「純粋視覚の杜 前編」森岡浩之

 併存するぼくの片割れが広場を歩いていると、向こうから三十歳ぐらいの女性がやってきた。
 彼女は真紅のTシャツに黒のファージャケットをはおり、黒革のブーツで石畳を闊歩していた。顔は整っているが、ちょっと獰猛な印象がある。笑みを浮かべると、その印象はさらに強くなり、凶暴と形容すべき域に入った。
 初対面だが、身内のぼくは色蘊(ルーパ)を透かして、彼女の正体を知ることができる。
「やあ、お祖母ちゃん」ぼくは片手を挙げて挨拶した。「今日はずいぶんアグレッシブに見えるよ」
「よお、孫。今日のあんたはずいぶん可愛らしいじゃん」
 祖母はぼくを抱き寄せた。
 今日の彼女は背が高い。
 そしてぼくは、三日前から小柄な姿を選択していた。別に子どものふりをするつもりはない。ただ、繊細な青年に見えることを期待している。
 だから、ぼくの頭は祖母の胸に押しつけられる形になった。
「苦しいよ、お祖母ちゃん」ぼくは抗議した。
「嬉しくない?」
「もうそんな歳じゃないよ」すぐには解放されそうにないので、受蘊(ヴェダナー)に客観視覚をひとつ追加する。「それにお祖母ちゃんに欲情なんかするものか」
 ぼくのいちばん新しい視覚は祖母の顔を正面から捉えた。
「無礼な孫だ」祖母は顔を顰めた。「ねえ、あんた、犬になってみない」
「犬?」
「ブルテリアなんてどうかな」
「犬を飼いたいなら、勝手にそうすればいいじゃない。ぼくを巻き込まないで」
「飼うなんてだれも言っていない。飼うなら、ボルゾイあたりがいい。ブルテリアなんて不細工」
「じゃあ、なんだって、ブルテリアになれなんていうんだよ」
「不細工だからよ」
「ああ、もうっ」ぼくは祖母の胸から強引に脱出した。
 動物の姿で暮らす五蘊(ごうん)体は珍しくない。ぼくの主観視界を横切るシャム猫にも、十中八九、識蘊(ヴィジュニャーナ)があるだろう。
 だけど、ぼくはごめんだった。気が知れない。あと百年ぐらい経ったら、退屈しのぎにしてみたくなるかも知れないけれども、そのときは犬よりも馬になりたい。それもほっそりした脚のサラブレッドよりペルシュロンがいい。耕したばかりの畑のように、ふかふかした地面にくっきりと蹄の形を残しながら歩いてみたい。いっそ象もいいかもしれない。
 ふむ。動物の色蘊も悪くないように思えてきた。でも、ブルテリアは断固拒否する。
「まあ、立ち話もなんだわ」祖母が命じた。「お茶に付き合いなさい」
 石畳からブロンズのガーデンチェアが生えてきた。
 逆らうのは無理だった。
 ここで会ったのが偶然のはずがない。祖母は用があって、ぼくを訪ねてきたのだ。その用事がたとえ暇つぶしに茶飲み話の相手をさせることでも、拒む理由がなかった。時間はたっぷりあるし、そのことは祖母も知っている。
 実のところ、嬉しいお誘いだった。祖母はときどき面白い知見を披露してくれるし、こっちは退屈していたんだから。
 坐ると、椅子はそのまま上昇し、高度十メートル辺りに浮いた。
 ぼくたちの間に丸いテーブルが出現した。もっとも、脚がないので、巨大なトレイが現れた、というべきかもしれない。
 こうなると、客観視覚は邪魔なだけだ。ぼくは付け加えたばかりの視覚を受蘊から削った。
「珍しいね」ぼくは主観視覚でテーブルのまわりを探った。
「なにが?」祖母は首を傾げる。
「いつもなら、美形の執事が立っているじゃん」
 今日は傍らに誰もいなかった。
「たまには二人っきりで話したくて」
「え? あの執事って五蘊体だったの?」ぼくは驚いた。そんなことは考えたこともなかったけれど、祖母の性格を考えると、崇拝者の一人や二人、いても不思議じゃない。
「まさか。そんなわけないでしょ」
「なんだ。じゃあ、いいじゃない」
「気分の問題よ」
 祖母の前に水滴をまとったグラスが出現した。たぶん中身はバナナ・シェイクだろう。彼女のお気に入りなのだ。
 ぼくも、いつも飲んでいる抹茶ラテを出す。
 ぼくらはとりとめのない話をした。
 祖母は父の母だから、どうしても父方の親戚の想い出を語ることが多くなる。
 もっとも祖母は、息子である、ぼくの父についてあまり語りたがらない。関心がないのか、それともわだかまりがあるのか。何度か訊いてみたのだけれども、いつもはぐらかされる。
 やがて、祖母はこう言いだした。
「あんた、いつ収斂するの?」
「うーん」ぼくは考えた。「たぶん、もうすぐだと思うよ。そろそろ辛くなってきたから」
「自殺も選択肢?」
「いまでも自殺しているみたいなもんだよ。なんでも、その気になればもう一世紀ぐらいは生きていけるらしい。体中にたっぷりナノマシンをぶちこんでさ。でも、そんなのゾンビみたいだろう」ぼくは両手を前に突き出して、振ってみせる。「嫌だよ、ブルテリアのほうがまだましだ」
「治療を拒否しているってこと?」
「食事が摂れなくなってきたから、栄養は医学的措置で補給している。でも、それだけだよ。病気は確実に進行しているんだ。もうあんまり保たないはず」
「ふうん」祖母はグラスを見つめてなにやら考え込んでいたが、ふとなにかを思いついたように顔を上げた。「あれ? だったら、あんたのお仲間もまだ生きていられたんじゃないの」
「お仲間って言うの、やめてったら」
 祖母には気に入らない点がいくつかあるが、その一つがぼくの家族を「お仲間」と呼ぶことだった。母を他人と見なすのは祖母の自由だけれども、血の繋がった父まで他人扱いすることはない。
「ごめん」その謝罪にはまったく誠意が感じられない。「でも、どうなの?」
「そいつは無理だよ。肉体ケアはディルフォイ・ユーザーの権利だから」
「そうか。あんたのお父さんはユーザーじゃなかったもんね」
「勧めたんだけどねえ、変わり者だったから」
「わかる」祖母はふっと溜息をついた。「ラガードはほんとにどうしようもない」
「ぼくだってラガードのつもりなんだけど」
「あんた、自分がどうしようもない人間じゃないなんて思っているの? ひとかどの人物のつもりなんだ」
「はいはい。自己評価が高すぎました」ぼくは逆らわなかった。
「わかればよろしい」祖母は頷いた。「じゃあ、向こうのあんたがまだ動けるうちに、墓参りに連れていってよ」
 これが用事か。
「ぼくが連れていく必要ないでしょ」とりあえず反論を試みた。「お祖母ちゃんだけで見てくればいいじゃない」
「冷たい孫だ」祖母は非難した。「お墓を眺めたいわけじゃないんだ。お参りしたいんだよ。ちょっとの時間を割いてくれてもいいじゃない」
「つまりぼくは扱(こ)き使われるわけ?」
「しょうがないじゃない。わたしには手出しできないんだから」
「ぼくの生身は信じられないぐらいに老いぼれているんだ」
「でも、動けないわけじゃない。でしょ?」
「お祖母ちゃんはぼくほどよぼよぼになったことがないから、気軽にそんなことが言えるんだ」
「まあね。それで?」と祖母は首を傾げた。
「わかったよ」ぼくは諦めた。「でも、時間がかかるよ。バルムヘのぼくは眠っているから」

                  *

 ぼくの肉体は目を覚ました。
 肉体は、眠っていても、識蘊をディルフォイのぼくと共有しているからアクティブだ。寝汗の量も正確に把握している。
 灰血球、すなわち自己増殖するナノマシンが、ぼくとテドベスナを結びつけている──と教えられているけれども、もっと胡乱な方法でリンクしているんじゃないかという疑問が捨てきれない。
 テドベスナは、万能型量子コンピュータのネットワークの名称だ。しかし、現在ではなにか別のものに進化しているという説もある。テドベスナには当初から自分を維持し、アップデートする機能が備わっており、発生から数世紀を経たいま、もはや人類の誰一人としてその全体像を把握できない。だから、正体もよくわからない。
 ディルフォイはテドベスナ内に構築された仮想世界で、人類の活動はもうほとんどそちらへ移っていた。もちろん、生物学的なホモ・サピエンスは一人もいないから、ディルフォイに住んでいる存在を人類と呼んでいいものかは議論の余地がある。結論を出そうという熱心な試みはいまもどこかで行われているはずだ。そんなくだらないことに情熱を燃やしているという理由だけで、人類と断定してもいいような気がするけれども。
 議論の行方がどうあれ、ぼくはまだ人類だ。ベッドから上半身を起こし、床のスリッパを捜している、老いさらばえたホモ・サピエンスも、ぼくであることに間違いないのだから。
 頭蓋骨の中で渦巻く思考とか意識とか呼ばれるソフトウェアは、想蘊(サンジュニャー)から独立して稼働している。
 初めからそうしていたわけじゃない。十五歳で灰血球を注入されてから半世紀ほどは、肉体の精神も想蘊に組み込んでいた。
 ぼくの意識は現実と仮想空間に併存していたわけだ。どちらが主ということはなかった。対等という意味じゃない。一体であり不可分だったのだ。
 けれども、ある日、自分のパフォーマンスがずいぶん落ちていることに気づいた。
 同じような症状を何回も見てきた。肉体付属の脳の機能が落ちたとき、こんな状態になる。肉体意識が想蘊ライブラリにアクセスするたびに、不具合が発生するようになり、ついにはそれをリカバーしづらくなってくるんだ。
 放置すればディルフォイのぼくまで崩壊してしまう。そうなれば、選択肢は二つしかない。心を頭蓋骨の中に閉じ込めて、肉体の制御はテドベスナから行うか。あるいは、肉体を完全に放棄するか。どちらかを選択しないと、本人だけではなく周囲の人間にも危険だ。
 ぼくは第一の選択肢を採り、肉体の精神を想蘊から切り離した。同時に肉体の独立性を奪った。それまで肉体の神経系は肉体意識の制御下にあったのだけれど、すべての感覚を受蘊に繰り入れ、行蘊(サンスカーラ)の中で稼働する運動指令ソフトウェアを組んだのだ。
 大脳皮質はまだ、ちゃんと筋道を立てて考えることができる。しかし、集中力はかなり落ちた。識蘊からじかにモニターしているからわかるのだけれど、生身の想念は、ほとんどの時間、薄ぼんやりしている。薄暗くうねる空間に、ときおり、ぽっぽっと想い出や欲望がゆっくり脈打つ──そんな感じ。その願望や記憶がクリアな思考の出発点になることもあるけれど、その頻度はだんだん下がっている。
 併存しているという自覚もしだいに薄れてきた。ぼくの生身はしなびた端末だ。
 そういえば、現実のことを〝バルムヘ〟、つまり外部世界と自然に認識できるようになったのは、いつ頃からだろう。ディルフォイの住民が現実を外部扱いするのには最初から違和感がなかった。しかし、自分がそうするにはずいぶん反発を覚えた記憶がある。
 抵抗がなくなったのは、ぼく以外のラガードが死に絶えてからだ。でも、しばらくは慣れなかったように思う。
 近頃ではバルムヘと呼ぶことに抵抗がないばかりか、肉体意識を三人称で考えてしまいそうになる。
 もちろん、肉体は依然としてぼくの一部だ。その感覚はいまでもぼくの受蘊に入っているし、運動も行蘊にカテゴライズされたプログラムによって制御されている。つまり、テドベスナから操作されているわけ。いまではもう、脳幹に肉体をじゅうぶんに制御する能力がない。
 じゃあ、肉体本来の意識が自分の周囲の現実を認識していないのかというと、そんなことはない。身体の感覚はいったんディルフォイのぼくに送られ、肉体の脳に返される。その過程で、痛みをはじめとする不快なものは弱めるか、遮断するか、あるいは快いものへ変えて伝えていた。そうでなければ、肉体意識は悪性新生物由来の激痛に苛まれていたはずだ。
 だからぼくは、感覚をフィルタリングするソフトウェアに〝慈悲深い検閲官〟と名づけた。
 さて、この寝室の隅から隅まで同時に見ることのできるぼくには、スリッパのありかがわかっている。片方はベッドの下に隠れており、もう片方はベッドから二一七・五二センチメートル離れた場所で裏返っている。
 ディルフォイから発せられた指令が胸鎖乳突筋を動かし、裏返ったスリッパへ顔を向けさせる。肉眼から入った視覚情報はディルフォイを経由して意識に伝えられ、意識はスリッパの位置を認識する。
 頭蓋骨の中の意識は、なんとなく行動してスリッパを見つけたと思っている。
 オフラインだったころのぼくが無自覚にやっていたことを、併存するぼくは意図してやっているのだ。
〈やれやれ、なんだってあんなところにあるんだ?〉肉体の意識、紛れもなくぼくの一部であるソフトウェアの表層にそんな疑問が浮かんだ。
 スリッパがベッドから離れたところにはあるのは、昨晩、横臥するときに飛ばしてしまったからだ。
 きちんとスリッパを揃えてからベッドに入ることもできた。でも、生身の意志を優先したのだ。ベッドに腰掛けて、スリッパを脚で飛ばしたとき、確かに愉快だった。
 せっかくの楽しい記憶を生身の意識はすっかり喪っている。だから、ディルフォイからログを送った。
〈そうか、思い出した……〉
 生身の意識は満足し、ぼくはまた、ちっぽけな快感をえた。
「で、たかが目を覚ますのにいつまでかかるの?」祖母が苛立たしげに言った。
「ただでさえ生身の活動は遅いんだよ」ぼくは答えた。「お祖母ちゃんだって併存していていた頃を憶えているでしょ」
「もっと素早かったわ」
「だから、ぼくの生身は信じられないくらい年寄りなんだってば。忘れないでほしいんだけど……」
「わかってる」祖母は頷いた。「墓参りはわたしが希望したこと。あんたに頼まれたわけじゃない。文句は慎む」
「そうなされたほうがいいでしょう。時間はあります」
「ねえ、お祖母ちゃん。この人、だれ?」ぼくは尋ねた。「二人っきりで話したいとか言ってなかった?」
 いつのまにかテーブルを囲むのが三人に増えていた。祖母とぼく、そして見知らぬ女性だ。
 外見なんてここでは意味がないのだけれど、二十歳ぐらいの清楚な印象の美女で、大きな銅製ジョッキを抱えていた。ジョッキの縁からはビールの泡がこぼれている。
「さあ?」祖母も首を捻った。
「まあ、細かいことはいいじゃないですか」そう言うと、美女は幸せそうな表情でビールを一気に飲み干した。