「牛殺し」太田忠司(画・YOUCHAN)

(PDFバージョン:usigorosi_ootatadasi

 名刺に記されていた名前を読んで、光田博夫は困惑した。
「牛殺しのマリス……ですか」
「はい」
 男は頷く。
「確認しますが、あなたの名前が『牛殺しのマリス』なんですか」
「そのとおりです」
 至極当然といった顔付きで、男は答えた。
 三十歳過ぎ、もしくは四十歳くらいかもしれない。小柄で痩せていた。見るからに非力そうだ。度の強い眼鏡を掛け、いささか古びた灰色の背広を着ている。あまり大きくもない会社の事務仕事に携わっている、といった雰囲気の男性だった。到底「牛殺し」などという物騒な名前は似つかわしくない。そしてもちろん、マリスなどという名前とは縁のなさそうな日本人顔をしている。
 博夫は警戒した。この男、変だ。
「それで、どういうご用件でしょうか」
 あまり相手を刺激しないよう気を付けながら尋ねた。
「わたくし、政府の某機関より派遣されて参りました」
 下手な役者のような棒読み口調だ。
「調査の結果、あなたのお宅に牛がいることが判明しましたので、こうして駆除に参った次第です」
「牛? うちに牛?」
「はい」
「いや、いやいや、そんなものいませんよ」
 博夫は首を振った。
「うちの庭なんて文字どおり猫の額くらいの広さしかないんですよ。そんなところで牛なんて飼えますか」
「庭ではありません。お宅に牛がいるのです」
「家の中に? いや、いやいやいや、それこそあり得ない。どうして家の中に牛なんて入れるんですか」
「それはわかりません。牛というのは頭蓋骨分の幅の隙間さえあれば、どこにでも入り込めるので」
「そんな手品の鳩みたいな。あり得ないですよ。あり得ない」
「否定されたい気持ちは理解できますが、それはあなたご自身のためにはならないですよ。牛類秘匿罪に問われる可能性もあります」
「ぎゅうるいひとくざい? 何ですかそれ?」
「重罪です。これ以上無用な時間を費やさせないでいただけるとありがたいのですが」
 脅しているつもりなのか、しかし相変わらず棒読み口調なので迫力は感じられない。それでも厄介なことになりそうなので、博夫はマリスと名乗る男を家の中に上がらせた。
 マリスは妙に慎重な足取りで廊下を進み、奥のリビングに入った。そして手にしていた黒いアタッシェケースを開いた。中は様々な計器らしきものが埋め込まれたボードになっている。その下に収納されていたスティック状のものを取り出して先端を折り曲げると、パラボラアンテナ状に開いた。
 マリスはそのアンテナを天井にかざし、視線はケース内の計器に注ぐ。しばらくそのままでいたが、
「……ここではないようですね」
 そう言うとケースとアンテナを手にしたままリビングを出ていく。博夫は当惑しながらも、その後ろをついていった。
 浴室、トイレ、キッチン、納戸と巡り、次は二階へ。
「ここは寝室ですか」
「ええ、妻のものもあるので入られるのは――」
 言うより先に、マリスは中に入っていった。
 とたんに奇妙なノイズが聞こえはじめた。彼の持っているケースから出ているようだ。
「ここか」
 博夫も後から入った。いつもと変わらない寝室だった。
「ほら、牛なんていないでしょ」
 諭すように言ったが、マリスは耳を貸そうとはしなかった。アンテナを室内のあらゆるところに近付けていく。するとノイズが強くなったり弱くなったりした。そしてあるところにアンテナを近付けると、一際大きなノイズが聞こえてきた。ベッドの下だった。
「いるな」
「いるなって、ベッドの下にですか。牛が?」
「ええ。危険ですから外に出てください」
 マリスはそう言うと博夫を追い出し、ドアを閉めた。
「マリス、さん? どうするつもりですか」
 ドア越しに問いかけたが、返事はなかった。博夫は廊下に突っ立ったまま、待つしかなかった。
 すると突然、何かが倒れるような音が響き渡った。
「どうしたんですか!?」
 慌ててドアを開けようとした。が、鍵もないはずのドアなのに開かない。何かが押さえつけているのだ。
 ――駄目です! 入らないで!
 マリスの声が聞こえた。
 ――こいつ、思ったよりでかい! しかも凶暴だ。絶対に入らないでください!
 さらに続く物音。何かが壁に激突しているようにも聞こえる。博夫は廊下に立ち尽くしたまま、何もできないでいた。
 五分か十分かわからない。物音が突然途絶えた。
「マリス……さん?」
 思いきって声をかけてみる。返事はない。
「大丈夫ですか、マリスさん?」
 怖くてドアを開けられなかった。ただ呼びかけることしかできなかった。
 やがて、ゆっくりとドアが開いた。出てきたマリスを見て博夫を息を呑む。眼鏡は外れ髪は乱れ背広は裂け頬には切り傷ができていた。
「……終わりました」
 疲れ果てたといった表情で、マリスは言った。
「牛は、どうなったんですか」
「駆除しました」
 博夫は寝室に入った。ベッドは引っくり返されていて、カーテンも所々破れている。妻のドレッサーも倒れていて、抽斗の中身がぶちまけられていた。
「久々に手強い相手でした」
 マリスは言った。
「新人に担当させなくてよかった。下手をしたら五年ぶりに犠牲者が出ていたかもしれない」
「牛は? どこにいるんですか」
「駆除したと申し上げたでしょ。もう心配しなくていいんですよ」
「しかしほら、牛を殺したのなら死体とか……」
「何を言ってるんですか」
 マリスから哀れむような視線を向けられ、博夫はそれ以上何も言えなくなった。
 部屋の隅に転がっていた眼鏡を拾い上げて掛け直すと、
「申しわけありませんが、後片付けはお願いします」
 そう言って彼は玄関に向かった。
「あ……」
 その背中に声をかけようとすると、それより先に振り返り、
「費用でしたらご心配なく。これは官費でまかなわれる事業ですので。ひとつだけ、忠告させていただいてよろしいですか」
「あ、はい」
「奥様にご注意ください。こう申しては何ですが、あなたに相応しい方かどうか……あ、いや、最後の言葉は聞き逃してください。それでは」
 どういう意味ですかと問いかける間もなく、マリスは去ってしまった。
 遺された博夫は呆然と立ち尽くす。何がなんだか、まったくわからない。ただひとつわかっているのは、寝室を片付けなければならないということだ。
 二時間ほどかかって何とか掃除も終わった頃、妻が帰ってきた。夫が疲労困憊しているのを見て、
「どうかしたの?」
 と尋ねてくる。
「信じてもらえないかもしれないけど……」
 と、博夫は起きたことをそのまま話して聞かせた。
 妻の表情が、たちまちのうちに変わった。すべてを聞き終える前にリビングを飛び出すと二階に駆け上がっていった。
 間もなく、彼女の悲鳴が聞こえた。
 慌てて寝室に向かった博夫は、ベッドの前に頽(くずお)れている妻を見つけた。
「どうして……どうしてこんなことに……!」
「おい、牛がどうとかって、そもそもどういう――」
 訳を訊こうとした彼の言葉を遮り、妻は言った。
「誰が、やったの?」
「誰って……その……」
「誰なのっ?」
 今まで見せたことのないような妻の憤怒の表情に、博夫は怯む。そして渡された名刺をおずおずと差し出した。
「……牛殺しの、マリス……こいつがやったのね?」
「ああ……でも一体――」
「奴らを甘く見てたわ。悔やんでも悔やみきれない。でも、このままにはしておかない」
 妻は立ち上がると、自分のドレッサーを引っくり返した。博夫が苦労して詰め込んだ化粧品類がまた床にこぼれる。それを無視して彼女は、底板を拳で叩いた。
 板はあっさりと外れる。妻はそこから何か黒いものを取り出した。
 拳銃かと思った。しかしよく見ると、それより意外なものだった。角だ。
「こんなことなら、あの子からこれを取らなきゃよかった」
「おい、それは――」
 もう夫の言葉は聞こえていないようだった。妻は一対の角を両手に持つと、それを自分の頭の両側に宛てがった。
 そしてそのまま、家を飛び出していった。
「おいっ!」
 呼びかけても無駄だった。

 翌朝、妻の帰りを待つ博夫の許に朝刊が届けられた。
 その社会面に「男性殺害 凶器は角?」という見出しが躍っていた。深夜、人気のない路上に男が倒れているのが発見され、病院に運ばれたが死亡が確認されたという記事だ。その胸には動物の角と思われるものが突き刺さっていたという。男性の身許は不明で現在警察が捜査中、と書かれていた。
 博夫は確信していた。妻がやったのだ。そして殺されたのは……。
 彼はテレビ、新聞、ネットとあらゆるメディアを漁って情報を求めた。だが男性殺害についてのニュースはそれ以降一切報じられなかった。まるでそんなことなどなかったかのように。
 妻は帰ってこないものと思っていた。が、三日後に戻ってきた。
 何があったのか訊こうとしたが、できなかった。聞いてしまうと何かが決定的に壊れてしまうような気がしたからだ。博夫は妻に去られたくはなかった。
 以後、妻も何事もなかったかのように生活を続けた。博夫は心にわだかまりを抱きながらも、それを口にすることなく過ごした。
 二年後、彼らの間に子供が産まれた。産院で初めて我が子と対面した博夫は、心から安堵の溜息をつき、涙を流した。
 妻も子供を抱いて泣いた。
「今度は……もう……」
 優しい眼差しを向け、妻は子供の頭に手をかざした。その手の動きを見て、博夫は震えた。
 妻は、頭を撫でていたのではなかった。そこにない角を愛おしんでいたのだ。
「今度こそは、あなたを守るわ」
 妻の声には、強い決意が感じられた。博夫はやはり、何も言えなかった。

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太田忠司既刊
『密原トリカと七億の小人とチョコミント』