「どろぼう猫」高橋桐矢


(PDFバージョン:dorobouneko_takahasikiriya
 どこからか花の香がただよう、月のきれいな春の夜です。
 小さな空き地に、あちこちから猫たちが集まってきました。オス猫もメス猫も、年寄りも若いのも、柔らかい草の上や、平たい石の上や、石畳の上に適度に離れて、来た順に丸くなって座ります。みな毛づやもよく、身体もふっくらしています。
 月が高く昇る頃、一番奥に座っていた大きな黒猫が、口を開きました。
「おめえはいつも落ち着きがねえなあ」
「あ、親分! そこにいたんすか! 黒くて見えませんでした」
 ふらふらと歩き回っていた若いトラ猫が、黒猫のそばにかけよりました。
 黒猫親分は身体は大きく毛づやもよいのですが、よく見ると丸い顔に古い傷があります。
 トラ猫は、親分の傷跡を、あこがれのまなざしで見つめました。
「この街が平和なのは親分のおかげっす。あの灰色の奴、親分にぶちのめされて、いい気味っす」
 親分は、トラ猫をじろりとにらむと、遅れてやってきたメスの三毛猫に話しかけました。
「三毛、久しぶりだな」
 三毛は、背中としっぽをささっと毛づくろいしてから、答えました。
「ええ、親分さん」
 黒猫は、トパーズのように黄色い目で、三毛をじっと見つめました。
「あいつはどうしたんだ。今日は来てねえようだが」
 三毛は、うるんだ目をそっとふせました。
「知りません。あたしたち、もう別れたんです」
 三毛は、少し前に灰色のオス猫と夫婦になったばかりでした。灰色猫は遠くからやってきた流れ者で、長くほっそりした手足をして、つややかな銀色の毛並みをしていました。灰色猫にのぼせ上がった三毛猫を、仲間たちはみな、止めたのでしたが……。
 三毛がわっと顔をおおいました。
「あの猫(ひと)、また、どろぼうしたんです……」
 灰色猫は、たちの悪いどろぼう猫だったのです。前の街にいられなくなって、流れてきたのでした。
 この街にはどろぼう猫はいません。飼い猫も、地域猫も、どこかからやってきた旅猫も、みな、この街で悪いことはできません。もう何年も前から、黒猫親分が、鋭い目を光らせているからです。
 そうと知らず、やってきたその日から、灰色猫はぬすみを繰り返しました。そのあげくに、黒猫親分にこっぴどくぶちのめされたのでした。
 三毛は悔しそうに顔をゆがめました。
「もうどろぼうは止めるって、ちかったのに……」
 黒猫親分は、目を閉じ、静かに言いました。
「どろぼうはどろぼうだ」
「でも」
「どろぼうを止めても、元どろぼう。どろぼうには違いねえ」
「それじゃ、1度どろぼうをしたら2度とやり直せないんですか」
 半泣きの三毛に、黒猫親分は、しずかにうなずきました。
「ああ、そうだ。なんたって、このオレが、元どろぼうなんだからな」
 三毛は、思わず息をのみました。
 耳をそばだてていた猫たちの間にも動揺が走ります。思わず立ち上がってしまったトラ猫は、気まずそうに、首をかしげました。
「親分がどろぼうだったなんてまさか。全然知らなかったっすよ」
 黒猫親分は、黄色い目を、ぎょろりと見開きました。トラ猫は、ひゅっと喉を鳴らしました。
「おめえが知らなくても、誰も知らなくても、おれは知ってる。おれは絶対に忘れねえ」
 どこか遠いところを見るようなまなざしで、親分は前足を持ち上げました。
「こうして、ちょいっと爪先でひっかけて」
 前足の先に、まぼろしの魚がひっかかっているかのようです。
「くわえて逃げる。死にものぐるいで逃げる。どなり声が聞こえる。水をぶっかけられても、石をなげられても、逃げる」
 ぺろりと舌なめずりします。
「忘れられねえ。全身の血がたぎるような、あのスリルと興奮は」
 集まった猫たちみんなが、親分の語りに、注目しています。
「夢に見たこともある」
「夢に……魚を?」
 トラ猫がたずねます。
「ああ。魚を盗んだ夢よ。ちょいとかっぱらって。逃げながら思うんだ。ああ、やっちまった。もう2度とやるまいと決めたのに。何年もずっとやらずにいたのに、ああ、やっちまった、とな。そして」
 親分はひげをひくつかせます。
「はっと目覚めて思うのよ。夢でよかったってな。だからおれはいまでも、元どろぼうさ」
 トラ猫が、ぶるっと身体をふるわせました。
 春の夜とはいえ、夜が更けて、うっすらと寒くなってきました。
 親分が、三毛に向き直ります。
「1度どろぼうをしたやつは、一生どろぼうだ。ずっと元どろぼうでいることはできるがな、どろぼうじゃないもんになることはできねえんだよ。おめえのダンナも、どろぼうだ。分かってて一緒になったんだろう」
 三毛は、ぐっと歯をかみしめました。みんなに反対された結婚でした。反対されても聞き入れませんでした。そのとき三毛は、自分に酔っていなかったでしょうか。
 三毛の思いを読んだかのように、黒猫親分が、しずかに言いました。
「あいつが一生どろぼうなら、おめえは一生、どろぼうのかみさんだ。別れたって、元かみさんになるだけだ。しちまったことは消せないのさ」
「じゃあ、あたしはいったい、どうすれば」
「知らねえや」と、黒猫親分はまっすぐに三毛を見つめました。
「ま、腹くくるんだな」
 黒猫親分の黒い大きな身体が、月の光に、淡く浮かび上がって見えます。
 三毛は、黒猫親分に、深く頭を下げました。
 トラ猫が、三毛の背中から、そっと近づきました。
「まあ、元気だせよ。生きてりゃ、またいいこともあるさ」
「おい、なれなれしいぞ」
 黒猫親分にたしなめられて、トラ猫は、「うへぇ」と情けない声を出しました。
 さっきまで張り詰めていた空気が、ゆるくなごみます。
 猫たちは、思い思いに、毛づくろいしたり、うとうとしたり、あくびしたり、明け方まで好きに過ごしました。
 黒猫親分は、微笑みを浮かべながら、そんな猫たちを見守っています。
 猫たちの集会を照らす月が、しずかに西に傾いていきました。

 それから月が巡り、夏が過ぎ、やがてあたりの木々が色づきはじめました。
 日が暮れる頃、あの三毛猫が空き地に現れました。春よりやせて、少し険しい表情になっています。三毛猫のあとを、毛玉のような小さな子猫たちが、3匹、転がるようにして追いかけてきました。
 ようやく追いついた子猫に、歩きながら、三毛猫が話しかけました。
「さあ、今日は初めて集会に参加するんですからね。お利口にしているのよ」
「ねえ母さん。父さんも来るの?」
「さあねえ。来ないと思うわ。今どこにいるかもわからないし」
 三毛猫は、立ち止まり、小さな我が子たちを見つめました。子猫も、つぶらな瞳で、三毛猫を見かえします。
「ねえ、父さんって、どんな猫(ひと)だったの?」
 三毛猫の表情が、ふっとやわらぎました。
「優しい猫(ひと)よ。とっても優しい猫(ひと)」
 三毛猫は、3匹の灰色の子猫の頭を、優しく、なめてやりました。
 東の空に、優しい上弦の月が昇ろうとしています。

おわり

高橋桐矢プロフィール


高橋桐矢既刊
『あたしたちの居場所:
イジメ・サバイバル』