「コンシャスネスの系譜」山口優

(PDFバージョン:consciousness_yamagutiyuu
 延長意識があるから、人間の有機体はその心的能力の極みに達することができる。以下のようなことを考えてみよう。有用な人工物を想像する能力。他人の心について考える能力。集団の心を感じ取る能力。自分と他人に死の可能性を感じ取る能力。生を重んじる能力。快と苦とは異なる、善と悪の感覚を有する能力。他人や集団の利益を斟酌する能力。ただ快を重んじるのとは反対に美を感じとる能力。はじめに感情の不調和を、そのあと抽象的な概念の不調和を感じとる能力(これは真実の感覚の源)。

――アントニオ・R・ダマシオ/田中三彦訳
「無意識の脳 自己意識の脳」

「サーボモータと意識」「サブリミナルへの福音」「シンギュラリティの十分条件」等を通じて、私は意識についての私の考え方を述べてきました。では、他の人たちはこの問題についてどう考えているのでしょう? ここでは、学術書や、近年のSFに関連して、意識をどう捉えるべきなのか、或いは、将来の意識はどうあるべきなのか、という考え方の系譜について、私なりにまとめてみたいと思います。
 人間には意識があるが動物にはない、という認識は、心理学的には長年支持されてきたものでした。その一方、情動は、人間に特有のものではなく、多くの動物にも共有され得るものだ、という認識も、従来から支持されてきたところです。その一方で、いつから人間の意識がはじまったのか、ということ、或いは、意識と情動はどのような関係にあるのか、ということについては、様々な論が述べられています。
 近年の意識と情動についての体系的なモデルとして、まず、アントニオ・R・ダマシオ氏の唱えるソマティック・マーカー理論が挙げられます。ダマシオ氏は、意識―無意識の中に三段階の状態を定義しました。これらは、無意識、中核意識、延長意識とそれぞれ呼ばれます。
 無意識状態であっても、情動は存在します。ダマシオ氏によれば、自律神経・五感・身体感覚(内臓や筋肉の感覚や平衡感覚)の信号は、有機体の全状態を反映するニューラル・パターンにマッピングされます。このマップには、肉体的苦痛・快不快が表象されており、このニューラル・パターンに従って情動が生まれます。これらの活動を司るのは、脳幹核、視床下部、前脳基底部といった部分です。マップ上のどのパターンがどのような情動を生み出すべきなのか、という処理を行うのが、「ソマティック・マーカー」と呼ばれる機能です。この情動を反映して、腹内側前頭前野、扁桃体といった部分は反射的な行動を引き起こすことが出来、こうした動きが、哺乳類より前の原始的な生物の主な行動原理となります。しばしば、「爬虫類の脳」と呼ばれる部分です。人間で言うと、「癇癪性自動症」と呼ばれる精神症に罹患している人たちは、主にこのような機能で行動しているとされています。
 次に、中核意識と呼ばれる機能について説明します。上丘・帯状回・視床によって為されるこの部分では、「いま・ここ」に限定し、前述のマップにおけるニューラル・パターンから、自律的に自らにとっての環境の善し悪しを、その後に起こったことと紐付けて評価することができます。例えば、どういった状況の時、「闘争・逃走」をすべきなのか、それとも安心して落ち着いているべきなのかを学習に基づき判断することができます。こうした環境に対する評価は、「ソマティック・マーカー」に上書きすることが出来、その時その時に学んだニューラル・パターンのラベル(良い状況か、悪い状況か)を、再び同じ状況が起こったときに素早く適用し、行動することを可能にします(「あ、この状況は前に経験したことがあるぞ、まずい状況だ、逃げよう」)。情動(自動的に起こる肉体反応)が闘争・逃走反応をすべきかそうでないか、という評価を経て感情になるのも、この部分です。勿論、一つの状況において、闘争・逃走をすべきか、リラックスすべきか、或いは別の反応をすべきか、判断に迷う場合があります。しかしそうしたとき、有機体は、より強くニューラルネットワークが発火する部分に従います。これを会議室モデルと呼ぶ人もいます。実際には、会議の決定は声の大きな人に従うわけではありませんが、イメージはしやすいでしょう。中核意識の機能を実現する領野は「哺乳類の脳」と呼ばれ、人間でも一八ヶ月ぐらいまでの乳幼児や、「一過性健忘症」とされる精神症の状態の人は主にこの機能で行動しているとされています。会議室モデルを持つ人間の赤ん坊や哺乳類は、成長した人間と同様、葛藤やストレスを経験します。ちなみに、一過性健忘症の人にはその間の記憶は存在しないのですが、そのような症状の人を対象とした「グッドガイ・バッドガイ」実験と呼ばれる枠組みでは、周囲の人々について、自分にとって良いことをした人は、良い人と認識し、悪いことをした人は悪い人と認識します。それはきちんと区別できているのです。即ち、こうした機能のみでも、周囲の事物、即ち環境を学習・モデル化をしていることの証左と言えるでしょう。但し、何故自分がそれらを嫌うのか、好きなのかは理解していません。
 そして三番目、最後が、延長意識です。これは、側頭葉・前頭葉によって為される機能で、自伝的自己を実現する機能とされています。中核意識は、環境に対する学習を行うため、環境を予測し、評価することはできましたが、自分自身の学習と評価、予測は不可能でした。延長意識は、環境と自己の感情を紐付けて学習することで、自分がどのような状況になったら、どのように感じるのか、予測することを可能にしました。この機能のために、中核意識が「今・ここ」に限定して参照していたニューラル・パターンを、経時的に記録し続けることを行っています。編集をし、端折って記録することで、生まれてから現在までの自己の記録と呼べるものを持っています。従来、環境に対する予測だけだった、ソマティック・マーカーへの上書き機能が、自己に対する予測に基づいてもなされるようになりました。この枠組みにおいても会議室モデルは適用され得ますが、「今・ここ」に限定した主張が最も力を持つ、という、中核意識の枠組みとは異なり、将来への予測を現在の判断に加えるということを可能にしています。哺乳類等の動物が暮らす世界では、「今・ここ」への対処が圧倒的に価値を持つのに対し、複雑な社会を持つ人間では、必ずしもそうではないからです。「今・ここ」に限定した感情に基づく行動をしてしまったら、大抵の場合、その人は社会的には暮らしていけなくなります。例えば、現在は相手に怒りを覚えているが、怒りにまかせて人を殴ってしまえば傷害罪に問われ、社会的地位を喪失してしまって最悪の気分になる――というように、現在の感情と将来の感情が同じ会議室で争うことが可能になります。この機能は、生後一八ヶ月以後の人間にのみ見られるとされています。また、ダマシオ氏はもしかしたら一部の霊長類にもあるかもしれないと述べています。これが、我々が考える意味での「意識」であり、この機能によって動いているのが、人間にとっては精神的に正常な状態とされています。この機能は、冒頭に引用したように様々な、人間らしい能力の実現を行う機能とされています。
 さて、こうした枠組みを元に、意識に対する考え方の系譜について述べていきましょう。
 私の知識の及ぶ範囲で最もラディカルな(意識の発生時期が遅い)意識の起源についての考え方は、これまでも何度も引用している、ジュリアン・ジェインズ氏の「神々の沈黙」(1978年)に示されています。この中では、意識の始まりは文字の始まりよりも遅く、文明の始まりよりも遅く、紀元前一〇〇〇年頃とされています。即ち、ジェインズ氏は、エジプトやメソポタミアといった古代文明から、アッカドやヒッタイトが活躍する時代、或いはホメロスが活躍する時代を通じて、人間には意識がなかった、と主張したのです。その時、人間の自律判断を支えたのが、彼が主張する二分心における「神々の声」です。「神々の声」は、まるで神のお告げのように、人が判断に迷い、ストレスを感じたとき、どう行動すべきか指し示したと言います。こう書くとオカルティックにも或いは聞こえるかも知れませんが、ホメロスや聖書の詳細な分析、心理学及び脳科学を駆使した彼の論証は人を納得させるに足るものです。例えば、彼によれば右利きの人は、左脳に言語野がありますが、その時の右脳の言語野に該当する部分の機能はよく分かっていません。しかし、この右脳の領野を刺激すると幻聴が聞こえるという実験結果があります。この右脳の言語野に相当する領野こそ、神々の声の座であるというわけです。さて、彼の言う二分心の枠組みのうち、人間側はダマシオ氏の枠組みでは中核意識に該当するでしょう。そして、延長意識の萌芽的な機能が、「神々の声」であったのではないかと私は考えます。冒頭に引用した様々な能力は、古代文明の時代、全て「神々の声」によって担われていたのではないかということです。即ち、「神々の声」とは、前自伝的自我のようなもので、その人物の人生経験を中核意識には悟られずに記録しており、その人の人生経験を参考に、「今・ここ」に限定されない、その人物にとっての最適な選択をその人が判断に迷ったときに教えてくれる機能を果たしていたというわけです。ジェインズ氏は、今から三〇〇〇年前、「神々の声」は、消えていき、人は意識を得たと主張します。ここで言う意識とは、勿論延長意識のことでしょう。ジェインズ氏の説に従えば、霊長類には延長意識は存在せず、それどこか三〇〇〇年以上前の人間にも存在せず、三〇〇〇年前以降の人間のみが、唯一、延長意識を持っていたということです。
 一方、現在の人間の意識の枠組みについて、更に詳細に検討した考え方が、二〇〇四年に前野隆司氏の「脳はなぜ『心』を作ったのか」において発表されました。前野氏の唱える受動意識仮説においては、意識とは自分の内部モデルである、と捉えています。また意識の役割は、エピソード記憶を紡ぐことである、とも主張しています。これは、延長意識の仕組みをより詳細に解明したこと、と私はとらえます。実は、説明をスムーズに行うため、前述のダマシオ氏の枠組みにおける延長意識の説明の中には、一部、私が前田氏の考え方に従ってより詳細化した部分があります。「自分自身の学習と評価、予測」という部分です。これは、自分自身をモデル化するということと同義で、ダマシオ氏はそうした自己のモデル化に関する記述は行っていません。しかし、このモデル化によってこそ、我々は、「私」を理解の遡上に乗せることができるようになりました。哺乳類が周囲の環境について考えたり、理解の枠組みを構築していったりするのと同様に、人間は自分について考えて、自分を理解する努力をすることができるようになったのです。これが延長意識の本質的な価値でしょう。
 さて、アカデミックな領域での、意識と情動の関係、及び意識の起源についての考え方やその機能を概観してきましたが、次にSF、特に我が国のSFにおける意識についての考え方の系譜について述べてみたいと思います。
 私の知識の及ぶ範囲では、定量的な描写を交えつつ、意識のあり方について問いかけた最初の日本SFは、伊藤計劃氏の「ハーモニー」(二〇一〇年)であったと考えます。「ハーモニー」においては、意識の役割は会議室モデルで説明されています。また、「今・ここ」に限定して会議モデルにおける「発言力」が極大化するとの記述もありますので、主に中核意識をテーマにしているとも読めますが、本質的な問題点は、やはり、中核意識と延長意識の対比であったと読むべきでしょう。「ハーモニー」が提出しているのは、「今・ここ」に限定した判断を行う中核意識の問題点に対し、延長意識とは異なる、より洗練された解なのです。延長意識は、「現在その行動を採ったら、将来どのような状況になるか、そして、そのような状況になったら自分はどう感じるか」ということに注目していますが、それはあくまで、個々人の自伝的記憶に頼った不完全なものであり、偏った判断であることに間違いはありません。それに対し、中核意識の時点で、偏りのないシステムにより、社会全体での利害が完全に調整された判断が示されれば、延長意識は必要ないということです。
「ハーモニー」と同様、中核意識と延長意識の対比を主要なテーマにしたのが、小川哲氏の「ユートロニカのこちら側」(二〇一五年)(以下「ユートロニカ」)と、柴田勝家氏の「クロニスタ 戦争人類学者」(二〇一六年)(以下「クロニスタ」)ではないかと思います。「ユートロニカ」においては、意識とは、集団の利益と自己の利益の調整の中で生まれた、と述べられています。延長意識が社会が複雑になるに応じて発展し、「今・ここ」に限定されない感情をも会議室モデルに組み込んで複雑な行動を可能にしている、ということが的確に描写されています。「クロニスタ」においては、個々人の将来の予測精度を極限まで上げることで、社会全体に共有された予測が可能となる、というモデルを描いています。これらの二作品はいずれも、「ハーモニー」における体内の監視システムを、それぞれ、ウェアラブル端末等を含む個々人への高度な監視システム及びそのデータに基づく予測システムと、ウェットな脳のみに基づく極度に精度の高い集団で共有された予測に置き換えて描写しており、それぞれの解はSF的にとても興味深いものです。
 この系譜の先には何が続くのでしょうか? それとも何か新しいものが続くことはなく、意識と無意識に関する議論は出尽くしたと言えるのでしょうか?
 私は、中核意識の問題点に対し、延長意識を超える解の価値を認めつつも、延長意識こそが人間の本質であると考えております。それゆえ、延長意識か、そうでないものか、という二元論を脱し、延長意識を保ったまま、中核意識の問題点を解決するアイディアが出てきても良いと考えています。それは我々が一般に考える意識を喪失しないが、意識を超える意識を持つ存在の描写であり、SFに新たなイマジネーションをもたらす世界を切り開くのではないかと期待しています。
 それは、冒頭に引用したような様々な能力を発揮しつつ、その副作用を排除し、我々が想定する「人間らしさ」を超えた人間らしさを我々に与えてくれるアイディアとなるのかもしれません。

山口優プロフィール


山口優既刊
『サーヴァント・ガール』