「夜の迷走」青木和

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 〈鳴木(なるき)峠アト20㎞  右10m先巻道アリ〉

 峠の手前で街道をはずれ、巻道に入ったあたりで急に空模様が変化した。ただでさえ薄い星の明かりが雲に覆い隠され、瞬く間に闇夜に変わる。
 誰も聞く者がないのをいいことに、俺は盛大に舌打ちした。
 どうしてもっと早く、町にいる間に曇ってくれないんだ。誰にも見られる恐れがなくなって、これから明かりが必要だって時に暗くなるなんて、意地が悪すぎるぞ。
 だが俺の都合など知ったことじゃないと言わんばかりに、天候はますます怪しくなってくる。フロントガラスに雨の雫が落ちてくるまでに、長い時間はかからなかった。
 巻道というのは、尾根を越えずに山腹を水平に縫って反対側に出る、いわば抜け道だ。登って降りる行程がないので勾配は緩いが距離は長くなる。遠回りになるのを嫌ってか、歩行者はもちろん車ですらほとんど通らない。今夜俺がその寂れた道を通ることにしたのはだからこそなのだが、雑木林の間をうねうねと曲がりくねって伸びる道は、前も後ろも途方に暮れるほど濃厚な闇に包まれていた。
「くそっ」
 霧雨はライトを受けて、俺を嘲笑うようにきらきらと光る。
 日が暮れる前に聞いた天気予報では、雨が降るなんて一言も言っていなかった。おそらくただの通り雨だ。すぐに止む。
 そう思ってしばらく走り続けたが、雨はいっこうに上がってこなかった。慣れない山道に雨の闇夜は厳しい。まして今夜は、たとえ脱輪一つでも絶対に起こすわけにはいかないのだ。
 どれほども走っていないのに、ハンドルを握る手にじっとりと汗がにじんできた。
 俺は、祖母の家にぐずぐずと留まっていたことを後悔した。祖母がなんと言おうと、さっさと発てばよかった。そうすればこんなことにはならなかったのだ。
 ――泊まっておいき。今夜は春の最初の新月だからね。
 俺を引き留めた祖母の言葉が耳に甦る。
 ――なるべく出歩かない方がいいし、ましてや暗くなってから山に入っちゃいけないんだよ。それはね、今日は山の神様が一年に一度目を覚ます日で……
 そのあともいろいろ言っていたが、そのあたりは忘れた。俺が祖母のところに留まっていたのは、そんなくだらない脅しに怯んだからではない。
 やれお化けだ神様だとおかしな言い伝えを持ち出してくるのは、昔から祖母のよく使う手だった。大真面目な顔で脅かしては、あれに触れるな、どこそこへ行くな、と俺の行動を制限するのだ。
 祟りがあるよ、と真剣に言われては、訳が分からないまでも言う通りにせざるを得なかった――子供の頃は。しかし俺ももういい大人だ。あまりに頻繁に聞かされたので慣れっこになってしまったというのもある。
 祖母は、本当は自分が寂しいのだろう。だから俺に帰らないでくれと頼みたいのだが、恥ずかしいんだか気位が邪魔しているんだか、素直にそう言えないに違いない。ガキの頃と同じように脅かして言うことを聞かせようなんて、まったく可愛げがない。
 そう思ったが口に出しては言わず、今夜は泊まることにした。俺には俺の目的があった。一晩じっくり時間をかければ、祖母を言いくるめられると思ったからだ。
(それが、なんでこんなことに……)
 俺はいったい何度目になるのか分からない悪態をつきながら、ライトの中に次々と現れては過ぎるカーブに目を凝らした。
(俺のせいじゃないぞ。みんなばばあが悪いんだ)

 祖母の家のある町――町というより村と呼んだ方がしっくりくる、山の中の小さな町――は、いったいいつの時代に迷い込んだのかと思うような寂れたど田舎だった。僻地にあるからというわけじゃない。峠越えの古い街道が町のすぐそばを通っており、東京からだって一般道を車で二時間少々しかかからない。
 にも関わらず、雨戸が閉まったきりの家は来るたびに増えた。住んでいる人間がどのくらいいるのか知らないが、こちらから探さないかぎり滅多なことでは道で出会うことすらない。田畑の半分は見捨てられて荒れ地になっているし、商店といえばよろず屋に床屋、埃をかぶった流行遅れの商品を並べた洋品店が一つ――それでさえ、店主の気分次第で開いたり閉まったりしている。
 田舎では珍しいことではないのかもしれないが、都心育ちの俺などは来るたびに気が滅入った。ましてや滞在するとなれば尚のことだ。
 もっともこんな町でも、開けるチャンスがなかったわけではない。俺はまだ小さかったので詳しいいきさつは知らないが、鳴木峠の近くに温泉が出るとかで、二十何年か前にはゴルフ場つきのリゾート施設をこしらえるという話もあったのだ。もちろんバブル時代に建てられたその手の施設が後にどうなったかは周知の事実だが、それでももしできていたらこの町も今よりもう少し賑やかだったに違いない。
 開発話が頓挫したのは、一つには俺の祖母のせいだ。
 リゾート施設の建設予定地は、ちょうど祖母の家の所有地だった。時代が時代だったし、デベロッパーからは土地の買い取り価格として今となっては考えられないような金額が提示されたらしい。しかし祖母は頑として売却に応じなかった。その理由が「勝手に木を切ったりしたら山の神様がお怒りになる」だというから、祖母らしくはあるがまったく呆れる。そして驚いたことに、町の住人の中にも祖母に賛同する奴らが結構いて、施設の建設そのものに反対したらしい。信じがたい話だ。
 そんなこんなで交渉が難航しているうちにバブルがはじけた。開発話は白紙に戻り、土地の価値は再び二束三文になった。デベロッパー本体もほどなく潰れたと聞いている。
 怪しげな迷信にこだわらずにさっさと土地を売っていれば、いったいどれほどの金が手に入ったことか。
 祖母が息子と――俺の親父だが、決定的に仲悪くなったのも、どうやらこの一件が原因らしい。東京で貿易会社なぞ経営している俺の親父としては、祖母の古くささと頑固さに愛想を尽かしたんだろう。その点に関してだけは、俺も親父とまったく同意見だ。
 その後、俺が知っているかぎり親父がこの町に足を踏み入れたことは一度もない。モデル出身でブランド物と海外旅行とホテルの豪華なランチが大好きなおふくろに至ってはなおさらだ。それでも年寄りを一人でほったらかしにするのはさすがに気が咎めたのか、両親は当時小学生だった俺に自分たちの代役を押しつけた。大人というのは勝手なものだ。何でも好きなものを買ってやるという条件と引き替えに、毎年盆の一週間を祖母の家に滞在することが勝手に決められてしまった。
 俺はその毎夏の行事が、苦痛で仕方がなかった。祖母の家は百年も前に建てられた重厚な木造民家で、迷路のような構造のあちこちに得体の知れない暗がりがあった。襖を開け放つと延々と無人の座敷が続くのも気味が悪かった。その上、祖母は何かというと「祟りがあるよ」と来る。気晴らしに家の外で遊ぼうにも、町には同年代の子供がいなかった。これで楽しかったら、異常だ。
 たった一つだけ、いいこともあった。祖母のくれる小遣いだ。
 俺はこの町が嫌いだったし、祖母が好きというわけでもなかった。滅多に会わないから話もない。いつも仏頂面をしている孫の機嫌をとりたかったのか、祖母は俺に欲しいだけの小遣いをくれた。苦痛の一週間を耐え抜けば、万の単位の金を手にすることができた。十歳やそこらの頃からだ。
 高校生になると、俺は祖母のくれる小遣いでよく友人たちに奢ってやった。毎晩のようにカラオケに行き、クラブに行き、女の子を誘って酒を飲んだ。渋谷あたりにたむろしている外国人から怪しい薬を買って、みんなでトリップしたこともある。
 ばかばかしかったが、それなりに楽しんだ。退屈はしなかった。
 だが、それも今は昔だ。
 あまり大声で自慢できるわけでもない大学を何とかかんとか卒業して、俺は親父のつてである商社に就職した。親父の会社に入らなかったのは、数年は外で武者修行をさせたいという親父の方針のせいだが、まったく大きなお世話だ。やる気が起こらなかったので、最初の会社はその数年を待たずに辞めた。安い給料のために身を削るのがばかばかしくなったのだ。しばらく遊んでからまた別の仕事に就いたが、そこも一年あまりで辞めた。今度は上司がいけ好かなかったのだ。
 そんなことを繰り返してそろそろ十年になるが、実際働いていた期間は半分くらいだろう。しかし無職の間でも惨めな思いはしなかった。田舎に一人きりで閉じこもっている祖母を時々訪ねちょっと優しい言葉をかけてやるだけで、とりあえずの遊び金なら手に入ったからだ。
 だが、三か月前に六つ目の仕事を辞めたあたりで、俺は祖母の様子が変わってきたことに気がついた。
 表向きの態度は同じだ。俺が訪ねるとにこにこと笑って迎えてはくれるが、出てくるのは飯だけになった。手のかかったご馳走だったが、東京にいればもっと旨いものはいくらでも食えるのだ。
 俺が欲しいのは金だ。車は買い換えたばかりだし、カードローンの借入額ももう目一杯なんだから。

「ちくしょう」
 俺は再び毒づく。
 今夜、久しぶりに俺は祖母から金を得ることに成功した。俺の上着のポケットには、仏壇に隠してあった百万ばかりの金が納まっている。だがもっと厄介なものも、車のトランクに納まっていた。
 祖母の死体だ。
 昼間、金の無心に失敗した俺は、晩飯の後でもう一度祖母に金を都合してくれるように頼んでみた。もちろん、子供の頃の思い出を語ったり、いずれ一緒に住みたいなどと言って可愛い孫らしさをさんざんアピールした後でだ。
 だが、祖母は騙されてはくれなかった。それどころか、仕事を続けろの分相応の暮らしをしろだの、かつて口にしたこともない説教を始めたのだ。祖母が俺の普段の生活を知っているわけがない。親父の差し金だと気がついた。
 俺は頭にきた。祖母も両親も、どちらに対してもだ。今まで自分たちの都合で勝手に仲違いをしたあげくさんざん俺を利用してきたくせに、今度は掌を返したように共闘して俺を抑えつける気だ。
 頭に血が上った後のことは、ほとんど記憶にない。おそらく売り言葉に買い言葉で予想以上の罵り合いになったんだろう。気がついたら祖母は目をむいて床に倒れていた。
 祖母を殺したときの感触が手の中に生々しく甦ってきた。俺が振り下ろした花瓶の下で頭蓋骨がぐしゃりと砕けた音や、トランクに押し込むために持ち上げたときのやたらと重たかったことや何やらだ。
 俺は悲鳴を上げ、浮かんできたイメージを振り払うために激しくかぶりを振った。
(俺のせいじゃない。殺すつもりなんかなかったんだ!)
 そのときだった。
 車がカーブを曲がりヘッドライトが道端の標識を照らし出した瞬間、まるで雑木林から湧き出したように、薄汚れた男が姿を現したのだ。

 俺はとっさにブレーキを踏んだ。車はけたたましい音をたてて停まり、冷や汗がどっと全身に吹き出す。
(やっちまったか……!)
 喉から飛び出してきそうな心臓の鼓動を飲み下しながら、俺はおろおろと前方を見渡した。トランクにすでに死体を一つ積んでいながら今更事故の心配でもないのだが、ドライバーの条件反射のようなものだ。
 幸い当たりはしなかったらしく、男は俺の車のバンパーすれすれの位置に、二本の足で立っていた。ほっとすると同時に、怒りがこみ上げてきた。何だっていきなり飛び出したりするんだ。しかも轢かれそうになっておきながらまだぼんやり突っ立っているなんて。
「ばかやろう!」
 俺は窓を開けて男を怒鳴りつけたが、最後の「う」の音が喉から漏れたとたんに後悔した。わざわざ相手の注意を引いてどうする。俺という奴は、いったい自分の今の状況が分かっているのか。
 男はよほど驚いていたのか穴が開きそうなほど俺の方を見つめていたが、突然わああ、という声をあげ両手を振り回しながら駆け寄ってきた。
「助かった。助かった。よく来てくれました。これでやっと帰れます。すまないけど乗せていってもらえませんか。すぐそこまででいいから」
 俺は返事に困った。俺の車には死体が積んである。今からそれを山のどこかに隠しに行くところなのだ。他人を拾っているような場合じゃない。
 男はもちろんそんな事情を知らない。俺がためらっているのを、用心しているせいと解釈したようだった。
「心配しなくていいよ。――といってもこの格好じゃ信用してもらえないかな」
 男は自分の服装を見下ろし、申し訳程度に手ではたいて見せた。ずぶ濡れであることを差し引いてもひどい格好だった。年齢は四十歳くらいだろうか、それほど年寄りでもないのに、えらくセンスの悪いスーツを着ていた。形が悪いだけならまだしもよれよれで染みだらけだ。茶色い染みは泥、緑色っぽいのは植物の汁だろう。
「仕事で峠の向こうの町まで行ったんだけど、帰る途中で道に迷ってね。日は暮れるし雨は降り出すし、おまけにガス欠ときた。焦ってうろうろしているうちに転んだのさ。汚れていて悪いけど、降りるときにちゃんとシートの掃除はするから。頼むよ」
「ガス欠?」
 俺は男の背後に視線を投げた。ライトの光芒の中には車らしきものは見あたらない。男は俺の視線の意味を感じ取ったのか、
「ぼくの車はこの道のずっと先にあるよ。車を諦めて降りたはいいが、うっかり逆に歩いてしまったんだな。これじゃ鳴木の町に戻る方角だ」
 男は苦笑しながら、道端の標識をぽんぽんと叩く。それは先ほど巻道に入るときに見たのと同じ形のもので、鳴木の町まで一〇キロメートルと記されていた。
「あんた、鳴木へ行ったのか」
「ああ。仕事でもう何度も行ってる」
 鳴木というのは峠の名前でもあるが、祖母の町の名でもあった。この男が今日鳴木に来ていたというなら、俺の姿か車かを町中で見たかもしれない。
 そう思うと、腹の底が冷たくなった。
 祖母の言っていた通り、今日はただでさえ少ない町の住人が家の中に閉じこもる日だった。だから住人に俺の姿を見られていないという点には自信がある。
 そして祖母の家は、血の一滴も残さないようにきれいに片づけてきた。明日になって誰かが主の不在に気づいても、すぐさま怪しまれることはない。しかしもしこの男が俺を目撃していたらどうだろう。老婆の失踪とその孫の来訪を結びつけて、これは何かあったと考えても不思議はない。町のことを少しは知っているような男の口ぶりがなお気になった。
 この男をこのまま放っておくのは危険だ。
「だめかな。頼むよ」
 俺が黙っていると、男は不安そうな声を出した。
 春とはいえまだ夜は寒い。これから夜更けにかけてどんどん気温も下がるだろうに、今でさえ窓を開けていると歯の根が合わなくなってくるほどだ。ずぶ濡れでうろうろしていれば凍えてどんどん体力を失うだろう。闇の中で道を踏み外して崖から落ちるかもしれない。俺が乗せてやらなければ、この男は今夜中にも死ぬかもしれないのだ。
 俺の頭の中で、突然不穏な考えが身をもたげてきた。この男、どうせ死ぬならついでに俺の役に立ってくれないだろうか。通りすがりのよそ者が、一人暮らしの金持ちの老婆の家に押し入る。いかにもありそうな話じゃないか。 
 男の車はこの先にあるらしい。そこまで行って、この男と祖母の死体をもろともに……。
 喉にせり上がってきた酸っぱい唾を飲み下して、俺は腹を決めた。
 男のためにドアを開けてやった手が震えていたのは、絶対に寒さのせいだ。

「本当に助かったよ」
 エアコンの風に濡れた袖をかざしながら男は言った。湿気とともに、腋臭のような臭いが車内に満ちる。この男、何日前から風呂に入っていないんだろう。おまけに手を動かす度に、袖口から乾いた苔やら枯れ葉やら、細かい木屑やらが床に落ちた。
(くそ。帰ったら消臭と掃除だ)
 俺は露骨に顔をしかめたが、男はまったく気づかない様子で、浮かれた口調で喋りかけてきた。
「それにしても君はどうしてこんな道を走っていたんだい。仕事、とかじゃなさそうだね。ドライブ?」
 大きなお世話だ。俺が黙ったまま横目で一瞥すると、男は相変わらずへらへらしながら、取り繕うような笑みを浮かべた。
「ごめん。気に障ったら答えなくてもいいよ。ただ、君の車が……なんていうか、あんな田舎道を走るのに似つかわしくなかったものだから」
「そうかな」
「もちろんだ。ぼくは車に詳しくないけど、ポルシェくらいは分かる。若いのにリッチだな」
「そんなことないさ。この車だって中古だ」
「中古だって百万や二百万じゃないだろう」
 男の声には微妙に嫉妬が感じられた。羨ましがられているのを感じると心が緩み、俺の口も軽くなった。
「この道を走っていたのは、親戚のところへ行ってたからなんだ。さっきあんたが言っていた町」
 ちょっとしたブラフのつもりだった。もしこの男が俺を見かけていれば、何か反応があるかもしれない。しかし男は「へえ」と言っただけだで、特に変わった様子は見せなかった。
「鳴木のことかい。あそこはいい町だね。昔ながらの町並みや人の心が実にいい」
「無理してお世辞言わなくてもいいよ。どうしようもない田舎町じゃないか。貧相で迷信深くてさ」
「そこがいいんだよ。ぼくは仕事であちこち田舎ばかり回っているけどね。最近はどこへ行っても地方の町はそっくりなんだよね。チェーンのコンビニ、チェーンのレンタルビデオ屋、それにパチンコ屋。没個性で退屈だ」
「そんなものが一軒もない方がよほど退屈だろ」
「実際にそこで暮らしていればそうかもな。ところで迷信といえば、もしかして今日は春の最初の新月だったんじゃないかい。その親戚の人、よく家から出してくれたね」
 祖母が俺を引き留めるときに言っていた話だ。そんな迷信まで知っているとは、この男こそあの町に親戚でもいるんじゃないか。またもや不安が頭をもたげてきた。いよいよ放ってはおけない。
 俺の内心など知らない男は、ますます上機嫌に先を続けた。
「知ってるよね。春の最初の新月は神様が目を覚まして山を歩くから、山に近づいちゃいけないっていう話なんだけど」
「そんなこと言ってたかなあ。よく聞いてなかった」
「驚いたな。昔はあんなにうるさかったのに。このぼくでさえ引き留められたくらいだ。見ず知らずも同然のよそ者なのに、どうしても泊まっていけってね。変わったのかなあ」
「何だ。あんたが鳴木へ行ったっていうの、今日の話じゃないのか?」
 大胆な決意をしたものの、俺はまだ祖母の時のように逆上することなしに人殺しをする自信がなかった。もしこの男が俺の姿を見ていなくて、今後鳴木のことなどすっかり忘れてしまってくれるなら、何も殺すことはない。
「いや、今日だよ」俺の期待に反して、男はかぶりを振った。「鳴木に行ったのも、出てきたのも今日だ。ぼくには」
「……何だって?」
 聞きとがめた俺に、男はただにやにやと笑ってみせた。
「何でもないよ。それよりちゃんと前を見ていないと危ないと思う」
 男は教習所の教官のような手つきで、前方を指さした。
 こいつ、からかっているのか。そう思うと腹の底に少しだけ火がついた。しかしまだまだ殺意には足りない。
 それからしばらく、俺は無言で車を走らせた。雨は豪雨ではないものの小降りになる気配すらなく、男の車も見えてこない。
 時計を見ると、男を拾ってから二十分近くたっていた。よほどちんたら走っていたらしい。俺はアクセルを軽く踏んで、ほんの少しスピードを上げた。
「じゃあ、君は」
 自分から話を打ち切ったくせに、男はまたいきなり話しかけてきた。
「どうして今夜は出歩いちゃいけないって言われているか、知らないんだね」
「ああ、知らないね」
「聞こうとは思わなかったのかい」
 男の口調はまるで詰っているようで、俺はむっとした。
「なんでそんなもの聞かなきゃいけない?」
 どういうわけか妙にむきになって、俺は男に言い返した。
「俺はガキの頃からさんざんそういう話に振り回されて、いい加減うんざりしてるんだ。神様だか何だか知らないが、本当にいるなら連れてきて見せてみろ。できないくせに」
「何も目に見えるとは限らないだろ。実際、今夜なんかそのあたりを歩いているかもしれない」
 男は顎で窓の外を示す。
「昔から言われ続けてきたことには少しは敬意を払った方が――」
「よしてくれ。偉そうに言ってるが、そういうあんただって連中の言うことなんて無視して出てきたんだろ。どうこう言えた立場か」
「まったくね」
 男は意味ありげな笑いを浮かべた。
「明日もなんとしても会社へ行かなくちゃと思いこんでいた。たっぷり考える時間ができたら、いったい何をあんなに焦っていたんだろうと、つくづくばからしくなったよ。君はまだこれから――」
「うるさい」俺は男の言葉を厳しく遮った。「俺はあんたを乗せてやる理由も義理もないんだぜ。説教がしたいんならとっとと降りてそこらへんの猿相手にでもやってろ」
 本当は簡単に降りてもらっては困るのだ。だが放り出されてもっと困るのは男の方らしく、しかつめらしいことを言っていた割には素直に頭を下げた。
「悪かった。差し出がましいことを言った」
「分かればいい」
「違う話をするよ。――そうだ、あの町の鳴木という名前はこの峠から来ているんだよね。鳴木峠。山自体の名前も確か鳴木だ」
「それがどうした?」
「まあ聞けよ。ぼくは仕事で田舎町ばかり回っているってさっき言っただろう。ぼくの会社は、ホテルとか、リゾートマンションとかゴルフ場とか、そういったものを作ってる。弱小だから大規模なプロジェクトは組めないし、建てては売り建てては売りの自転車操業なものだからいっつも候補地を探してなくちゃいけない。ぼくの仕事も候補地探しだった。あと、交渉部隊の仕事がやりやすいように地元の人と顔つなぎをしておくのもね。初めて鳴木へ行ったのはその時だった」
 俺はあまりの意外さに、驚いてルームミラーの中の男の顔に目をやった。あの町にリゾート開発の話が持ち上がったのは、後にも先にも二十数年前の一度きりだ。その話に携わっていたとしたら、男の年齢は若くても五十くらいということになる。ファッションセンスの野暮ったい男は老けて見えるという俺の持論を、この男は見事に裏切っていた。男の肌の張りは、どう見ても四十そこそこにしか思えない。
「前」
 男は俺の視線を感じ取って、安全運転を促す。窓の外に、見たことのある形の標識がよぎって後ろへ消えていった。同じ形の標識がこの巻道に何本立っているのか知らなかったが、いくら何でもそろそろ山を抜けてもいい頃だろう。なのに、どういうわけか男の車は全然見えてこない。
 男は、まだしゃべり続けている。
「土地探しをしているとね、地名というものがとても面白いものだということが分かってくる。うっかり災害の起きやすいところにホテルなんか建てたら大変なことになるから、用地選定の前に土地の昔の文献なんかは一通り当たってみるんだが、わけありの土地にはえてしてそれらしい名前がついているものなんだ。縁起を担いで文字や音を変えてあってもちゃんと分かる。たとえば――」
「たとえば?」
 俺はついつられて尋ね返した。
「梅という文字がつく土地はたいてい湿地を埋め立てたところだね。梅は〝埋める〟の変化だ。竜とか蛇とかいう字がついたら物を建てるときには気をつけた方がいい。どっちの字も鉄砲水や土砂崩れを表しているからだ。〝鳴〟もそうだな。同じ韻を持つ〝悪〟や〝猿〟などの文字に変わっていることもあるが、元々は地鳴りのことで、地盤がもろい可能性がある。と、こうして考えてみると何だね。昔の人は特定の地名をつけることで、ここはこういう土地なんだぞということを後世に伝えようとしたのかもな。災害の記憶なんてすぐに風化するが、地名なら使われ続ける」
「このあたりもその〝鳴〟がつくぞ。でもあんたの会社は開発するつもりだったんだろ。住人の反対さえなけりゃ」
「文字だけで計画を中止したりしないさ。ちゃんと地質の調査もする。鳴木山の地盤はそんなにもろいものじゃない。そもそも逆だったんだからね」
「逆? 何が」
「だから〝鳴〟のほうが当て字だったってことだよ。昔は〝為木〟と書いた。最初は意味が分からなかったが、よくよく考えてみれば〝為木〟にも木に為すとか木に為るとか、ちゃんと――」
 男の言葉は途中でとぎれた。俺が急ブレーキをかけたからだ。男はシートから放り出されるようにつんのめり、ダッシュボードに頭からつっこんだ。べき、という気味の悪い音がしたが俺は気にも留めずに車を飛び出した。
 ヘッドライトの作る丸い光芒の中に、古びた木の標識が立っていた。〈鳴木ヘ一〇㎞〉……。
 見間違いではなかった。さっき、男を拾った場所で見た標識だ。
 俺は、まるで標識に食いつかれると言わんばかりに、かすれた悲鳴を上げて後ずさった。
 いったいどうなっているんだ。半時間以上も前に通り過ぎたはずなのに。
「今頃気がついたのか」
 背後から男の声がした。男はシートに身を沈め、額を片手で押さえていた。指の隙間から憐れむような目が俺を見ている。
「さっきから何度もその前を通っていたのに。よほどほかに気にかかることでもあったんだな」
「何だと……」
 返す言葉がなかった。確かに、視界の端に何度か標識らしきものがよぎった。しかし俺はこの男を殺すことばかり考えていて、注意を払わなかった。
「君には気の毒だけど交代してもらうよ。それから、この車ぼくが貰ってもいいかな。一度でいいからこんな車に乗ってみたかったんだ。どうせ君にはもう必要ないしね」
 男は運転席の方へ体をずらし、悠然とした動作でドアを閉めた。額から手が離れ、傷口があらわになる。待て、と叫ぼうとした俺の声は、喉のあたりであわあわという声になって消えた。
 男の額は、掌大の口をぱっくりと開けていた。が、そこから血は出ていなかった。血の代わりに、生木が裂けたような剥き出しの繊維がのぞいている。男が動くと、ぱらぱらと木屑が散らばった。
「き、きさま――きさま」
 ようやく絞り出したそれだけの言葉に、男は不思議そうに俺を見つめ、それからようやく気がついたのか、確かめるように自分の額を撫でた。
「何だ。完全に元に戻るのにこんなに時間がかかるのか」
 男の指が撫でるたびに、薄茶色の繊維はぬるぬると溶けるように柔らかくなり、血の色に変わっていった。やがてどこから見ても立派な生身の傷になる。
「ば、ばけもの──」
 とっさに身構えた俺は、振り上げた自分の腕を見て息を呑んだ。
 指先が、灰色とも茶色ともつかない色に変色している。寒さのせいではない。そんな生やさしい変色ではない。肉も体温も感じられない、棒のように乾いた冷たい色だ。
 しかもその変色が、みるみる腕を這い上ってくる。
 めきめきめき。
 音をたてて、十本の指の股がいっせいに裂けた。
 ばりばりばり。
 色が変わっていく後を追って皮膚はさらに硬くなり、表面に細かいひび割れが走る。
 一体何だ。何が起きたんだ。突き上がってくる恐怖に思わず駆け出そうとして、つんのめった。足が、いや体全部が動かない。腕も肩も胴体も。
 ぼこぼこぼこ。
 くぐもった音をたてて、俺の膝からも臑からも足首からも拳大の瘤が膨れあがった。いくつもいくつも。
 足先は節くれ立ち、細長くなり、枝分かれし、俺自身とは別の生き物になったかのように足元の土を掘り、掻き分け、ずるずると地中深くに潜り込んでいく。
 皮膚の変化と変色は俺の腹から胸へ、肩から首へ、そして顔へとおよび、やがて全身を覆い尽くした。声を上げる間もなかった。
 呆然としている俺を見上げて、男は憐れむような、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「やあ、いい枝ぶりになったねえ」
 何だと? 言い返したかったが、声はおろか溜息ひとつ出なかった。
「さっきの話だけど」
 男は運転席に移動し、シートベルトを引っ張り出しながら言った。
「最後まで話してなかったね。どうして春の最初の新月の夜に山へ入ってはいけないか」
 ぶるん、とエンジンの唸る音がする。
「山の神が目を覚まして、木の数を数える日だからだよ。その時山の中をうろうろしていると、木として勘定されてしまうのさ。結構有名な、昔からある杣人の言い伝えなんだけどね」
 男が、嘲るようにひらひらと手を振るのが見えた。
「迷信じゃなく本当のことなんだよ。木に為る、という山の名がそれを現している。君もおばあさんの話をちゃんと最後まで聞いていればねえ。いや、それでも同じだったかな。とにかく君が来てくれたおかげでぼくは助かった。――心配しなくてもいいよ。そのうちまた誰か、君やぼくみたいなバカ野郎が通りかかるさ。そうしたら木の役はそいつに押しつけて、自分は交代で元に戻れる。ぼくの前の奴がそう言っていた。どのくらいかかるか知らないが、それまで辛抱するんだな。じゃ」
 一気にそれだけまくし立てると、男は車を発進させた。最速のスポーツカー、ポルシェは名に恥じぬ加速を見せて暗闇の中に遠ざかり、すぐにテールランプの影さえ見えなくなった。

 そんなわけで、俺はこの山道に立つことになった。
 あの夜から何度も日が昇っては、また沈んでいった。いったいどのくらいの月日がたったのか――とうに数えるのはやめてしまった。
 最初のうちこそ、俺のポルシェを奪ったあいつをいずれ必ず見つけて復讐してやるなどと考えていたが、いつの間にかどうでもよくなった。〝木〟にはそんな凶暴な思考はできないものらしい。
 残念ながら、春の最初の新月の夜に車が通りかかったことはまだない。まれに巻道に迷い込んだ車が通り過ぎて行くが、誰も俺に気がつかない。連中には俺も雑木林の中の一本にしか見えないんだろう。
 時々、俺と交代に人間に戻ったあの男のことを考える。
 あいつは俺のポルシェと一緒に、トランクの中の死体も持っていってしまった。得意げに車を触り回しているうちにいずれ気づいただろうが、車を奪った経緯が経緯だけにおおっぴらに騒ぐわけにもいくまい。さぞ始末に困ったことだろう。
 その時の奴の顔を想像するのが、今の俺の唯一の楽しみなのだ。

〈了〉

青木和プロフィール


青木和既刊
『くもの厄介4
 鈴ヶ森慕情』