(PDFバージョン:sironekoviruherumu_yasugimasayosi)
その耳が尖った雑種の白猫は、ドイツ軍の塹壕で見つかった。
場所は西部戦線であるベルギーのイーペル近郊。
決死の攻撃に出て陣地を奪い取った連合軍のイギリス兵によって拾われた。
首輪がつけてあり、ドイツ語の認識票が吊るされていた。ドイツ軍の部隊が飼っていたのだろう。したがってこの白猫は連合軍の捕虜になったともいえた。
拾ったイギリス兵の歩兵連隊で飼うことになり、さっそく首輪を付け替えた。
名前もつけられた。
ヴィルヘルム。
現在のプロイセン王国の国王にしてドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム二世にちなんだ名だった。敵国の皇帝をペットにしてやったという皮肉である。
でも、猫自身はそんなことなんか気にしない。ドイツ人でもイギリス人でも餌をくれるなら誰にでもなついた。
塹壕戦では毎日のようにたくさんの人が死んだ。突撃したら機関銃で蜂の巣にされ、塹壕にこもっていても砲弾で吹き飛ばされる。そのような殺伐とした現場で、ヴィルヘルムは唯一の癒しのマスコットだった。
連隊のイギリス兵たちは誰もがかわいがった。過酷すぎる戦場で絶望した表情が、ヴィルヘルムの前では緩んだ。
もちろん軍隊なので、ただの愛玩ペットとして飼われたのではない。
ネズミ退治という目的があった。塹壕では大量のネズミが猛威を振るっていた。食糧の貯蔵庫や包帯所に住み着き、大事な物資をかじり回るのである。待避壕で仮眠を取る兵士にまで噛み付くことがあった。しかもネズミはノミや病原菌を媒介するので、兵士たちが次々に病気で倒れ、深刻な問題になっていた。
そのためネズミを狩るヴィルヘルムは、軍の立派な戦力の一員として受け入れられていた。
一九一四年八月から始まった欧州大戦は終わりが見えなかった。
緒戦でパリを落とせず撤退した帝政ドイツ軍と、反攻するフランスやイギリスの連合軍がヨーロッパを縦断するように長大な戦線を構築すると、そこから互いに一歩も引かない膠着状態に陥っていた。
いくら攻め立てて敵軍の陣地を突破しても、長い戦線を完全に食い破るまでには至らなかった。すぐに反撃を受け、やられた陣地はあっという間に修復されてかき集められた予備兵力によって埋められた。
その経験から両軍の参謀は、もはや局所的な戦闘の勝利を重ねても戦争は終わらないと考え、敵兵を一人でも多く殺し、相手を疲弊させて降伏を促す手段を取るようになった。いわゆる消耗戦である。それを戦略に組み込んでいったのだ。
ヴィルヘルムがいる歩兵連隊も、そんな消耗戦に巻き込まれていった。
敵の小銃や機関銃を前に強引な突撃が繰り返され、あるいは豪雨のような砲撃を浴び、膨大な数の死者を出した。
連隊に所属する中隊が全滅したこともあった。数百人もの兵が一度の戦闘で死んだのである。その中隊が担当していた塹壕で生き残ったのは、ヴィルヘルム一匹だけだった。
そんなヴィルヘルムを引き取った部隊は、次の戦闘で壊滅した。
そのあとも同じ出来事が続いた。ヴィルヘルムがいるところにイギリス兵の死体の山ができあがっていったのである。
やがてヴィルヘルムは、死神の猫として忌み嫌われるようになった。
しかし、嫌う兵士たちはじきに戦場で死んでいなくなり、補充された何も知らない新兵はヴィルヘルムをかわいがった。もっとも新兵たちも幾多の戦場を経験し、死屍累々の現実を知るとヴィルヘルムを疎んじていった。
ところが、そんな兵士たちの中で、一人だけ決してヴィルヘルムを嫌わない兵士がいた。
ジョンという二十歳の青年である。
ロンドンで出版社の編集者見習いをしていたのだが、軍に志願した上司にこれも研修だと部署の職員ごと戦場に引っ張り込まれたのである。当時の徴兵制度がないイギリスではキッチナー陸軍大臣による「君を必要としている」という海外派遣軍の志願兵募集によって、若い男は戦争に行かなければならない空気が醸成されていたので、そんな調子で軍に入った若者も珍しくなかった。
ジョンは、ヴィルヘルムがいるから部隊が全滅するなんて迷信だと思っていた。
そんなものは毎日パンを食べるからみんな死ぬと言っているのと変わらない。そこに因果関係を結びつけることが間違っている。原因は地獄のような戦場の環境にあるのであって、ヴィルヘルムではない。
いつもヴィルヘルムだけが怪我一つしないのは不思議だったけれども。
ともかく、そんなことで罪のないヴィルヘルムが恨まれるのはかわいそうだと思い、ジョンは自ら進んで世話をした。
ヴィルヘルムは、その日も塹壕で過ごしていた。
尻尾をぴんと立て、艶やかな白い毛並みを戦場の風になびかせながら塹壕の縁の上を悠然と歩く。
それを見た新兵は思わず微笑んで撫でようと手を出した。
「そいつに触ったら死ぬぞ」
ベテラン兵が吐き捨てるように言うと、ジョンに怒鳴った。
「おい、世話役! こいつをひっこめろ! 気分が悪い」
ジョンは慌ててヴィルヘルムを抱きかかえようとした。
ところが、いつもなら餌をくれる人間と思って喜んで飛び込んでくるのに、なぜかヴィルヘルムの足が止まった。それから鼻をひくつかせると、逃げるネズミのごとく駆け出した。塹壕に降り、敷かれている床板(ダックボード)を蹴ってうるさく足音を鳴らしながらどこかに行ってしまった。
ジョンは急いで追いかけた。何があったか知らないが、こんなところで迷子になったら探し出すのは命がけになる。
それがジョンの生死を分けた。
ヴィルヘルムを追ってジョンがいなくなった直後、塹壕に毒ガスが流れ込んできたのだ。
ドイツ軍がボンベから風に乗せて流した致死性の塩素ガスである。
毒ガス攻撃は最近始まった戦術で、兵士たちはまだ対処に慣れていなかった。ガスマスクも、尿素を浸みこませた綿をマスクに詰めただけの簡素なものしかなかった。
ジョンがヴィルヘルムを捕まえたころには、塹壕にいた部隊仲間の大半が毒ガスで死んでいた。
ヴィルヘルムの死神ぶりを示すエピソードがまた一つ増えた。
それでもジョンは迷信だと思った。猫がいるから毒ガス攻撃を受けたわけではないのは明白だった。
間近で何があったのかも知ったので、ヴィルヘルムだけが生き残る理由もわかった。
毒ガスのかすかな匂いに気がついたのだ。人間ではわからない程度であっても、猫なら感知できたのだろう。危機察知能力が人間よりもはるかに優れているので、これまでも生き延びることができたに違いなかった。
そんなことがあってからジョンは、ヴィルヘルムの行動をよく観察するようにした。
自分を連れてきた上司はすでに戦死していた。自分もいつそうなるかわからない。それなりに覚悟を決めて戦場に立ったつもりだったが、やはり死にたくなかった。
ヴィルヘルムのおかげでジョンは何度も命拾いをした。
毒ガス攻撃に対してもそうだったが、砲撃にもヴィルヘルムは反応した。
砲弾が落ちてくるところがわかるらしい。急に走り出したので追いかけると、それまでいた場所に着弾したなんてことは一度や二度ではなかった。
ジョンは猫の髭のおかげかもしれないと推測した。飛翔する砲弾の衝撃波によって生じる大気の震えをいち早く髭が捉えたのではないかと考えたのだ。
そうやってジョンはいくつもの激戦地を転戦しながらも、たいした怪我を負わずにすんだ。
やがてはその実績から昇進して小隊を率いるまでになった。いつもヴィルヘルムを連れて行動するので白猫小隊とあだ名をつけられたが、どんな戦場でも必ず生き残った。部下たちも誰一人死なせることはなかった。それもヴィルヘルムのおかげだった。
一九一八年十一月十一日、戦争は終わった。未曾有の消耗戦の末にドイツが力尽きたのだ。
ジョンは、その知らせをフランス北部のアラス近くの塹壕で聞いた。
膝の上にはヴィルヘルムが寝そべっていた。
すでに陽が暮れ、夜の帳が落ちていた。
いつもなら照明弾が輝き、銃弾や砲弾が塹壕のバリケードに当たって火花を散らせるのだが、穏やかな月明かりだけが戦場を包んでいた。
銃声の響かない静かな夜空には、満天の星が広がっていた。
ヴィルヘルムが何かに気づいたようにその空を見上げた。それから体を起こした。
ジョンは身構えた。
これまでの経験から砲弾でも飛んでくるのかと思ったのだ。
いくら休戦協定が結ばれたといっても、サッカーみたいに笛が鳴ってプレー終了とはいかない。現場では混乱もあって戦闘が続いてしまうこともある。
ヴィルヘルムはジョンの膝から降りると、素早く塹壕をよじ登った。
そして、ゆっくりした足取りで敵軍の塹壕がある無人地帯に歩いていった。
ジョンは狙撃されないよう恐る恐る頭を出した。
「どこに行くんだ。まだ危ないぞ。戻って来い」
もとより人の言葉など解すわけもなく、どんどん前へ進む。
すると、宙に浮いた。
ジョンは目を疑ったが、ヴィルヘルムは透明な階段があるかのように一歩ずつ何もない空中を昇っていったのだ。
その様子を唖然と見つめることしかできなかった。
死んでいったベテラン兵が見たら、やはりヴィルヘルムは死神だったと恐れ、命を救われたジョンの小隊の兵たちなら、神が使わした守護精霊だと崇めたに違いない。
だが、そんなのは迷信だ、とジョンはいつものように断じた。
きっと遠い星からきた生命体か、またはそんな生命体が送り込んだ探査用の自動人形(オートマトン)だったのだろう。戦争をしている地球人類を調査していたのかもしれない。
ジョンが憧れ、尊敬し、いずれ仕事に携わりたいと出版社に入るきっかけになった科学ロマンスの書き手、H・G・ウェルズ先生ならそうおっしゃるはずだと思った。
かなりの高さまで昇ったヴィルヘルムが、こちらに振り返った。
さよならとでも言うかのように「にゃあ」と一言鳴くと、星空に消えた。
八杉将司既刊
『アンダー・ヘイヴン20(最終回)
ヘイヴンの終焉』