「冬来たりなば」青木 和

 ピリリリ、とアラームが鳴って目が覚めた。
 部屋の中はまだ暗い。時間を間違えたかと思って時計の表示を見ると、きちんとセットしたとおりの午前七時を指していた。
 布団の中から腕だけを伸ばし、カーテンをそっとめくる。窓越しに、重たげな灰色の空が見えた。
 いちおう夜は明けているらしい。
 さらに首も伸ばして窓の外をのぞくと、街路樹や建物の屋根がうっすらと白んでいるのが見えた。
(うへえ、雪じゃないか)
 昨夜はどうも寒いと思ったら、どうやら暗いうちに降ったらしい。地面にまでは積もっていないから日が昇ればほどなく融けるだろうが、寒いことに変わりはない。
(いやだなあ、こんな日に外に出るのは)
 そう思ったが、今日は市街巡回のシフトに当たっているのだった。
(よりによってこんな日になあ……)
 今日の日にシフトを入れた過去の自分を恨んでみたが、十月の時点で二か月先の天気が分かるわけはないのだからお門違いもいいところだ。
 無性にサボりたかったが、そんなことをしたらおそらくこの冬の間中ずっと、ばれやしないかとびくびくして過ごすことになるだろう。
 小心な自分に溜息をつきながら、ぼくはベッドを出た。暖房が効いていても部屋の中もそこそこ寒い。くしゃみが一つ出た。

 身支度をすませる間に夜はすっかり明けていた。外へ出てみると、予想通り空気は冷たかったが、風はなく思いのほか寒くはなかった。雲一つないターコイズブルーの空が奇妙な透明感を持ってどこまでも広がっている。
 先ほどまでのサボりたい欲求はどこへやら、妙に浮かれた気分になって、ぼくは左の二の腕につけた腕章を引っ張って直すと、ガレージに停めてある巡回用の小型車を出しに向かった。

 町は静かだった。
 歩いている人の姿はなかった。車もなかった。動いている影といえば、ついさっき空の高いところをなにかの鳥──おそらく鳩かムクドリ──が数羽飛びすぎていくのを見た、それだけだ。
 道に沿って立ち並ぶ家々はカーテンを引き窓も戸も固く閉じてひっそりと静まり、店はシャッターを下ろし、駅の入口には運行休止中の案内板をぶら下げたチェーンが張られたまま──何もかもが整然と静まりかえっている。
 時刻は午前九時になろうとしていた。この時間、普通なら道行く人の数はもっともっと多いはずだ。電車が動き、早い商店は店を開けはじめ、町はざわめきであふれているはずだ。
 だが今はそうではない。
 それは今が冬だからだ。
 ぼくはゆっくりとしたスピードで車を走らせる。ルーフに取りつけた車載カメラで町の様子を写し、リアルタイムで映像を〝本部〟に送信する。静まりかえった無人の町の様子を。それが巡回人の仕事の大半だった。
 巡回を始めた頃は、この誰もいない、それでいて荒廃した感じはまったくない町の非現実的な眺めが珍しくて、車を降りて徒歩で歩き回ったりもした。大通りではわざと端から端まで全力疾走してみたり、ステップを踏んで踊ってみたりもした。
 が、今はもう慣れた。浮かれた気分になることもなく、淡々と巡回路を回るだけだ。

 予定のルートを半分ほど回ったところで、正午になった。車に乗っていただけなのに、気がつけば腹が減っている。
 いつもは持参した弁当を巡回路の途中にある公園で食べることにしていた。今は冬枯れているが広々とした芝生があって、あちこちの木陰に小洒落たテーブルとベンチがあって、お気に入りの場所なのだ。このすてきな公園が冬の間はぼくの独占になる。ただ、今日は雪の名残でベンチも濡れているだろう。
 どうしたものかと考えていると、首から提げている通信機がぶるっと震えた。
 連絡だ。
 本部からかと思ったが、画面には同僚であるワイさんのアイコンが映っていた。〝今いいか?〟のコメントが画面に浮かんで揺れている。
 ぼくが通話OKのボタンを押すと、画面がワイさんの顔に切り替わった。
「おおケイ君。今どこだ。昼飯中か?」
「いや、これからです」
「今いつものステーションに来てるんだが、来ないか?」
「そうですね……どうしようかな」
 ステーションというのは、ぼくやワイさんのような巡回人のための補給所で、身の回り品から食料品まで割安な価格で売ってくれる。食事もできる。一般の商店が営業していないのでステーションは命綱だった。
「また弁当か? こっちで食えばいいじゃないか」
「今いるところからだと早くても十五分はかかりますよ」
 ナビで位置を確認しながらそう答えるとワイさんは、
「待ってるから」
と言った。
 昼休憩の時間が終わってしまわないか、と思ったが、とりあえず向かうことにした。遅くなったら食べるだけはすませておいてくれるだろう。
 ワイさんは巡回人を始めてから知り合った人だが、担当区域が近いのでなんとなく親しくなった。ぼくより少し年長で、今年で四十五歳と聞いていた。本業は居酒屋を営んでいるらしいが、冬の今はもちろん休業中だ。家族は奥さんと、小学生の男の子が二人。
 全部ワイさんから聞かされて知った。
 ワイさんは話し好きだ。家族のことも自分のことも、それ以外のこともよく話す。
 ワイさんは人が好きなんだろう。家族と会えない今の時期は特に、寂しいのかもしれない。今回のように頻繁に誘いをかけてくる。
 独身で一人暮らしで、単独行動はまったく苦にならないぼくでも、何か月にもわたって寝ても覚めても一人で誰とも口をきかない日が続くとさすがに滅入ってくる。ワイさんみたいな人には、こんな暮らしはよけいきついはずだ。
 できるだけ急いでステーションに行ってあげよう。
 そう思って車を方向転換したところで、ちらりと目の端にそれが映った。
 広々とした道路の片隅で動くもの。
 はっきりと捉えたわけではないが、それが風にはためく街路樹や、ゴミがないのでめっきり減ってしまったカラス──などではないと、巡回人の勘が告げた。
(人がいる。本当にいるんだ?)
 ほかの巡回人である可能性はないだろう。そういうところは無駄がないよう、本部がちゃんと区域管理をしているはずだった。基本的にステーション以外で巡回人同士が顔を合わせることはない。
 支給品の手袋と防護マスクを装着すると、車をそうっと影の見えた方に向けた。
 近づくのも接触するのもできれば最小限にしたかった。マスクと手袋の性能は信用しているし、左腕に巻いた腕章が、そういうことをしてもぼくは大丈夫だと告げてはいても。
 車を進めていくと、やがて、路上の影がはっきりと人の形になって視認できるようになった。黒っぽいコートを着ている。秋物らしく生地は分厚くない。髪は短く、ずんぐりして、男のようだ。
 左腕に腕章はない。
 できるなら腕章をしていてほしい。それならぼくは何もしなくていいからだ。
 それが最後の望みだったのだが、かなわなかったようだ。
 あとは男が気づく前に、車載カメラから送られる映像に本部が反応して動いてくれることだが……それもかなわなかった。
 近づくエンジン音が聞こえたのか、男がぱっと顔を上げる。
 顔の下半分がマスクで覆われていた。家庭用の普及品だが、少なくとも男がルールを守る善良な市民である可能性は高くなった。とりあえず少しだけほっとする。
「ここで何をしているんですか」
 車の窓を開けて、それでもある程度の距離は保ったまま、ぼくは声をかけた。
 男は一瞬おびえたようにびくっとしたが、逃げ出したりはしなかった。むしろ自分からこちらに近づいてきた。
「ああ、人がいた。よかった」
 マスクと、垂れ下がったぼさぼさの前髪の間にのぞく目尻に細かい皺が寄る。笑っているようだ。
「どこか開いている店は知りませんか。食料品の買えるところでもいいです。家中何もなくなってしまって、もう三日も何も食べてないんです」
 そんなものあるわけがない。今は冬なのだ。
「それに寒いです。冬物の服が何もなくて──ちょっと乗せてくれませんか。私は大丈夫なんで。証明書もあります、ここに、ほら」
 男はコートの懐から掌サイズのカードを取り出し、手にとって確かめろと言わんばかりにぼくの方に突き出した。
「いや、それは……」
 触れたくない。思わず体が引ける。
 だいたいその証明書はいつのものだ。少なくとも冬になる前には違いない。こうして道を歩いている時点でもう無効になっているかもしれないのに、確認したって何の意味もない。
 ぼくのその反応に、男の顔から笑みが消えた。ぼくをじろじろと眺め回し、視線が左腕の腕章に達したあたりで目に怒りの色が浮かんだ。
「そうか。あんた抗体持ちか。だったら食い物くらいあるだろう。くれよ。頼むから。こっちは死にそうなんだ」
 男は急に手を伸ばしてきた。窓から乗り出していた上体を慌てて引いたが、死にそうというわりに男の動きは素早く、車のドア越しに胸ぐらを掴まれてしまった。
「けちけちするなよ。何だよ、自分だけこんな暖かい格好しやがって。あんたらおれたちと違って何にも不自由な思いしてないだろ。得してるんだからいいじゃないか」
 男は興奮してぼくの喉元を締め上げ、顔をぐいぐいと近づけてくる。マスクの隙間から漏れ出た呼気がふんふんと顔にかかった。
 目を閉じ、息を止めて堪えたが、いつまでもそれがもつわけではない。ふと鼻から空気を吸い込んでしまった。
 ああ、まずい。これで──。
 絶望的な気持ちになったところで、不意に胸ぐらを捕まえていた男の手が緩んだ。
「はいはい、やめようね旦那さん。気持ちは分かるけどこんなことしちゃいけないよ」
 のんびりとした口調の、そのくせたとえようもなく威嚇的な別の声が聞こえて、ぼくはおそるおそる目を開ける。
 タイベックの防護服に身を包んだ本部の人間が二人、コートの男の襟首をつかんで車から引きはがしているところだった。

「ようケイ君。今回はまた、えらい災難だったなあ」
 二週間後、ようやく約束のステーションに辿りついたぼくを迎えて、ワイさんが同情に満ちた声で言った。
「で、大丈夫だったの?」
 尋ねてきたのは、やはり親しくしている女性のベテラン巡回人、エルさんだ。ワイさんと彼女の他にも、この日のステーションには顔見知りの巡回人が妙にたくさん集まって、物見高そうな目をこちらに向けていた。
 みんな退屈しているのだ。ちょっと変わった出来事には興味津々だ。
「大丈夫だからここにいるんです」
 ぼくはげんなりした声で答えた。
「わざわざ隔離するんならこの腕章は何のためにあるんだか」
「まあそう言いなさんな。念のためってこともあるしな。寒波の来ている間巡回が休めてよかったじゃないか」と、また別の巡回人が言う。
「まあ、それは──」
「で、その町を歩いてた男はどうなったんです?」と、これは今年から巡回人を始めた若い男の子。
 さあ、とぼくは首を捻った。ぼくが見たのは防護車に乗せられて連れて行かれるところまでだ。本部の人間はぼくにも巡回車で後をついてくるように言い、そのまま検疫所に入り、そこからは別々になったので、彼がどうなったかは分からない。
「そうね、多分だけど」
 かわりに引き取って答えたのはエルさんだった。
「このケイ君みたいに隔離されて、発症したら治療を受けてるでしょうし、二週間無事なら注射をうってまた眠ってるでしょ。その間に、なんで目を覚まして歩き回ってたんだかさんざん調べられるでしょうけど」
 エルさんの言葉に、男の子だけでなくぼくもほっとした。胸ぐらを掴まれはしたがあの男に別に恨みはない。ひどい目に遭っていたりしたら寝覚めが悪い。
「そういえばあの男、眠ってたのに途中で目が覚めたみたいなことを言ってました。そういうことってあるんですか」
「聞いたことはあるな」ワイさんが口を挟む。「薬が体質に合わないとかで、ちゃんと注射をうっていても十分効かないことがあるとか。まあ熊でも〝穴持たず〟てのがいるらしいから」
 穴持たずとは冬眠に失敗した熊のことだとワイさんは言った。結果食料のない冬山を彷徨うことになり、飢えているから凶暴なのだそうだ。
 もともとそういう習性を持つ熊でさえそうなのだ。薬で人為的に冬眠状態になっている人間なら不具合が生じても当然かもしれない。
 そもそもすべては、あのウイルスのせいなのだ。
 今から五十年くらい前、あのウイルスは地上に突然現れて、あっという間に世界中に蔓延した。最初は風邪のような症状から始まり、突然高熱を出して、治るものもあるが場合によってはそのまま死んでしまう。しかも感染力が恐ろしく強く、世界中で何千万という死者が出た。感染者の数はもっと多く、おそらく億の単位だろう。各国の病院は患者で溢れ、医療の手が回らなくなった。
 混乱の中でもワクチンが開発され、事態は沈静化するかに思えたがそれも束の間だった。ウイルスはすぐに突然変異を起こして、ワクチンの効かない変異種ができる。そしてどういうわけか、ワクチンをうっても感染から無事回復しても、抗体が長持ちしないのだ。同じ人間が二度、三度と感染する危険がある。
 感染を防ぐため各地で都市が封鎖され、人々は家に閉じこもらざるを得なくなった。だが人間、狭い空間に閉じこもってばかりいられるものではない。ストレスから、ウイルスにやられなくても精神を病む者が増え、自殺や殺人の数もうなぎ登りに増えた。
 一年で、二年で、せめて数年で終息するだろうと思われていた感染は十年たってもいっこうに止む気配はなく──そして。
 このウイルスは冬に活発化する。どうせ冬ごとに閉じこもらざるを得ないのなら、いっそ冬眠してしまえばどうだ、と誰が考えついたのかは分からない。ワクチン開発は続けられていたが、同時に熊やリスなどの冬眠する哺乳類の研究がそれまで以上に推し進められ、やがて人間を冬眠させることに成功したのだった。
 同じように閉じこもっていても、眠っていればよけいなストレスを感じずにすむ。そして人間は春から秋までの間に活動し、冬には眠る生活をするようになった。
 多くの人々が眠っている間、静まった世界を最小限に回しているのが「免疫者」──あの男が〝抗体持ち〟と呼んでいたぼくたちだ。どんな感染症でも、どういうわけか一定数感染を受けつけない者が自然に存在する。それがぼくたちなのだ。
「でもね、なんだか気になるな」
 エルさんが物憂げな表情になってぽつりと漏らした。
「その男さ、私たち免疫者が〝得してる〟って言ったんでしょ。普通の人からそんなふうに見られてるって割が合わない感じ。私らは私らで苦労があるのにね」
「だよな。人が寝てる間にもこうして働いてる」
「春までは家族の顔と言えば寝顔しか見れねえしなあ」とワイさん。
「それもあるけど」と再びエルさんが言う。
「最近思うんだけど。ほら、冬眠してる間って代謝が落ちるじゃない? なんだかここ何年かダンナが私に比べて若々しい気がするのよね。同い年なのに。このまま行ったら十年後とかどうなるのかな。それに寿命も……」
 エルさんが濁したその先をみんなが思い、ふっと場の雰囲気が暗くなる。
 ぼくたちは得どころか、珍しい体質を持って生まれてきたおかげでとてつもなく損をしているんじゃないだろうか。
 その嫌な空気を破ったのは、ステーションの食堂のマスターだった。
「はいはい、皆さーん。用意できたよ」
 明るい声がホールに響く。
「今日はケイ君の復帰祝いだ。腕を振るったからどんどんやってよね。酒もたっぷり用意しといたから」
 マスターがぼくたちを導くテーブルには鍋がいくつも用意され、ふつふつと湯気を上げていた。大皿にはたっぷりの蟹、魚や牡蠣、牛肉に鴨肉に新鮮な野菜。グラスがきらびやかに輝いて酒がつがれるのを待っている。
 ぼくたちは歓声を上げて我先にテーブルに突進した。
「まずはビールだね。ほらついでついで。乾杯行くよ」
 ワイさんが目を輝かせ、生き返ったように音頭を取る。
 感染を避けるため、大勢で宴会なんてもうどこでもできない。特に冬の料理である鍋は。
 これだけはせめてぼくたち免疫者の特権だと、言わせてもらっていいだろうか。
「ではケイ君の復帰を祝して──」
 ワイさんの音頭に全員がいっせいにグラスを掲げた。
「乾杯!」