「別れの日」青木 和

(PDFバージョン:wakarenohi_aokikazu
 鳥の羽音を聞いた気がして目が覚めた。
 車椅子のヘッドレストから頭を起こし、窓の外に目を向ける。が、ガラス越しに差し込んでくる日の光の眩しさに目が眩み、早々に鳥を探すのを諦めた。
 やがて体をまっすぐ立てていることに疲れて、ぼくは再び車椅子の背にもたれこんだ。ここ数日の間に目に見えて体力が落ちた。何をするにも、カタツムリのような速度でしか反応できないし、とろとろと眠りこんでばかりいる。
 だが、ある意味それはありがたかった。今の自分の状態を、これから自分に起きることを、深く考えなくてもすむからだ。
 ぼくは室内に視線を移した。熱帯の花をかたどったデザインの、ボイルレースのカーテン。ソファ、テーブルクロス、どれも薄緑を基調にした落ち着いた色合いで、パインの床によく合っている。出窓に並んだサボテンの鉢植えが可愛らしい花をつけていた。
 明るく居心地のいい居間。慣れ親しんだこの部屋をぼくは今日あとにする。そしてもう戻ってくることはない。
 この部屋で妻と過ごした八年間を思うと、不覚にも涙がにじんできた。ぼくは襟元に巻いたコットンのマフラーを取り上げて、目頭を拭った。こんな顔を妻に見せるわけにはいかない。
 マフラーを元に戻し終わったところで、妻が入ってきた。
「お義母さんに連絡してきたわ」
「ん」
「気分はどう?」
「そんなに悪くないよ」
「よかった」
 微笑む彼女の目も赤くなっていたが、ぼくは気づかないふりをした。妻とは何度も話し合い、互いに涙を流し、そして今日という日を穏やかに迎えようと決めたのだ。
 窓からはこれでもかというほど明るい日の光が射し込み、床に濃い影を形作っている。
「支度は全部終わったよ。いつでも出られるよ」
 ぼくがそう言うと、妻は怯えたような目を向けた。
「先に引き延ばしてもいつかは出かけなくちゃならないんだ。もう行こう」
「……そうね」
 妻はふうっと小さな溜息をつくと、ぼくの背後に回った。軽い反動と共に車椅子が押されて動き出す。
 部屋を出る寸前、鏡に映る妻の姿をぼくは振り返って眺めた。日にあたっても焼けない白い肌、彫りの深い顔立ち、女にしては背の高いすらりとした体つき。ウエストまわりをゆったりと取ったチュニックドレスを着ているが、体の線の変化はまだそれほど目立たない。そろそろ四か月になる、ぼくたちの子供。ぼくはその顔を見ることはできない。
「君の方は? 大丈夫?」
 ぼくが尋ねると、妻は一瞬間をおいてから、うなずいた。
「大丈夫よ。赤ちゃんも元気」
「あとのことは母さんを頼れよ。まあ、あっちが放ってはおかないだろうけど」
 母には三人の子供を産んだ経験がある。心強い支えになってくれるはずだ。
 もっとも、三人のうち大人になるまで育ったのはぼく一人だった。ぼくの二人の兄はどちらも生まれたときから体が弱く、長く生きられない宿命を背負っていた。知能の発達も遅れていたため一つの言葉も発することなく、動物のように唸り声をあげるだけの寝たきりの生活を送ったあと、成人する前に死んだ。ぼくが生まれる前のことだ。
 そのことは、すでに妻にも話してあった。妻を説得する必要があったからだが、顔も見たことのない兄たちの状態をことさらにひどく表現したことは、今も心に苦い後悔となって残っている。兄たちのところへ行ったら、彼らに謝らなければならない。
 家の外に出ると、ひゅっと冷たい風が吹きつけてきた。部屋に差し込む日差しの暖かさにすっかり忘れていたが、もうすっかり秋なのだ。この寒さなら、川沿いの紅葉が赤くなっているかもしれない。
 家から歩いて十分ほどのところに、河川敷を整備した遊歩道があった。春には桜、秋には紅葉、そしてそこに訪れる野鳥を見るために、近隣の人々がよくぶらぶらと散歩している。ぼくと妻もよく二人でその遊歩道を歩いたものだった。
「遊歩道を通っていかないか」ぼくはその思いつきを口にした。
「大丈夫? 寒くない?」
「もう一度だけ見ておきたいんだ」
 さりげなく言えたはずだ。妻は何も言わず、車椅子を川の方に向けてくれた。
 予想通り、遊歩道の紅葉はすっかり色づいていた。川の流れにもその色が映り込んで、視界一面が赤い。空気の色まで真っ赤に染まりそうだ。
「きれいね」
「うん、きれいだ」
 ぼくたちは言葉少なにささやき交わし、血の滴るような色にうっとりと魅入った。本当に、赤という色はどうしてこんなにも心を惹きつけるのだろう。
 手を伸ばし、妻のそれに重ねると、彼女もそっと握り返してきた。そうしていると、今ぼくが人生の最後の時にいることも、妻との別れを迎えようとしていることも、何もかもが嘘のように思えてきた。ぼくたちは、生まれてくる子供と無限の未来が約束されている若い夫婦なのだ――。
 もちろん、それは夢だ。ぼくたちには決して叶えられることはない。
 二人して黙って紅葉に見とれていると、いつの間にかピンク色のリボンを髪につけた女の子が現れて側に立っていた。三歳か、四歳くらいだろうか。大きな目を見開いて、車椅子とそこに乗っているぼくを不思議そうに見上げている。
 椅子に車輪がついているのが珍しいのだろう。おずおずと手を伸ばして車輪に触り、そっと押してみる。もちろん幼児の力で動くわけもない。やがてむきになってがたがたといじくり回す姿がかわいくて、ぼくは思わず声をかけていた。
「乗ってみるかい」
「いいの?」
 女の子が目を輝かせてぼくを見上げる。妻が何か言いたそうにする気配を感じたが、ぼくは振り返って、かまわないから、と目で合図を送った。
 妻の手を借りて立ち上がる。まだ一人で歩けないことはないのだ。十メートルそこそこが限界だろうけど。
 場所があくと、女の子は待ってましたとばかりに車椅子に飛び乗った。ぼくの体格に合わせて調整してあるので、子供が乗ってもハンドルに手は届かない。女の子ががっかりした顔をするのが可哀想で、ぼくはブランコのように後ろから軽く車椅子を押したり引いたりしてやった。
 女の子はきゃっきゃっと声を上げてはしゃぐ。
 ふと目をあげると、妻の視線と合った。彼女の考えていることは聞かなくても分かった。ぼくたちの子供は父親を知らずに育つのだ。こんなふうに父親に遊んでもらうことは決してない。
 そういえば、ぼくも同じだった。ぼくの父親も、母がぼくを身ごもってちょうど三か月目くらいに死んだ。ぼくは父の声も知らないし、手の大きさもぬくもりも知らない。
 寂しくなかったとは言わない。子供の頃、友達が日曜日に父親といる姿を見たり、一緒にどこかへ出かけたりしてぼく一人が取り残されたとき、父があっさりとこの世から身を引いてしまったことを恨みに思ったりもしたものだ。
 だが、今は父の気持ちが痛いほどに分かる。
 ぼくの子供は、ぼくにどんな感情を抱いて育つのだろう。きっと、妻と母がうまく言い聞かせてくれるだろうけれど。
 車椅子で女の子を遊ばせていると、背後から甲高い叫び声が聞こえた。若い女性が顔色を変えて走ってくる。
「ママ!」
 女の子が車椅子から飛び降りるのと、若い母親が娘を抱え上げるのとはほぼ同時だった。
「もう、この子は! この椅子は玩具じゃないのよ」
 女の子を叱りつけたあと、ぼくたちに向かってしきりに頭を下げる。その様子に、ぼくたちの方がかえって恐縮してしまった。
 気にしないでくれ、ぼくの方から誘ったのだからと繰り返すと若い母親はようやく落ち着きを取り戻した。女の子は、それ以上叱られずにすみそうだと分かるとすっかり機嫌を直し、にこにこと笑いながらポケットを探る。
「あげる」
 赤や、青や、緑色のアルミフォイルに包まれたチョコレートを数個くれた。見覚えのある包み紙だと思ったら、フォイルには馴染みのある店のロゴが印刷されていた。
 ぼくはそれを妻に示した。妻も久々に頬をほころばせる。
 それはぼくの実家でこしらえているチョコレートだった。
 ぼくの曾祖父は、ロシア革命の時に政治的事情で迫害され日本に逃れてきたロシア人だった。貴族の血を引いていたと聞いている。が、苛酷な逃亡生活の間に財産はあらかた失われ、日本に着いたときはほとんど無一文だった。知り合いの伝を頼って洋菓子職人のもとで見習いとして働き始め、何年かの修行の後に自分の店を持った。決して規模は大きくないが、地元では愛されている店だ。
 母の息子たちは、ぼくも含めて誰一人跡を継いでやることができなかったが、妻が出産後には母を手伝うことになっている。店はぼくの子供が継いでくれるだろう。きっと元気に生まれてくるはずだから。
 女の子が母親に連れられて帰っていったあと、ぼくは車椅子に戻った。座面にはまだ女の子のぬくもりが残っていた。
 ぼくたちは再びゆっくりと遊歩道を進み始めた。
 風は冷たいが、うらうらとした秋の日差しが心地よい。
 また睡魔が襲ってくる。これがぼくの目に映る最後の景色なのだ、目を覚ましてしっかり見ておきたいと思いながら、意識は白く穏やかな光の中に吸い込まれていく。
 夢の中で、ぼくは妻と出会った頃のことを思い出していた。
 妻と知り合ったのは、ぼくが将来家業を継ぐときに備えて修行に出ていた、あるホテルでのことだった。ロシア領事館にほど近いそのホテルは、土地柄ロシア料理を出す店がメインダイニングで、ぼくはそこで菓子職人の見習いとして働いていた。妻はフロント係だった。
 妻は早くから天涯孤独の身の上で、自分の出自を知らなかったが、ぼくと同じスラブ系の血を引いていることはその容姿を見ればすぐに分かった。
 まだお互いに名前も知らないうちから、ぼくは彼女に強く惹かれた。彼女こそぼくの愛すべき女性だと思った。そして何より驚いたことは、彼女もぼくを見たときそう感じたと、あとで告白してくれたことだ。これこそが運命の出会いだと、若かったぼくたちが信じても無理はない。
 そう──確かに運命の出会いだったのだ。
 ぼくの意識は、きれぎれに現れる思い出の中をゆらゆらと揺蕩う。わずかな休み時間を合わせて語り合ったホテルの裏庭、結婚式、二人で訪れたいろいろな場所――。
 がたん、と軽い衝撃が来て、ぼくは現実に引き戻された。
 体の傾きを感じて足下に目をやると、車椅子が小さな石に乗り上げていた。妻は車椅子の背に片手をかけたままうずくまっている。もう片方の手は腹部を押さえていた。
 ぼくは妻の名を呼びながら、細い肩を揺すった。妻は苦しいのかすぐには返事をしなかったが、やがて顔を上げ、弱々しい笑みを返してきた。
「ごめんね。ちょっとつまずいちゃった」
 立ち上がろうとするものの、顔が真っ青だった。脂汗が球になって浮かんでいる。
「動くんじゃない。そのまま座ってて。母さんを呼ぼうか?」
 携帯電話にのばしたぼくの手を、妻はかぶりを振って制した。
「本当に平気。四か月目に入ってからこういうのはよくあるの。すぐに気分よくなるから心配しないで」
 そんなことは初耳だった。おそらく妻は、苦しむ姿をぼくの目に入れないように気遣っていたのだろう。ぼくは、自分の感傷に浸りすぎていて妻にむだに苦しい思いをさせてしまったことを後悔した。
 これ以上ためらっているのは未練だ。心残りがないと言えば嘘になるが、行かなくてはならない。

 ぼくたちは妻の気分の回復を待ってしばらく遊歩道で休んだあと、再び歩き出した。
 川沿いを離れ、緩やかな登り坂にさしかかる。やがて行く手に西洋風の大きな家が見えてきた。ぼくの生まれた家だ。父と兄たち二人を見送り、ぼくを独り立ちさせ、今は母が一人きりで住んでいた。
 曾祖父が店を持ってから買い求めたというその家は大正時代に建てられたので、外側は完全な洋館だが、内部には畳の部屋をいくつも備えた和洋折衷の家だった。ぼくたちと同じように、家まで混血というわけだ。
 外の門扉を抜けて入っていくと、母が表に出てぼくたちを待っていた。
「遅くなってごめん」
 母は、心配をかけたぼくたちを叱ることもなく、黙ってぼくの頭を抱えて頬にキスをした。ぼくよりも妻よりもさらにスラブ系の容姿を強く受け継いでいる母は、そんな動作がとてもよく似合う。
 母は、妻の顔を見ると、暗い目をして眉をひそめた。妻の状態があまりよくないこと、本当は一刻の猶予もならないことを、経験から一目で見抜いたのだろう。迎える言葉もそこそこに、家に入るように言った。
「もうすっかり日が落ちてしまったね。窓からはにも見えないかもしれないけど、好きな部屋を選んでいいよ、どこにする」
 ぼくは少し考えてから、中庭に面した南向きの座敷を選んだ。
 睡蓮の浮かんだ池があり、曾祖父の代から丹精されてきた花壇や植木がある。今の時期なら、遅咲きのコスモスがまだ咲いているだろう。夜の闇に揺れるコスモスが見たい。できれば花に囲まれて眠りにつきたい。
 妻と母はぼくのその希望を叶えてくれた。本当は、屋外で最期の時を迎えるのは禁忌だ。だが中庭なら他人に見られる恐れはない。否、たとえ見られたところで誰があの行為を連想するだろう。この現代の日本で。
 ぼくは庭に出ると車椅子を降りた。白、紫、ピンク、オレンジ――色とりどりに揺れる満開のコスモスの中に身を横たえる。
 首にずっと巻いていたマフラーをはずすと、鎖骨のすぐ上に、他の部位以上にひんやりと敏感に風を感じる部分があるのが分かった。その部分には何度も癒えかけ、また穿たれた小さな穴があるはずだ。ぼくの血液のかなりの部分が――生命維持に必要な最低限度量以外の血液が、そこを通って失われた。
 そして今、最後に残ったわずかな血をぼくは与えようとしている。妻の唇を通して、ぼくたちの子供に。
 妻は動かなかった。青ざめた顔で、唇の色まで失って、細かく震えながらぼくを見下ろしている。母に肩をそっと押されて促され、ようやくぼくの傍らまで来てひざまずいたが、そこで堪えきれなくなったのか、わっと泣きだした。
「もうやめよう。この子だって分かってくれる」
 ぼくは妻の肩を抱き寄せ、もう何度語ったか分からない言葉を繰り返した。
「君の気持ちは分かるよ。つらい思いをさせてすまないと思う。でもこれがぼくたちの生き方なんだ。ぼくだってそりゃあ、生きていられるなら生きていたいと思うよ。でもそのために子供を犠牲にすることはできない。元気な子供を生まなくちゃいけない、それがぼくたちの大切な役目なんだ。ぼくたちの父親や、おじいさんや、そのまたおじいさんたちが命と引きかえに長らえてきた血筋を、ぼくの我が儘で絶つわけにはいかないんだ。分かるね」
「分からない。分からない。そんなの男の理屈よ。血筋なんかどうなったって……」
 ぼくは妻の唇に指をあて、それ以上言葉が勢いに任せて流れ出るのを妨げた。
「だったら、ぼくたちの子供のためだ」
 ぼくは静かに掌を妻の体に当てた。
「ぼくはこの子に、その肌で風を感じてその目できれいな景色を見て、感動してほしい。自分の足でおもいきり駆け回ってほしい。そのためなら何だってできる。君だってそう思うだろ、ぼくの立場だったら?」
 それは、もう何度もぼくたちの間で繰り返された言葉だった。妻も十分に分かっているはずだ。ただ、最後の一歩を踏み出すに当たってためらっているだけなのだ。
 子供が正常に生まれてくるためには、妊娠中期になるまでに父親の血液をすべて与えてやらなくてはならない――それがぼくたち種族の生態だった。もし胎児のうちに血を与えられなければどうなるか。それはぼくの二人の兄が証明している。
 若き日の父と母もぼくたちと同じように悩み、そして健康に生まれることのできなかった二人の子供を経て、やがて種族の宿命を受け入れた。父の命とひきかえに生まれたのがこのぼくだ。
 だからぼくはこの運命に逆らわない。
「ひどいよ。こんなのひどいよ」
 泣きじゃくる妻の肩に背後から母がそっと手をかける。母もまた何も言わない。何もかも分かっているからだ。
 昔――いったい何百年、何千年昔のことだろう――ぼくたちの遠い祖先はヨーロッパの中部に生きていた。今では伝説の中の存在になってしまった悪霊、吸血鬼と呼ばれるものたちがそうだ。彼らは人間とは別の生き物であったが、同時に、人間と交雑することができるくらいには近かった。
 そのようにして、いつの間にか吸血鬼と呼ばれた種族と人間との混血が進んだ。もともと長命であるがゆえに繁殖力に欠けた純血の〈吸血鬼〉は徐々にその数を減らし、今はおそらく一人も残っていない。
 残ったのは、混血種のぼくたちだけだ。
 人間と交わることで、ぼくたちは〈吸血鬼〉としての多くの特性を失い、そして新たなものを得た。ぼくたちは太陽の下を歩くことができる。人間と同じ早さで成長し老いて死ぬ。血を求めなくとも人間と同じものを食べて生きられる。だが、胎児の時だけは別だ。
 胎児が求める血液がなぜ父親のものでなくてはならないのか――まるで蜘蛛や蟷螂の雄のように、その身を与えなくてはならないのか、分からない。これも混血の結果生まれた特性なのだろうか。
 ぼくは手を伸ばし、妻の体を抱き寄せた。
 かすかに抗う妻の唇を、首筋の傷跡に押しつける。
 君に会えてよかった。愛せてよかった。ぼくは決して不幸せではなかったよ。
 色とりどりのコスモスが揺れている。やがて闇が落ちてきて、何も分からなくなった。

〈了〉

青木和プロフィール


青木和既刊
『つくもの厄介13
 ぶす』