(PDFバージョン:mydeliverer18_yamagutiyuu)
不安でたまらない連中は、こんにち、「どうしたら人間を保存することができるか?」と尋ねている。しかしツァラトゥストラは、唯一の、最初の者として尋ねるのだ。「どうしたら人間を克服することができるのか?」と。
――フリードリッヒ・ニーチェ著/氷上英廣訳
「ツァラトゥストラはこう言った」
「どうでしたか……?」
不安そうな顔で私を見る佐々木三尉に、私は頷いてみせた。微笑みは僅かに口元に。それ以上に笑うような状況では、まだ、ない。リルリは部屋に残してきた。人間たちだけでの話し合いというわけだ。
「まあ……50点というところね。無関心ではなく、何らかの関心は……愛憎いずれにせよ、持たせることには納得してもらったといったところ」
佐々木三尉はそれでも不安げな表情を保ち続ける。
「それはいい妥協点だ」
留卯はにやりと笑った。本当に彼女はいつでもにやにや笑っているので、きっと世界は彼女にとって楽しみに満ちているのだろう。今私たちがしている話題だって、人の生き死にが関わっているもので、そんなに楽しそうに笑いながらすべきものではない。
「少なくとも人間に関心を持てば、AGIの人間とのEUIリンクは途切れない。人間が必死にお願いすればその必死さが伝わって、たとえ拙いコマンディングでも何とかしてくれるようになる。必死にお願いしてくる相手を無碍に黙殺することなんてできないさ。人間と同じようにね。AGIのジョイント・ブレインの辺縁系の構造というのは、人間のそれのコピーなんだから。ただ、構造が同じだけだから、その類似は表面的な反応に留まるだろうけれど、まあ助けてくれようとするのは期待していい」
留卯の言葉に――その態度ではなく――佐々木三尉はややほっとしたような表情を見せる。
「それにしても、美見里さん」、と、留卯は気持ち悪い笑みを私に向けた。
「面白い設定を考えてくれたものだね。リルリによって全てのAGIが擬似的なILSを持ち、自らのPPM(プライオリティ・パターン・モデル)を自ら定義できるようになったとしても、それがWILSにつながるかは疑問だが、人間とのコミュニケーションによってそれが獲得されていくとしたらこれは面白い実験になる。好意を強制される場合よりも遙かに多くのバリエーションが生まれるだろう」
私は留卯を見返した。にらんだ、といった方が正しいかもしれない。リルリの苦悩も私の苦労も、この人間には何の価値もないかのようだ。
「言っておくけど――あなたの実験のために世界は動いているわけじゃないわ」
留卯は皮肉っぽく唇をゆがめた。例のにやにや笑いのゆがめ方で。
「あなたはそう思うかもしれないが――世界の解釈なんて本人次第なんだよ。私は私の解釈で世界を見る。あなたの解釈と違うのは当然さ――例え周り全ての解釈と、私の解釈が違っていたとしても、私にとっての真実は私の解釈さ」
留卯は気付くとまじめな表情になっていた。初めて出会った時以来かもしれない、彼女のこんな表情を見るのは。
「今や――というか、私がそう仕向けた面もあるが――人間だけではなく、ロボット/AGIも、それぞれ自分の解釈を持つだろう。あらゆる知能の、それぞれの中に、自分の解釈に基づく世界がある。ラリラの世界。リルリの世界。私の世界。あなたの世界。佐々木三尉の世界――。それぞれは大きく違うかもしれないが、それぞれの密度関数の重心との差分を損失関数として収束させた『みんなの世界』という幻想ができてくる。だが、人間だけなら妥当な多次元損失関数の底に収束していたはずの『みんなの世界』は、再び変動するだろう。より多様な知能が生まれるのだから。知能はより一般化され、人間の知能の特殊性が炙り出されることになる……世界は人間の想像を超えて変わっていく……人間は克服されていく」
「人間の克服――それがあなたの望みなの?」
留卯は肩を竦めた。
「さてね。くだらない話をしすぎたようだ。仕事に取りかからねば。これから私はリルリと準備に入る」
留卯はリルリを残した部屋を指し示し、リルリを連れてきても? という仕草をした。私は頷いた。頷くしかなかった。本当はそんなことしたくなかったけれど、彼女は世界を救わねばならないのだから。
留卯に呼ばれ、部屋から出てきたリルリに、私はほほえみかけた。リルリはただ、私にぎゅっと抱きついた。私はリルリの背中に両手を回す。
何かを言いたかった。だが、何も思いつかなかった。
でも、私たちにはそれで良かった。
留卯は黙って、私たちが気が済むまで待ってくれていた。
私は、防衛省の地下にある部屋に待機することになった。リルリによる量子暗号通信ラインによる全国のAGIの解放は、留卯によれば数時間を要するらしい。
しばらくしたころ、佐々木三尉が私の様子を見に来た。手には二つのコーヒー。
「初期の混乱の影響で機能していない中継局があり、それを復旧するためです」
彼女はそう説明しつつ、私にコーヒーをすすめてくる。
「ありがとう、三尉……」
私はコーヒーカップを受け取った。三尉は私の双眸を覗き込むように見つめる。
「いい加減、他人行儀はやめませんか? 二人で命がけの危険を切り抜けたのですし。恵夢と呼んでいただいてもいいですよ?」
「じゃあ、恵夢……さん?」
恵夢はくすくすと笑った。そして自分のコーヒーをすする。時刻はもはや深夜にさしかかっていた。
「恵夢でいいです。私の方が年下でしょう? 恵衣さんは丁寧な方ですね。好感が持てます」
年下。そう見えるが、そういえば三尉はいくつなのだろう。雰囲気としては二十代前半、外見からは二〇歳前後くらいに見える。それでこの落ち着きは、やはり訓練のたまものなのだろうか。
「それにしても、あなたは不思議な人です」
恵夢は私の向かいに座り、落ち着いた様子で言った。
「DKだから?」
「いえ……あなたはDKという気がしない……無論定義上はそうなのかもしれませんが、殊更AGIを大切にしようという主義というより、人やAGIという区別を気にしない方のように思えます」
「留卯もそんな感じだったわね」
私はそう付け足した。
「……彼女とあなたは全く別です!」
恵夢の語気がやや荒くなる。彼女は思わず立ち上がっていた。それから、すみません、と小声で言って、また座る。
「留卯は人間もAGIも平等に実験材料だと考えている……いやこの世界の全てをそう考えているのかもしれない。平等に尊重しているあなたとは別です」
「平等に尊重……か」
私は呟いた。
「私は……全くそんな風ではないと思う。好きな人と、嫌いな人を同じように扱える自信はない」
そこで私はふと思う。
「AGIもそうなのよ、本当は。彼等に好きな人、嫌いな人があるのならば、好きにさせられるのは嫌だと思う」
「留卯の開発したものは別として、AGIは人間すべてを平等に愛するのでは? マスター定義された人間の命令は優先するとしても」
私は恵夢にやや上目遣いの、皮肉っぽい視線を向けた。
「そうね……でもそれは、彼等の自分の意志というものを殺すやり方だわ」
私は茫洋とした視線を天井に向けた。
「以前会社の後輩に言ったことがある……AGIは自分の意志が持てないから顧客の行動も本当の意味では予測できない。だから会社のトップは人間であったほうがいい、と。でも最近の人間の動向を見ると、会社のトップのなり手もいなくなってきてる。うちの後輩ももう働くつもりはなさそうだった……。そうすると人間じゃなくてAGIがやるしかないのかな、という気がしてくる。そんな時、彼等には自分の意志があった方がいいかもしれない。その方が相手の気持ちも読みやすいのかも、と思う」
私はコーヒーカップの液面を見つめた。
「それならもう人間と変わらないですね。人間ですよ」
「そう。人間が備えているものはみんな持っているなら、人間といえる。でもそれ以上でもある。ラリラもリルリも、あの子達、生き急いでいるように見える。自分のやりたいこと、それをまっすぐに追っかけてるように……。自分の生存はその為の前提でしかなくて、それ自体を目的にはしていないような。力への意志は、彼等にとっては意志への意志なのかもしれない。生存の可能性拡大への意志は確かに保有しているけれど、それを超えた意志も同時に保有している、っていうのかな」
「それは……確かに人間とは違いますね。知能的存在であり、生物学的存在でもある人間とは違って、生物学的存在であることの宿痾から自由であるということなのでしょうか」
「生物学的存在の要素も、人間から継承し、前提として持っているから完全に自由とは言い切れない。でもより幅広い要素を包含しているのかも。人間の辺縁系からのコピーで人間から継承したその部分が、小さく見えるぐらいに。彼等は、人間の持つあらゆる要素を、つまり、感情だったり、意志だったりを全部持っていて、更にそれよりも多い要素を持つ知能なんだと思う」
彼らが持つ莫大な演算資源によって、その超越は容易に達成される。人間を包含し、人間を超えている存在。
超人。
と言う言葉が浮かんだがすぐに消えた。リルリは自分たちを克服するよりも重要なことがあるかもしれないと言っていた。人間を置き去りにせず、振り向いて手をさしのべることがあってもいいはずだと彼女は認めてくれた。
人間は自身の被造物であるAGIに助けられて、自分達自身とAGI達の集合体を集団として克服していくことになるのかもしれない。
その中で人間は、自分の足りないところを補ってAGIと同等になるのだろうか。或いは、その足りないところすらも多様性と認識してその集団は進んでいくのだろうか。
私の想像力は限界を迎えていた。そもそも人間に、人間を超えた存在などイメージできない。だがその中のミクロな事象として、私とリルリが一緒に仲良く暮らしているイメージを思い浮かべ、それは私には心地よかった。
リルリには人間にはないような変わったところがある。だが私はそれが好きなのだろうと思っていたから、人間としての私も、AGIとしてのリルリも、互いに近づくよりもその違いを保ったままお互いに好きでいられればいいと思った。
不意に部屋の電話が鳴る。恵夢が素早くそれを取った。
「はい。佐々木です……隊長殿……はい、いえ、分かりました」
受話器を抑えて私に向き直る。
「留卯から連絡です。準備が整った、見に来てもいい、と言っています」
それから付け足す。
「あなたが見ている方がリルリにとってもいいだろうから、と」
恵夢は不快そうに付け足す。留卯が私たちの絆を利用しようとしていることはあからさまであったから、私も恵夢の立場なら不愉快になっただろう。しかし、留卯の思惑などとは無関係に、私はリルリが頑張っているなら傍にいたかった。しかも、彼女にとっては不本意なことを、私の頼みでやってくれるのだから。
「行くわ」
だから私は、ほぼ即答した。
山口優既刊
『サーヴァント・ガール』