(PDFバージョン:sinoukoushou_kimotomasahiko)
教科書から、士農工商が消えた。
だったら、残された犬とSFは、どうすればいいというのだ。
僕はいわゆるSF読者だった。そしてSF作家でもあった。だからといって、僕がSFそのものかと問われれば、それはさすがに言い過ぎだろうと思うし、そもそもSFそのものとはなんぞやという質問で切り返したくはなる。
一方で、この問題について誰も語らないのであれば、僕がSF的なものを代表して考察してみたりしても、それほどバチは当たらないのではないかとも思う。
「なあ、どう思う、マツコ?」
僕は、隣に座る白い犬に問うた。
「わかるわー。あんたの気持ち、よく分かる」
マツコは心底同情するように答えた。犬であるマツコとて、残された者であるから、僕の心情は理解してくれるのだろう。
マツコは大きくデラックスな身体をぶるんと振るわせ、ひとつあくびをしてから、先を続けた。
「だいたい、無責任なのよ」
「そうだね」
「教科書から士農工商をなくすって簡単に言うけれど、それじゃあずっとそれで勉強してきた私たちはどうなるのよってことよ。私たちの小学生時代の社会の授業ときたら、そんなのを暗記するばっかりだったじゃない」
「まあ、そうかもしれないね。それで社会科の授業が嫌いになった子供もいそうだ」
「いるわよー、いるわ。絶対にいる。私が保証するわ。……でもね、不思議なもんで、そういうのって覚えているのよね。士農工商とか、イイクニツクロウとか、ナクヨウグイスとか、タマールマーハラクーランパとかね」
「子供の頃に覚えたことは、なかなか忘れないって聞くね。物忘れがすっかり激しくなったお婆ちゃんが、女学校で覚えた万葉集は全部覚えているとか」
「円周率をぶつぶつ言っているお爺ちゃんとか、Z80のハンドアセンブルを延々と続けるお爺ちゃんとかね。怖いことよね。教育って、何だろうって思うわ。こういうのは、積極的に主張したほうがいいと思うわけよ、今なら私みたいな犬の意見を聞く政治家もいるはずよ、小池さんとかトランプさんとか」
「トランプさんはともかく、小池さんはどうだろうかね」
「聞くわよー。あの人、いまなら、誰の言うことにも広く耳を傾けますっていうスタンスだと思うわ。傾けるだけかもしれないけど。傾けてどうするかは、いいブレインがついているっぽいから、そっちが考えるのかもしないわねー」
「それはそうと、マツコ。僕は思うんだけれど、これって、歴史改変じゃないかね?」
「あら、いいところに気づいたわね」
マツコは目を丸めた。
「過去の歴史が違っていたと、ある日突然なってしまうのだから、SF者としては歴史改変的考察をしないわけにはいかないね」
「それがね、聞いて欲しいのよ。そもそも士農工商ってのは、明治政府が作った虚構らしいのよね。区別としての士農工商はあったけれど、身分格差というほどのものではなかったらしいのよ。ところが、明治政府としては江戸時代は身分社会だったけれど、明治時代は違いますよと言いたいがために、そういう喧伝をしたらしいのよ」
「それは初耳だね」
「むしろ明治政府が歴史改変してたのね」
「なるほど、歴史学者の研究成果によって歴史が改変されたという単純な話ではなくて、歴史はもとから改変されていて、学者の研究によって改変されていた事実が明らかになって、訂正されたということだね」
「そういうことなのよ。士農工商が身分格差でなかった世界というのが本来の姿で、これまでの世界が歪んだ世界だったってこと。歴史はあるべき姿に戻ったのよね」
「釈然としないな」
じゃあ、犬とSFはどうすればいいんだい?
なあ、マツコ。士農工商のその下に置かれていたはずの僕と君は、どうすればいいんだろうね?
マツコ。白い犬。SFよりは、ひとつ上の犬。士農工商犬SFとは、誰が言ったのだろう。ああ……筒井先生か。SFじゃなくてSF作家だったかもしれない。それとも、SF者だっただろうか。まあいい、些細なことだ。
歴史とは何だろうね。僕等はつい事実の積み重ねだと思ってしまいがちだけれど、実は観測する時点で人々が認識している、ほんの一ページの内容でしかないのかもしれない。
なあ、マツコ。
僕等が今見ている歴史は、真実の歴史ではなく、何かの拍子に入れ替わってしまうような、そんな脆弱なものなのだね。
心許ないね。
マツコは白くてふかふかの毛並みを輝かせながら、空の遠いところをみつめている。
なあ、マツコ。
頭上に重く乗っていた士農工商を失った犬とSFは、どこに向かえばいいのだろうね。
「でもね、わたし思うのよ。身分に順番をつけること自体が、おかしいんじゃないかしらって」
「ほう?」
「好きな物に順番をつけるのはおかしいと思わない?」
「あ、それ、どっかの本の表紙で見たよ」
「そういうことじゃないの! パロディとか、オマージュとか、時事ネタとかいうことじゃないのよ!」
「そうかい、マツコ」
「そうよ」
難しいものだね。
そして僕等は、八方塞がりだ。
「やっぱり、私、行ってくるわ」
マツコがのっそりと立ち上がった。
「もしかして、歴史を変えに行くのかい?」
「そうよ。猫が夏の扉を見つけられるのなら、犬の私にだってできるでしょう」
「そうかもしれないね。だけど難しいかもしれない」
「やってみるわよ。私らなんて、そういう生き方しかできないんだから」
何でもかんでも人生とか生き様とかに結びつけるのは、マツコの悪い癖だと思うのだが、それだからこそマツコはしなやかに生きていられるのかもしれないとも思う。
こうしてマツコは去った。それから姿を見せないことからすると、きっと夏の扉を見つけ出して、士農工商を復活させるべく奔走しているのだろうと思う。
残された僕はと言えば、SFなわけであり、士農工商も犬も消えた今となっては、ただひとり、誰と比べられることもなく、ゆらりゆらりと浮かんでいるだけの存在になってしまった。
SFと他のものとで順番をつけられることもなければ、SFの中で順番をつけることもない。しかしどうにもおさまりが悪い感じがする。
士農工商犬SFと半ば自虐的に言っていた時のほうが、安心感があったように思うのだ。
「自虐なのは姑息だね、マツコ」
つぶやいてみるが、マツコはもういない。
だったら自分が一番で、自分が好きな物が一番で、それで突っ走るしかないじゃないか。そうだ、それでいいじゃないか。そもそもSFなんて、好きだから読むし、好きだから書く以外の動機付けは必要ないじゃないか。
「そう思わないかい、マツコ?」
聞いてみるが、答えはない。マツコが戻らず、士農工商も戻らないとなると、どうやらSFとしては、ひとりで万歳万歳と唱えるしかないようだ。
ちょっと両手を挙げて万歳と小さく言ってみたら、それも悪くないなという気分になった。
木本雅彦既刊
『人生リセットボタン』