「卵巣後宮(らんそうこうきゅう)」間瀬純子


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(作者より)

 【残酷描写がありますのでご注意ください】

 この作品は、筆者の連作『異境クトゥルー譚』(仮名)のなかの一編です。
 また直接には『ナイトランド・クォータリー新創刊準備号 幻獣』(アトリエサード刊)掲載の、拙作『血の城』のスピンオフ作品になります。

 後宮は世界を美しく模していた。
 世界とは心帝国が統べる中渦平原である。
 帝国の長は神にも等しい虹玉帝(こうぎょくてい)猊下だ。
 世界の外にも陸があり、人めいた生き物も住んでいるが、猊下の徳にあずかれぬ彼らは心を持たない。
 私は、虹玉帝猊下の坐(いま)す後宮にあまた侍る帝妃の侍女であった。お仕えするのは、第三十七帝妃、鉛涯樹(エンガイジュ)王国の忠姫(ただひめ)さまである。
 私は鉛涯樹王国の農民の娘だ。名を宏根(ひろね)という。従妹で幼馴染みでもある宏葉(ひろは)とともに、忠姫さまに順って後宮まで参った。
 私も宏葉も、嫁ぎも子を産みもしない。
 とはいえ、鉛涯樹王国では王族以外の女人は文字を習うことはないのだ。文字を覚え、世界の中心たる都まで来て、我が姫の支えとなれるのである。私たちは珍しくも尊い一生を与えられたのではなかろうか。

 毎朝、私と宏葉は台車に甕を乗せ、小紅河に水を汲みに行く。中渦(チュウカ)平原を横切る偉大な紅河をおもむき深く模した運河だ。
 初夏だった。北西大路の石畳に映る影は長く濃い。
 北西大路は、後宮の北西から中央へとまっすぐ伸びる。
 両脇は北西の街と呼ばれ、心帝国の北西の国々から入内した帝妃さまがお住みになる。前にも書いたとおり、後宮は、世界を模しているのだ。
 じっさいの鉛涯樹王国は北西の辺境にあり、鉛涯樹ノ楼も街のもっとも奥まった場所に建つ。大路を挟んで正面は、高山に似せた築山だ。岩に根を張った石榴があざやかな花をこぼしている。
 おなじような大路が後宮の中央から東西南北、北東、北西、南東、南西と、八条、車輪の輻骨(やぼね)の形に広がっていた。
 中心にそびえるのは八階建ての高虹(こうこう)塔だ。丹塗りの瓦が朝日を浴び、燃えるように輝いていた。
 私たちは大路を渡り、築山の側に行く。築山から落ちる滝が小紅河の源だ。

「ねえ、宏根」と宏葉が言う。宏葉は高虹塔の反対側を眺めていた。大路が後宮の城壁につきあたるあたりだ。
「籠車が止まっているわ。あんなの見たことない」
 籠車は帝妃さま方の乗り物である。籠の外側には、絡まりあった仏と覚しき像が刻まれていた。
 宏葉の大きな黒い目がきらきら輝く。
「新しい姫が後宮にお入りになったのよ。支度楼にいらしたんだわ」
 築山の中腹にこぢんまりした楼があり、支度楼と呼ばれた。帝妃が入内なさると、まずご教育を受ける場所だ。
「お顔をお見せになるかしら」
「失礼よ」

 築山から強い風が吹き下り、私たちは咳き込んだ。赤褐色の粉塵がぶつかってくる。
 後宮では、毎月、三千人の女たちの経血が無駄に流れていた。
 虹玉帝猊下はお出ましにならない。身籠もられる帝妃はおられない。
 布に吸わせた月のものの血を、下女が小紅河で洗った。
 小紅河は後宮を一回りして築山の滝に戻る。だから河は常に薄赤く、岸には乾いた血の粉がうずたかく積もっていた。

「宏根、支度楼ではどんなご教育をするのかしら。忠姫さまもひどくお辛そうだった」
「さぞ厳しいのでしょうね。それより早く水を汲みましょう」
 北西大路から築山へ渡る橋に出た。私は岸に降り、木桶で水を汲む。橋の上の宏葉が、桶に結んだ縄を引きあげ、甕に水を移した。
 忠姫さまは支度楼でのご教育について、決してお話にならなかった。

 十年前、忠姫さまに順い、私と宏葉は心帝国の後宮に入った。城壁に囲まれた後宮は壮大で、辺境の出の私は恐ろしくて堪らなかった。
 事務方の謁見所に連れて行かれた。
 広い室内は香が大量に焚かれ、赤く霞んでいる。緋毛氈の遙か彼方に紫檀の卓がある。宦官長が待っていた。
「虹玉帝猊下は大変お忙しい。たやすくはお目にかかれぬ」
 他にも、新たに後宮に上がる姫がいた。帝国の北東に位置する朱砂(スサ)国の一行だ。
 朱砂国は小国のはずだが、たくさんの侍女を連れていた。朱砂族の少女たちは皆、細面で、上唇がまくれあがった、薄い唇をしている。眉を剃り落とし、上唇と目元に朱を点じている。絹の背子(はいし)を羽織った、心帝国の麗しい装束姿だ。
 一方、忠姫さまは鉛涯樹王国の衣服をお召しだ。山羊革の白い半月帽、ずぼんに長靴、筒上衣を帯で結んだだけのお姿である。
 宦官の一人が帝妃となる姫の名を読みあげる。
「第二十八帝妃、朱砂国の姫。申年生まれ十七歳。姓名の記述なし」
 宦官長が名を尋ねた。姫が不思議そうに訊く。
「名?」
「ないのか。仮に朱砂姫と呼ぶ」
「第三十七帝妃、鉛涯樹王国の忠姫、巳年生まれ二十七歳」
 朱砂国の女たちが忠姫さまのお歳を聞いてくすくす笑う。……この女たちは知らぬのだ。
 忠姫さまがどれほど民のために尽くしたか。
 新嫁にふさわしいお歳ごろに、わが王国は凶作にみまわれた。
 もともと雨が少なく、耕作の水は紅河の流れに頼っていた。あるとき河が干あがり、まったく作物が採れなくなった。
 忠姫さまは、父王さまの名代として心帝国とやりとりなさった。帝国の技官に井戸を掘っていただく代わりに、後宮に嫁がれたのだ。
 御名を呼ばれると、忠姫さまは宦官長の前で叩頭し、献上品の目録を読みあげた。
「鉛涯樹の木から採りました香油五甕でございます」
 宦官たちが甕を持ってくる。蓋が開けられ、清潔な匂いが広がった。
 宦官長が香油をお手に取る。
「上質であるな」

 朱砂姫が侍女に連れられ宦官長の前に進み出る。目録は、本来、上位の帝妃である朱砂姫が先に読まねばならなかった。
 下がりながら忠姫さまが朱砂国の侍女に呟いた。
「同じ名なら記録の上では同じ人間」
 侍女がはっとした顔で忠姫さまを見た。
 朱砂姫はつっかえながら目録を読む。
「献上の品、百名の処女で、ございます」
 宦官長が言った。「朱砂国ではもう朱砂は採れぬのか。採り尽くしたのか、それともわが帝国に献上するを惜しむか」
 朱砂国の姫の顔がさっとあからむ。
「……朱砂の石はまだありますが、なにぶん、……地の奥深くにあり……」
 宦官長が言った。
「処女たちのうち、肉の軟らかい者三十名は食材に、力の強き者三十名は婢女にいたそう。残り四十名は要らぬ。朱砂国の楼で使うが良い」
 朱砂国の処女たちから悲鳴が上がった。

 私たちは鉛涯樹ノ楼に案内された。かつて、わが王国から二人の姫がお輿入れなり、この楼にいらしたという。
 その日のうちに迎えが来て、忠姫さまは慌ただしく支度楼に上がられた。
「支度楼には一年ほど通う」宦官さまが言った。「鉛涯樹ノ義(よし)姫殿も礼(あや)姫殿も通った道である」
 義姫さまは、忠姫さまの曾祖父王の妹君で、礼姫さまは五代前のお方だ。
 私は宦官さまに伺った。
「礼姫さまがお仕えになった神帝さまは何というお方でしょう」
「何を馬鹿なことを。神帝はただお一人、心帝国始まって千年、ずっと虹玉帝猊下である」

 一月ほどして支度楼から戻られた忠姫さまは恐ろしいほどおやつれだった。
 新たに纏足をなさり、小さな沓には血が滲んでいた。
 私と宏葉は叫んだ。
「纏足は幼い時にする技ではありませぬか」
 忠姫さまがかすれ声で言う。
「支度楼の医官さまは世界一の術をお持ちです。大きく育った足を軟らかくする薬もありました」
「忠姫さま、お熱がございます。ああ、鉛涯樹の葉を煎じた薬湯をお飲みくださいませ」
「もう、わが王国にいるのではない。後宮の薬を」
 私たちは医官さまを呼ぶ。忠姫さまはしばらく寝込み、その後も支度楼に通い続けた。

 朱砂国の、おそらく本物の朱砂姫を最後に見たのは、その年の冬である。夜も更けたころ、葬式の泣き女のような喚き声が聞こえた。
 私と宏葉は二階の侍女部屋で休んでいたが、どちらからともなく飛び起きた。
「変な声がする」
「禽か獣かしら」
 私たちはそっと門の陰まで行った。
 石畳を月が照らしていた。
 素裸の少女が泣きながら北西大路を歩いていた。少女の体はみすぼらしく、干支を一回りしたくらいに見えた。
 太腿の付け根は革紐できつく結ばれ、すぐ下にある薄い金属が月に映えた。刃だ。腿に食い込み、伝い落ちた血が大路を黒々と汚した。
「朱砂国の朱砂姫さまじゃないの」
「見苦しいこと」
 忠姫さまが、私たちの後ろにいた。お窶れになっていたそのころは、車のついた椅子で移動なさっていた。
 献上品の百名の処女に含まれる者だろうか、十何人もの女が朱砂姫に駆け寄り、つぎつぎに殴りつけた。
 私は忠姫さまに言う。
「裏口から警護官を呼んで参ります」
「おやめなさい。あれは楼の中の揉めごと」
「ですが、」
 宏葉が言いかけたのを、忠姫さまが遮る。
「楼のことは楼の内で治めるのが後宮の決まり。かの楼への迷惑にもなります。戸締まりをしておくれ」
 私たちは楼の門に閂をかけた。

 数ヶ月後、朱砂姫から誕生日の宴に招かれた。私と宏葉は忠姫さまの供をして、北東の街にある朱砂ノ楼に行った。
 侍女も下女も鞦韆(ぶらんこ)を漕いではしゃぎ、出迎えもしない。
 回廊では酔った侍女がごろ寝している。帳台に腰掛けた姫は、二十歳を越え、お太りで、朱砂族の特徴である薄い唇は変わらないが、どう見ても先日の姫とは別人である。
「第二十八帝妃、朱砂姫さまにはお誕生日とのこと、おん言祝ぎ申しあげます」
 忠姫さまは偽の朱砂姫の前にひざまずき、平然と叩頭した。

 後宮に上がって十年、鉛涯樹ノ楼での淡々とした暮らしが続いた。
 忠姫さまが熱中なさっているのは学問だ。髪を後ろで束ね、半月帽をかぶったお姿で文机に向かっておられる。
 毎日、検閲所から書や文が届く。
 忠姫さまは帝国各地の学者さまと文通しておられるのだ。
 話題は天下の経綸、四書五経のお教えに民を潤す農の技から、世界の外の不可思議な鬼神にまで至るそうだ。

 午後遅く、私と宏葉は北西大路を上り、厨房に夕食を取りに行く。大路が小紅河に突き当たり、太鼓橋が架けられた先に北西厨房がある。厨房は八つの街にひとつずつ置かれ、各街の食事を賄う。
 厨房頭の菫(キン)小母さんはお喋りだった。
「ずいぶん昔は身籠もられる帝妃さまもいたらしいけどねえ」
 宏葉が笑う。
「また菫小母さんの法螺ね」
 菫小母さんが竈の火を掻き立てる。
 料理の良い匂いに混じって、地面に埋めた食べ残しの腐った匂いがした。
 厨房の下女が小紅河から甕で水を汲んでいる。下女は、打ち上げられた死んだ鯉を拾ってくる。
 菫小母さんが下女に怒鳴った。
「ご大家の姫さまは半分腐った魚なんか食べないんだよ」

 漆塗りの台車を牽いた一行が厨房に入ってきた。侍女たちの装いは豪華で、一人一人があたかも帝妃さまのようだった。
 厨房に来るのは気晴らしになるが、惨めでもある。
 大国の侍女が受け取っていくのは、熊の手の蜂蜜煮、河海豚の膾(なます)、箸休めの血豆腐、亀の蒸し菓子、茘枝の盛り合わせ、といった高価なお菜ばかりだ。
「早くして。今日はお客さまがあるの」
 心帝国の第一の属国・芙蓉国の侍女が料理女に横柄に命じる。ついで私に言う。
「下女はお下がり」
 私も宏葉も驚きのあまり言葉を失う。私たちは侍女で、下女ではない。

 菫小母さんは青菜を刻みながら、お喋りを続けた。
「あたしの師匠が、身籠もった帝妃様を見たことがあるそうだよ。各街の厨房頭が集まったときだった。
 身ごもった帝妃さまが侍女に日傘を持たせてゆっくりゆっくり歩いていらした。臨月だと思ったよ。師匠たちは道を譲り、道ばたで叩頭しておめでとうございますと叫んだ。
 ところが侍女のひとりがまだ二ヶ月だというんだ。三ヶ月になってからお披露目をするのだと。
 帝妃さまが急に倒れられた。パンッと蛙が破裂するような音がした。あたしたち厨房頭は産婆もできる。だから師匠たちは、八人で帝妃さまを取り囲んだ。
 双子の赤子が這い出してきた。子牛ぐらいあったよ。胞衣に包まれたまま這って、羊水まみれの体には黒山羊みたいな毛が生えていた。宦官の医官さまたちがやってきて師匠たちをすぐに追い払ってしまったけど」
「嘘でしょう? どこの帝妃さまなの?」
 宏葉が笑う。
「知らないよ」
 菫小母さんは一日中絶やさぬ竈の火にさらに獣油を入れた。
 鉄鍋に油通しした葱と青菜を入れ、素早く炒める。青菜炒めと高黍の薄いお粥がわたくしたち鉛涯樹楼の主な食事だ。
「パンって音がして破裂したんだよ。帝妃さまはお尻から空気を入れた蛙みたいに亡くなったそうなんだよ……」

 新しく入内された姫に出会ったのは、その日の夕方だった。
 鉛涯樹ノ楼の門前で、どこかの侍女が聞こえよがしに噂している。
「こちらの帝妃さまは女博士なのですって。変わってらっしゃること」
「清く賢く」
「お菜は青菜と高黍」
 どっと笑う。
 宏葉が窓辺に駆けよって言い返そうとするのを慌てて止めた。だが私の手も怒りに震えている。丸窓の簾を下ろす。忠姫さまが静かに言う。まったくお気になさっていない。
「見栄の張り合いなど虚しいだけ。心延えが美しければ良いのです」
 忠姫さまにお仕えできて幸せである。
 忠姫さまは優雅に微笑む。「宏葉、何か歌ってちょうだい」
「はい、喜んで」
 宏葉も弾んだ声で琵琶を取る。楽の腕はわが従妹ながら実に見事だ。
 琵琶が甲高く短調を鳴らすと、楼の丸窓から何かが飛び込んできた。
 大きな青い孔雀である。孔雀は尾羽を広げ、ケーンと鳴いた。

 門番が閂を開ける音がした。
「まあ、スミマセン」
 もつれる黒い髪の、赤と金の布を巻きつけた少女が帳をめくって入ってくる。
 私も宏葉も、思わず少女に見とれた。肉桂色の肌、漆黒の目と厚い花びらのような唇、腹まわりは細いのに乳房も腰も豊かだ。愛らしい額に朱で模様を描いている。
 最近、後宮に上がった姫だ。噂によると、母国は中渦平原の遙か南西で、心帝国に恭順していない。
「妾は薔薇陀(バラダ)国の無憂(むゆう)姫。ああ、貴女の歌は美しい。孔雀も歌に惹かれた」
 無憂姫が宏葉に言う。「貴女、妾のところに来て歌っておくれでないか。礼はします。この腕輪は好きか?」
 姫は、金の腕輪を宏葉に見せた。宏葉は押し黙る。繊細な透かし細工を吸いこまれるように見つめる。
 孔雀の首には金鎖が通してあった。私は金鎖を掴み、姫を追いかけてきた侍女に渡す。
 忠姫さまが名乗る。「妾は第三十七帝妃、鉛涯樹王国の忠姫です」
「妾は、百八帝妃。ご機嫌よう」
 私は無憂姫が叩頭するのだと思った。それが下位の者の礼儀だからだ。だが、無憂姫は両方の掌を軽く合わせただけだった。驚いたことに、姫は床に唾を吐いた。
「孔雀が貴女方を驚かせた。お詫びの品を差しあげる」
 金の腕輪を外し、唾の上に投げた。
 忠姫さまは金の腕輪をお手づから拾いあげ、無憂姫に返した。
「妾は三十七帝妃、貴女は百八帝妃。上位の者に物を投げてはなりません。また、唾を吐くのはおやめなさい」
「唾は浄めです。この後宮は不浄」
「不浄? 世界の中心たる心帝国の後宮が?」
「血は不浄です。後宮は血だらけ」
 忠姫さまが一喝なさった。お声は轟くようであった。
「化外の地の姫とその一行よ。わきまえなさい。世界の礼節を学びなさい」
 薔薇陀国の侍女たちは射られたように身をすくめた。無憂姫は孔雀を抱きあげる。まだ十五歳だそうだ。
「妾は貴帝国の礼を知りません。わが国にもたくさん礼がある。覚えるのは大変」

 無憂姫たちが出て行くと、宏葉が憤懣やるかたなしといったさまで叫んだ。
「なんて無礼なのでしょう! 姫といっても、人品はわが王国の貧しき民にも遠く及びません。絶対にあの姫のためになど歌いませんわ!」
 忠姫さまが言う。「無知は仕方がありませぬ」
「寛大な忠姫さま」
 穏やかに振る舞われていても、一番お辛いのは忠姫さまなのだ。忠姫さまの御娘であってもおかしくない歳の少女に侮辱されるなど、あって良いわけがない。

 薔薇陀国は世界の外の南西にある。それなのに無憂姫が北西の街にいたのは、支度楼に来ていたからだ。先日、宏葉が目にとめた籠車はやはり薔薇陀国のものだった。
 小紅河に水を汲みに行くたびに、大路に置かれた仮屋が増えていた。硝子を張った温室で蓮が咲き、鸚鵡が飛ぶ。別の仮屋は檻になり、猿の群や虎の番が飼われていた。

 その日、宏葉が戻ったのは夕方だった。
 陽気な宏葉は外出のたびに風変わりな出来事を聞きつけてきては面白おかしく話し、忠姫さまや私を笑わせた。
 だが今日は違う。そそくさと侍女部屋のある二階に上っていく。私は妙な胸騒ぎがし、後を追った。
 宏葉は露台にいた。欄干に結んだ紐を引きあげている。
「宏葉、何をしているの」
 紐の先にくくりつけられているのは琵琶だ。宏葉は琵琶を取りあげ、振り向いた。袖無しの筒上衣から突きだした腕覆いの麻布に半ば隠れて、金の腕輪が光っていた。
「ええそうよ、宏根。薔薇陀国の姫に歌ってきたのよ。ご褒美に金の腕輪をいくつももらったわ。宦官さまに、楼のかかりの足しにしてって渡した。私のものにしたのはひとつだけ。だって」
 宏葉は金の腕輪を見せた。透かし彫りは、細い葉を連ねた模様だった。
 私は眉をひそめる。
「私たちはお銭(あし)で動く芸人じゃないわ。忠姫さまの恥になるのよ」
「忠姫さまのためなのよ! 美しく装っていただきたいの。それにはお銭がかかる。宏根もわかっているでしょう? 事務方からいただくお手当てはすぐになくなってしまう」
 楼それぞれに手当てが配られるが、額は帝妃の母国の貢物の多寡に拠っていた。
 宏葉は続けた。
「忠姫さまはおいくつ? すぐにでも猊下のお情けをいただかなければ」
 私たち一族は短命だ。病にかかりやすく、せいぜい四十歳で死ぬ。
「王家の方々は私たちとは違うわ。三十年も長生きなさる」
「でも美しさが刻々と失われるのは変わらない。子を孕める時も限られている。若い姫が次々と嫁いでるのに」
 宏葉の目に涙が滲み、言葉が支離滅裂になる。
「世界の中心の後宮にいるのに! もう高黍のお粥なんて嫌。他の楼の侍女に侮られるのも嫌!」
「宏葉、子供みたいなことを言わないで」
「貴女が生きているのは私の母のおかげじゃない」
 宏葉はしまったという顔をした。そのあと、わっと泣きだした。私は宏葉を抱きしめた。「歌のこと、忠姫さまには黙っているわ」
 宏葉の言葉ももっともだった。壮麗な後宮にいるのに、私たちはいつもお腹を空かせていた。鉛涯樹王国の白い筒上衣もずぼんもすっかり汚れている。
 私たちは抱き合ったまま、すすり泣いた。

 盛夏が過ぎようとしていた。汗を拭いながら厨房に行くと、ご馳走を渡された。鵞鳥の炙りものに冷たい蟹の湯(すーぷ)、桃を練ったお菓子まである。
「宴でも開くのかい」菫小母さんが言った。「五人分あるよ」
「宏葉、貴女の歌のおかげなの?」
 私は宏葉に訊いた。
「そうかもしれないけど、五人分? どなたか招くなんて聞いていないわ」
 楼に戻ると、十歳ほどの少女が二人いた。私たちにぎこちなく叩頭する。
「下女を二人買いました」
 忠姫さまが言った。薔薇陀国の姫とは違う類いの化外の娘だ。幽鬼のような青白い肌をしている。
「白い髪の子が折ル我(オルガ)、橙のほうが断チ坑(タチアナ)」
 忠姫さまの半月帽も新しい。常の如き白い山羊革だが鉛涯樹の花の刺繍は麗しかった。
「あとで裁縫女が来るわ。貴女たちの服を仕立てます。官二等の女官の服で良いわね」
 官二等の女官の装束といえば、金糸を織りこんだ腰帯で留める裳、赤の長い上掛けに、透ける領巾(ひれ)をかけたものだ。すべて絹であった。
 宏葉が薔薇陀国の姫に歌を歌うくらいでこのような贅沢が出来るはずがない。
 折ル我と断チ坑は野良犬のように漆喰の床に座り込み、鵞鳥の肉を貪っている。
 忠姫さまが言う。
「遙か西の黒い海辺に、大きな奴隷市が立ちます。そこで買ってこさせました。言葉もできず、上等な婢女ではありません」
「忠姫さま、この子たちにどのような仕事をおさせになるのでしょう」
「来月、鉛涯樹ノ楼主催で宴を開きます」
 私と宏葉は驚いた。忠姫さまが言う。
「貴女たちには辛い思いをさせました。この十年、楼のかかりからお銭を貯めてきました。宴はとりわけ華やかにします。主賓は虹玉帝猊下」
 私と宏葉は驚きの声をあげた。「猊下がご来席くださるのですか」
「猊下をお招きする特別な方法があります」
「どのようなものでございましょう」
「一度に説明するのは難しい。医官さま方がご助力くださいます。貴女たちにも大いに役に立ってもらいますよ」
 医官は後宮きっての知恵者の集まりだ。
「はい」
 私と宏葉は喜びのあまりひざまずき、何度も叩頭した。
 私は断チ坑の白い筒上衣の裾に血が滲んでいるのに気づいた。月の障りが始まったようだ。思ったより年嵩なのかもしれない。
「失礼します、断チ坑が」
 私は断チ坑をおまるのある厠に連れていく。両脚の間の下り道に布を詰める。ぬるぬるした孔は血腥い。
 ふと、十年前に見た本物の朱砂姫のことを思い出した。夜の北西大路で、侍女たちにどこかに連れて行かれた暗愚の姫である。

「……ッサ、プリンセッサ、ディヤボル……」
 断チ坑は乱杭歯の隙間から化外の語を吐いた。
 部屋に戻ると宏葉が茘枝を剥いていた。忠姫さまが言う。
「折ル我と断チ坑は、宴まで菫に預けます」
「厨房長の菫小母さんでしょうか」
 胸が詰まった。美食にかける帝国の人々の熱は、辺境の私たちにはとても思い解くことができない。
「この子たちは宴のお菜なのですか」
「これらは食用ではありませぬ。猊下のご興味は酒色などではないのです」

 宴は晩夏の吉日に決まった。
 前日の暮れ、菫小母さんが大柄な車女を連れ、楼を訪ねてきた。豚肉のちまきや蒸しものをたくさん携えている。供物だそうだ。宴を開くに先だって、宴主の先祖を祀るのが心帝国のしきたりだという。

 私たちは釣り灯籠を持って夜の小紅河を渡った。築山から落ちる滝の勢いは激しく、川の色が常より濃い。
 車女が忠姫さまを籠にお乗せした。
 背負って急坂を登り始める。向かうのはまず支度楼である。楼の奥に、帝妃さま方の祖先を祀った廟があるのだという。
 支度楼には煌々と明かりがついていた。車女は忠姫さまをお下ろしし、門前でお帰りを待つ。しばらくして門が開き、玄関の間に通された。
「医官さま方がおいでになります」
 皺くちゃの、宦官か女官かもわからぬ老医官たちが現れた。
 もっとも歳を取って見える方が医官長だと名乗る。この方は女人らしい。髷を大きく膨らませ、顔じゅうに黄粉を塗りこめている。
 この化粧は、いったいいつの流行りであろう。
 支度楼は元来、単なる洞窟であったようだ。固めた土塊を煉瓦の柱や壁で支えている。
 医官長が帯から銀の鍵を出し、行き止まりの扉を開けた。
「轆轤鐘(ろくろがね)の間です」
 部屋の中を見て、私は火事が起きているのかと思った。それほど室内は赤かった。
 漆喰の壁にはすべて丹塗りがしてある。目が慣れると、金の首輪が床で光っているのが目についた。青い孔雀が倒れて死んでいた。
 部屋は広く、天井が高い。中空に無憂姫がいるのが見えた。
「無憂姫さま」
 宏葉が悲鳴をあげた。
 姫が呟く。「……宏葉、何か歌って」
 実際は中空に浮かんでいるのではない。架刑台にしか見えぬ、木柱を組み合わせた台に縛りつけられている。その台は、奇妙で大きな機械に乗せられていた。
 無憂姫は寒いのか、上半身に毛皮を巻いている。下半身はない。両脚は一寸ほど残して切り落とされていた。付け根を縛って血止めしている。
 無憂姫が乗っているのは、轆轤をたいそう大きくしたかのごとき機械だ。
 医官長が忠姫さまに言う。
「懐かしいでしょう?」
 忠姫さまは玉を転がすように笑った。
「轆轤鐘という名でしたね。苦しうございましたわ」
 地面には金床が置かれ、その上に、大きな弾み車が横たわっていた。径は九尺はあろう。使い込まれすり減っている。
 周知のように、轆轤は大きな弾み車をつけると回りが良くなり、回る時間も長くなる。
 弾み車の中心から縦に、頑丈そうな銅の軸が突き出し、回転台が置かれている。
 回転台上は焼きあがった大きな陶器が占めていた。見事な壺だ。底の径は二尺ほどだろうか?
 壺にはめでたい文様が描かれている。龍、鳳凰、それに文字だ。おそらく『福』の文字であるが、はっきり読めない。壺の上部に無憂姫が座っているからだ。……あるいは差し込まれている。
 宏葉が言う。「ああ、何なの、これは壺なの? 何のために?」
「壺ではありません。むしろ鐘ね」忠姫さまが言う。
 医官長が続ける。「陶器の上は細い。だからはじめは大して痛くない」
「拷問なのですか? 処刑?」宏葉が叫んだ。「ひどいわ。優しい方なのよ。私が薔薇陀国の歌を歌うと涙を流して喜んでくださった」
 医官長が言った。「猊下のお体を受け入れるためにはやむを得ない。殿方を迎える孔をとてつもなく大きく広げなければ……」
 轆轤鐘の脇に立った医官が、床を調べている。床には弾み車に合わせて目盛りが刻まれていた。
 医官長に告げる。「本日の目盛りは三まででございます」
 忠姫さまは轆轤鐘をじっと見ている。「良くできた『からくり』ですこと」
 忠姫さまは弾み車の取っ手を掴み、勢いをつけて押した。車は軽々と回る。動きはすぐに、無憂姫の鐘に伝わった。果物をしぼる機械にねじ込んだように血が流れる。
 医官が叫ぶ。「急ぎすぎです。時間をかけて赤子の下り道を開かなければ。轆轤係、停めなさい」
「まあ、そうなの?」
 忠姫さまは金の大粒を轆轤係に投げた。轆轤係が金の粒を拾うあいまに、忠姫さまは弾み車をなおも押す。肉がちぎれる音がした。
「忠姫殿!」
 医官長がやめるように叫んだ。
 無憂姫は架刑台の革紐を解かれ、轆轤鐘から下ろされた。
 腰は伸びた皮膚に取り囲まれ、ぽっかりと孔が開いている。がくんがくんと痙攣し、頭が床に打ちつけられる。
 室内が丹塗りなのは、血の汚れを目立たないようにするためだ。下女が竹箒で、血を、排水用の溝に掃き入れ続けている。

 轆轤鐘の部屋を抜けると、漆喰で固めた地下道である。暗く寒かった。灯籠を下げた医官が点々と立っている。道の先に、高虹塔の地下とおぼしき、壮麗な建物が見えた。
 じーっという耳鳴りとともに、抑えた話し声がする。だが、誰も口を開いていない。古代の詩が朗唱されている。

(ぅむつりゆぅく、とき目るぐぉとに、ここるぉ胃たくうう)
(むぅくあしいの人脂(シ))
(お藻ふぉぉおおおゆるくぁぬあ)

 叩かれた鉦の、音が消える間際の響きだけがずっと鳴り続けている。
 地下道の両側には、青白い素脚が壁にもたれ、立った状態で並んでいた。
 どれも見事な纏足を施されている。
 脚の列は延々と続く。高虹塔にまで繋がっているのかもしれない。
 小さな陶器の丸椅子に、裸に蓆を巻いた少女が座っていた。
 両脚の付け根が革帯で縛られている。脚の片方には刀が刺さっていた。切られる途中で逃げ出したのだろう。
 細面で唇の薄い、寂しげな顔は本物の朱砂姫である。十年前と変わらない。
 忠姫さまが豚肉の欠片を投げてやると、拾ってゆっくり食べる。
「朱砂姫さま」
 思わず手を出すと、指先に炙られたような痛みが走った。
 右手の薬指から小指にかけて、皺だらけになり、力が入らない。指だけ歳を取ったかのようだ。
 医官長が言った。「妾のあとを離れてはなりませぬ。ここは時間の流れがおかしいのです。とてもゆっくり、時折まだらに……」
 ひときわ大きな灯籠が卓を照らしていた。卓を囲んで急ごしらえの門がある。
 扁額には鉛涯樹ノ廟とあった。廟の屋に祀られているのは六本の女の脚だ。礼姫さまと義姫さま、それに忠姫さまのおみ脚であろう。

 廟の前の地面で、年嵩の女たちがうずくまって何かしていた。
「皆さん、忠姫さまが参られましたよ」
 菫小母さんが言う。
 女たちは他の街の厨房長らしい。手を止め、いっせいに叩頭する。
 忠姫さまは鉛涯樹ノ廟の卓に、豚肉料理や素馨(じゃすみん)茶を並べた。線香から立つ煙は這うように遅い。
 私と宏葉は忠姫さまの後にひざまずき、頭を垂れる。忠姫さまの凜とした声が響いた。
「わが祖たる鉛涯樹ノ礼姫さま、義姫さま、祀りを奉ります。贄を召し給え……」

「……もう、耐えられない」
 宏葉が囁く。私は宏葉と手をつないだ。掌はじっとり湿っていた。
「宏根」
 忠姫さまが振り返り私を見た。
「妾がどうして猊下をお迎えせねばならぬかわかりますね」
 私は答える。「……わが国は貧しうございます。忠姫さまが猊下の御子をお産みになれば、心帝国が後ろ盾になってくださいます。
 凶作や流行病、化外の民の仕掛ける争いに戦慄くこともございませぬ」
 忠姫さまが続きを引き取った。「すべて、わが鉛涯樹王国の民のため」
 うそつき、宏葉の震え声が聞こえた。
 脚の列の裏は書棚だ。書物は皆、心帝国の属国各国の史書である。
 私は医官長に尋ねる。「何故、脚を並べているのでしょうか」
「体の欠片には、その人が因って来る歴が書かれている。人がそれを読む術を知るのは遙か後になろう。
 もっとも、猊下におかれては、人の卵のほうが興味深いようです。卵に書かれている史書は、できあがった体の欠片とはまた少し違うのだとか」
「人は卵なんか産まない」
 宏葉の言葉に、医官長が答えた。
「人の雌にも目に見えないほど小さな卵の元がある。雄の子種と合わさって赤子となる」
 医官長は脚の一本を指さし、忠姫さまに言う。
「猊下は今、この脚まで読んでおられる」
 小柄な体に、脚をひとつ抱えた。とたんに脚がばらばらとめくれる。
 めくれるとしか言いようがない。太腿の裏側からふくらはぎを通って足首まで、縦にすっぱりと、料理の名人も及びもつかぬほど薄く、何百枚もの断片に削ぎ切りにされていたのだ。
 それにも関わらず脚の前面は繋がっていた。医官長は書物の頁にするように、脚の切れ目を開いて見せた。

 菫小母さんと厨房長たちが解体しているのは折ル我と断チ坑だ。空色の目をぽっかり空け、獣のように涙を流している。
 まだ生きているのだ。この二人も両脚を断たれている。
「猊下のご興味は、今は化外の者に向かっておられるとか」
 忠姫さまが医官長に訊く。
「ええ、忠姫殿はよく学んでいますね。帝妃は皆、そうあるべきなのに。そなたの叔母の、鉛涯樹ノ義姫殿と礼姫殿」
「曾祖父の妹と、高祖父の叔母にございます」
「あの方たちも何も学ばなかった。猊下が訪れてくださったのに、怖いと追い返したのはどちらの姫であったか。……今まで、彼の儀を行い、猊下をお招きしたのは第一帝妃の髄(ズイ)国の仁(ジン)姫だけ。腎姫だったか」
 第一帝妃は空座である。髄国の仁姫は伝説の賢妃だ。何百年前のお方であろうか。
 折ル我と断チ坑の下腹部が開かれ、小指ほどの臓物が取り出された。臓物は卵巣という、人の卵の詰まった袋だそうだ。
「まだ子供だけど」厨房長たちはお喋りしながら包丁を使う。「卵はもう一生分できているのよ。月に一度、子を育てる宮に下りてきて、殿方の情けをいただけなければ月の障りで流れるの」
 卵巣に包丁を入れ、袋と中身に分けて銅器に移す。中身は、医官長によれば、目に見えないほど小さな卵だ。
 厨房長たちは手際よく、卵巣の中身に片栗粉をまぶす。
「これで卵ひとつひとつがばらばらに分かれるわ」
 菫小母さんが陽気に言い、卵を卵巣の袋に戻した。それから、袋の口を小さく絞る。口を下向きに、子の下り道に詰めた。
 折ル我と断チ坑が体を起こすと、卵巣から外へ、子宝の元がひとつずつ滴り落ちることになる。
「猊下は知識に貪欲な方。未だ知らない知識こそが猊下をお誘いする。腎姫が用いたのはこの世界の女五十名」
 医官長が忠姫さまに言った。
「ですが、猊下も今はさして興味を持たれまい。化外の女の卵など格好の的。よくぞ思いつきました」
「妾一人の考えではありませぬ」
 忠姫さまは慎ましく言った。
「市井には、世界の成り立ちを究めんとするお方が幾人もおられます。文のやりとりでも教わるばかりでした」
 私の手からじっとり湿った手が抜けた。宏葉が倒れたのだ。

 当日は暗いうちから慌ただしかった。
 私は一人で忠姫さまの寝台に新しい敷布を掛け、花を飾った。
 宏葉は地下道に取り残されている。助けに行きたかったが、宴が終わってからにするしかない。
 日が昇りきるころ、北西の街全体を巻き込んで、宴が始まった。鉦や太鼓が鳴りだした。
「もう宴の行列が出たはずです」
「はい、忠姫さま」
 私はこの日のために誂えていただいた官二等の衣装をまとっている。絹の肌触りも心を浮き立たせなかった。
「猊下がお出ましになるか見てきておくれ」
「はい、忠姫さま」

 大路沿いに籠車を停め、帝妃さま方が見物にいらしていた。あちこちに卓が置かれ、甘い素馨酒とご馳走が無造作に並ぶ。縁起の良い五色の穀物が、誰にでも配られた。
 厨房は戦場のようだった。私は菫小母さんの顔を探すが見あたらない。料理女に訊く。
「菫小母さんは戻ってきた?」
「いいや、ずっと支度楼さ。菫小母さんは言ってたよ。お宅の姫さまに一生分のお銭をもらったから、宴が終わったら厨房を退くって」

 私は改めて気づく。恐ろしいほどのお銭がかかっているはずだ。
 北西の街全体の警護官、料理女、車女、下働きの童女、ざっと三百余人をわが楼のために働かせているのだ。後宮を束ねる事務方の宦官さまたちにはさらに高価な贈り物が必要だろう。
 小さな楼が十年、かかりを切り詰めたところで、これだけの払いができるだろうか。
 ……忠姫様が売れるもの……。それはわが国しかあるまい。私は考えないようにした。

 吉祥岩の前で、琵琶を持った女楽士がめでたい曲を奏でる。ああ、宏葉より下手だ。楼という楼に、房飾りを垂らした雪洞が掛かり、赤くあたりを照らしている。

 ふと自分がどこにいるのかわからなくなった。ほんとうはまだ鉛涯樹王国にいて、凶作で飢えた子供なのではないか?
 私たちは動けなかった。握った宏葉の手は骨が突き出て刺さるようだ。母と母の姉妹たちが集まり、暗い厨房で蒸し物をしている。竈の火だけが赤い。水がないから血で料理する。蒸されているのは彼女たちの末の妹、宏葉の母だ。

 笛が甲高く吹かれた。
「虹玉帝猊下に栄えあれ」
 道化女たちが叫んだ。高虹塔の北西の扉が大きく開いた。何か華やかな箱形のものが出てきた。お祭り用の山車である。軛をつけた数十人の車女が山車を牽く。
 山車の頂上を飾るのは、脚のない折ル我と断チ坑だ。両脇には何本かの竹竿が飛び出ている。
 竹竿にびっしりとくくられているのは、あの地下道の、未だ読まれていない、つまり切れ目がまだ入っていない何十本もの青白い脚である。

 山車は北西大路を進んでいく。
 高虹塔の三階の露台に、医官長の姿が見えた。五寸ほどの銀の鍵を持っている。三階の扉の鍵を開けた。
 どなたも出ていらっしゃらない。が、一瞬の後、三階から地上の門までが、内側から崩れた。しかし、崩したものの姿はまったく見えない。悲鳴があがった。高虹塔のそばにいた女たちが薙ぎ倒されて潰れる。
「五色の穀物を投げて!」
 菫小母さんが叫んでいる。
「猊下にぶつけて!」

 赤・黒・黄・白・橙の穀物が飛ぶ。穀物が張りつき、巨大で異様な影が現れる。
 風が湧き起こり、後宮に溜まった血の粉塵が飛んだ。
 虹玉帝猊下は日光を映し、虹のように光る。大風の如きお姿は、無数の球が集まったものであった。人の丈よりも大きい球がそれぞれ転がり、また、お体全体も回りながら進む。高さは三十尺はあろう。
 猊下は、折ル我と断チ坑が垂らす卵と、帝妃の脚を追いかけていく。球の内がわの力はあまり強くない。
 皮は薄く、お体の一番下で甃に押しつけられるとぱあんと破裂した。白い液が散り、栗の花の匂いが立ちのぼる。
 小さな球が中心から沸き育っていく。
 球に守られるようにして、黒々とした陽根がとぐろを巻いているのが透けて見えた。
 とうてい普通の女人が受け入れられる大きさではない。
 球のひとつが伸びる。山車に結ばれた帝妃の脚を捕らえた。球には細かい毛がびっしり生えている。
 毛は刀に似て、脚を一度に、縦に数百枚の薄切りにした。脚は頁を広げた書物のように倒れた。毛は頁に触れて、あたかも読んでいるように見えた。
「猊下」
「猊下」
「子種をくださいまし」
 道に流れた白い液を指につけ、女たちは侍女も下女も帝妃もみずからの股に差し入れた。
 山車は早さを加えていく。並んだ脚は山車とともに動き、軽やかに舞っているように見えた。
 折ル我はもう死んだのだろう、冠をかぶった白髪は、山車の花々に伏し、動かない。
 断チ坑は何か叫び、笑っていた。
「ディヤボル、ディヤボル」
 山車の下から突き出た二人の腰からは、まだ卵らしき液が垂れている。

 私は鉛涯樹ノ楼に戻ることにした。
 わが主たる忠姫さまが、お輿入れなさってから十年、とうとう真の花嫁になられるのだ。侍女がお手伝いせずどうしようか。
 楼の門は大きく開け放たれ、あまたの警護官が身じろぎもせずに控えている。
「第三十七帝妃たる忠姫さまの侍女、宏根でございます」
 楼の中に駆け込み、忠姫さまにお報せ申しあげる。
「猊下は高虹塔からお出になり、北西大路をこちらにお向かいです」
 忠姫さまはお胸を撫で下ろしているようだ。
 鉛涯樹王国の花嫁のお姿は美しかった。山羊革の半月帽には宝石をちりばめ、筒上衣は白絹だ。
「呪法がうまくいったのね」
「呪法?」
「お招きの方法のことよ。猊下はすべての知識をお持ちです。
 でも、すべての知識を持つためには学ばねばならない。その差をわずかでも埋めるのがこの宴。今こちらに向かっているのは学んでいる途中の猊下」
 忠姫さまのお言葉は時としてたいそう難しい。
「猊下が何人もいらっしゃるのですか?」
「一人の猊下が世界のあらゆる場所にいらっしゃるのです」
「中渦平原じゅうのあらゆる場所に……」
「中渦平原などという狭い場所が世界のすべてのはずがない。統治のための方便です」
 忠姫さまは帝妃でありながら、心帝国へのとてつもない冒涜を口になさった。
「猊下は他の星にもおられる。月にも、赤い火星にも。猊下には時も無意味。同じ時のなかに知識を学びつつある猊下と学び終えた猊下が同時に、無数にいらっしゃる。すべてが猊下」

 時の流れのことなど私にはわからない。
 私たち一族は短命で、一人一人はすぐに消える。鉛涯樹王国の名のもとになった木が、育ち繁るさまに似ている。
 昨年生えた若い枝にたくさんの芽がつき、新たに同じような枝が伸びる。芽のつかぬ枝は、他の枝を伸ばすために枯れる。
 私は甥や姪を守るために忠姫さまに仕えている。宏葉すら重要ではない。後宮では、宏葉も私も子を為すわけにはいかないからだ。
 私は忠姫さまに訊いた。
「猊下は、未知の知識が書かれた女人の脚や子の元のある場所を、どうしておわかりになるのでしょう」
「そうね、雌の匂いと知識の匂いを、ひとつのものと覚さるるようです」
 忠姫さまの腕に嵌まった金の腕輪に気づいた。細い葉の連なりが透かし彫りになっている。宏葉が無憂姫からもらったものだ。
「今の猊下は、鉛涯樹王国の女人を読んだことがないはず。妾の卵を読み、子種を残してくださる望みはある」
 重く軟らかいものが石畳を転がる、粘りつく音がする。
「猊下ですわ」
「お迎えして」
 私は門前に出る。入ってくる山車を避ける。
 大路を下る猊下の動きがおかしい。楼に入るには左に曲がらねばならないが、迷っておられる。
 やがて大路をまっすぐ這い始めた。その先には薔薇陀国の仮屋が連なり、虎の番が交尾しようとしていた。
 忠姫さまが門までいらしていた。
「あの虎の盛りの匂いだわ。虎を殺して」
 何十人もの警護官がいっせいに矢を放った。
 忠姫さまが後ろから私を羽交い締めにした。「どうなさったのです……」
 伺う暇もなく、鉛涯樹王家の紋章の入った、銀の短剣が下腹を突いた。痛みは鈍重だった。
 忠姫さまが叫んだ。
「猊下、この者の卵をお読みくださいまし。まだ猊下のご存じない知識でございます」
 私のお腹の、一度も実を結ぶことのなかった子を孕む臓腑を毟り取り、忠姫さまが血まみれの手で振った。
 虹玉帝猊下が未読の知識にお気づきになったようだ。方角を変え、鉛涯樹ノ楼に向かい、猛然と転がり始める。猊下は私を押し潰し、忠姫さまの閨を目指していく。
 これで姫さまがご懐妊なされば、なんということもない。

[了]

 ※作中の「古代の詩」は万葉集四四八三番より。

間瀬純子プロフィール


間瀬純子既刊(参加)
『ナイトランド・クォータリー
新創刊準備号 幻獣』