「縁日」飯野文彦

(PDFバージョン:ennniti_iinofumihiko
 愛用している目覚まし時計そっくりな音だった。てっきり目覚める時刻を知らせていると想った私は、はっと身体を起こしたが、自分がどこにいるのかわからなかった。
「お降りのかたは、お急ぎください」にわかにパニックに襲われた。辺りを見回すうちに音が鳴り止んだ。「発車いたします」
「待ってください」
 考える間もなく駆けだした。古びた電車の車内だった。誰かが、窓を開けて、叫ぶ。
「車掌さん。降りる人がいるよおぉ」
 ホームに降りるなり、プシュッと音を立ててドアが閉まった。はあはあ息を弾ませながらも、叫んでくれた人に礼を言おうと電車を見た。狐が窓から顔を覗かせている。面をかぶっているらしい。子供か、と想いながら、ぺこりと頭をさげた。
 電車は走り去り、薄暗いホームに佇んで、やっと自分のペースで考えるゆとりを持った。状況から判断して、私は電車に乗っていた。いつの間にか居眠りしたらしい。停車し、発車の合図を目覚ましの音と勘ちがいした。その後は混乱したまま下車したというところか。それにしても、どうして電車に乗っていたのだろう。
 辺りは闇に包まれていた。山間の駅らしい。私以外、ホームには誰もいない。どこの駅か確かめようと、表示板を探してホームを歩いた。見当たらない。歩いていくうちに、山小屋のような駅舎に着いた。薄暗い灯りが灯っている。改札まで行くと、曇った窓ガラスの向こうに年老いた駅員がすわっていた。
「ここは? もう大月は過ぎたんで……」
「まちがえて降りましたな。ときどきいるんです。ときどきですがね」
 私は笑顔を作って肯き、もう一度駅名を訊ねようとした。それより先に駅員が言った。
「祭りをやってますから、見て行ったらどうです。次の電車まで小一時間ありますから。いいです、そのまま素通りして。めずらしい祭りですから、見ておくと自慢できますよ」
 駅員は人の良さそうな笑顔を浮かべた。小一時間、電車は来ない。切符を回収されずに駅から出られる。人に自慢できる、めずらしい祭り。それらが奇妙な甘い魅力をもって感じられ、心そそられた。
「さあ、どうぞ。どうぞ」
 再度、駅員に言われたのをきっかけに、それじゃと頭を下げ、改札を抜けた。さてさて、どっちへ行けば良いものか。考えたのも一瞬だった。改札を出て、頭を上げると、駅からまっすぐに道が延びていた。道の両脇には、灯りのついた提灯がぶら下がっている。
 立ち止まり、思案した。つい今しがたまで駅のまわりは闇に包まれ、灯りなど見えなかった。まるで私が改札を抜け出るのを待っていて、いっせいに灯りをともしたかのようだ。すぐに自嘲した。あまりに自己中心的で、あり得ないことである。ぼんやりしていたので、気がつかなかっただけだ。
 駅舎を出て、まっすぐ伸びる道へ、歩を進めた。道幅はせいぜい三メートルほどである。両脇にぶら下げられた提灯は、どれも薄暗い。道と、その反対側をわずかに照らすばかりだ。その向こうに、どんな風景が広がっているのかもわからない。曇っているらしく、星ひとつ見えず、いっそうである。
 何という祭りだろう。それ以前に、何という駅か聞き忘れた。なぜ電車に乗っていたのかさえ想い出せない。都会からだいぶ乗り継いだ気がする。どれくらい……否、ほんとうに都会に出向いていたのかすら怪しい。
「いてッ」
 幼い子供が私にぶつかった。浴衣姿で狐の面をかぶっている。ごめんなさい、と狐の口が動いた。面から口だけ出ているらしい。
「君はさっき、電車で」
 私は言いかけて止めた。単なる偶然で、あり得ないからである。そんな気持ちを見透かしたように子供が声をあげた。
「車掌さん。降りる人がいるよおぉ」
「えっ?」
 驚く私を見上げて、子供は笑った。狐の面から覗く黒目がちの目が、くりっくりっと動いた。どうして、と訊ねる私をやり過ごし、子供は私が来た方へ走る。浴衣の臀部から、毛むくじゃらのものが出ていた。
「尻尾……」
 ぽつりと私がつぶやいたとき、まったく悪戯小僧だ、と声がした。目を向けると、道ばたに初老の男がしゃがんでいた。あぐらをかく男の前に風呂敷が広げられ、その上に独楽が並んでいた。真ん中に蝋燭のように棒が立っていて、その上で独楽が一つまわっている。ふつうの独楽ではない。楕円形で笛のような音を立てながら回っている。
「鳴り独楽ですね」
 幼い頃、縁日で見かけ、ほしくてたまらず、親にねだって買ってもらったことがある。
「なつかしいなあ。今でも売ってるんだ」
 風呂敷の上を見回した。値段は書いてない。いくらか訊こうとしたが、それより先に男が、
「狐の面をかぶって、尻尾をつけるのが、この祭りの決めごとだ」
 子供のことを言っているらしい。
「それより、この独楽はいくらで……」
「狐の面をかぶって、尻尾をつけるのが、この祭りの決めごとなんですよ」
「は、はい」
 鳴り独楽から顔を上げて、はじめて気がついた。男もやはり狐の面をかぶっていた。面の奥の目が、じっと私を見ている。どうやら子供ではなく、私に言っているらしい。男の口は、への字になっていた。
「すみません。今来たばかりで」
「だから狐の面をかぶって、尻尾をつけるのが、この祭りの決めごとなんですよ」
 口調がいちだんときつくなった。見上げる両眼の輝きも険しい。たまらず、立ち去った。独楽の値段以前に、そんなに言うなら、どうすれば狐の面が手に入るのか、聞き出したい。訊ねなかったのは、どうせ男は同じことをくりかえすだけという気がしたためだ。
 歩き出して、気づいた。両脇に露店が点在し、通りに人も出ている。私の地元で目にする、夜祭りの光景と大差がない。ほっとため息がもれた。このまま道を進んだ先に、祭りの本尊がある神社があるのだろう。神社だけに本尊という言い方は正しくはないか。それなら何と言うんだろう。
「ご本尊様だよ」
 目の前に幼い子供が立っていた。
「君はさっきの」
 いや、そんなわけがない。浴衣と狐の面のせいで、同じように見えるだけだ。私はひざまずき、子供と同じ目線になって訊ねた。
「そのお面は、どこへ行くともらえるの?」
「お面?」
「君がつけてる、その狐のお面さ」
「おじさん、これがお面に見える?」
 子供の口がにやりと笑った。面と唇の間に境目がなかった。
「こら、だめじゃねえか」
 女の声がした。前方からでっぷりと太った中年女が、片手を振りあげて駆けてくる。目の前にいた子供が、ぴょんと跳ねた。狐そのものの姿で、脇の暗闇に駆けていく。
「すぐいたずらに来やがる」
 女は私の前で立ち止まり、狐が消えた闇に向かって、手を振る。手の先が鈍い光を放った。出刃包丁である。腰を抜かさないまでも、立ちあがるタイミングを失った。しゃがんだまま後じさりしようとしたとき、女は出刃を振り回すのを止めた。はあはあと胸や腹が上下した。汗で浴衣が張り付き、体型が生々しくわかる。裾や袖、胸元もずいぶんとはだけ、白い餅のような肌があらわに見える。
「山の狐が祭りにやってくるんだ。まったく油断も隙もねえ」女は、独り言ともつかずに言い、私を見た。やはり狐の面をかぶっている。「で、あんたは?」
「え? あ、はい。実は」
 私は立ち上がり、自分がなぜここに来たのかを話そうとした。さらに、ここがどこで、この祭りがどんな祭りかまで、この女から聞き出そうとした。けれどもダメだった。
「実は、まちがって電車を降りて」
 そこまで言っただけで、女は首を横に振った。いっしょに出刃を持った手まで振ったので、とても話をつづける状況ではなかった。
「だめだめ。祭りの間は、よけいなことをくっちゃべったら、だめだ」
「しかし……」
「ああ、これかい?」女は出刃を、ぐいと突きだした。私は喉を詰まらせ、身を引く。女の口が笑った。「好きなくせに」
 女は開いているほうの手で、出刃の刃をつかみ、すっと引いた。私は目を見開き、動きを止めた。女は笑いながら、手を広げる。そこには銀紙が握られている。もう一方の手を見た。そこにあったのは黒光りする棍棒だった。一見しただけで何を形取っているのかわかった。男根である。
「これでずっぽんずっぽんばっこんばっこん。いひひひひ、好きなくせに」
 女は下卑た笑いを浮かべながら私にそれを突き立て、腰を前後に揺らす。浴衣の胸元や裾がいちだんと広がり、汗ばんだ白い肉の塊がより露出した。男根を奉る神社があると聞いたことがある。どうやらこの祭りの神社は、その類か。それより私を戸惑わせるのは、先ほどの少年、否、狐である。逃げる姿はまさしく狐だった。けれども子供の姿で私と対峙した。ちゃんと言葉も話した。
「狐も助平だから、ずっぽんずっぽんしたくて紛れ込んでくる。だから魔羅ん棒を出刃みたいにごまかして追い払うんだ」さらに女は唇を妖しくゆがめ、「あんた。やってきな」
「やってって、何を……」
「ずっぽんずっぽんに決まってる。しっかり持って、ずっぽんずっぽんっと。女に頼まれたら、子供以外の男は断れない。それとも、あんた子供か?」
 女は浴衣の衿を広げ、両の乳房を露出した。熟れすぎた巨大な桃の実に似た乳房が、身体を前後するたびに、ゆっさゆっさと揺れる。私は一、二歩後退したところで、足を止めた。Uターンしたら駅にもどるだけだ。そうしたほうがいい、と心の中で叫ぶ声がした。だが従えなかった。せっかく来たのに、このままでは、逃げもどったようで癪にさわる。
 同時に、別の想いが広がる。戻れば駅があると想っているのか、まったく呑気な男だ。あざ笑う自分が自分の中にいる。さらに、おい、どうした、そんなに切羽詰まることはない。単なる田舎祭りではないか。たしかに奇妙な祭りだ。他人に自慢するより、ねたとして使える。そうだ、これは小説の取材だ。気持ちは決まった。先に進もう。
「ずっぽんずっぽんばっこんばっこん。ああん、ずっぽんずっぽんばっこんばっこんん」
 女は土俵入りする力士のごときかっこうで、身体を激しく波打たせている。ずっぽんずっぽんばっこんばっこん。ずっぽんずっぽんばっこん。女の腰が、一方に振り切った瞬間、私は反対側を駆け抜けた。
「けけけけけ、ずっぽんずっぽんばっこんばっこん。けけけけけけけけけけ」
 甲高い笑い声が、私の神経をざわつかせた。突き出た石に足を取られ、よろけた。何とか体勢を立て直したものの、身体が捻れて、見るともなく女の後ろ姿が目に入る。女の尻から糞が出ていた。一本二本でなく大量の糞が噴出し、ぶらぶら揺れている。足腰、膝に力を入れて、女から遠ざかった。
「すげえ。こいつ、九尾を振り切ったぞ」
 ふらふらと進むうちに、徐々に耳の感覚が戻り、声が聞こえた。すれ違う人たちが、私を見て、あげている声だった。
「ほんとにすごいわ。九尾を振り切るなんて」
 私は足を止めた。つぶやいたのは、女の子だった。白地に赤い朝顔模様の浴衣、狐の面の向こうにおかっぱ頭が見える。
「九尾って、さっきの女の人のことかい?」
 少女の首が、こくりと縦に動いた。
「なぜ九尾って」言うんだい、と訊ねる前にピンと来た。尻から出ていたのは糞ではなく、九つに割れた尻尾だったのではないか。私はしゃがんで、真正面から少女を見た。少女の頬がぽっと赤くなった。否、面だ。最初から面の頬が赤く塗ってあったのか。
「ここはなんて言うところなんだい?」
「ここ?」
「町の名前さ。町というより、村かな」
「だめよ。だって、まだあたし、子供だから」
「いや、君をどうこうしようというわけじゃ」
「ううん、いいの。ほんとは、もう……」
 うつむいた少女の面が頬だけでなく、首筋まで赤くなった。首筋まで面があるわけがない。少女が肌を赤らめている。
「いや、ここがどこか知りたいだけで……」
「あなた様が、見学者様ですか?」
 少女の肩越しに近づいてくる人物がいた。紋付き袴姿の老人で、とうぜんのごとく狐の面をつけている。老人は私の前で立ち止まり、あっち行ってろ、と少女に言った。
「あたし、この人に誘われた」
「まさか?」
 老人が私を見た。
「そんな。ただ、ものを訊ねただけです。ここに来たばかりで、何も知らないので」
「わかっとる。わかっとる」老人は両手を振って私を黙らせ、「あなた様が来たと駅から連絡がありまして、あわてて駆けつけて来たんですが、支度に手間取って、いやははは」と笑った。呂律が怪しい。酔っ払っているらしい。何と返事をして良いかわからずにいると、さらに老人は言った。
「ああ、失礼。自分はこの祭りを取り仕切っております、総代とでもいいましょうか」
「あなたがいちばん偉いんですね?」
「いや、そんな風に言われると照れますが、まあ、たしかに。偉いと、ははははは」
 片手で後頭部を叩いて笑った。何度も叩くので、指が面の紐に引っかかっり、ほどけて、落ちそうになる。その下に見えた顔は――。
「いかん」老人は両手で面を押さえた。後ろ向きになって紐を結び直す。「危ないところでした。いや、祭りの間に面を取った者は、災いが起こると言われているもんで」
 私に向き直って、老人が言った。
「飲み食いするときも、外さないんですか?」
「もちろん。だから、こんな風に口が開いてるんです」
 老人に言われると、もっともである。私はさらに気になったことを訊ねる。
「しかし、今、そのお面の下に、もう一つ同じような顔が見えたように想いましたが」
「滅相もない。そりゃあ面を落とすのを恐れて、二枚三枚重ねている者もいますが、ああ、そうでした。ええ、たしかに、自分も二枚重ねていたんです。すっかり忘れていました」
「それなら一枚、貸してもらえませんか?」
「貸して、ですと?」
「いくらよそ者と言っても、私だけお面をつけていないのは不自然でしょう」
「しかし、それは」
 老人はうつむき、片手で白髪交じりの頭をぽりぽりと掻いた。ずいぶん戸惑っている様子である。だが、私の中のざわめきは、それ以上だった。やめろ、何てことを言い出すんだ、すぐに取り消せ、面はいりませんと言うんだ、取り返しのつかないことになるぞ。
「いいじゃない。あたしが面倒見るから」
 脇に立つ少女が言った。
「黙っとれ。赤飯前の洟垂れのくせに」
「もう子供じゃない。ほら」
 少女は両手で浴衣の裾をつかむと、両側に広げた。痩せた下半身は透き通るように白い肌をしている。股間には産毛のような性毛が光り、さらに赤い花が咲いていた。
「おなごになったのか」
 少女は静かに、うつむいた。
「それなら……。うん、九尾をかわすほどのお人だ。お仲間になってくれたら心強い。わかりました。どうぞ、かぶってください」
 老人は両手を頭の後ろに回して、結びなおしたばかりの紐をほどこうとする。
「いや、待ってください」
 老人は動きを止め、私を見た。少女も自分を見上げているのが伝わってくる。
「やっぱり、よそ者の私は」
「もう、よそ者じゃない。あたしがいる」
 冷たいものが私の手に触れた。少女が手を握ったのだ。私と恋仲にでもなったつもりか。手を引こうとしても、少女は離さない。
「あたしのことが嫌い?」
「そうじゃなくて……。そろそろ電車が来る」
「この面をかぶれば、電車などなくても、いっこうにかまわなくなる」
 老人が言った。
「かまわなくなる?」
「考えてもごらんなさい。なぜ、あんたがここに来たかを」
 そう言われても、とんと見当がつかない。むしろ私のほうが訊ねたいくらいだ。そんな気持ちを察したかのように老人は言った。
「自分で望んだんですよ」
「私が望んだ?」
 老人は肯いた。意味がわからずにいる私に、少女がつぶやく。
「なにやってんだよ、いい歳こいて。ろくなもんも、書けないままじゃねえか」
 えッ、と思った刹那、その言葉が脳裏にうっすらと浮かんで来る。誰かに言われたのか。
 ――こっちも仕事だ。勝手に上京して、いきなり来られても迷惑なんだよ。
 いや待てよ。飲んだくれて、自分でそう叫んでいた記憶もうっすらと浮かんで来る。
「人間って、仲間が悲しんでても助けようともしないけど、あたしたちはちがう。だから、あたしのお兄ちゃんが、あなたを……」
 電車の中から私を見送った、狐の面をつけた少年が頭に浮かぶ。
 シマッタ! 全身が凍りついた。
「さ、どうぞ。かぶりなさい」
 老人は自分の顔から面を取り、さしだした。老人を見た。その顔は面ではなく狐である。面を払いのけた。少女の手を振り払い、やって来た道を走る。
「かぶれ」
「かぶれ」
 両側の露店から出てきた者たちが、手にした面を差し出す。道に立つ者も同じだ。
「けけ、やっぱ、あたいがいいんだろう。ずっぽんずっぽんばっこんばっこん」
 豚のように太った牝狐が、何本もの尻尾を揺らしている脇をすり抜けた。前方に駅が見えた。薄暗いホームに電車が止まっている。目覚まし時計に似た音が聞こえる。
「待ってくれ。乗ります。乗りますからあ」
 改札の所に、年老いた駅員が立っていた。
「はやく」かすれた声を上げ、手招きする。「ここはまかせて、はやく乗りなさい」
 礼もそこそこ、電車に飛び乗った。背後で扉が閉まった。ふうう、間に合った。安堵とともに顔を上げると、目の前にあの少女がいた。ぴょっと飛び跳ねるなり、持っていた面を私の顔に押しつける。とたんに電車車内の通路が、まっすぐ伸びる一本道に変わった。両脇に提灯がぶら下がり、露店が出ている。
「あたし、綿飴が食べたい」やわらかな小さい手で私の手を握り、さらに言った。「食べたら、あたしとずっぽんばっこんしようね」
 依然として、目覚まし時計そっくりな音が聞こえる。
「うるさいな。お兄ちゃん、止めて」
「あいよ」
 音が消えた。

(了)

飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『飯野文彦劇場
 ポール・デルヴォーの絵』