プレオブラジェンスキーが借家人である五号室の十六平方アルシン(訳注:約十一平方メートル強)となっている」シャーリコフは少し考えてから次のような言葉を付け足したが、ボルメンターリはそれを新しい言葉として無意識のうちに脳に刻みつけた。「よろしくお願いします」
 フィリップ・フィリッポヴィチは唇を噛み、噛んだ唇の隙間から、うかつにも口走ってしまった。
 「あのシヴォンデルをいつか必ず銃殺してやる」
 シャーリコフがその言葉を極度に注意深く、鋭く受け止めたのは、その目の表情からして明らかだった。
 「フィリップ・フィリッポヴィチ、vorsichtig(お気をつけて)……」ボルメンターリが注意するよう言いかけた。
 「うむ、あのですね……もしこんな卑劣な……!」フィリップ・フィリッポヴィチはロシア語で叫んだ。「いいですか、シャーリコフ、さん……あなたがまた恥知らずな振る舞いをしたら、食事を、どんな食べ物も我が家では与えませんから。十六アルシンとは素晴らしい。だが、そのカエル色の書類によれば、私にはあなたを食べさせる義務はないわけですよね?」
 そこでシャーリコフはびっくりして、口を半開きにした。
 「食べ物なしにはいられないよ」シャーリコフはつぶやく。「どこで食えばいいんだ?」
 「それでは礼儀正しく振る舞いなさい」二人のアイスクラピウスが異口同音に怒鳴った。
 シャーリコフはひどくおとなしくなって、その日は迷惑になるようなことは何も誰にもしなかったが、例外は自分自身だった。ボルメンターリがちょっと留守にしたすきに、ボルメンターリのひげそりを勝手に使って頬骨のあたりを切り裂いてしまい、フィリップ・フィリッポヴィチとボルメンターリ医師が傷を縫い合わせたのだが、そのためにシャーリコフは長いこと涙にまみれて泣きわめいたのだった。
 次の夜、教授の書斎の緑色の薄暗がりの中に、二人の人物が座っていた。フィリップ・フィリッポヴィチ本人と、忠実で教授を深く慕っているボルメンターリである。建物の中は既に寝静まっていた。フィリップ・フィリッポヴィチは自分の瑠璃色のガウンと赤い室内履き、ボルメンターリはシャツに青いズボン吊りを身につけている。医師たちの間にある丸いテーブルの上には分厚いアルバム、その隣に、ブランデーのびん、レモンの乗った小皿、葉巻の箱がある。二人の学者は部屋を葉巻の煙で満たし、直近の出来事について熱心に話し合っていた。その日の晩、シャーリコフはフィリップ・フィリッポヴィチの書斎で文鎮の下にあった二チェルヴォーネツ(二十ルーブル)をくすねて家から姿を消し、夜遅くにすっかり出来上がって帰ってきたのだった。それだけではない。シャーリコフと一緒にどこの誰ともわからない人物が二人やってきて、正面階段で騒ぎ、シャーリコフのところに泊まりたいと言ってきたのである。前記の人物たちは、下着の上に秋用のコートをはおってその場に居合わせたフョードルが、警察の第四十五分署に電話したところでようやく去っていった。その人物たちはフョードルが受話器を置くやいなや、一瞬のうちに逃げていったのだった。二人が去ったあと、玄関の鏡の下の台から孔雀石の灰皿、それからフィリップ・フィリッポヴィチのビーバーの帽子、ステッキが行方不明になった。そのステッキには金色の飾り文字でこんな風に書かれていた。『親愛なる尊敬すべきフィリップ・フィリッポヴィチへ、感謝を込めて、医局員一同より……』、そのあとにローマ数字で『ⅩⅩⅤ』。
 「誰ですか、あの人たちは?」両のこぶしを握りしめながら、フィリップ・フィリッポヴィチはシャーリコフに詰め寄った。
 問われた当人はふらふらし、毛皮コートにしがみつきながら、あれは自分の知らない人たちで、ろくでなしみたいなのではなくて、いい人たちなんだということをつぶやいていた。
 「何よりびっくりしたのは、二人とも酔っぱらいだというのに、どうやって持っていったのだ?!」フィリップ・フィリッポヴィチは、かつて記念の品があった場所を見ながら驚いていた。
 「玄人なんですよ」もらった一ルーブルをポケットに入れ、寝に戻るフョードルが説明した。
 二チェルヴォーネツのことをシャーリコフはきっぱり否認し、その際、この家にいるのは自分一人ではないとかなんとか、曖昧なことを言った。
 「なるほど! チェルヴォーネツ札をかっぱらったのはボルメンターリ先生かもしれないというわけですか?」フィリップ・フィリッポヴィチが、静かではあるが恐ろしい声音で尋ねた。
 シャーリコフはふらつき、ひどくとろんとした目を開けると憶測を口にした。
 「もしかして、ジンカが取ったのかも……」
 「何ですって?!」戸口のところに幽霊のように現れたジーナが、ボタンをかけていないカーディガンの胸元をてのひらで合わせながら叫んだ。「何てことを……」
 フィリップ・フィリッポヴィチの首が真っ赤になった。
 「落ち着いて、ジヌーシャ」教授はジーナの方に手を伸ばしながら言った。「心配しないで、我々が何とかするから」
 ジーナはすぐに口を開けて大泣きしはじめ、てのひらは鎖骨のところで震えはじめた。
 「ジーナ、恥ずかしくないんですか! 誰がそんな風に思うもんですか。ふう、何て恥ずかしい!」とボルメンターリが途方に暮れて言った。
 「まったく、ジーナ、君はお馬鹿さんだよ、こんな言い方をしては何だが」フィリップ・フィリポヴィチが言いかけた。
 だが、ジーナの泣き声はひとりでに止まり、みなが黙り込んだ。シャーリコフの具合が悪くなってきたのだ。頭を壁に打ちつけ、『いー』とも『えー』ともつかない、『え、え、え!』といった音を発した。その顔は青くなり、あごがぶるぶる震えはじめた。
 「バケツをこのろくでなしに、診察室から!」
 そして、具合の悪くなったシャーリコフの面倒を見るために、全員が走り回りはじめた。寝に連れていかれる時、シャーリコフはボルメンターリの腕の中でふらふらしながら、とても優しく音楽のような調子で、たどたどしく汚い言葉を使って、悪態をついていた。
 これらの出来事はすべて一時頃に起こったことであり、今は夜中の三時頃だったが、レモン入りブランデーで気の高ぶった書斎の二人は、眠らずにいた。二人はさんざん葉巻を吸ったので、その煙がたちこめ、ゆらめきもしない密な平面となってゆっくり移動している。
 ボルメンターリ医師は、青白い顔に毅然とした目で腰を浮かすと、とんぼの腰のように細い脚のグラスを持ち上げた。
 「フィリップ・フィリッポヴィチ」彼は感嘆するように声を上げた。「食うや食わずの学生だった私が先生のところへ行き、先生がご自分の講座に私を置いてくださったことを、私は決して忘れません。フィリップ・フィリッポヴィチ、本当に先生は私にとって教授、教師よりもっと大きな存在なのです……。私は計り知れないほどの尊敬の念を先生に対して抱いています……。口づけしてもよろしいでしょうか、親愛なるフィリップ・フィリッポヴィチ」
 「いいですよ、君」フィリップ・フィリッポヴィチは途方に暮れたようにつぶやき、立ち上がって相対した。ボルメンターリは教授を抱きかかえると、ひどく煙草くさいふさふさした口ひげに口づけした。
 「誓って本当です、フィリップ・フィリ……」
 「心打たれました、実に……。ありがとう」とフィリップ・フィリッポヴィチが言った。「私は時々、手術中に君を怒鳴りつけてしまうことがあるね。老人の短気を許しておくれ。実のところ、私はこんなに孤独だからね……。〽セヴィリヤからグラナダまで!~」
 「フィリップ・フィリッポヴィチ、ひどいじゃないですか」熱意のこもったボルメンターリが心から叫んだ。「もし私を傷つけるおつもりがないのなら、もうそんな風におっしゃらないでください」
 「うむ、ありがとう……。〽ナイルの聖なる岸へ~。 ありがとう……。私は君が才能のある医師だから気に入ったのだよ」
 「フィリップ・フィリッポヴィチ、お話ししたいことが……」ボルメンターリは熱を込めてそう叫ぶとその場を立ち、廊下に通じる扉をぴったりと閉め、戻ってくると小声で話を続けた。「これが唯一の解決策なんですよ。私はもちろん、先生に忠告するつもりなんてありません。しかし、フィリップ・フィリッポヴィチ、ご自分のことをご覧になってください、すっかり疲れきっていらっしゃる。もう仕事なんてできないではないですか!」
 「まったく不可能だ!」ため息をついてフィリップ・フィリッポヴィチは同意した。
 「そうです、これは想像を絶しています」ボルメンターリがささやく。「前回おっしゃいましたね、私のことが気がかりであると。私がどんなに感動したか、親愛なる教授、先生にわかっていただけたら。しかし、私も子供ではありませんから、これがどんなに恐ろしいことになるのか、自分でもわかるのです。しかし、私が深く確信したところによれば、他の解決策はないのです」
 フィリップ・フィリッポヴィチは立ち上がり、ボルメンターリの方に向かって両手を振ると、声を上げた。
 「その気にさせないでおくれ、口にもしないでくれたまえ」教授は煙の波を揺り動かし、部屋の中を歩き始めた。「それにもう聞きません。わかっているでしょう、もし我々が捕まったらどんなことになるか。『出自を考慮に入れる』と、我々は逃げることができない、初犯であるにもかかわらずね。君だって適当な出自ではないでしょう」
 「まったくです……。父はヴィリノ(訳注…ヴィリニュス。リトアニアの首都)の予審判事でした」ボルメンターリはブランデーを飲み干しながら、悲しそうに答えた。
 「ほらね、適当ではない。それは悪性遺伝だからね。悪性遺伝より汚らわしいものなんて、想像もつかない。もっとも、申し訳ないことに、私のはもっと悪くてね。父は大聖堂の長司祭だ。メルシー……。〽セヴィリヤからグラナダまで~静かな宵闇のなか~。まったく遺伝なんぞ糞くらえだ!」
 「フィリップ・フィリッポヴィチ、先生は世界的に意義のある大人物です。誰かの、こんな言い方をしてすみませんが、あんな畜生のせいで……。やつらが先生をひどい目にあわせるなんて、とんでもないです!」
 「だからこそ、それはしません」フィリップ・フィリッポヴィチは立ち止まってガラス戸棚を見回しながら、物思わしげに反対した。
 「でも、なぜですか?」
 「君が世界的に意義のある大人物ではないから?」
 「もちろんそうですけど……」
 「そう、それなんですよ。大惨事の時に同僚を放り出し、世界的意義を利用して逃げ出す、とんでもない……。私はモスクワの学生だったのであって、シャーリコフではない!」
 フィリップ・フィリッポヴィチが誇らしげに肩をそびやかすと、大昔のフランス王に似た姿になった。
 「フィリップ・フィリッポヴィチ、ああ!」ボルメンターリが悲しそうに声を上げた。「つまり、何ですか? 我慢すると? あの与太がうまく人間になるまで待つおつもりですか?」
 フィリップ・フィリッポヴィチは手の動きで彼を制し、手酌でブランデーをちょっと飲み、レモンを少ししゃぶると、話し始めた。
 「イヴァン・アルノリドヴィチ、君はどう思いますか、私は解剖学と生理学の何かを、言ってみれば人間の脳器官の何かを理解しているのだろうか? どう思われますか?」
 「フィリップ・フィリッポヴィチ、何をお尋ねになるんです?」ボルメンターリは深く感動しながら答え、両手を広げた。
 「まあ、いいでしょう。偽りの謙遜なしで。この分野では、自分がモスクワでの最後尾ではないと私も思っている」
 「私は先生がモスクワだけではなく、ロンドンでもオックスフォードでも最先端だと思っています」ボルメンターリは怒ったように話をさえぎった。
 「よろしい、そうであればよいですが。それはさておき、未来のボルメンターリ教授、これは誰にも成功できないことなんです。言うまでもない。問うまでもない。私を引き合いに出してそう言ってください、プレオブラジェンスキーが言ったと。Finita! クリム!」突然、フィリップ・フィリッポヴィチが厳かに声を上げ、戸棚が反響した。「クリム」教授は繰り返した。「さて、ボルメンターリ君、君は私の一番の生徒で、さらに、今日私は確信したのだが、友人でもある。そこで、友人である君に、内密にお話しします、もちろん、君が私に恥をかかせるようなことはしないと私にはわかっていますが……老いぼれ阿呆のプレオブラジェンスキーは大学三年生のようにあの手術に対してしまいました。確かに、君も知ってのとおり、発見はありました」そこで、フィリップ・フィリッポヴィチは両手で悲しそうに、窓のカーテンを指してみせた。明らかに、モスクワのことを指しているのだ。「しかし、忘れないでください、イヴァン・アルノリドヴィチ、この発見で得られた唯一の結果は、これからずっと我々のところに、あのシャーリコフがいるであろうということなんです。ここにね」ここでプレオブラジェンスキーは、まっすぐで中風になりやすいタイプの自分の首を叩いてみせた(訳注:「首にぶらさがる」=「すねをかじる」の意味)。「安心なさい。もし誰かが……」フィリップ・フィリッポヴィチはひどくうれしそうに続けた。「私をここに横たわらせて鞭で打ったら、誓ってもいい、私は五チェルヴォーネツ(五十ルーブル)くらいは払いますよ……『〽セヴィリヤからグラナダまで~』。ちくしょう……。私は五年を費やして、脳下垂体をほじくりだしてきたからね……。君は知っているね、私がどんな仕事をしてきたか。まったく不可解なものだった。さてここで、何のために、という疑問がわく。ある日、この上なくかわいらしい犬を、身の毛もよだつようないやらしい奴に変えるためだ」
 「何か異常が……」
 「まったく同意です。さて、先生、研究者が自然と平行して、自然とともに手探りで進む代わりに、問題を無理に突き進めてベールを上げると、得られるものは……ほら、シャーリコフだ。自業自得ですよ!」
 「フィリップ・フィリッポヴィチ、もしスピノザの脳だったら?」
 「そう!」フィリップ・フィリッポヴィチが大声を上げた。「そう、不幸な犬が私のメスの下で死にさえしなければね。だが、君も見たでしょう、あの手術がどんな類のものだったか。一言で言うと、私、フィリップ・プレオブラジェンスキーは、生涯であれ以上に困難なことをしたことはありませんでした。スピノザか、あるいはある種の化け物の脳下垂体を植え付けて、非常に高い価値のある者を犬から作り出せるかもしれません。しかし、何のために、という疑問がわきます。どうか説明してください。何のためにスピノザを人工的に作製する必要があるのですか。どんな女でも好きな時に、スピノザを産めるというのに! ホルモゴールイのマダム・ロモノーソヴァはあの有名な息子(訳注:ミハイル・ロモノーソフ。ロシアの科学者、文学者。多方面にわたる才能で知られる。父親は漁師だった)を産みましたよね。先生、人類自身がそのことに気を配っていて、進化の流れの中でたくさんのあらゆる屑人間の中から選り抜きながら、地球を彩る何十人もの傑出した天才を毎年根気強く生み出しているのです。さて、わかったでしょう、先生。シャーリコフの診療記録にある君の結論を、なぜ私が腐したか。君が夢中になっている私の発見は、まったく鬼に食わせてしまいたいくらいだが、ちょうど端金くらいの価値しかないでしょう……。言い争いは、なしですよ、イヴァン・アルノリドヴィチ、私にはもう全部分かっているのですからね。私は決していい加減なことを言いません。君もそのことはよく知っているね。理論的には興味深い、まあいいでしょう。生理学者たちは大喜びするでしょうね。モスクワは大騒ぎだ、それで、実際は何だ? 今、君の前にいるのは誰かな?」プレオブラジェンスキーはシャーリコフが眠っている診察室の方を指差した。
 「異常なろくでなしです」
 「だが、あれは誰だ? クリム、クリムだ!」教授は声を上げた。「クリム・チュグンキン。(ボルメンターリが口を開けた)そうです。前科二犯、アル中、『全分配』、帽子と二チェルヴォーネツがなくなった(ここでフィリップ・フィリッポヴィチは記念の杖のことを思い出し、顔を赤黒くした)――恥知らずの豚め……。ふむ、あの杖は見つけ出してやる。一言で言うと、脳下垂体は人の生まれ持った特徴を決定づける閉ざされた暗箱なのです。生まれ持った! 〽セヴィリヤからグラナダまで~」目を荒々しくぎょろつかせながら、フィリップ・フィリッポヴィチが叫んだ。「人類共通のものではない。あれは、縮小された脳そのものなのです。そして私にはあれはまったく必要ない、豚にくれてやれってなもんです。私が気に掛けていたのは、まったく別のこと、優生学、人種改良。若返り術にはたまたま出くわしたのだ! 私が金のためにあれを行っていると思われますか? 私はこれでも学者なのだよ……」
 「先生は偉大な学者ですよ」ボルメンターリがブランデーを飲み込みながら言った。その目は血走っている。
 「二年前に脳下垂体から性ホルモンのエキスを初めて取り出して以来、小さな実験をしてみたいと思っていました。そしてその代わりに得たものは。神よ! 脳下垂体内のあのホルモンは、ああ……。先生、私の前にあるのは――漠とした絶望です。誓って言いますが、私は何がなんだかわからなくなってしまった」
 ボルメンターリは急に両袖をまくり上げると、伏し目がちに言った。
 「それでは、大切な先生、先生がなさりたくないのなら、私がリスクを負って、あれに砒素を盛ります。親父が予審判事だからって構いません。結局のところ、あれは先生ご自身の被験体なんですから」
 フィリップ・フィリッポヴィチは生気を失い、ぐったりして肘掛け椅子に座り込むと、言った。
 「いけません、私は君にそんなことはさせませんぞ。私は六十歳ですから、君に忠告できますね。決して犯罪に手を染めてはいけません。その犯罪が誰に対するものであろうとね。手を汚すことなく、年寄りになるまで生きていきなさい」
 「しかしですね、フィリップ・フィリッポヴィチ、もしあのシヴォンデルがさらに余計なことを吹き込んだら、あれはどうなるでしょう? ああ、今になって私は理解しはじめましたよ、あのシャーリコフが何になりうるか!」
 「そうかね? 今になってわかりましたか? 私は手術の十日後にはわかっていましたよ。まあとにかく、シヴォンデルというのは一番の大馬鹿者だね。シャーリコフが私にとってよりも、自分にとってずっと恐るべき危険となるのがわかっていない。今はあらゆる手を使って、あれを私にけしかけようとしているが、もし今度、誰かがシャーリコフをシヴォンデル自身にけしかけるようなことがあったら、元も子もなくなるというのがわかっていないね」
 「もちろん、猫のことだけでも大変ですからね! 犬の心を持った人間だ」
 「ちがーう、ちがーう」フィリップ・フィリッポヴィチは声を引き伸ばして答えた。「先生は大きな間違いをしている。お願いですから、犬を悪く言わないでくれたまえ。猫は――一時的なものなのです……。これはしつけ、二、三週間の問題です。保証します。あと一ヶ月もすれば、猫に襲いかかるのはやめるでしょう」
 「ではなぜ今は?」
 「イヴァン・アルノリドヴィチ、これは初歩的なことですよ、一体何を質問なさる? そう、脳下垂体は空気中にぶらさがっているものではありませんね。それでもやはり犬の脳に植え付けるのだから、定着するには時間がかかる。今、シャーリコフが発現させているのは、既に犬の名残のみであって、いいですか、猫のことはあれの行いの中でも一番ましなものなのです。考えてもみてください、一番恐ろしいのは、あれの心が既に犬のではなく、まさに人間の心だということなんです。そして、自然界に存在するものの中で、最も汚らわしいものなのです」
 極点まで激したボルメンターリは、力強いやせた両手を拳に握りしめ、両肩を少し動かすときっぱり言った。
 「もちろん、私が殺します」
 「それはいけません」フィリップ・フィリッポヴィチは断定的に答えた。
 「しかし……」
 フィリップ・フィリッポヴィチは突然はっとして、指を一本立てた。
 「ちょっと待って……。足音が聞こえたのだが」
 二人は耳をすましたが、家の中は静かだった。
 「気のせいだったか」フィリップ・フィリッポヴィチはそう言うと、ドイツ語で熱っぽく話しはじめた。その話の中には何度か『刑事犯』というロシア語の言葉が現れた。
 「ちょっと待ってください」ボルメンターリが突然はっとして、扉に歩み寄った。足音がはっきり聞こえ、それは書斎に近づいてきた。おまけにぶつぶつ言う声もする。ボルメンターリは扉を開け放つと、驚いて飛び退いた。すっかり呆気にとられたフィリップ・フィリッポヴィチは、肘掛け椅子の上で固まった。
 灯りに照らされた四角形の廊下に、喧嘩腰で真っ赤な顔をしたダーリヤ・ペトローヴナが、寝間着一枚の姿で現れたのだ。医師と教授は、恐怖のあまり二人には全裸に見えてしまったその頑強な体の豊満さに、目のくらむ思いがした。ダーリヤ・ペトローヴナの力強い両手は何かを引きずっていて、その『何か』は引きずられまいと、尻を床につけて座りこもうとし、黒い産毛でおおわれたその小さな足を寄木細工の床の上でもつれさせている。『何か』とはもちろんシャーリコフであり、まるでなす術もなく、未だに酔っぱらい状態、髪はぼさぼさでシャツ一枚の姿だった。
 大柄でほとんど裸のダーリヤ・ペトローヴナは、シャーリコフをじゃがいもの入った袋のように揺さぶると、次のようなことを言った。
 「ご覧ください、教授殿、わたしたちの客人テレグラーフ・テレグラーフォヴィチを。わたしは結婚したことがありますけど、ジーナは生娘なんですよ。わたしが目を覚ましたからよかったけれど」
 こう話し終えると、ダーリヤ・ペトローヴナは恥ずかしくなって叫び声を上げ、両手で胸元を隠すと走り去っていった。
 「ダーリヤ・ペトローヴナ、お願いだから許してくれたまえ」はっと我に返り、顔を赤くしたフィリップ・フィリッポヴィチが、ダーリヤ・ペトローヴナの後ろ姿に向かって叫んだ。
 ボルメンターリはシャツの袖をさらにまくり上げると、シャーリコフに近づいた。フィリップ・フィリッポヴィチはボルメンターリの目を見るとぞっとなった。
 「なんですか、先生! いけません……」
 ボルメンターリが右手でシャーリコフの襟首をつかんで揺さぶり、そのためにシャツの背中の布が裂け、前面ではのど元からボタンが取れた。
 フィリップ・フィリッポヴィチは割って入り、弱々しいシャーリコフを、しっかとつかんで離そうとしない外科医の手から奪い取ろうとした。
 「あなたがたに喧嘩をする権利はないんだ」床にすわりこみ、しらふに戻りつつあるシャーリコフが、半分抑えつけられたような声で叫んだ。
 「先生!」フィリップ・フィリッポヴィチが怒鳴った。
 ボルメンターリがいくらか我に返りシャーリコフを放すと、シャーリコフはすぐにめそめそしはじめた。
 「まあ、いいでしょう」ボルメンターリはぶつぶつ言った。「朝まで待ちましょう。酔いがさめたらこいつにいいことをしてあげますよ」
 そしてシャーリコフを脇の下に抱えこむと、寝かせるために応接室へ引っ張っていった。
 その際、シャーリコフは足で蹴飛ばそうとしたのだが、足は言うことを聞かなかった。
 フィリップ・フィリッポヴィチが両足を広げると、瑠璃色の裾が二手に分かれた。彼は両腕と目を廊下の天井にとりつけられている電燈に向けて上げると、言った。
 「やれやれ……」