「場末の小さな嵐ヶ丘」木本雅彦


(PDFバージョン:basuenotiisana_kimotomasahiko
 このメタヴァースが、何世代目のメタヴァースなのか、もはや住人たちは把握していない。バージョン管理システムの記録を遡れば、どこでブランチが作られ、どこでタグが作られ、どこでフォークし、どこのバージョンがデプロイされたのか、解析することは可能なのだろうが、日常と区別のつかなくなった仮想現実空間に多少のテコ入れがされたところで、住人は気にとめない。
 人類は、実世界をほぼ捨てた。完全にではない。摂食行為と繁殖行為、それにともなう物理的移動などは、実世界から離れられないが、逆を言えば、実世界は食事とセックスのためだけを目的として、社会システムそのものが作り直され、経済活動をはじめとした諸々の創造的な活動は、すべて仮想現実空間メタヴァースで行われるようになった。
 そんな広大なメタヴァースの片隅に、小さな店がある。
 その店の名前は「嵐ヶ丘」――ネカマバーであった。
 ネカマバーとは、ネカマのバーである。ママはネカマ、店の女の子もネカマ。影を抱えながらも笑うことを忘れない、そんな陽気なネカマとの会話を楽しむための、大人の社交場である。
 店の営業も終わった時間、カウンターの中ではママである「厳剛★ Lv99」が、静かにグラスを磨いていた。対するカウンターには、ネカマの「疾風のマサ@ボカロ厨」が、ウイスキーを飲んでいる。メタヴァースでの飲食が栄養になることはないが、感覚というものは大切だし、メンタルへの刺激にはなるため娯楽のひとつではある。
 マサはかつてこの店で働いていた。客のひとりに気に入られ、出資を受けて独立したのだが、時折この店にやって来ては、ママであるゲンゴウと昔話を楽しむのだ。
 マサがぽつりと言った。
「そういえば、コージくんが結婚したわね……」
 ゲンゴウが答える。
「ええ、マキちゃんとね」
「コージくん、よくこの店に来ていたわよね」
「そうね……。あの子が車椅子から立ち上がれるようになった頃から、来ていたわ」
「私てっきり、コージくんはゲンゴウ姉さん狙いなのかと思ってたわ」
「いやだわ、マサちゃん。そんなこと言われたら、うぬぼれちゃうじゃない。私がコージくんの特別な存在みたいな……。でも、あの子は、ノンケよ」
「でも、シンゴくんと付き合っているっていう噂もあったじゃない」
「シンゴくんとはね……恋人なんかとは違うと思うのよね。『愛』ではあると思うの。『愛』……コージくんの愛は広いからね」
「彼は、そうよね、なんていうか……ウイ・アー・ザ・ワールドって感じ」
「サライね」
「そう、サライ・オブ・ジョイトイね」
「そんな広大なコージくんの愛の中で、シンゴくんは特別だったわね。きっとその『特別』の中に、マキちゃんも入ってしまったのね」
「だけど、よくマキちゃんを口説き落としたわよね。あの娘、相当堅物らしいじゃない」
「それがねえ、聞いた話によると、電子メールを四〇通も送ったらしいのよ」
「電子メール! 今時! スキャッチュじゃなくて、電子メール!」
「しかも、手打ちだって」
「手打ち! マインドセンスじゃなくて、手打ちって、タイピングしたってこと?」
「そうよ、フィジカル・フィンガーでタイピングよ。P! F! T! ってことね」
「それはマキちゃんも、感動するわよね。相当プッシュしたんでしょうね」
「それなんだけど……、おそらく、違うような気がするわ」
「どういうこと、姉さん?」
「コージくんはね、多分、電子メールを送ったあと、放置だったと思うのよ」
「放置? マキちゃんを?」
「放置っていうか、いつも通り? あの坊やならやりそうじゃない? 特別な電子メールを送っているのに、メタヴァースではいつも通りの態度なわけよ」
「ああ! そういうこと! マキちゃんのほうは、電子メールなんて古典的なものを受け取って、『あれ、どうしてスキャッチュでもなければ、ピョルボでもないんだろう。電子メールってことは、きっと深い意味があるんだろうけれど、この人の態度はいつもと一緒。この人は何を考えているだろう……』って思う」
「そう! それよ! マサちゃん、理解したわね。コージくんが普通の態度をとればとるほど、マキちゃんは気になるってわけ」
「姉さん……読みが深いわぁ。伊達にネカマやってないわね」
「ネカマはね、男の気持ちも女の気持ちも分かるものよ。だいたい、メタヴァースのジェンダーって、ブーリアンじゃなくてスカラ値だから」
「問題はそこよね。『攻×受』とか書いても、そもそも多値論理の積演算を定義するところからしないといけない」
「しかも『攻×受』は、非可換だものね」
「ほんと、メタヴァースってややこしい世界になったわよね。特に私たちみたいなネカマにとっては」
「まったくよ……」
 ふたりは同時にためいきをついた。
 ふと、ゲンゴウは、空になったマサのグラスに気付く。
「何か飲む? おかわりは?」
「そうね、じゃあ姉さんお薦めのプラセンタを、ワンフィンガーで」
「ワンフィンガーで」
 マサの前にグラスが置かれた。角の立った氷が、からりと乾いた音を立てる。
「話を戻しましょうよ。マキちゃんのこと。姉さんは、マキちゃんがコージくんのテクニックに落ちたようなこと言っていたけれど、私は逆な気がするの」
「あら? いいわ……聞こうじゃないの」
「私はね、姉さん。全部マキちゃんの計算通りだっていう可能性を疑っているわ」
「そんなタイプの娘じゃないと思うけどね」
「だけど頭はいい」
「そうね」
「コージくんを陥れるようなことはしていないだろうし、もしかすると無意識なのかもしれないけれど」
「他の男子には興味ないのに、コージくんだけは特別っていうの、確かに不思議ね」
「それがね、姉さん、マキちゃんがこれまで公言している好みの男性のタイプを全部合わせると、どう考えてもコージくんなのよ」
「あらあら。まるで相思相愛じゃない」
「そうだと思うわよ。周囲は色々言っているけれど、実は相思相愛なんだと思う」
 ふたたび空になったマサのグラスを見て、ゲンゴウはおかわりを促した。
「そうね、今度は、姉さんお薦めのエストロゲンをワンフィンガーで」
「ワンフィンガーで」
 新しいグラスに口をつけたマサは、話題を次に移した。
「マキちゃん、幸せそうよね」
「そう思うわ。あちこちで目撃ショットがシェアされているけれど、本当に幸せそう。だって、マキちゃんってほとんど家にひきこもっているような娘だったのに、コージくんとあちこち出掛けていってそれで目撃されているわけでしょう? 多分彼女、これまで男の人と出歩くことなんて、なかったと思うのよね」
「そうね。きっと、結婚ってこんなに楽しいんだって思っているはず。だから……姉さん、ううん、コージくんパパ……ありがとう」
「堅苦しいことはやめましょうよ、親戚になったんだから。マサ……ううん、マキちゃんパパ、こちらこそ、よろしくね」
 グラスの氷が、からんと鳴った。
 ここは「嵐ヶ丘」、メタヴァースのネカマバー。ママもネカマなら、訪れる人もネカマ。
 日々ネカマ仲間の陽気な会話が飛び交う場所。
 だけど時々、彼らのうちの何人かは、父であることを思い出す。
 それもまた、ネカマバーのささやかな刺激というものだ。

(了)

木本雅彦プロフィール


木本雅彦既刊
『永眠童話
―空想世界とオモチャの心臓―』