(PDFバージョン:itosinosnowwhite_aokikazu)
「下がってよい」
王子様が言うと、心得た小姓は黙って一礼し、静かに扉を閉めて出ていきました。
扉の外は控えの間で、王子様の寝室を警護する家来たちが夜通し詰めていますが、一度扉を閉めてしまえば、王子様が中からベルを鳴らして呼ばない限り開けられることはありません。
ようやく一人になった王子様はほっと溜息をつくと、ベッドを滑り降り、ガウンをまといました。燭台を手に、壁のタペストリーに向かいます。
王子様の部屋には、金糸を織り込んだ豪華なタペストリーが二枚かかっていました。分厚い毛織物であるタペストリーの目的は、もちろん石壁の冷たさから部屋を守るためもありますが、もう一つには扉を隠すためでもあります。
王子様の部屋には、家来たちの控えの間に通じる、いわば表の扉のほかに、もう二枚の扉がありました。
狩りの風景を描いたタペストリーの裏にある扉は、お姫様の部屋に通じています。姫とは言いますが、つい先ごろ王子様が妻に迎えられた、未来のお妃様です。まだ十六歳とたいそうお若いため、姫様と呼ばれているのです。
王子様は狩りの風景のタペストリーをほんの少しの間見つめていましたが、すぐに視線をそらせてしまいました。もう何日も、王子様はお姫様の部屋に通じる扉を開けていません。それは王子としての義務をないがしろにすることであり、よくないことです。しかし、王子様はどうしても、お姫様を避けてしまうのでした。お姫様も、そろそろ不審に思い始めているかもしれません。
お姫様は、隣国の王女様でした。この縁組はどちらの王国にとっても好ましいことでありましたし、人形のように愛らしい王女と、若く溌剌とした王子との組み合わせは、誠に理想的に見えたものです。王子様は王女のことは何も知りませんでしたが、そもそも王族の結婚とはそうしたものです。夫として誠実に妻を愛そうと心に決めていたのです。
(ああ、こんなはずではなかったのに)
王子様は深く嘆息すると、狩りのタペストリーに背を向け、もう一枚の──ユニコーンを描いたタペストリーをめくりあげました。
そちらの扉はとても小さく、高さはやっと王子様の背丈ほどしかありませんでした。彫刻も装飾も何もないただの樫の一枚板で、取っ手も鉄製の簡素なものです。
王子様は首に紐で吊した鍵を取り出し、扉を開けました。
中は真っ暗ですが、壁のところどころに燭台が取り付けてあります。王子様がそれに火を移すと、足下に狭く急な階段が現れました。
階段は暗闇の中を下へ向かっています。冷たく湿った空気がさあっと吹き上がってきて、王子様は身震いしました。
ガウンだけでは寒いようです。王子様は分厚い外套をさらにはおると、階段を下り始めました。もちろん、入り口の扉はしっかりと閉じていきます。
この先にあるもののことは、王子様の身近に仕えるごく少数の者たちしか知りませんでした。鍵も王子様だけが持っています。
絶対に信頼の置ける者以外に、ここのことは知られてはなりません。ことにお姫様には、絶対に。それは、お姫様が王子様の妻だからばかりではなく──。
お姫様は、つややかな緑の黒髪に雪のように白い肌をしています。頬はほんのりばら色で、その清楚な美しさは誰とても愛さずにはいられません。王子様も、一目見たときからお姫様に心を奪われました。しかしその愛らしさも清らかさも、何もかも上辺だけのものでしかないのです。
もっとも、お姫様にも同情すべきところはあるかもしれません。
お姫様の実母である隣国の王妃様は、ずいぶん昔に亡くなりました。そのあと隣国の王様は新たな王妃様を迎えることはありませんでしたが、愛妾をひとり置かれました。小貴族の令嬢だということですが、養女ですので本当の出自は分かりません。卑しい身分の娘を宮廷に入れるために名目上だけ貴族の養女にするのは、よくあることです。
さてその愛妾ですが、こちらも王様の心を射止めただけあって、豊かなブロンドの髪をしたたいそう美しい女性でした。宮廷中に華やかな雰囲気をふりまく様はお姫様とは対照的でしたが、二人の年は七つほどしかかわらず、どちらが美しいかという話は貴族や国民たちのもっぱらの話題であったと聞きます。
とはいえそこは愛妾、お姫様には一歩譲って決して奢った態度は見せず、表向き二人はとても仲良しに見えたそうです。
しかし水面下では、二人の美しい女の間に何かがあったのでしょうか。
ある時、お姫様が何者かに命を狙われるという事件が起こりました。お姫様の櫛に毒が塗ってあったのです。たまたま侍女が櫛の歯を手に刺してしまったためお姫様は無事でしたが、侍女の死を見てお姫様はすっかり怖がってしまい、静養のため別荘へ移られることになりました。しかしその移動先でまたもや命を狙われることになったのです。お姫様のために届けられた果物に毒が盛られていたのです。
幸い、森の放浪民たちのおかげで、お姫様は命を取り留めました。放浪民は見かけはフリークスや物乞い同然ですが、思いもかけない医術を持っていたりもするのです。
王は愛娘を亡き者にしようとした犯人をなんとしても探しだし厳罰に処すよう命じました。その調べの詳しいいきさつは省きましょう。結局お姫様を狙った犯人は王の愛妾でありました。お姫様の美しさを妬んでの犯行だということです。
隣国の王は、愛妾を追放処分にいたしました。本来なら死刑もやむなしの重罪ですが、さすがに一度は愛した女性、情けをかけられたのでしょう。
そして様々ないきさつを経て、お姫様は王子様と縁組みされることになりました。
追放された愛妾の行方はしばらく分かりませんでしたが、やがて王子様の国へ流れてきて森の外れで薬草を商って暮らしているということが判明します。もちろん、売っていたのが薬だけでないことは想像に難くありません。
かつては宮廷で妍を競った相手の、その凋落ぶりを聞いたお姫様は、元愛妾を城下に迎えようと王子様に言いました。
王子様はそれを聞き、お姫様が元愛妾を哀れまれたのだと思いました。一度は自分を殺そうとした相手にも情けをかける優しさに打たれました。
しかし王子様はお姫様を見誤っていたのです。
元愛妾が薬草を商っていたことを理由に、お姫様は彼女を魔女として告発いたしました。
魔女と認められればもはや追放ではすみません。そして魔女の処刑は、焼けた鉄の靴を履かせるという残酷なものです。お姫様の目的はまさにそれだったのです。
いくら魔女とはいえ、処刑の様子は酸鼻を極めるありさまです。罪人は足を焼かれ、しかしそれだけではすぐに死ぬことはできず、苦しみもだえながら延々とのたうち回り続けるのです。
王子様の国では、ほどほどのところで罪人に矢を射かけ絶命させてやるのが習わしになっていましたが、お姫様はそれを許しませんでした。元愛妾が苦痛のあまり悪鬼のような形相になり、この世のものとも思えぬ悲鳴を上げ続けるさまを、お姫様は目を輝かせ、頬には極上の笑みさえ浮かべて眺めていました。すぐ隣に座っていた王子様は、それを間近に見てしまったのです。
(恐ろしい女だ)
王子様は思い出すたびに身震いします。
(たとえ自分を殺そうとした相手でも、あんなものを笑って見ていられるとは)
婚礼の後も、王子様はお姫様の侍女の扱いに時折、疑問を持つことがなかったわけではありません。しかしあの処刑以来、いまや確信に変わりました。
(殺されかけた恨みのためではない。あれは姫の性質だ)
王子様は考えます。
(櫛)
お姫様が最初に狙われたとき、毒が塗られていたという櫛。確かに毒はお姫様を狙う誰かが塗ったものでしょう。しかし
(いったいどうやれば、櫛を手に刺すことなどできるのだ。誰かに突き立てられないかぎり──)
ああ、と王子様は嘆息し、頭を抱えます。
(私はあの姫と一生ともに過ごさねばならないのか。王国のためとはいえ)
ほどなく階段は終わりになり、突き当たりにさらなる扉が見えてきました。
この扉も分厚い樫の一枚板で、上にあったものと同じように飾りはありません。王子様は外套の襟をかき合わせると、鍵を回し、扉を開きました。
内部は凍えるばかりの寒さです。しかし明かりをつけると立派な調度で飾り立てられていることが分かりました。あずまやほどの小さな部屋ですが、まるで宮殿のような豪華な有様です。
王子様は白い息を吐き、それでいながら頬を紅潮させて、いそいそと部屋に足を踏み入れました。
ここは誰にも知られてはならない、王子様の秘密の後宮です。美しく、おとなしく、優しい女たちが大勢王子様を待っているのです。
彼女たちは誰かを妬んだり、弄んだり、ましてや殺したりは決してしません。難を言えば皆が皆かちかちに凍っていることなのですが、そうしなければ彼女らはたちまち醜く腐ってしまうのだから、これは仕方がないでしょう。この凍えるような寒さも我慢しなくてはなりません。
王子様は幼い頃から、生きている女性に興味が持てませんでした。放浪民の元でたまたまお姫様を見かけ、強引に譲り受けようとしたのも、お姫様が死体だったからです。生き返ってしまったのは予想外でした。それでも引き受けた以上は、王国の結びつきという政治的な理由だけでなしに、愛そうと思っていたのです。あのような女でなければ……。
(なぜ目覚めたのだ、姫よ。あのまま、美しい死体のままでおればよかったものを)
王子様は、凍れる女たちのうちの一人に真っ直ぐに歩み寄りました。
彼女はつい最近この後宮にやってきたばかりです。生前は苦悶のせいか恐ろしい風貌でしたが、今はこの世の苦しみから解き放たれ、天女と見まがうばかりに輝いています。
まるで金箔をほぐしたようなブロンド、青ざめた透き通るような白い肌。王子様が贈った青いドレスがとてもよく似合います。
白雪の呼び名は彼女にこそふさわしいでしょう。
女は足首から先が真っ黒に焼けただれ、一部では骨がのぞいていましたが、それがかえって哀れを誘いました。
いったいなぜこの女は、あれほど何度もお姫様を除こうとしたのでしょう。
王子様は思います。
お姫様と仲良くしていたというこの女。もしかしたらこの女は、この世でたった一人、お姫様の本性に気づいていたのかもしれません。殺そうとしたのも、お姫様を恐れたからではないでしょうか。
(だが、あなたはあの姫を相手どるには優しすぎたのだ、おそらく)
王子様は女を見るたび、胸が締めつけられる思いがします。そして夜ごと後宮を訪れ、冷たく青ざめた彼女を胸に抱きしめては愛しげに口づけを繰り返すのでした。
(私が守ってあげる。今度こそ永遠に──)
〈了〉
青木和既刊
『くもの厄介8
白粉婆』