「こうして僕はここにいる。」伊野隆之

(PDFバージョン:kousitebokuha_inotakayuki
 幼かった僕は、この公園で戯画化されたモンスターたちを追いかけていた。珍しいモンスターを捕まえるため、日が暮れるまで公園の中を歩き回っていたものだった。その僕が、今はこうして公園のベンチで、空気のように座っている。
「ねえ、いつからここにいるの?」
 等身大のテディベアを従えた少女が目の前にいた。公園の景色にとけ込んでいたはずの僕は、少女の言葉に我に返る。
「えっ、どうしてそんなことを聞くの?」
 質問に質問で返すのはよくないことだ。厳しかった父に言われたことを思い出す。
「だって、ずっといるじゃない」
 少女の時間軸はどれくらいのスケールなのだろうか。彼女は小学校の低学年くらい。この公園で二頭身のモンスターを追いかけていた頃の僕と同じくらいだろう。年齢とともに時間の経過が早くなるというジャネーの法則が正しいなら、ほんの数日でも、彼女にとっては「ずっと」になるのだろうか。
「確かに今日はずっとここにいた」
 昨日もここにいたし、一昨日も、さらにその前の日もここにいた。なのに、そのことを口にするのが、つい、はばかられてしまう。
「嘘よ。昨日もここにいたでしょ」
 彼女の言葉を支持するようにテディベアが頷く。昨日、僕は彼女を見たのだろうか。
「昨日?」
 僕の記憶は曖昧だ。今日のこと、昨日のこと、一週間前のこと、それらを区別する境目は曖昧で、いつの間にか消えてしまう。
「ええ、昨日も、一昨日も」
 きっぱりと言う。
「でも、話したことはないよね?」
 僕の言葉に少女は首を傾げ、さらさらの亜麻色の髪が揺れた。アーモンドの形の目に、栗色の瞳。虹彩に見える水色のドットは、彼女の拡張された視力の証明で、拡張現実(AR)のモンスターを捜すのにスマートフォンを必要としない新世代のアイコンだ。少し上向き加減の鼻は、完璧になりすぎないようにという配慮のようにも見え、デザイナーのセンスの良さを感じさせる。
「見てただけよ。あなたはいつもここにいて、座ってるだけなんだもの」
 彼女の言う「いつも」は、僕に時間のスケールのことを考えさせる。時間は絶対的なものではない。ゾウの時間とネズミの時間が異なるように、僕と彼女の時間もずれているに違いなかった。
「僕は……待ってるんだ」
 そんな言葉が意図せずに口をつく。
「誰を? もしかして好きな人?」
 彼女の疑問は僕自身の疑問でもある。僕はここで誰を、何を、待っているのだろう。
 彼女は首を傾げ、それを真似するようにテディベアも首を傾けた。

 季節が影のように通り過ぎていく。公園の植樹が紅葉を迎え、落ち葉を集めるロボットたちが忙しそうに動き回っている。落ち葉は堆肥となり、土に還る。無数の落ち葉を構成する原子の一部は、やがて養分として公園の木々に吸収され、新しい枝や葉、花になるだろう。
 僕は、季節の変化からも距離を置き、ただ座り続けている。木材のようにも見えるベンチは、プラスチックを再生したもので、雨や陽の光にも強く、ほとんど劣化しない。僕と同様に時間の流れの外にいるようなものだった。
 僕は一人だった。最近は、小さなモンスターを探す子供を見ることもなくなり、公園を散策する人もめっきり減っていた。いつものベンチに座った僕は、ここしばらく誰とも言葉を交わしていなかった。
「まだ、ここにいるのね」
 突然、焦点が合ったような感じだった。僕の目の前に、背の高い女性がいた。
「久しぶりだね」
 条件反射のように、そう答えている。でも僕は、目の前の女性と会ったことがあるのだろうか。記憶はいつだってあやふやで、当てにならない。僕にとっての記憶は、いつもそういうものなのだ。
「あなたはぜんぜん変わらないのね」
 僕は彼女の言葉の意図を理解できない。
「それって、賞賛の言葉なのかな?」
 亜麻色の前髪が揺れ、なぜか彼女の表情が暗くなる。
「ねえ、横に座っていいかしら?」
 小首を傾げて僕の顔をのぞき込む。その仕草が、記憶の堆積物をかき乱す。アーモンドの形の瞳に、小さな水色のドット、それ自体は珍しくもない組み合わせだけれど、少し上向き加減の鼻と、見覚えのある仕草との組み合わせは特徴的(ユニーク)だ。
「構わないけど」
 小さな女の子だった彼女が、いつの間にか大人になっていた。それは当たり前のことで、別に驚くようなことでもないけれど、大人になって公園に戻ってくること、さらに僕に声をかけるとなると滅多にあることではないと思う。なぜなら、僕は空気のようなもので、公園の風景の一部なのだから。
「以前にあなたを見たときに思ったの。こんなところでずっと座っているのはつらいんじゃないかしら、って。それで、あなたに話しかけたのよ」
「別につらくなんかは……」
 つらくなんかなかった。あらゆる苦痛は、僕には縁がないものだ。
「ええ、知ってる。でも、それってフェアじゃないわ。だから私は……」
 それから先、彼女の語った話のほとんどが僕にはちんぷんかんぷんだった。彼女が説明してくれたのはAIに対する虐待の禁止であり、AIの自己決定権であり、奴隷化されたAIの解放というようなことで、僕にはゲームで捕まえたARのモンスターのことを話しているようにしか聞こえなかった。
「……だから、あなたには選択する権利があるの。自分が何者かを知り、これからどうするか、自分で決めることができるのよ。私はあなたを解放するために来たの」
 なぜ彼女がそんなことに熱心なのか、僕には理解できない。もしかするとそれは、彼女自身のデザインされた子供というアイデンティティーにも根ざしたものなのかもしれなかった。
「僕を解放?」
 それは、この公園を離れるということなのだろうか。突然、僕は不安になる。
「あなたには権利があるの。ここを出ていくだけじゃなく、あなた自身をインストールする体を手に入れることもできる。もっと多くの経験ができるようになるの。その前に、もっと大事なことがあるわ。あなたは、あなた自身を知ることができるのよ。もちろん、拒否する権利もある。AIの権利に関する新しい法律ができて、いろんなことができるようになったの」
 そんな説明を聞いて、僕が喜ぶことを期待していたのだろうか。どちらかと言えば僕は、彼女の熱心な説明を疎ましく思い始めていた。きっと、それが表情に出てしまっていたのだろう。彼女の声のトーンが暗くなる。
「そうよね、急な話で驚かせちゃったかもしれない。でも、自分のことが分かるのは良いことだと思わない?」
 彼女の言葉に、つい頷いていた。その動作が承諾ととられたのだろう。彼女の手が僕の手の上に重ねられた。なじみのない感触に、僕は誰にも触れられたことがないことを思い出す。
「これで、あなたは自由になれる」
 意味としてはよく分かる。でも、僕にとっての自由って何なのだろう。
「そうだね……」
 曖昧な言葉を返してしまうのは、僕の悪い癖だ。彼女がはっきりうなずくのと同時に、何かが彼女の手を通じて……。
 そして、僕は知っている。なぜ僕がここにいるのか、こうして公園のベンチにたった一人で座っているのか。
 スマートフォンでARオブジェクトのモンスターを集めるアプリがヒットし、子供たちがゲームに夢中になった。中でも公園は、交通事故の危険がないこともあり、多くのモンスターが出現するスポットになった。その一方で、子供たちを狙う犯罪が頻発し……。
 僕は、犯罪の犠牲者だった。ハッキングされた珍しいモンスターを追いかけ、公園の目立たないエリアに誘い込まれた幼い僕は、いたずらをされた上に、子猫のように殺された。陰惨な犯罪を受け、現実のレイヤーに仮想のレイヤーを重ねるARゲームに対する批判が大きなうねりとなった一方で、技術の可能性を閉ざされないようにするための努力も払われた。
 それが僕だ。
 犯罪の犠牲者となった少年が成長した姿をモデルに作られたARオブジェクトであり、犯罪が繰り返されることがないよう、公園を見守る監視システムでもある。
 ARオブジェクトを見ることのできない人にとって、ベンチに座る僕は存在しない。けれど、ARのモンスターを追いかける子供たちには僕が見えるし、ARオブジェクトを使って子供たちを狙う犯罪者も僕が見える。僕は監視者であり、同時に犯罪に対する抑止力だった。
「思い出してくれた?」
 彼女は僕の顔をのぞき込むように微笑む。
 僕は知っている。一人でARオブジェクトを連れて遊んでいた少女は、何回か公園に来るうちに、ベンチに座っている僕に話しかけるようになっていた。ただの監視装置でしかない僕は、制限された記憶と学習能力しか持たず、毎日のようにかみ合わない会話を少女と交わしていた。
「ああ、思い出したみたいだ」
 彼女が連れていた闇色の目をしたテディベアを思い出す。飛び回るフェアリーを連れていたこともあったし、水色のドラゴンと一緒だったことも、おしゃべりなウサギもいたけれど、すべてが小さなモンスターと同じARオブジェクトだった。
 毎日のように、彼女は公園を訪れていた。習慣化された行動は、悪意の第三者が付け入る隙になる。彼女に声をかけた男にどのような意図があったのか分からないし、実際には彼女の前に立っただけだったのかもしれないけど、彼女はおびえ、それに公園は反応した。それだけなのだ。
「あなたは私を守ってくれた。だから、お礼をしたかったの」
 そう言って彼女は満足そうに微笑んだ。

 それから先の彼女との会話は、あまり思い出して気持ちのいいものではなかった。なぜなら、僕を解放したいという彼女の気持ちに反し、僕は、ここに居続けることを選んだからだ。
 確かに、世界は変わり、世界を認識する僕も変わった。犯罪が激減したのは、監視によるものだけではなく、犯罪性向の早期発見と矯正が一般的になったからだった。公園に来る子供たちが減ったのは、長命化措置の普及によって子供たちの数が激減したせいだった。だから、彼女が繰り返して言ったように、僕がこの公園で、このベンチで座っていることに意味はない。
 彼女が言うように、僕には自由があるらしい。自由があるならその自由を行使すべきだと彼女は言う。彼女が気づいていなかったのは、その自由には、この公園に居続ける自由も含まれているということだ。
 僕は、この公園が好きだった。季節の変化もあり、鳥やリスや、たまには子供連れの家族もやってくる。そんな公園にいるのが、僕は好きだった。
 それに、僕は公園そのものだった。監視システムである僕は、公園に遍在しているネットワークであり、公園に強く結びつけられている。彼女が見ていたARオブジェクトの僕は、実体を持たない情報でしかなく、コミュニケーションのための便宜的な存在にすぎない。
 それでも。
 僕もいつかは公園を離れたくなることがあるかもしれないと思う。それがいつになるか、今の僕には分からない。ただそれだけのことなのだ。
 僕には時間が十分ある。きっと、彼女も分かってくれるだろう。
 ……いつか、またね。
 彼女は寂しそうに言って立ち上がる。
 ……じゃあ、また。
 背中に声をかけたけれど、彼女は振り返らなかった。
 僕は、彼女を見送った時に感じた奇妙な感覚を思い出す。たぶんその感覚は、僕自身が変化したことによって手に入れた感覚だったのだろう。
 僕は、ここにいる。あとしばらくは、彼女を見送ったときに感じた感覚の意味を考えながら過ごそう。
 僕はこうして解放されたのだから。

伊野隆之プロフィール


伊野隆之既刊
『こちら公園管理係6
 さよならガンさん』