「〈彼〉」飯野文彦

(PDFバージョン:kare_iinofumihiko
〈彼〉は言った。
「今日から、ぼくが君の神になる」
 ほかの者から言われたら吹き出していた。何と陳腐な言葉だろう。何とおろかなんだろう。だが〈彼〉は別格だ。〈彼〉が言ったから真実だ。だから、わたしは信じた。実際、〈彼〉の姿が輝いて見えた。
 ついに救われる。わたしの救世主が、ついに現れたのだ。そう本気で思い、感謝したのである。
 ――その前の出来事が起こったのは、異常なまでに暑い夏だった。わたしは失恋した。実に一年近くに渡って恋い焦がれつづけた彼に、いともかんたんに捨てられた。
「新しい彼女ができたから」
 電話でそれだけで、彼はわたしと別れようとした。
 訳がわからないわたしに、納得できるわけがなかった。わたしのどこが悪いのか、どこが気に入らないのかを訊ねた。
 彼は言った。
「そんな面倒なことじゃないんだ。つまり飽きたんだ」
「どこに?」
「だから、そういうんじゃなくて、おまえの全部に」
「もっと具体的に言って。直せるなら直す。飽きられないように、努力もするから」
「だから、そういうんじゃないって言ってるだろう。好きじゃなくなったの」
「わたしのどこが好きじゃないって言うの。もっとわかりやすく言ってくれれば……」
「おい、人の話を聞いてるのかよ。そう言うんじゃないって、言ってるんだ」
「聞いてる。でもぜんぜんわからない」
「そういうお馬鹿なところが、うんざりなんだよ。フィーリングが合わないと、こういうのってどうしょうもないじゃん」
「でも、ずっと仲良くしてきたじゃない。それをとつぜん。わたし、猫じゃないんだから」
「あ、それ。猫だって、飽きれば捨てるだろ。それと同じ。おまえ、おれに捨てられたんだ。もう二度と探せないくらい遠いところに捨てたんだ。これでわかるだろ。じゃあ」
 それで終わった。
 以後、いくら電話してもメールしても、彼は取り合ってくれなかった。彼がすべてだとは思っていなかった。それは空気がすべて、水がすべてと思って生きている人がいないのと同じだ。なくなってはじめてわかる。それがどれだけ自分にとって、必要不可欠なものだったのか。
 見る見るわたしは酸欠になった、脱水症状となった。いかに彼が必要だったか、自分のすべてだったかを知った。それを話したところで、他人はうんざりするだけだろう。それはわたしにも経験がある。彼氏に振られた友人をさんざん見てきた。なぜそんなに嘆き悲しむのかと不思議に思い、呆れ、そしてうんざりした。
 すべてはあなたに原因がある。あなたみたいに鬱陶しくてぐちぐち言われたら、男だけではなく、同性の友だちだって逃げたくなる。と何度も何度も思った。
 それが自分に起こっただけのことだ。ただ自分には起こらないと信じていただけに、訳がわからなくなった。
 わたしは客観性を失い、取り乱した。片っ端から友人に相談した。最初のうちは、親身になっている振りをするが、皆、いつしかこちらの話を聞き流していることに気づく。それを指摘すると、逆ギレする。
「あたしが元彼に振られたとき、あんた何て言ったか覚えてる?」
 覚えていなかったし、それとこれとはまったく次元が違うと思った。何人かには売り言葉に買い言葉で、それを言ったところ、わたしを心配するどころか、勝手に怒り散らして、絶交だと言うのだ。
 そんな女と絶交するのは、まったくかまわない。ただ何事にもタイミングがある。世界の基盤を失った後だっただけに、そんな些細なことさえも、わたしの傷を深くした。
「それは愛ではない。束縛だったのよ。前から言おうと思ってたんだけど、あなた聞く耳を持たなかったでしょ。良い機会だと思って、ここらでほんとうの愛とは何か、考えてみるといいわ」
 母親は、そう言った。
 くそばばあだと思った。本当も偽物もない。それならこの世界は本物か、偽物か。あなたたち夫婦の愛は、本物か偽物か。本物というのなら、なぜわたしが幼い頃から、あれほど醜い喧嘩をしてきたのか。
 結局、別れたら生活できないから、いっしょにいるだけなくせに、それがほんとうの愛なんて言っても、誰が信じると思うの。あなたに本物、偽物を語る資格はない。
 直接は言わず、ぷいと席を立ち、自分の部屋にこもって、罵倒した。
 お説教はまっぴら。わたしはただ、彼を取りもどしてほしかった。彼が戻ってくれば、すべては解決する。それをわかってくれて、彼を連れてきてほしいだけなのに、誰もそうしてはくれなかった。
 部屋にこもって泣きつづけた。食事も睡眠も取らず、暗い部屋にうずくまって泣きつづけた。
 両親は心配した。否、本当のことを言えば、心配する振りをした。年頃の娘が引きこもったとなると、世間体が悪いから何とかしよう、と思ったに過ぎないとわかっていた。
「これじゃ、天の岩戸だ」
 吐き捨てるように扉の外で、父が母に言った言葉が聞こえた。
「それなら……」
 母が言い、衣擦れの音がした。服を脱いだのだ。わたしは馬鹿ではない。彼女が『古事記』の天の岩戸の真似をして、ストリップを始めたとわかった。
 父はそれに乗って、扉一枚隔てたところに年頃の娘がいるというのに、母にのし掛かり腰を使った。廊下の埃を、尻や背中や振り乱す髪でモップのように集めながら、母はすすり泣いた。
 それが愛。ああ、わかった、あんたら獣ね。どこでもやりたくなったら交わる獣。こんな獣から、なぜわたしのような理知的な娘が生まれたのかわからない。鳶が鷹ならぬ、獣が女神を生んだ。西洋の絵画で観たことがある。美しいヴィーナスが、巨大な貝から生まれる光景を――。
 その瞬間、わたしは一枚の絵になった。馬鹿や獣のごとき連中が、裸で立ち尽くすわたしを観ている。下衆な気持ちで観ているのがわかる。誰もわたしを理解していない。
 そもそも理解できないほど下等な連中なのだから、無理もない。それだけに、わたしの孤独は深い。自分を救ってくれる者が現れないかぎり、わたしは絵の中から抜け出せはしない。
 それは彼だ。彼しかいない。
 なぜ彼は、ここに来ないのだ。ここに来て、わたしを観れば、すぐに自分の間違いに気づく。後悔し、懺悔するだろう。わたしはそれを許す。決してとがめない。むしろ真実に気づいた彼を賞賛し、前以上に彼を愛そう、彼に尽くそう。
 ところが彼は現れなかった。わたしはとらえられたままカンバスと化した自室から抜け出せなくなった。いつしかそれが運命かと思うようにもなった。名画の中のヴィーナスが、永遠に孤独のまま我が身を晒しているのと同じだ。わたしは名画に隠された美しさの謎が、限りない孤独だと知った。
 誰が現れようと、わたしの心に映らない。何も心まで入らず、ただ目の前を過ぎていく。ところが奇跡は起きた。レンズで集めた光を注ぐように、わたしを観ている者がいる。それは昨日今日現れたものではない。ずっとずっと前から、わたしに注がれていた。空気や水と同じだ。あまりに当たり前すぎて、気がつかなかった。
 空気や水と同じ? それなら――。
 わたしは心と外界を隔てた貝の殻を、岩戸を、わずかに開いて覗き見た。そこに〈彼〉がいた。
〈彼〉と言っても、彼ではない。別の〈彼〉だ。その〈彼〉は、わたしが見返したことに気づき、愛らしい笑みを浮かべた。そして言ったのだ。
「今日から、ぼくが君の神になる」
 そのとたん、貝殻は粉砕した。岩戸もはじけ飛んだ。わたしは立ち上がり〈彼〉を手に取った。埃だらけだった。色褪せてもいたし、破れてもいた、染みも虫食いの痕もある。だがそれでも〈彼〉は〈彼〉だった。
「あなたが、わたしの神様?」
「忘れたの。約束したじゃない」
「約束……」
 わたしは心の暗い海にダイビングした。どんどん潜っていって〈彼〉との約束を探した。何も見えない闇の中に輝きがあった。無我夢中で近づき、そこにたどり着いた。そこに幼いわたしが〈彼〉と交わした約束があった。

 ――いつまでもいっしょだよ。
〈彼〉はいつもの笑顔のまま、答えなかった。
 ――どうして黙っているの?
〈彼〉は言った。ありがとう、うれしいよ。でもいつか君も大人になるから。
 ――大人になっても、ずっといっしょだよ。
 ほんとうに?
 ――うん。だってあなたはわたしの神様だもの。
 ありがとう。その言葉で、ぼくは君の神様になれた。
 ――約束だよ。ずっといっしょにいて、わたしを見守っていてね。
 もちろんさ。

 わたしがとうの昔に忘れていた約束を〈彼〉は覚えていた。それだけではない。ずっとわたしのことを見守ってくれていたのだ。
「ありがとう」
 わたしは〈彼〉を抱きしめた。そして詫びた。長い間、放置していたことを。
「とんでもない。君は、ぼくとの約束を守ってくれた」
「でも……」
「ぼくを捨てずに、ずっとここに置いてくれたじゃない」
「捨てられるわけがない。あなたは子供の頃、わたしのすべてだったんだもの」
 人見知りが激しくて、なかなか友人ができなかったわたしは、いつも〈彼〉と遊んでいた。〈彼〉がすべてだった。
 そう〈彼〉は、わたしを捨てない。わたしも〈彼〉を捨てない。わたしたちは永遠にいっしょ。そして今〈彼〉は、わたしの神になってくれた。いや、ずっと神だったのだ……。
「何でも、できるよ」
「ほんと?」
「ほんとうさ。だってぼくは神様なんだから」
「そうね。それなら……」
「わかってる」
〈彼〉は肯いた。そして行動してくれた。わたしにとって〈彼〉は一人でいい。わたしはかつて友人だと思っていた馬鹿な女の言葉を思いだし、いかにあの女が馬鹿かを再確認した。
 元彼? 〈彼〉に元も今もない。〈彼〉は〈彼〉だけだ。

◇ ◇

 部屋の扉ごしに母が言った。
「警察の方が見えてるの。あなたに話を聞きたいって」
 わたしは〈彼〉に訊ねた。どうしよう?
「だいじょうぶ。君はぼくが守るから。ぼくが話すから」
「そんなことできるの?」
「できるさ。だってぼくは君の……」
「そうね」
 わたしは部屋を出て、応接間で見知らぬ男たちと対峙した。男は写真をわたしに見せた。そこに映っていたのは、魅力の欠けらもない貧相な男だった。
「知ってますね。××××さん。一昨日、新宿で何者かに刺されて」
「しかし、娘はずっと家に……」
「あなたに似た人を見かけたという証言がありまして」
「人違いですわ。娘はずっと、この調子ですから」
「通院されてるんですか?」
「ええ」
「それで具合のほうは?」
「娘は外しても?」
 母に言われ、男たちは顔を見合わせ、肯いた。わたしは部屋に戻った。わたしは子供のようにはしゃいだ。すごい、すごいよ、ぜんぜん疑われなかった。
「当たり前だよ」
「でも、あなたがやったの?」
「もちろん。とうぜんのことさ。天罰だよ」
「天罰か」
 わたしはその言葉にしびれた。そう、天罰だ。とうせんの報いだ。
「ねえ、ほかにも……」
「わかってる」

◇ ◇

 こうして馬鹿な女たちは天罰を受けた。わたしの両親も天罰を受けた。仕方ないことだと思う。獣のように交わった罰だ。
「まさか、ご両親がそんなことをするわけがないだろう」
 男が言った。
「知らないんですか。獣は、それが大好きなんです」
「いや、そういう意味じゃなく、君の部屋の前でという意味だよ」
 わたしは無視した。愚問だからだ。場所などどこでも良い。あの二人が交わったのは真実なのだから。
 それでもときどき、わたしは不安になる。天罰を受けた連中が、夜の闇に乗じてわたしを責めようとしてくるからだ。
「だいじょうぶ、ぼくがいるから」
〈彼〉はわたしを守ってくれる。だからどこに行っても〈彼〉といっしょだ。〈彼〉をわたしから離そうとする輩には、徹底抗戦した。そしてわたしは勝利した。
「たかがぬいぐるみですから。これで被疑者が落ち着くなら」
 時間の経過は気にならなかった。〈彼〉がわたしを見守ってくれていた時期よりも、短いうちにすべてが解決した。そうしてわたしは〈彼〉との生活を手に入れた。
 思い残すこともない。やせ衰えた身体を捨てて〈彼〉と一体化したかった。そうしなかったのは、わたしが死ねば、馬鹿な輩どもは〈彼〉をも、わたしといっしょに始末してしまうとわかっていたからだ。だから……。
 今日もわたしは〈彼〉といっしょにいる。
「いい歳こいて、ガキじゃあるまいし。そんな小汚いカエルのぬいぐるみなんか、捨てちまえ」
「××さん。よけいなこと言わないで」
 男は看護師に付き添われて、消えていった。わたしは〈彼〉に訊ねた。
「どうする?」
「君の好きなようにしたら」
「それじゃ天罰ね。だって神様を馬鹿にしたんだから」
 わたしは〈彼〉と顔を見合わせた。その愛らしい顔に釣られて笑った。

(了)

飯野文彦プロフィール


飯野文彦既刊
『飯野文彦劇場
 女郎蜘蛛』