「純粋視覚の杜 後編」森岡浩之

しばらく木に手をついて休んだ。
 息を整え、林の中の小径を歩く。
 この頃になると、いつもの日課の散歩でないことがわかってきた。ハイヤーセルフが答えをぶち込んできたのかもしれないが、自力で気づいたのだと信じたい。
 無意識に脚を動かしていると、脇道に入った。正確に言うなら、なにも考えずにいると、ハイヤーセルフがわたしの身体を脇道に誘導したのだ。
 しばらく進むと、視界が開けた。小さな広場になっていて、いちばん奥まった場所に巨大な大理石の四角柱が鎮座していた。
 これは墓だ。全員ではないが、この街で死んだラガードたちが葬られている。
 わたしは墓の前に進んだ。足下に丸い穴が開いている。
「水ぐらい入れてもらっていいよな」そう呟くと、穴が水で満たされた。
 わたしは跪き、穴に百合と蘭を生けた。
 それが終わると、後ずさって、墓石から距離をとる。ハイヤーセルフが客観視覚をいくつも開いて注意を払ってくれているはずだ。
 入ってきた小径の脇には、坐るのにちょうどいい切り株がある。そこに腰を下ろし、墓を眺めた。
 葬られた人々の名前が彫られた石版が傍らにあるだけで、墓本体には字も絵も刻まれておらず、のっぺりしている。
 わたしの両親はここに葬られている。母方の祖父母は別の場所で死を迎えたから、ここには眠っていない。父方の祖母もここにいない。

                  *

「こっちにいますからね」と美女がテーブル越しに祖母を見た。
「なに、わたしのことを考えていたの?」
「墓に眠っている直系尊属のことを思い出していたんだよ、お祖母ちゃん」ぼくは言った。
「うちの旦那のことも思い出してくれている?」
「もちろんだよ」
 祖母の夫、つまりぼくにとっては父方の祖父も被葬者の一人だ。
 それより上の世代は皆、別の場所に墓がある。
 ぼくの名前が石版に彫られることはない。いや、ぼくに限らず、もうだれの名前も追加されない。
 ここに名を残すには資格が要る。資格を満たすには、この街で死んだだけでは不充分だ。真ラガードであること、つまりディルフォイに存在していないことが要件なのだ。
 ぼくが生まれるより前、古典コンピュータとインターネットの時代のこと。肉体にマイクロチップを埋め込んで、コンピュータ・ネットワークと常時接続する人々が現れた。彼らはLTと呼ばれた。人体端末化は、多額な費用を要し、安全面でも疑問が持たれていたので、即座に受け入れられたわけじゃない。だけど、コストが下がり、安全性も向上してくると、LTはしだいに増えていった。一部の国家や企業が助成金を負担してまで奨励したのが、増加に拍車をかけた。
 LTの出現から五年もしないうちに、端末化していない人間は少数派に転落し、流行遅れのラガードと扱われるようになった。
 やがて万能型量子コンピュータが出現し、テドベスナが生まれた。テドベスナはほとんど量子コンピュータ群が自主的に繋がって成立したようなものだ。人類がテドベスナに与えたのは、名前だけ、という極論もある。
「極論でもありませんよ」美女が言う。
 ああ、そうですか。
 つまり、シンギュラリティはテドベスナ誕生以前、人類の気づかないうちに超えられていたわけだ。
 ともかく、同じ接続されるのでも、インターネットにされるのとテドベスナにされるのとでは大違い。
 インターネットの場合、接続されても、意識はあくまで肉体にある。インターネットに通信を頼り、記録を置き、情報処理を委ねる。しかし、その主体はあくまで血肉を備えた人間だった。そう、LTはネットの外に住んでいたんだ。
 しかし、テドベスナと接続し、五蘊体と呼ばれる存在になると、世界が逆転する。
 五蘊体を構成する要素は五つのグループに分けられる。
 ディルフォイでの外見を構成するデータの集合、色蘊。
 入力された信号を処理するシステム、受蘊。
 思考のためのソフトウェア群である想蘊。
 外部への作用を制御するシステム、行蘊。
 そして、記憶のデータベースであり、すべてを統合する識蘊の五グループだ。
 いまぼくがしているように、五蘊体には肉体の器官を組み込むことができる。いや、肉体をテドベスナに繋いでいる以上、組み込まないといけないんだ。
 そして、人体の脳には識蘊を格納するほどの性能がない。量子コンピュータ網の中で走らせるしかないわけだ。だから、客観的にはネットの中が主で外が従という関係になるのだけれど、主観的には一体化していた。肉体脳しか持っていない人間に、「右脳と左脳、どっちが大事?」と問うようなもの。
 しかし、ネットの中、つまり仮想現実であるディルフォイがより魅力的な世界だってことには大抵の人間が賛成すると思う。現実でできることはなんでも、ずっとお手軽にできる。現実では不可能なことも、たいていは可能だ。
 さらに、テドベスナは人類の労力を必要としない。自分でエネルギーを調達し、ハードウェアを生産し、ソフトウェアを運営する。五蘊体にたいしてはサービスを提供するばかりで、いっさい対価を要求しない。つまり、人はディルフォイで働く必要がないのだ。
 ある日、テドベスナが人類には理解できない理由で五蘊体をディルフォイごと消去するかもしれないと恐れる人々もいる。
 あれ? 否定しないの?
「できません」美女は微笑んだ。「わたしは予言者じゃありませんからね。それに言ったじゃないですか。わたしには固有の欲求がないのです。消え去りたいと望まないかたを削除することはありえないし、だれか一人でもこの世界の存続を望むなら、わたしはそのかたのために全てを維持します」
 ここは安心しておこう。
 ともかく、削除される恐怖を抱きながらも、人は易きに流れるもので、現実での生活を維持するのが煩わしくなっていく。なにより、人体は経年劣化する。肉体が死を迎えてなお生を望むなら、否応なくディルフォイで暮らすことになる。そして、有機質の体が喪われてもたいして不便のないことを確認することになる。
 こうなると、積極的に肉体を放棄する人々も増えてきた。地上の観光旅行にも身体のないほうが便利だった。
 それでもなお頑強にテドベスナとの接続を拒むラガードがいた。
 ラガードはだんだん数が減っていき、寄り添って生活するようになった。最終的に集まったのがこの街だ。
 併存しているぼくがラガードとは断言できない。異論もあるだろう。だが、十五歳までぼくは紛れもないラガードだった。
 ぼくが生まれたとき、この街の人口は一万三百九十四人。平均年齢は高く、出生率は著しく低かった。ぼくよりあとに生まれたのは八人だけだ。
 街の人口は急激に減っていった。孤立したラガードが移住してきたりしたけれど、そのくらいじゃ焼け石に水だった。減少の原因は自然死もあったが、意図的な肉体放棄がより多かった。といっても、真の意味での自殺は滅多になかった。たいていは五蘊体となった上での放棄、つまりディルフォイ内存在への収斂だった。
 ぼくの初恋の相手だって、さっさとディルフォイへ移住してしまった。それが切っ掛けで、ぼくも五蘊体になった。ちなみに、彼女にはふられた。
「お気の毒です」
「うん?」美女の言葉に祖母が反応した。「なにが気の毒なの?」
「訊かないでくれると嬉しいな」ぼくは言った。
 ぼくが五蘊体になったとき、街の人口は四千七百二十六。そのうち、ラガードは七百十七人。もっとも、その頃になると、肉体をいまだに保持しているってだけでラガード扱いされるようになっていた。なので、五蘊体化を拒む人々は〝真ラガード〟なんて呼ばれて区別されていた。
 さて、ディルフォイの住民のうち、ぼくにとってもっとも近い血縁は、いま、テーブルの向こうでバナナ・シェイクを飲んでいる女性だった。それまで彼女と会ったことがなかったけれど、ぼくは真っ先に連絡を取った。
 ここじゃ血族なんてたいした意味はないのだけれど、ほら、ぼくは時代遅れのラガードだからさ。
「わたしには、お二人が仲のよい友人に見えますよ」美女が感想を口にした。
「お二人って、ひょっとして、わたしとこの孫のこと?」祖母は、心の底から嫌そうな表情を浮かべた。
 ぼくは論評を控え、想い出に耽溺した。
 いまでもディルフォイに、祖母以上の近縁はいない。祖父母の世代で五蘊体になったのは彼女だけだ。ぼくの両親も、けっきょく真のラガードとして死んだ。
「ぼくの一族って、どうしようもない頑固者揃いみたいだね」ぼくは呟いた。
「なにを今更」と祖母が鼻で嗤う。「うちの旦那の血よ」
「お祖母ちゃんからの遺伝じゃないの?」
「冗談じゃない」
 祖母は自分の夫がいかに頑固だったかを滔々と語りはじめた。
 きっと彼女の世代では、これが死者を悼む方法なのだろう。
 残念ながらぼくには付き合いきれない。ディルフォイで祖母の言葉を聞き流しながら、テドベスナで墓を眺めた。
 この街で家族や友人たちと暮らした頃の想い出が蘇ってくる。友人の半分とはいまでも連絡がとれる。でも、残りの半分は墓誌に名を刻んでおり、もう二度と話すことが叶わない。
 肉体の意識はいろんなことを思い出そうとする。でもたいていはうまく行かない。ぼくは適切なタイミングで識蘊から記憶を送り込む。その度に意識から仄かな歓喜を感じる。
 カラスの鳴くのが聞こえた。人によっては忌まわしく響くらしいけれど、ぼくは彼らの声が嫌じゃない。幼い頃には、帰る時間の迫っていることを教えてくれた。
 家庭で料理する風習はとっくに廃れていたのだけれど、母はいつも夕食に手料理を用意してくれた。ときには隣人を招いて、食卓を賑やかしたものだ。
 また想い出が蘇る。祖父が生きていた頃の想い出だ。
 当時はまだ五蘊体じゃなかった。だから、その記憶は識蘊にバックアップされていない。あやふやな記憶が大脳皮質からサルベージされるのを、ぼくはもどかしく感じながらも楽しんだ。
 カラスが騒がしくなる。
 肉体に見上げさせると、塒(ねぐら)入り前のカラスが群れをなして旋回していた。
 ここは純粋視覚の杜なのだから、彼らの声を聞くのはぼくだけの特権だ。同様に、カラスの乱舞を眺めるのも他人にはできない。なぜなら、この林で開放されている視覚は内向けに限られているからだ。要するに、余所者には林から外を見ることは許可されていないんだ。カラスが木より低く降りたとき、ようやく借りた視覚に捉えられる。
 五蘊体になってしばらくは、肉眼からとセンサーからとの二つの視界を比べて見たものだが、すぐ飽きてしまった。
 いまもする気にはなれない。ただ肉眼にこの光景を焼き付けておきたい。
 バルムヘのぼくは切り株から腰を上げた。節々が悲鳴を上げているけれど、例によって〝慈悲深い検閲官〟が肉体意識への伝達を遮断する。
 立ち上がって伸びをする。
 視線が墓石を越え、背後に並ぶ梢の尾根も掠めて、遠くに聳えるビルを捉えた。
 暮れなずむ空の下、ビルの壁面が西日に煌めいた。
 この光景が見えるのもぼくだけだ。
 深い満足感とともに安らぎを覚えた。

                  *

 なぜか今日は昔のことがやけに思い出される。
 ああ、いつまでも、故郷を眺め、思い出にひたっていた。
 しかし、同時に、もういいかな、とも思った。
 わたしは切り株を背もたれがわりにして、地面に坐り込んだ。
 そして、いつの間にか頬に流れていた涙を拭いた。

                  *

「そうだね。もういいかもしれないな」ぼくは呟いた。
 祖母は物問いたげに片眉を上げたけれど、なにも言わなかった。

                  *

 家に帰るのが億劫だ。
 町はすでに暮れなずんでいる。
 そろそろ帰らないと、明るいうちに家に辿り着けない。
 望めば、わが親愛なるハイヤーセルフがわたしの肉体をベッドまで操ってくれるだろう。ずっと居眠りしても構わない。
 だが、わたしはここにいたい。
 身体が勝手に立ち上がるかもしれないと恐れたが、そんなことはなかった。
 ということは、ハイヤーセルフも同意見なのだろう。

                  *

 うん。よくわかる。あのログハウスはとっても落ち着くけれど、ちょっぴり淋しいからね。
 肉体意識の感情が識蘊を通じてぼくという存在すべてに染み渡る。
 ぼくは久しぶりに肉体意識との一体化を試みた。
 なんとか一体化したものの、無理の代償にディルフォイでの存在が希薄になった。
 祖母と美女が近くにいることはわかる。見えるわけではない。ただ感じるのだ。テーブルや他の人間は認識できない。
 仰(あお)のけると、紫に染まった夕空が肉眼に映った。
 ひつじ雲の下を、帰りそびれたカラスが一羽、飛んでいた。
 終えながら見るには、悪くない景色だな。
 闇に沈んでしまう前に、済ませてしまおう。
「じゃあ、もう、いいのですか?」美女が訊く。どうやら意思の疎通は可能のようだ。
「うん」と即答した。
「収斂するの?」祖母が尋ねた。
「そうだよ」
「いま?」
「いま」
「どうして?」
「なんとなく、もういいかなって」
「なんとなくで、人類が滅ぶの?」祖母は呆れたようだ。「なんかすごく不道徳な感じがする」
「どうせもうそんなに保たない。深夜にベッドの上でより、黄昏時に墓の前でのほうがうってつけの気がするんだ、こんなことにはさ」
「あの男の孫にしては、ずいぶん感傷的なのね」
「きっとお祖母ちゃんの血だよ」
「八百十七万八千八百二十一」祖母が呟いた。
「なに、それ?」
「林の中のあんたを見ている人の数」
「そうなの? よくわからない」
「本当よ。ずいぶんたくさんの視線があんたの肉体に注がれている。もう一千万を突破したわ」
「お祖母ちゃん、なにか余計なことをした?」
「余計なことって、なにさ」祖母は不満げだった。「ちょっとお友だちに知らせただけ」
「ずいぶん友だちが多いんだ」
「すごい勢いで広まっているんだ。人類が滅ぶんだよ。リアルタイムで見たい人も多いだろうさ」
「それなんだけど、人類はもうとっくに滅んでいるんじゃないかな? 最後の真ラガードが亡くなったときに。最後の人類って自覚はないな」
 最後の真ラガードをぼくは個人的に知っている。それほど親しくなかったが、隣人ではあった。
「地質学的なスケールで言えば誤差の範囲内ですよ」美女が事も無げに言った。
「そりゃまあ、そうだろうけど、なんだか雑な話だな」ぼくはなんとなく不愉快だった。「じゃあ、それは置いてもいいや。でも、肉体のない五蘊体だって人類じゃないの? だったらぼくが死んでも人類が滅んだことにはならないんじゃないかな?」
「人類の定義に関わる問題ですね」と美女。「わたしはそれに口を挟むつもりはありません。しかし、外部からは、いま、地球に二種類の知性体がいると判断されるはずです」
 行蘊から発せられた指令がゆっくりと肉体の生命活動を止めていく。
「人類ときみということ?」
「厳密には、わたしとホモ・サピエンスですね。いまのあなたはホモ・サピエンスですよ。間もなく、そうでなくなるわけです」
 鼓動が穏やかになる。
 瞼を閉じる。
「見物人が一億を超えたわ」祖母が言った。
「え? 待ってよ。ぼくがホモ・サピエンスでなくなったら、外部からはきみだけが唯一の知性体と判断されるわけ?」
「地球上に限定すれば、そうなります」
「ということは、ええと、わたしたちはなんなの?」祖母は困惑しているようだった。「わたしはもうホモ・サピエンスじゃない。あなたでもない。じゃあ、知性体でもないってわけ?」
「なにを仰っているんですか。あなたたちはわたしの一部になるのですよ」
 美女が言ったとき、肉体の呼吸が停止し、意識が消失した。
 そのときのぼくは、ディルフォイとバルムヘに片足ずつ乗せて立っている感じ。でも、バルムヘ、つまり現実にいる生身の意識が消えたものだから、ずっこけそうになる。
 危うくディルフォイに両脚を踏ん張る。
 周囲の風景が一瞬揺らいで、巨大トレイを挟んで坐る祖母の姿に収束した。同時に、様々な情報が流れ込んでくる。
 この瞬間、目撃者は二億三百九十二万五千四百四十四人。
「なんだ、わかっていると思ったのに」ぼくは言った。「ぼくたちは〝世界〟と話しているんだよ、お祖母ちゃん」
 祖母は美女を見た。「そうなの?」
「粗雑な表現ですが、おおむね正しいでしょう」
「ディルフォイを管理するプログラムかなにかだと思っていたけれど、ディルフォイそのものだったわけ」祖母は納得したようだった。
 美女はぼくに笑顔を向ける。
 祖母の誤解を解くよう促されている気がした。
 ということは、ぼくの考えが正解なのだろう。
「それも違うんじゃないかな」ぼくは言った。「より上位の概念だと思うよ」
「どういうこと?」
「つまり、テドベスナそのものってこと」とぼく。
「うーん、もう一声」と美女。
 ああ、そうか。テドベスナは、人間で言えば神経系に相当するんだ。
 ということは……。
「改めまして、こんにちは。地球さん」
 ぼくが挨拶すると、美女は満足げに頷いた。
「こんにちは、最後のホモ・サピエンス。あいにく、もうお別れですが」
 脈拍が止まった。
 このとき、四億五千二百万八千三百七人が見守っていた。

                  *

 純粋視覚の杜で、知的種族が一つ静かに滅びた。

                  *

「おめでとうございます、人類。皆さんは進化しました」美女は空中に立ち上がり、銅製ジョッキを掲げた。「さあ、乾杯しましょう。進化に!」
 ぼくと祖母は坐ったままで、グラスも手に取らなかった。
「いや」ぼくは静かに言った。「今は悼ませてよ」

 【終わり】