「純粋視覚の杜 中編」森岡浩之

 腹が減らなくなってずいぶん経つ。でも、排泄はしなくてはいけない。近頃ではトイレへ行くにも、時間がかかる。
 トイレを出たあと、シャワールームへ向かおうとしたが、気が変わった。
 急がないといけない。シャワーだって体力を使う。昔は頭から湯を浴びると、しゃっきりしたものだが、近頃ではどっと疲れてしまう。ベッドに戻ることもしばしばだ。
 そんな時間はない。
 着替えをしているとき、ふと疑問が浮かんだ──シャワーの省略はこっちのわたしが決めたのか、それとも、あっちの自分がそう判断して押しつけてきたのか。
 まあ、どちらでもいいことだ。わたしの決めたことには違いない。
 今のわたしにとって、ディルフォイで生活する自分は他人だった。ハイヤーセルフという概念がしっくりくる。
 若い頃なら、ハイヤーセルフが云々と語る人間にはなるべく近寄らないことにしただろう。しかし、この町にはいま、若者どころか他者は誰もいないから、気兼ねなく語りたいところだが、あいにく、語る相手もいない。
 とにかく、いまのわたしにハイヤーセルフは身近な存在だ。ときどき雑談することもある。
 シャワーを省略して、住処にしている小屋を出る。
 わたしの家は、高層ビルに囲まれた公園にあった。
 以前は、東南に聳える二十七階建てのタワーマンションの最上階に住んでいた。さらにその前は同じマンションの九階に住居があった。
 いまでもタワーマンションに戻ろうと思えば簡単だ。空き部屋はいくらでもある。
 しかし、引っ越しするつもりはない。公園の中に建てられた平屋のログハウスを、終の棲家と決めていた。
 テドベスナは地球上至るところにセンサーをばらまいていて、五蘊体にも利用させている。
 まだディルフォイの自分とリアルタイムリンクしていた頃、成層圏で歪な隕石の風切り音を聞いたり、漸深層で深海魚の尿を嗅いだりした。今となっては、夢だったような気がする。いや、本当に夢だったのかもしれない。
 しかし、この街は例外で、センサーの利用に制限があることは、現実だ。たぶん。
 昔、ディルフォイから覗かれていることに気づいたラガード族は、不満の声を上げたんだ──おれたちのプライバシーを尊重してくれ、おまえらの観光にケチをつける気はないが、おれたちの生活は見世物じゃない、と。
 最初は法律で規制しようとしたらしいが、実効性が望めないことがすぐ明らかになった。ディルフォイには警察も裁判所もないから、住民を従わせる手立てがない。テドベスナの機能に制限を加えようにも、人類には不可能だった。
 だから、ラガード族には、テドベスナへ要望を流すしかなかった。
 幸い、要望は聞き入れられた。まだ地上で暮らす人々のプライバシーを守るため、細かな規定が設けられた。
 例えば、わたしの住んでいるログハウスはプライベート空間だ。そこにあるセンサーは、わたし自身、またはわたしから許可を受けた人だけが利用できる。
 まだ意識が分離する前、肉体は寝室に置きっぱなしにして、家の中を見て回ったものだ。あの頃はタワーマンションに住んでいたから、ベッドの中にいながら、ベランダからの光景を楽しんだりもした。
 肉体を動かすにも外部センサーを利用していた。死角が存在しなくなるから、安全なのだ。
 いまのわたしにはもうできない。老いぼれてスカスカになった脳はテドベスナとリンクすることができないのだ。できたとしても、多角視点など煩わしいだけだ。
 意識を分離してしばらくは、肉体脳が身体を制御していたのだが、気がついたら、もう一人の自分、ハイヤーセルフにコントロールを召し上げられていた。
 安全のためだ、と言われれば、納得するしかない。自分が肉体を制御していないと気づいたのも、転んだり、ものにぶつかったりすることがなくなったからだ。
 不満はない。
 こちらの要望は最大限、受け入れてもらった上で、のろまな肉体脳には認識できないほど短いタイムラグで操作されるので、ふだんは意識することがないのだ。
 公共の場所のセンサーにも制限がある。住人といえども無制限にはシェアできないのだ。むしろ隣人こそ、プライバシーをもっとも隠したい相手だという考えも、それほど特異じゃない。わかってくれるだろう?
 だから、意識分離前も、プライベート空間から出ると、生身に備わった感覚器だけが頼りだった。わが親愛なるハイヤーセルフも、ここでは老朽化した器官しかセンサーとして活用できない。
 わたしはいま、自分の足元から目が離せない。ハイヤーセルフが肉眼で足下を確かめながら一歩一歩、進ませているのだろう。
 ひょっとしてわがハイヤーセルフは、ろくに動かない老体を操作して、嗤っているのだろうか。

                  *

 もちろん、ぼくは嗤ったりしない。
 しかし、一つ疑念は持っている。
 テドベスナがなんだかよくわからない理由で、だれかに特権を与えていたとしても知る術がないのだ。どこかで意地の悪いピーピング・トムが、俯いて歩くぼくを眺めて、嗤っている可能性はある。
「心外ですね」件の女性が言った。「信頼してくださってけっこうですよ。窃視趣味のある方を優遇する理由なんてありません。かつての協定は厳重に守られています」
「思考に割り込んでくるのはやめてくれないかな」ぼくは抗議した。「それと、きみはいったい、だれ?」
「あら、しらじらしい。わかっているくせに」
「まあね」ぼくは認めた。「でも、思考を覗くのはやめてくれないかな。なんとなく恥ずかしいんだ」
「わたしがだれかご存じなら、恥ずかしがる必要もないでしょうに。反抗期なのかな」
「理性ではわかっているんだけど……」
「大人になりましょうよ」彼女は二杯目のビールを飲み干した。
 むかついたが、咄嗟に言い返す台詞も見つからない。
「でも」祖母が口を挟む。「あんた自身が窃視症なんじゃない? 何でもかんでも覗き見しているんでしょ。他人とお楽しみを分かち合いたくないだけってことはない?」
「難しい質問ですね」
「そうなの?」祖母は意外そうな顔をした。「軽い冗談のつもりだったのだけど。窃視症って性的倒錯の一種でしょ。あなたに性的嗜好なんてあるの?」
 にこにこと微笑む女性の前に、ソーセージとザワークラウトの盛られた皿が現れた。
 彼女はソーセージを囓り、ビールで流し込んだ。
「お二人もいかがですか?」と勧める。
「いえ、けっこう。バナナ・シェイクにはあわない」祖母が断った。
「飲み物を変えては?」
「いまはバナナ・シェイクの気分なの」
「では、しかたありませんね」
「なにかが誤魔化されようとしている気がする」ぼくは呟く。
「あなたは、いかがですか?」美女がちょっと首を傾げながら、ぼくに皿を差し出した。
 ぼくは黙ってソーセージにフォークを突き立てた。

                  *

 わたしの小屋は公園の北側にあり、その周囲には芝生が広がっている。
 芝生は冬でも青々として、いつもきれいに整えられている。でも、芝が手入れされるところを見たことがない。たぶんわたしが余所見をしているうちに、テドベスナの遣わした妖精が芝を刈っているのだろう。
 小屋から南南東に温室がある。わたしはぼんやりと温室を眺めた。
 よくあることだが、考えがまとまらない。
 なんだって、わたしは温室なんかを眺めているんだ?
 だが、気にすることはない。なにかが必要なら、わが親愛なるハイヤーセルフが手配するだろう。

                  *

「花を用意しなきゃ」バルムヘで温室を眺めながら、ディルフォイで美女を一瞥する。「まあ、きっとぼくの生身が温室につくまでに用意されていると思うけど」
「駄目よ」祖母が言った。「あんたの手で用意なさい」
「なぜだよ。同じことだろう。合理的な理由がないよ」
「それを言うなら、花を供えるのに、科学的合理性に基づいた理由があるの?」
「つまり、気持ちの問題だって言いたいわけ?」
「そう」
 念のために言っておくけれども、ぼく自身は墓参りという行為に意義を感じていない。それでも行うのは、祖母にささやかな喜びを進呈したいためだ。
 ならば、できる限り彼女の希望に添うべきだろう。
「わかったよ。お祖母ちゃんの言うとおりにする」
 ぼくは肉体意識に、百合と蘭を十本ずつぐらい切るべきだという考えを忍び込ませた。
 バケツに水を張り、花を切って入れる。
 肉体はこれだけでひどく疲労する。〝慈悲深い検閲官〟のおかげで意識は疲れを感じていないが、随所にダメージを受けている。ちゃんとコントロールしてやらなければ、運動機能が損なわれてしまう。墓参りをノーダメージで遂行するため、新しいプログラムを誂えて、行蘊に追加した。
 もっとも肉体意識は暢気なもので、鼻歌を歌いたい衝動を感じていた。そして、そうしてはいけない理由はなかった。

                  *

 わたしは鼻歌交じりで、バケツを片手に温室から出た。
 気持ちがいい。鼻歌の音程がずれているのには気づいたが、どうせオーディエンスはいない。
 公園の南半分は林になっている。
 もちろん、林も隅々まで美しく保たれていた。いったい何人、不可視の庭師がここで働いているのやら。
 わたしは芝生を横断し、林へ足を踏み入れた。
 林には小径がある。もちろん、完璧に整備されているが、芝生よりも歩きにくく、躓きやすいのは確か。
 だが、林の中では客観視覚が使える。今もハイヤーセルフは肉眼とは別の角度と距離から足下を注視し、肉体を安全第一に操っているはずだ。
 だからわたしは、顔を上げて歩いた。

                  *

「ああ、やっと見えた」祖母が言った。「たしかによぼよぼしているわねえ」
「そうでしょ」ぼくは頷いた。
「でも、どうせなら、街全体をあんたのプライベート空間にしちゃえばいいんじゃない? もう、街の住人はあんた一人なんだから。そして、わたしを街に招待してよ」
「考えたことはあるんだけどね……」ぼくは答えをはぐらかそうとした。
 祖母はぼくの答えを待たず、美女に確認した。「簡単なんでしょ」
「簡単ですよ」彼女は請け合った。「彼が望めばいつでも切り換えます。ほんの一瞬で済みますね」
「ほら」祖母はぼくを見た。
「どうでもいいじゃない」ぼくは肩を竦めた。「どのみち、ぼくがこっちに収束したら、みんなに開放される。そう先の話じゃないよ。いまは視覚だけで我慢してよ」
「視覚だけでじゅうぶん」祖母は言った。「別にあんたの加齢臭を嗅ぎたいわけじゃない。でも、視点はもっとほしい。たまには建物の中にも入ってみたいのよ。あんたの育った家も見てみたい」
「我慢してよ」ぼくは繰り返した。
 ラガード族のプライバシー権が確立すると、それに反発する者が出た。
 もともと住民のプライバシーが及ぶのは街の上空三〇〇メートルまでだ。それより上は、感覚が万人に対して開放されていた。だから、街を見下ろすことはできるわけだ。
 たまにぼくもホームタウンを鳥瞰することがある。公園と同じように手入れが行き届いており、どの建物も新築同然、でもだれ一人として住んでいない、この忌々しくも清潔な廃墟を。
 だが、空から眺めるだけでは満足できない人々もいた。祖母同様、街の中にまで入ってみたい、それは当然の権利なのだ、と彼らは主張した。
 けれども、ぼくらにしてみれば、理由もなく入り込みたがる連中こそブロックしたい。家族や友人なら、ディルフォイの住人でもプライベート空間に招待すれば済むことだ。不作法な観光客のために戸口を開けっ放しにしておくなんて、まっぴらごめんだった。連中ときたら、寝室やトイレにまで入って来かねない。しかも住人は、闖入者の存在に気づくこともできない。とうてい、受け入れがたい主張だった。
 ただ、無制限に開放するのは論外としても、完全に閉鎖するのも頑なすぎる、と考える住人も多かった。とくに無視できなかったのは、もともとこの街に住んでいた五蘊体たちのノスタルジーだ。
「ディルフォイにそっくり同じ街を再現するなんて簡単なんですけどね」美女が言った。「それを物理的な存在と皆さんに信じていただくことも」
 最低だ。街の存在意義というものを完全に無視している。あの街を懐かしむ人々への侮辱だ。
「皆さん、そう仰(おっしゃ)います。だから、やらないのです。わたし自身には、したいことなどなにもがありません。皆さんに欲求を供給してもらわねば世界を維持できません」
「欲望を垂れ流すことだけが、人間の存在価値というわけね」祖母が言った。
「そのとおりです。じゃんじゃん垂れ流してください」
 ほんとうに、そうなのだろうか。街は本当にバルムヘにあるのだろうか。ぼくは併存していると思い込まされているだけじゃないのだろうか。
 疑問が次々に湧いてくる。
「あの街は物理的存在で、あなたの肉体はそこで暮らしていますよ」
 しかし、街のメンテナンスがあたかも人目を憚るかのように行われるのには、以前から違和感があった。清掃だけではない。修繕もされている。不注意で割ってしまった窓ガラスが、ちょっと目を離した隙に元通りになっていたことがある。破片もきれいさっぱり消えていた。
 街が賑やかだったころは、人間が施設を補修していた。清掃は機械任せだったけれども、ちゃんと目に見える形で行われていた。
 いまでは、いったいなにがどのように街の美観を保っているのか、まったくわからない。
 だが、街がディルフォイにあるとすれば、納得だ。むしろ経年劣化させるほうが手間なんじゃないかな。
「馬鹿にしないでください」美女は柳眉を逆立てた。「そんな手抜きをしているなんて、根拠もなく言い立てるのは、誹謗中傷ですよ」
 でも、していない証拠はないんだろう。
「はい。でも、信じたほうがいいですよ」
 難しいことを言う。
「どうして信じないのかな?」美女は首を傾げた。「やっぱり反抗期?」
 ずいぶん惚けた言い草だ。彼女は、ぼくの心理などすっかり掴んでいるはずなのに。
 ただ彼女が公正であることは認めないといけない。彼女がその気になれば、ぼくの疑いを、いや、疑ったという記憶そのものすら、消し去ってしまうのはごく容易いことなのだ。
 もちろん、疑いだせばきりがない。街が物理的に存在しているかという疑問は、彼女にとっては消す必要がないだけで、もっと大事ななにかをぼくから奪っているかもしれないんだ。
 彼女を疑うなんて、じつに無意味なことだ。
「わかっていただけましたか」美女が言う。
 信じるのも意味がないけどね。
「頑なですね。あなたのために申しているのですよ。信じさえすれば、心安らかに過ごせますでしょう」
 お気遣いどうも。
 肉体が傍らの樹木に触れる。ぼくにはこれを、物理的に存在していると受け入れるしかないわけだ。
「こっちでも喋りなさいよ」祖母がぼくを睨んで、文句を言った。「仲間はずれにされているみたい。あの林で聴覚は借りられないんだから」
「ぼくはどこでも喋っちゃいないよ、お祖母ちゃん。ただ、彼女が勝手にぼくの思考と会話してくるんだ」
「へえ。なんについて考えていたの」
「ノスタルジーについて、かな」
 ディルフォイに収束した人々のノスタルジーに応えるため、この街には、条件付きで感覚の共有を許しているゾーンがあった。大きく分けて三種類だ。
 Aタイプは、ある特定の五蘊体にのみ、すべての感覚が開放されている。
 Bタイプは、特定の感覚のみ、すべての五蘊体に開放されている。
 そしてCタイプは、特定の五蘊体に特定の感覚を開放していた。
 この林はBタイプだった。視覚のみがすべての五蘊体に開放されている。だから、〝純粋視覚の杜〟と呼ばれていた。
 そういうわけで、木を触っているぼくの姿は、祖母にも見ることができる。でも、鼻歌を聴くことや、樹皮のごつごつした手触りを感じることはできない。