(PDFバージョン:akenaiyoru_inotakayuki)
ここのところ電力が足りない。いつだって薄暗いドームの第三階層は、いつにもまして暗かった。
天井で心許なく光っているのはシリカの集束ファイバーを通じた地表からの光で、長い一日が終わろうとしている今、消えてしまうのも時間の問題だった。これからの長い夜の間、光源は電灯だけになる。
節電のために止まった自走路は、ただの錆臭い鉄セラミックコンポジットのベルトで、電源が十分だったときにはうるさいくらいに目に付いた「走るな、危険!」の表示も暗く、目立たなかった。利用者の多い幹線くらいは動かしてもいいだろうに、節電命令は厳格で、非生産部門での電力消費は最小限にするように指示されている。
「まっすぐ帰ってもつまんないよな」
僕に並ぶようにして、リズムを合わせるように歩いていたヨシアキが言う。お互い配属部署が同じで、シフトも同じ、割り当てられた居住エリアも同じだから、どうしたって一緒にいることが多くなる。今はちょうど十時間のシフトがあけたところだった。
「どこに行ったってつまんないさ」
「この階層じゃぁな」
「もう夜になるから、上だって同じだよ」
「そうかなぁ」
電力は不足しているのに、ラインはフル稼働だった。太陽電池パネルの需要は旺盛で、国連宇宙エネルギー機構(UNSEO)との契約に縛られた会社は、違約金を支払わずにすむよう、ぎりぎりの増産努力をしている。
地下の岩盤を掘り進むのも電力、高純度のシリカを選鉱するにも電力がいる。シリカの還元とドーピングにも電力がいるし、パネル形状に加工し、配線を施し、コンテナに詰め、マスドライバーで射出するにも電力がいる。大量に使用する水のリサイクルにも、それを言えば僕たちが呼吸する空気の浄化にだって電力が不可欠だ。その電力が足りない。
理由ははっきりしていて、どこかの経営コンサルタントが、月の反対側に工場をもう一つ造るより、大容量の蓄電施設を作って昼夜連続操業できるようにした方が安上がりだというアイデアを、会社の取締役会に吹き込んだからだ。
昼間のうちに、長い夜をまかないきれるだけの電力をフライホイールに貯めなければならないから、本来なら電力が余るはずの昼間にも節電しなくてはいけない。夜になったらなったで、ラインを止めないよう、生産に関係ない電力消費は極限まで押さえ込まれる。工場に設置された太陽光発電パネルの増設計画はあったけれど、生産増強につながる投資ではなく、優先順位は低いままに放置されているようだった。
「上に行こうぜ」
ヨシアキが言うとおり、上の階層に行けば、下とは独立した系統の電源がある。タブレットに充電さえできれば、暇つぶしには十分だった。情報はほとんど電力を食わない娯楽だからだ。
「上に行ったって、今は充電代が高いんじゃないか?」
地球上と違って大気のない月面では、地平線ぎりぎりの陽光でも、光の強さ自体は変わらない。けれど、設置場所の関係で、フルに受光できる電源パネルの数が限られている。地平線近くからの光では、どうしても、他のパネルの影になってしまうのだ。
「電源に繋がなくても、充電はできるさ」
下に比べて上の照明は明るい。タブレット自体が発電パネルになっているから、時間はかかっても、充電できる。
「そのために行くのか?」
「太陽が出るまで保つのか?」
地球時間で十四日も続く長い夜の間、節電はもっとも厳しくなる。寮の部屋も、薄暗い明かりこそつくものの、それ以外はシャットオフされ、共用部分の電源しか使えない。たかがタブレットの充電に目くじらたてるほどの影響はないはずなのに、電力の私的な使用は厳しく制限されていた。
これから、十四日の夜が来る。地球時間の労働基準に縛られた十時間のシフトと十四時間のオフのサイクルで、つぶさなければならない時間は長い。
「さあ。一応フル充電の表示が出てる」
僕はタブレットを起動する。右上の角で、電池のマークがグリーンに光っている。月面の一日は、地球上のおよそ四週間に当たる。夜は二週間だから、途中の充電なしに持つわけがない。予備バッテリーもあったが、フル充電にはなっていなかった。
「なぁ、行きたくないのかよ?」
ヨシアキの問いは痛いところを突いてくる。僕は上には行きたくない。最下層にいれば、最下層にいることを考えずにすむ。けれど一度上に上がれば、否応なく、自分が最下層の住人で、そこに帰らなければいけないことを認識させられる。
「じゃあ、今日も飯食ってジム行って寝るだけかよ」
不満そうに言うヨシアキ。僕の、いや、僕たちの日課は、いつもそんな単調な繰り返しだ。
「ジムは行かない。ちょっと疲れてるしな」
疲れているのは身体ではない。僕の心だった。地球の六分の一しかない月の重力下では、筋肉は否応なくやせ細っていく。筋肉量と骨密度の維持のための運動は、いつか地球に戻るために不可欠だったが、あてにならない目標のために努力を続けるのはむなしい。
月面での太陽電池パネルの生産は、何十年か前に月に送り込まれた自動化工場で始まったものだった。月面の資源を使い、完全な遠隔制御で太陽光発電パネルを生産し、マスドライバーで地球の静止軌道へと打ち出すプロセスは、当初はもくろみ通りに順調に進み、発電衛星による地表への送電は、旺盛な地表の需要に応じて順次、拡大していった。地球上のエネルギー需要は増大し続けており、高率の炭素税を嫌った需要家が、相対的な高コストにも関わらず、発電衛星からの電力供給に群がってきていた。
発電衛星のオペレーションのための国際機関として生まれたUNSEOは、電力需要の増大に応じた発電能力の拡大のために、民間からの資金調達の受け皿としていくつもの企業体を作った。その一つが僕たちが勤務するかぐや月面資源開発である。UNSEOは独占を嫌い、四つの同じような太陽光パネル生産会社を作った。それぞれの筆頭株主はUNSEOだったけれど、それぞれにパートナー企業や出資する国が違う。だから競争は激しくなる一方で、その結果として、より低コストで地球に送電できるようになると期待されるのだった。
工場の維持のために人を送り込んだのは、かぐや月面資源開発が最初だった。
月に建設された自動化工場が順調に動いていたのは、稼働を始めてから五年ほどの間に過ぎない。月面を覆う細かな塵、大気に守られた地表でなら問題にならないような微少隕石、絶え間なく降り注ぐ太陽からの放射線が工場にトラブルを起こし、生産ラインをストップさせる。リモートでラインの復旧ができなければ、結局のところ月に技術者を送り込むよりないのだ。
月面に人を常駐させるには大きなコストがかかるけれど、トラブルへの対応は圧倒的に早くなる。工場でのトラブル対応が早ければラインの停止期間は短くてすむし、生産性が上がる。それに、人の常駐を前提にすれば、生産ライン自体の増設コストも下がり、需要に応じた増産が格段に容易になる。だから、不完全な自動化工場が月面から姿を消すまで、さほど時間はかからなかった。
月に来る前に受けた説明を大まかに要約するとそんな感じだった。僕は、景気後退のせいで仕事がなく、治安の悪化もあった地球上から抜け出し、新しいフロンティアで稼げるだけ稼ぐつもりだった。事実、諸手当込みで給与水準は地表の五倍以上だし、医療保険も充実している。基礎的なカロリー自給はできているから、食費もリーズナブルで、ネットワークアクセスも保証されている。住まいは会社の寮なので、計算の上では三年も働けば結構な貯金ができるはずだった。
月に来て五年目になる。貯金はほとんどない。安く手に入るものは月で生産されるものだけで、それだけではやっていけない。嗜好品だけでなく、オフの時間を過ごすためのちょっとした衣料品も贅沢品だった。結局、毎日の生活で、ものの値段を意識することもないせいで、知らない間に使いすぎてしまう。給与から天引きされる金額を減らそうという試みは、ずいぶん前にあきらめてしまっていた。
「上によって行こうぜ」
しばらくの沈黙のあと、未練がましくヨシアキが言った。上のレベルに上るためのリフトまであと少し。通り過ぎてしまえば、それこそジムに行くか、まっすぐに部屋に戻って寝るだけだ。
「カネもないんだ。上は何でも高いしな」
会社はドームの上部を一般に開放している。ゴージャスなホテルがあって多国籍企業のオーナーのような超裕福な観光客が使用人連れでやってくるし、リタイヤの記念のつもりか、ほどほどに裕福そうな観光客もやってくる。月への訪問者は高齢者が多かったが、いかにも親の資産で遊んでいるような若者もいた。
「長居はしないさ」
ドームの上部には、レストランやバー、本格的なカジノもあって、かぐやのドームは月の観光地のひとつになっていた。そんな場所だから、あきれるくらいに高い店が多かったが、上層部の労働者や、下層からの客を相手にする店もある。
「今日は奢るからつき合えよ」
あきらめきれない様子でヨシアキが言う。
「一杯じゃつき合わないぜ」
「そんなケチくさいことは言わないさ」
ヨシアキが僕の腕をつかむと、まるで僕たちを待ち受けてでもいたかのように、ちょうどタイミング良く上の階層に行くリフトのドアが開いた。
第一階層は明るく眩しかった。僕たちは喧噪を避けるようにファーサイド方向に歩き始める。地平線に地球が見えるニアサイドは、どちらかと言えば高級なエリアで、僕たちには敷居が高いが、ごつごつした岩山と星しか見えないファーサイド側は人気がなく、僕たちでも気軽に出入りできるような店がある。それに、地球の光に邪魔されなければ、一面の星も期待できた。
「また、アルゴか?」
否定の言葉はない。僕たちが向かっているのはファーサイドにあるアルゴノートという店で、下からの客も多い。つまり、気取らない店だ。店の隅に陣取った僕たちのオーダーはいつものようにジントニック。安く買える酒は、アルコール分だけではなくフレイバーまでが合成で、味の薄っぺらさが気にならない選択はどうしても限られる。
「……俺、地球に帰ろうと思う」
二杯目が残り少なくなったあたりで、唐突にヨシアキが言った。
「運賃、払えるのか?」
月までの運賃は会社負担だったが、帰りの運賃は別だ。一度、月まで連れてきた労働者を、簡単に地球に返すはずがない。
「そんなの、無理に決まってる。でもな、考えがあるんだ」
そう言ってグラスをあけたヨシアキは、次の一杯をオーダーする。合成であってもそれなりの値段はするし、三杯目を奢らせるのは気が引けた。つまみのポテトはなくなっているし、テーブルの上の予備バッテリーはまだフル充電じゃない。多分、供給される電圧が低くなっている。
「変なことは考えるなよ」
僕は自分のIDで、三杯目のジントニックと追加のつまみをオーダーした。運ばれてきた三杯目は、心なしか水っぽい気がする。
「大丈夫だよ。うまくやるって」
ジントニックに浮かぶ氷を見つめながらヨシアキが言った。
僕はヨシアキの計画を察していた。さほどアルコールに強くないヨシアキが、三杯目を頼んだのは、言ってみれば度胸をつけるためだったのだろう。ちょうど予備のバッテリーがフル充電になったところでアルゴを出た僕たちは、下へと降りるエレベーターのところで別れた。
ヨシアキのことが気にならなかったわけじゃない。だからといって、ヨシアキを止めようとは思わなかったし、止められるとも思わなかった。
逃げ出せるものなら逃げ出したい。最初の一年も経たずに、ここのからくりはわかっている。高い給与で釣りながら、高い生活コストで吐き出させる。かぐやの運営が、そういう仕組みになっているのだ。
毎日、ラインのモニターを睨みながら時間を過ごし、異常があれば、勤務時間を超えてでも正常に動くようにしなければならない。システム不調は画面を見ながら、機械的なトラブルには、時には油にまみれながら対応しなければならない。ラインの停止は給与の査定に直結するし、自分だけでなく同僚にも迷惑をかける。休暇はあっても、ドームの中にいればいつ呼び出されるかわからないし、呼び出しのないドームの外に行くには費用がかかる。結局、ジムに行くか、タブレットを眺めて過ごすよりないのだ。
次のシフトにヨシアキは来なかった。事務的に調整が行われ、誰かの休暇が、僅かな賃金の上乗せで取り消される。十時間のシフトがジリジリと過ぎていく。
シフトあけに、僕は上長に呼ばれた。昨日のことをいろいろと聞かれる。型どおりの事情聴取だった。ヨシアキはやり遂げたのだろうか。
月に長い夜が来て、代わり映えのしない毎日が続いていた。ヨシアキはいない。僕は一人でアルゴに行って、たった一人でジントニックをあおる。
僕にはヨシアキほど度胸はないから、せいぜい一杯だけで下に戻り、バッテリーの減り具合を気にしながらタブレットをいじって時間をつぶす。
節電がさらに強化され、第三階層はさらに暗くなっていた。空気も気のせいかよどんでいるような気がする。生産ラインの一部を止めさえすれば蓄電量は十分だろうに、会社にはその気はない。少しくらい暗くても、少しくらい空気が汚れていても、僕たちは生きていける。
月の夜は十四日。それだけの時間が過ぎれば、必ず日は昇る。明けない夜などないと、きっとヨシアキなら言うだろう。でも、僕はそれほど楽観的にはなれない。
月が地球の重力に捕らえられているように、企業体であるかぐや月面資源開発が運営するドームもまた地球の延長だった。司法機関の出先を持たないのに、資本の一割しか持たない地球の国家の法が及ぶ。もちろん、軽微な犯罪に対する司法権は会社に委任されていたが、重大な犯罪については地球の司法機関が裁判権を持っている。従業員の間のトラブルは、会社に管轄権があるから、管轄権のない非従業員、つまり地球から来た観光客との間でトラブルを起こすよりない。傷害罪、より確実に強制送還を狙うなら殺人未遂になるだろう。富を見せびらかしにやってくる、地球から来た観光客に対し、憎悪をかき立てるのは難しいことではない。
ヨシアキは、どんな相手を選ぶだろう。老人や女性、子供を狙うには優しすぎる。かといって、大人の男を襲うのは馬鹿げている。六分の一の重力に慣らされた僕らの体は脆弱で、反撃されたらかなわない。ダメージを負うのは、より脆弱な僕たちになる。正当防衛という理由で暴力を加えられたとき、ヨシアキが無事でいられるとは思えない。
会社の運営する病院に収容され、返しきれないほどの負債を負わされる可能性もあったが、そんなことになるよりも死んでしまった方がましだった。
単調な毎日のシフトをこなしながら、それでも僕は期待していた。裁判のために地球に送り返され、刑を科されたヨシアキから、きっと連絡があるはずだ。返しきれないほどの負債を抱え、折れやすい骨とやせ細った筋肉で、地球の重力と格闘する様子を知らせてくれる、その知らせを待っている。
なぜなら、それですら僕たちにとっての希望なのだから。
伊野隆之既刊
『こちら公園管理係6
さよならガンさん』