「ザイオン・スタンズ・オン・マーズ(Part2)」伊野隆之

(PDFバージョン:zionmars02_inotakayuki
 船倉を覆う闇の中で、レイモンド・ノアは息を潜めていた。ここまで順調に進んでいたにも関わらず、計画に不確実性をもたらす要因が入り込んできている。
 あのアップリフトとケースは見た目どおりではなかった。制度上はどうあれ、アップリフトはせいぜいが二級市民だし、ケースは初めて義体を手に入れた下層民が使う義体だった。どう見ても一等客室にそぐわない。レイモンドが感じた違和感は正しかったが、それだけでは役に立たない。それに、二人の存在に気づいたのがランデブー直前だったことも災いした。警告しようにも時間がなかったし、二人が何者なのかもわかっていなかった。
 事前に確認したとおりに、地球軌道を越えたところで、船長がパーティを開いた。一等の乗客をドーナツ状の居住ユニットの最外縁部にあたるデッキに集め、贅沢な食事を振る舞うという趣向は、惑星間を結ぶ旅客船にとっては一般的なもので、古くは地球時代に長距離航海中の船が赤道を越えたときに行う赤道祭に由来する。デッキに集まった一等船客は、ほとんどが金星や火星の資産家で、身代金目的に誘拐されても不思議がない乗客ばかりだ。
 レイモンドは思う。結局、資産家と呼ばれる者たちは、多くの労働者を搾取してきたということにほかならず、その意味では同情に値しないし、危険を冒して抵抗する可能性も低い。言ってみれば、カモにふさわしい連中なのだ。
 だが、そこに紛れ込んだアップリフトとケースは違った。目撃者を残さないという点でヨハンナの判断は正しいが、いらぬ荷物を抱え込んだのではないかというレイモンドの危惧は、軌道変更のための加速が始まってすぐに現実になっていた。
 ケースという義体は、コストを押さえた大量生産型の義体であり、パワーも標準的なヒト型の生体義体を若干上回る程度で、電磁枷を引きちぎるのはあり得ないことだった。それなのに、あのカザロフというケースは、金属の電磁枷を易々と引きちぎっている。
「やめろ、そんなことをしたら何をされるか……」
 カザロフの動きに気づいた乗客が声を上げた。
「あいにく、身代金を払ってもらえるあてがなくてね。俺たちは自力で逃げ出すのさ」
 そう応じたカザロフの言葉は、レイモンドが聞いた話と矛盾している。同行しているアップリフトが成功した鉱山主であれば、ある程度の身代金はまかなえるのではないか。
 金星のアップリフトたちが置かれた状況は過酷なものだったが、少数ながら経済的に成功したアップリフトがいることを、レイモンドは知っていた。この船に乗り合わせたのが、たまたまその一人だと思ったのだが、どうも様子がおかしかった。
 レイモンドは、二人の会話を耳をそばだてて聞いていた。数時間前に聞き出したところでは、アップリフトとケースの関係は、雇用主と雇われガイドのような関係だったはずだ。それが、聞こえてくる会話は対等な関係のように聞こえる。
 レイモンドの聴覚は特に強化されたものではなかったが、金属を引きちぎる音は聞き間違えようがない。それから、何かがずるりと床に落ちる音。低い声で交わされる会話は、タコのアップリフトとカザロフというケースが、ともに戒めを解いたことを示していた。
 暗い中を重たい足音が、船倉のドアに向かって遠ざかる。ドアは閉じられているといっても標準的なものだから、電磁枷を壊したカザロフの腕力があれば、破られるかも知れない。二人が船倉を出たとき、船が2Gの加速状態にある今、対応できるのはヨハンナしかいない。
 レイモンドは思う。人質という自らの役割を危うくしてでも警告すべきだったのだ。だが、その機会は失われてしまった。ここで手をこまねいて、ヨハンナが事態を収束させることを期待するよりないのか。そんなことを考えていたところで、思わず声が出ていた。
「待ってくれ、私も連れていってくれ」
 闇の中に、思いがけない大きさでレイモンドの声が響くと、船倉全体にざわめきが広がった。
「おとなしくしていろ。奴らはあんたたちには手を出さない」
 カザロフの声に、船倉が一瞬で静まった。突然、船倉に明かりがともり、電磁枷を抜けたアップリフトとケースの姿を照らし出す。
「何でそんなことがわかるんだ?」
 レイモンドが声をあげたのは、ちょっとした時間稼ぎだった。客船に一致させていた軌道から離脱するための加速時間は長くない。火星に向かっていた楕円軌道を膨らませ、火星の先行トロヤ群に向かう軌道に変更するための加速さえ終われば、重力下での活動を制限されているバウンサーたちも戦力になる。
「奴らの目当ては身代金だ。大人しくしていれば、そのうち解放される。しばらく不自由はするが、危険を冒す理由はない。そうだろ?」
 レイモンドの方を見て、カザロフが言った。それはまるでレイモンドたちの計画を見抜いているようにも聞こえる。
「解錠した。そろそろ行こうか」
 アップリフトがそう言うのと同時に、メインシャフトへと続くドアが開いた。カザロフはアップリフトを抱えて船倉を出て行く。電磁枷に固定されたままのレイモンドは、ただそれを見送るよりなかった。

 ザイオンたちが船倉から出ると、その先は薄暗いメインシャフトだった。船首から船尾までを貫く直径五メートルほどの円筒の空間は、慣性航行状態であれば自由に往来できる通路だったが、加速中の今は深い縦穴のようなものだ。
「予想通りだな」
 メインシャフトの内部を見渡したカザロフが言った。標準的な小型貨客船という見立てが当たっていたということだろう。
 ザイオンとカザロフがいるのは、船倉のドアとメインシャフトの間連結部で、メインシャフト側から見れば奥行きが一メートルほどのくぼみになっている。二人はそのくぼみから身を乗り出していた。
「さすがに加速中は誰もいないな」
 ザイオンはメインシャフトをのぞき込む。縦穴の底までは三十メートルほどで、加速中に落ちたらひとたまりもない。見上げた先も二十メートルはあり、途中には三カ所ほど今いるようなくぼみが見えていたが、そこに至るまでの間に、手がかりになるものは何もない。
「監視されているな」
 カザロフが言ったとおり、メインシャフトの三カ所に監視カメラがあった。それが向きを変え、ザイオンたちの方を向いている。
「加速中は見ているだけだ。何もできない」
 ザイオンはそう断言する。
「それは、こっちも同じだろ?」
 カザロフが応じた。
「おまえはな」
 ザイオンはメインシャフトの内壁に触腕を伸ばした。金属の表面はなめらかで、ザイオンの吸盤がしっかりと貼り付く。
「そういうことか」
 ザイオンはメインシャフトの中に大きく体を乗り出した。
「上を見てくる。シャワーブースがあるといいんだがな」
 このサイズの一般的な貨客船の構造なら、貨物を収納する船倉より船首に近い方に居住区があるはずだった。
「気をつけろよ」
「そっちもだ。加速が止まっても、不用意に動かない方がいい」
 ザイオンの体は、既にメインシャフトに出ていた。触腕を上に伸ばし、しっかりと貼り付いたところで2Gの加速で重くなった体を引き上げる。
「奴らが出てくるまで待ってるさ。下手に出て行ったら再加速されるからな」
 ザイオンが視線を向けると、カザロフが船尾方向をのぞき込んでいた。メインシャフトの端を塞いでいる隔壁の向こうには機関室があり、その先は放射線が飛び交っている。強力な放射線に晒されるより隔壁に落ちる方がましだろうが、致命的なダメージは逃れられない。
「わかってるじゃないか」
 ザイオンは改めて船首方向を見あげ、メインシャフトの内面を慎重に登り続ける。次の階層までは、あと数メートル。
 その時だった。突然に加速度の方向が反転する。船は加速を止めただけでなく、急制動していた。
「くっ!」
 ザイオンは、今まで上だった船首の方向に身体が投げ出されるのを感じる。しっかりと壁面に貼り付いていた吸盤が、引きはがされそうになる。
「ザイオン!」
 金属がぶつかり合う音。急な減速によってカザロフがメインシャフトの中に放り出されていた。
 触腕の一本がカザロフの脚にからみつき、新たに加わったカザロフの慣性によって引き伸ばされる。腕を引きちぎられるような痛みが襲い、筋繊維が切れる音が聞こえたような気がした。実際、もう少し減速が続いていたら、ザイオンの触腕はちぎれていただろう。
「動くな!」
 メインシャフトにヨハンナの声が響く。船首部分から、三人のバウンサーを引き連れたヨハンナが「落ちて」きていた。もちろん、「落ちて」というのは、つい先程までの上下感覚による錯覚で、実際には無重力下の等速運動にすぎない。船の急激な減速は終わっており、慣性航行に移行した船内に上下はない。
「無理だっ!」
 ザイオンが声を絞り出す。金属製のカザロフは、ザイオンの倍を越える重さがあった。その慣性が加わって、しっかり壁に貼り付いていたはずのザイオンの吸盤が剥がれていく。
 船首方向から来たヨハンナたちの進行方向に、投げ出されたザイオンとカザロフが漂う。
「拘束してっ!」
 ヨハンナの号令でバウンサーたちがジェル弾銃を構える。
 ザイオンは、柄にもなく慌てていた。ジェル弾銃を向けられたからではなく、ヨハンナが持っている斧に目を留めたのだ。オクトモーフ自体は無重力環境に適しているとはいえ、ザイオンには経験が欠けており、斧を手に迫ってくるヨハンナを回避できそうにない。
 慌てたタコがやることといったら相場は決まっている。墨を吐くのだ。
 円筒形の狭い空間に、闇色の霧が広がり、その墨の霧に向かって自由落下状態のヨハンナとバウンサーたちが飛び込んでいった。
「なにこれっ?」
 墨に直撃されたヨハンナの罵声とともに、視野をなくしたバインサーが闇雲に撃ったジェル弾が飛び交う。
 バウンサーたちが放ったジェル弾は、客船のデッキでサービスボットを撃ったものと同じだった。動きを止めることを目的にした制圧用の弾体で、銃口から放たれたジェル弾が、ザイオンとカザロフに当たってはじけ、発泡しながら粘着性の泡の塊になる。泡ににまみれたザイオンとカザロフは、ヨハンナたちに衝突する軌道を漂っていた。
 メインシャフトを漂うザイオンは、大きく触腕を広げていた。まるで、大きな網のように広がったザイオンの八本の腕にはカザロフとともに大量の粘着性の泡が貼り付いており、その泡の中に、ヨハンナと三人のバウンサーが飛び込んで来る。
 メインシャフトを船首方向に向かっていたザイオンとカザロフが持つ運動量と、船尾方向に向かっていたヨハンナと三人のバウンサーの運動量では、重量級のカザロフの持つ運動量がひときわ大きく、結果として、全員が一体となった塊は、船首方向に向けてゆっくりと漂っていた。
「使う弾体はちゃんと考えた方がいいぞ」
 カザロフが、およそ三〇度ほど横にずれて重なった状態で向き合うヨハンナに言った。粘着性の泡を介して二人が抱き合うように重なり、さらにバウンサーが三人、ヨハンナの後ろに貼り付いていた。それをさらに大きく包み込んでいるのがザイオンの触腕で、全員が一つの大きな塊になっている。
「とってもありがたいアドバイスだけど、今となっては役に立たないわ」
 硬化が進みつつある泡にまみれながら、ヨハンナが身をよじる。カザロフに貼り付いた斧をあきらめ、両腕をカザロフとの間に押し込もうとする。
「脱硬化剤はないのか?」
 カザロフが言った。拘束用のジェル弾は、犯罪者の逮捕や暴徒の鎮圧に使われる。どんな物質が材料として使われているにせよ、使用後には除去できるような材料を使っている。硬化が高分子間の架橋反応なら、その架橋を切る薬剤があるはずだった。
「あなたに渡す物はないわ」
 ヨハンナは腰のあたりに手を伸ばそうとするが、硬化した泡が邪魔をする。
「これか?」
 自由になる肘から先の部分を使って、カザロフが手に取ったのは、小さなスプレーだった。
「渡しなさい!」
 ヨハンナの手が、スプレーをつまんだカザロフの手を叩く。
「何をするんだ!」
 カザロフの手からスプレーが弾き飛ばされていた。くるくると回転しながら、ゆっくりと船尾方向に向けて漂っていく。

 ザイオン・バフェットは、地球でティターンズの攻撃によって一時的な死を迎える以前、著名な投資家として多くの起業家を支援してきた。社会的に必要と思えば、リスクの高い案件も支援することで知られていたし、実際にそのような案件で大きなリターンを得たこともあった。
 当時ですら高齢だったザイオン・バフェットの記憶は、既に人の脳というハードウエアが許容する限界量に近づきつつあった。そのため、最高レベルにチューンアップした支援AIに依存することも少なくなかったが、ザイオン自身の記憶力に本質的な問題があったわけではなく、記憶すべき相手は忘れていない自信があった。
 一つ目の鍵はレイモンドという名前と、加齢によって変化しているとは言え、若かった頃の特徴を残したその風貌であり、二つ目の鍵は客船のデッキのローカルメッシュで調べたドゥールス解放軍に関する情報だった。
 ドゥールス解放軍という組織に関する情報は、少なくとも船のデータベースには存在しなかった。ただ、半年ほど前にドゥールスという小惑星で起きた争乱について、ごくわずかな情報が残されていた。
 ザイオンの記憶にドゥールスという小惑星はない。ただし、ドゥールスという小惑星についての、ごく簡単な脚注が、ザイオンの記憶を刺激したのだ。
 ドゥールスは、現在、火星の先行トロヤ群に位置している。ただし、元々、そこに属していたわけではなく、小惑星帯から運ばれてきたものだった。
 太陽系の地政学から見て、火星の先行トロヤ群には大きなポテンシャルがある。それはザイオンの考えではなく、先行トロヤ群の開発計画への支援を求めてきた若い起業家の考えだった。火星の先行トロヤ群には人類の居住地となるようなサイズの小惑星は存在しない。その弱点を補うため、小惑星帯から小惑星を運んでくるというのが、起業家のアイデアだった。
 ザイオンが提供した資金は、それほど大きいものではない。ただ、ザイオンの資金提供が呼び水となり、プロジェクトは実現した。若い起業家の計画は実現し、ザイオン自身にも少なからぬリターンを及ぼしたはずだ。
 起業家の名は、レイモンド・ノア。
 ドゥールス解放軍を名乗る集団と、レイモンド・ノアが無関係であるはずがない。船倉で拘束されている間に、ザイオンは、そこまでの推察をしていた。レイモンドがいたからこそ、デッキでのパーティというタイミングを選べたのだろう。さらに言えば、定期客船の船長も関与していた可能性が高い。さもなければ、いくら慣性航行中とは言え、簡単にランデブーできるはずがなかった。ただ、ザイオンにはレイモンドがこんなことに関わった理由がわからない。船倉から出るときに、わざわざ明かりをつけたのも、レイモンドの風貌を改めて確認するためだった。
 船を制圧するための具体的な計画はなかった。ヨハンナさえ無力化できれば、後は何とかなるだろうという見込みで、実際にも、ヨハンナの無力化には成功したのだが……。
「何をするんだ!」
 カザロフの声にザイオンは我に返る。そのザイオンのすぐ目の前を小さなスプレーが漂っていった。
「捕まえろ!」
 カザロフの声に反応し、ザイオンはスプレーに向けて自由になる触腕を思い切り伸ばす。
 触腕の先が触れ、わずかにスプレーが漂う方向が変わる。だが、それだけだ。スプレーはゆっくりと回転しながら、メインシャフトを船尾に向けて漂っていく。
「ダメっ!」
 ヨハンナの声に、ザイオンは恐怖を感じ取る。遠ざかっていくスプレーを見るヨハンナの表情はひきつっていた。
「あれ一つしかないのか?」
 カザロフの言葉にヨハンナは答えなかった。
「何なんだ、あれは?」
 ザイオンは、カザロフに尋ねた。
「このやっかいな泡を分解するスプレーだ」
「どういうことだ?」
「あれがないと、俺たちは、ずっとこのままってことになる」
 水や食事なしに生体義体が生存できる時間には限界がある。つまり、機械であるカザロフを除いた全員が、ここで命を失うことになりかねない。
「誰か、あのスプレーを回収に行けないのか?」
 カザロフが改めてヨハンナに尋ねた。
「この船を操っているのはインフォモーフで、私たちの他、動ける者はいないわ。私たちは、ここで、こんな間抜けな状態で死ぬのよ」
 フューリーはヒトベースの生体義体だ。故にその表情は読みやすい。
 ヨハンナは絶望していた。

 レイモンドは待ちかねていた。加速は終わっており、今は重力を感じない。船は軌道遷移を経て、慣性軌道に入っているはずだった。
 この時点でレイモンドを含む船倉に囚われた捕虜たちは、戒めを解かれ、居住区に移される予定になっていた。それなのに、誰も船倉に来ない。
 あのタコとケースだ。彼らが何をやったのか、レイモンドには知ることができない。通常の生体義体であるレイモンドに、電磁枷はどうしようもなく、誰であろうと、誰かが来るのを待つよりないのだ。ただ、後どれくらいの時間、待っていられるかと言えば、それには限界がある。生体義体には生理的な欲求があり、いつまでも電磁枷に拘束されたままで待ち続けることはできない。
 こんなはずではなかった。確かにリスクがないわけではなかった。客船の船殻を破り、乗客を人質に取るとなれば、事故の可能性はゼロとは行かない。ただ、こんな形で問題が生じるとは思わなかった。
 船倉の中でじりじりと時間を過ごしていたレイモンドはドアのところに現れたシルエットを見て驚く。
「手助けが必要だ。誰かつき合ってくれ」
 あのアップリフトだった。そのアップリフトが、レイモンドを真っ直ぐに見据えている。
「私が行こう。このタイプの船には知識がある」
 レイモンドが声を挙げるよりも早く、アップリフトが近づいて来ていた。タコの腕が伸び、その先に持った装置で電磁枷に触れる。
「私も外してくれ」
 アップリフトは、声を挙げた男に向けて、無重力下で宙に浮いた電磁枷の解除装置をゆっくりと押しやる。
「全員外してやれ。そのうち再加速があるから、それまでにここを出て居住区に行くんだ。アナウンスには気をつけろよ」
 アップリフトの腕がレイモンドの腕を掴んだ。ぬらぬらと濡れたタコの触腕は、何カ所も傷つき、吸盤がなくなっていた。
「こっちだ」
 船倉を出たところで、アップリフトは背後のドアを閉じた。
「さて、レイモンド、ここからは交渉だ。あなたたちの計画を完全につぶすつもりはないが、私たちも早く火星に行きたいのでね」
 その言葉を聞いた時点でレイモンドは確信した。このアップリフトはすべてを知っている。

* * *

「しかし、ひどい有様だな」
 カザロフはトランジットステーションの医療施設で、ザイオンの治療を見守っていた。皮膚がめくれ、いくつもの吸盤がはがれ落ちた姿は、悲惨なものだったが、再生能力に優れたオクトモーフにとっては深刻なものではない。
「これでなんとか助かったんだ」
 ザイオンの傷は、カザロフやヨハンナ、部下のバウンサーたちとともに、メインシャフトの船首部分で固まっていた状態から逃れた時のものだ。
 暴徒を鎮圧するための発泡性硬化ジェル弾によって、全員の身動きがとれなくなっていた。水も食料もない状況で、生体義体は何日も持たない。ヨハンナはその事実に恐怖し、絶望した。ヨハンナの恐怖はザイオンにも伝染し、ザイオンの身体に生理的な反応を引き起こす。ヒトの冷や汗に相当するタコの粘液だ。
 わずかな粘液が死の恐怖を感じたザイオンの皮膚から分泌され、恐怖に身をすくめた弾みで硬化した白い泡との間が滑った。そのことに気づいたザイオンは、タージを起動し、突然呼び起こされたタージはパニックを起こした。その間、ザイオンは硬化した泡の中から、触腕を強引に引き抜いた。吸盤がちぎれ、タージは痛みに悲鳴を上げた。粘液がさらに分泌され、ザイオンは傷つき、いくつもの吸盤を失いながら硬化した泡から抜け出した。
「本当に火星に降りるつもりはないのか?」
 ザイオンは、改めてカザロフに聞いた。自由ドゥールス号は偽装を解き、本来の貨客船としての船籍で、火星の静止軌道にあるトランジットステーションに接舷している。同じステーションにはロンギヌスの客船も足止めされており、ザイオンは二等の船客として火星に入国することになっている。
「ああ、せっかくだからドゥールスを見に行きたい」
 カザロフが応えた。カザロフの方は、記録上は火星でのトランジット扱いだ。
「そんなにあのあばずれが気になるのか?」
 ザイオンが言ったのはヨハンナのことだ。バウンサーの一人から奪った電磁枷の解除キーを使ってレイモンドを連れてくるだけなら、それほどの時間でもないのだが、身体の水分を失ったザイオンは、ゆっくりとシャワーを浴びてから船倉に向かった。その間、およそ一時間。カザロフとヨハンナは硬化した泡の中で向き合い、ずいぶん、いろいろなことを話したらしい。
「義体は立派だが、使いこなしていない。ちゃんと鍛えないと、宝の持ち腐れだ」
 それで助かったのだ。戦闘用の義体を纏ってはいても、元々ヨハンナはドゥールスの労働者であり、フューリーの扱いには慣れていなかった。無重力環境下では、フューリーを使うメリットが少ないことをヨハンナは認識しておらず、無重力下でザイオンたちを制圧しようとした。その結果が、これである。
「あまり無理をするなよ。ドゥールスの問題は、ドゥールスにしか解決できない」
 ドゥールスは私企業が所有する小惑星でありながら、多くの定住民と事業体が存在し、利害も交錯している。もとより行政機構が脆弱であるからこそ問題が起きやすい。
「わかってるよ。この手の話は金星で経験済みだ」
 カザロフが言ったのは、北極鉱区での経験だ。ザイオンと出会う前、カザロフはタコ労働者による争乱と鎮圧を経験している。大量の流血を避けられなかったのは、保安主任であったカザロフにとっても苦い記憶だった。
「まあ、レイモンドがいるから無茶はしないだろうが、注意するに越したことはないからな」
 結局のところ、ドゥールスの争乱は解決していなかったのだ。待遇の改善を求めたドゥールスの労働者たちのストライキは、ドゥールスを所有するレイモンドインダストリー側の、流血を辞さない強硬な対応によって一時的に沈静化していた。一方で、現場主導で行われた強硬な措置は、レイモンドインダストリーの経営陣内部に軋轢を生み、強硬な措置に反対し続けたレイモンドは、出資者の意向を受けて事態の隠蔽を計ろうとした経営層の多数派によって経営上の実権を奪われた。
「今回のことは、かなりの無茶だったと思うぞ」
 あきれたようにカザロフが言った。
「計画は上手く行っているじゃないか」
 ヨハンナ労働者グループのリーダーの一人で、その義体を手に入れるための費用は、労働者グループが準備したものだった。たった一体の戦闘用義体でどこまでできるかは疑問なものの、ヨハンナがドゥールスに戻れば、再び大きな争議が起きたろう。
 ヨハンナたちの計画を知ったレイモンドは、自らを誘拐することを提案した。しかもレイモンド一人ではなく、同時に関係のない第三者を巻き込むことで問題を大きくし、隠蔽されないようにした。既に犯行声明はレイモンドインダストリーに対する強い非難の声を呼び起こすことに成功していた。
「綱渡りだがな」
 カザロフがそう応じたのは理由があった。レイモンドインダストリーの創業者として、レイモンド自身は、人質全員の身代金を支払うことを提案していたが、実際にレイモンドインダストリーから支払いがなされるかは確定していなかった。身代金が支払われれば、争議の際の犠牲者への補償に加えて、組織の再編と強化もできるだろう。そうなれば、ドゥールスにおける現場の管理体制や、労働条件の見直しについての議論もできるようになるというもくろみだったが、より厳しい反応を引き起こす可能性もあり得る。レイモンドが復権できる見通しはないし、レイモンド自身も経営には関心を失っている。ザイオンに義体を変えると言ったのは、レイモンドの本心だった。
「綱渡りは当然だ。未知の事態に対処するのは、いつだってそういうものだからな」
 ザイオンが言ったのは皮肉でも何でもない。これから先、火星に降りるザイオン自身も、どういう状況に直面するのかわかっていない。わかっていないながら、できるだけの準備をし、変化する状況に対処していかなければならない。それはまさに綱渡りのようなものだ。
「確かに、そうだな」
 そう応じたカザロフもまたわかっている。ティターンズの侵攻以降、人類のおかれた環境は大きく流動化した。そんな環境の中で生きていくのはまさしく綱渡りであり、もしかすると人類そのものも綱渡りをしているのかもしれなかった。
 ザイオンは火星に立つ。それは到達ではなく、新たな出発点になる。意識はしていなくても、ザイオンは、そう予感していた。



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伊野隆之プロフィール


伊野隆之既刊
『蒼い月の眠り猫』