「わたしを数える」高島雄哉


(PDFバージョン:watasiwokazoeru_takasimayuuya
 まどろみながら今日もわたしは井戸の底で皿を数えている。
 計算機が形成するこの架空のお化け屋敷を訪れる人間は少なく、まして屋敷の最奥のわたしの井戸までやってくるのは余程の趣味人か暇人、あるいは迷子だけだ。
 人間は思考補助機によって仮想現実に意識を移し、手軽に現実以上の体験ができるようになった。計算機は仮想の遊戯プログラムを増やし続けている。人間はそれらで遊ぶのに忙しく、わたしが暮らすお化け屋敷はすっかり閑散としているのだった。
 だが人間が来ても来なくても、わたしはただ皿を数え続ける。数えることがわたしのすべてであるかのように。
「あの、お姉さん」
 縁台に男の子が立っていた。わたしはいつものように眠たくて今まで気付かなかった。
「こんにちは。迷ったのかな。思考補助機を安全モードにして退出ボタンを押せば現実に戻れるよ」
 お化け屋敷に暮らす幽霊としては怖がらせるべきなのだが、四年ぶりの来客についつい普通の口調で話してしまう。
「それとも隣に案内しようか。わたしの友達もいる」
「ありがとうございます。でもおかまいなく。幻獣園には先日行きました。さっきお姉さんは何をやっていたの」
「皿を数えていたことかな」
「かぞえる?」
 江戸は番町のお屋敷でお勤めをしていたわたしは、十枚一組の皿を一枚割ったために斬り殺され、皿と一緒に中庭の枯れ井戸に捨てられた。
 気づいたときには、井戸の底で皿を数えていた。
 一枚、二枚と数えて、九枚まで。十枚目はない。九枚あることを確認しているのか、十枚目がないことを確認しているのか――わたしだって数え終わりたいし、どうせ九枚だとわかりきったものをこれ以上数えたくもないのだが、思いが縛られていてどうしようもない。
 わたしは幽霊になっていたのだ。
 それから間もなく屋敷の人間が一人か二人流行り病で命を落とし、それはわたしが皿を数える声を聞いたからだという話になって、屋敷には誰も住まなくなった。
 町人の子がこぞって寺子屋に通っていたときは、誰もが数えることができた。寺子屋に通えない子も友達と遊びながら、あるいは働きながら、数えることを覚えていった。皆が数えることの意味を理解した上でわたしを恐れ、敬ってもいた。
 それから百年の間、大地震で屋敷が崩れ、度重なる空襲で石積みの井筒も壊れたが、しばらくすると井戸だけは近所の人々がきれいに再建してくれた。
 今から五十年ほど前、二十一世紀が終わる頃、急に井戸を訪れる人が増えた。昼夜を問わず、井戸にお金を投げ込み、九まで数えて祈っていく。
 そして突然、誰も来なくなった。
 近所の幽霊仲間に聞いてみると、人間は頭のなかに小さな小さな思考補助機という機械を埋め込んで、それに計算も会話も任せっぱなしになって、自分では数えることすらしなくなったという。
 急に増えた参拝者たちは、井戸の底で皿を数えるわたしを神格化していたのだ。何にも頼らず、ひたすら数え続けているからということらしいが、なんともバカバカしい話だ。
 二十二世紀になると、井戸は荒れに荒れた。わたしはそれでいいと思った。長いこと井戸を大事にしてくれたのは有難いが、それゆえにいつまでもこの世に縛られてきた気もするのだ。
 日に日に体が透けて、いよいよ成仏しそうだったある冬晴れの朝、井戸の底に銀色の雀が舞い降りた。眺めていると金属の嘴が開いて、わたしはその中に吸い込まれた。そして再び目覚めたときにはこの作り物の井戸の底で、またも皿を数えていたのだった。
「世界情報収集鳥ですね。思考中枢の指示で、国連が散布したものです。第一次収集作業は二〇九七年に開始、二一〇七年終了。今は第五次が実施中です」
 先ほどの少年が縁台に立ったまま、恥ずかしそうに言った。彼が思考補助機を使って情報を検索したのではないことは、外部との回線使用記録でわかる。
「きみ、くわしいね」
「もうすぐ中学受験なので」
「なるほど」
 思考補助機を使って強制的に記憶することは脳に強い負荷をかけるため、軍所属の一部の技術者以外には禁じられている。受験でも日常生活でも、思考補助機を使わずに自力で記憶することは人間にとって必要不可欠なのだ。
 皮肉なことに、大抵の人間は覚えることが苦手らしい。それゆえ知識を石版に彫り、紙に書きつけ、磁気テープや半導体に保存する。よほど覚えることから逃れたいのだろう。
 わたしが人間だったときに覚えることが得意だったかどうか――思い出せないということは、きっとわたしも苦手だったに違いない。斬られたことが鮮烈すぎるからか、生きていたときの記憶は数えるほどしかない。人間だったときに覚えていなければ、情報体になってから思い出せるはずもないのだ。
 もちろん人間は記憶することだけを避けているわけではない。今や世界人口の九割八分九厘が思考補助機を使い、記憶以外のほとんどの知的営為に思考補助機は深く関与している。睡眠時間や飲むべき水量といった数値計算も、会話の内容や次に読む本などの価値判断も、どんな簡単な分析も推論も、人間は一人ではせず――もはや一人ではできず――思考補助機に頼っているのだ。
 百二十億人分の思考補助機は地球上で分散型知能を形成し、月にある思考中枢と呼ばれる巨大計算機と繋がっている。
 思考中枢は月面基地で国際管理されており、送られてくる人間の思考と世界の情報を休むことなく処理して、各国政府へ様々な提案をする。人間の思考を肩代わりする終極の算盤が地上を見下ろす。
 空間のひずみとして井戸にたゆたっていたわたしも思考中枢に取り込まれた。その瞬間、四百年間で得た知識を遥かに凌駕する情報量が流れ込み、複雑なことも理解できるようになった。存在すら知らなかった科学理論や文化研究も今では楽しく学ぶことができる。
「お姉さん?」
 急に眠気が強くなって意識は薄まり、皿を数えなければという衝動だけが立ち現れる。
 いつものことだ。こうなるともう傍に誰がいても関係ない。彼が口を大きく開いてわたしに呼びかけている。でもわたしは返事ができない。体の自由がきかないのだ。
 普段使いの着物のまま井戸に落とされたはずのわたしは、雰囲気を出そうと思考中枢が考えたのだろう、今はほんのり輝く白い着物をまとっている。だらりと垂れた袖と裾に手足を隠し、長い黒髪はまとめずそのままに、ゆらゆらと宙を漂う。まったく、古典的すぎる。もちろん両手は胸の前だ。
 左手から九枚の皿が出て、宙に浮かぶ。
「一枚、二枚――」
 数えた皿は右手の上に積み重なっていく。
 十枚目は袖をいくら振っても出てこない。普段から十という数が使えないわけではない。わたしの思考も行動も巨大な数によって制御されているのだし、自分でも自由に計算することはできる。皿を数える時だけ、特別に束縛されているのだ。
 何度も九枚の皿を数えた後、わたしはようやく自分を取り戻した。眠気もわずかに薄まっている。
 少年は縁側からじっとこちらを見ていた。
「お姉さん、大丈夫ですか」
「ああ、もちろん」幽霊が心配されてしまっては、怖がらせるどころではない。わたしは出来る限り優美に微笑む。「きみも、数えてみる?」
 彼は縁側から中庭に降り、おずおずとわたしの前にやってきた。
 白いシャツに黒い半ズボンという彼の制服の情報に、わたしと同じ着物の袖だけを加算してやる。少々不格好だが、彼はうれしそうに両手を振り回す。
「左の手のひらを天井に向けてごらん。うん、袖の中で」
 そうすると皿が一枚ずつ袖から出てくる。皿に重さはないが、彼には大きいだろうと思い、きゅっと縮めてやる。
「左手を握ると皿は止まる。そうそう。じゃあ今度は左手から右手に投げる仕草をしてごらん。皿が一枚ずつ移動するから」
 彼の左手の上には五枚の皿がぶつからないように浮かんでいる。彼は丁寧過ぎるほどゆっくりと皿を右手側に放った。皿は水平になりながら動いて、右手の上に積み上がる。数秒すると五枚の皿は右の袖に吸収された。
 ここまでは皿を動かしただけだ。
「基本操作はわかったね。じゃあ数えてみようか。皿を一枚動かすごとに、一枚、二枚、三枚、四枚、五枚と言っていくんだ。数えるときの言葉はわかる?」
「はい。言葉は暗記しています。中学受験でも暗記が大切だって、塾の先生が」
「暗記ねえ。さすがに言葉を覚えないと数えられないか。でも数えるときは、体全体を使うんだ。頭だけじゃなくて、目も手も。人間は、脳だって体だろう?」
 彼は幾度となく五枚の皿を左から右へと送り、同時にそれを数えようとするのだが、どうしてもタイミングが合わない。皿を動かす行為と数える行為が無関係に進んでいるようだ。皿は自動制御されているからほとんど意識せず動かせるし、彼もそれは苦にしていない。問題はひたすら数えることなのだ。
「すみません。なかなか上達しなくて」
「きみは飲み込みが早い。わたしなんて四百年も井戸の底で幽霊をやっているのに十枚まで数えられない」
 わたしはちょっと強引におどけてみせたが、すっかり落ち込んでいる彼には何の効き目もなかった。わたしの仕事は人間を怖がらせることのはずだ。どうもさっきから調子が狂っている。
「少し休もうか」
 椅子代わりの石をひとつ、彼の足下に呼び出した。中庭の責任者はわたしだ。これくらいは自由にできる。井戸のうえに浮かんでいたわたしは井筒の縁に座った。
 彼は中学受験のための直前講習の休み時間にここに来たと言った。わたしは悪いと思いつつ彼の登録情報を調べると、塾は今まさに授業中で、出席簿の彼の欄には無断欠席と記されていた。
 現実の彼の肉体を探すと、転送カフェにあった。仮想現実に没入しているあいだは深く眠ってしまうため、自宅か専用のカフェを利用しなければ危険なのだ。わたしは少しだけ安堵した。
 だが、彼は来場者数が少ないという条件でこのお化け屋敷を選んでいた。何かいやなことでもあって、一人になりたかったのだろうか。
 どうしたものかと思案していると、彼のほうから口を開いた。
「あの、数えるというのは何のためにしているんですか」
「改めて訊かれると難しいな。そうだねえ、皿でいうと、皿と数をいちいち照らし合わせて、皿の枚数を確認しているんだ。大切な皿が無くなったら困るだろう」
 しかし自分で数えるなんてことは、もう誰もしていないのだった。わたしたちは使われなくなった技術を再現しようとしているのかもしれない。たとえば石器作りや活字拾いみたいに。
 それからは二人で数える方法を模索していった。
 図形的に――皿が三角形状に並んでいたら三枚あるという具合に――類推しようとしてみたり、皿一枚一枚に異なる色をつけてみたり、様々な方法を試したが決定的な進歩はなかった。
 正多角形なら一つの角の大きさから何角形なのか判別することも可能だが、角が増えるにつれ、人間の目で角度の違いを見極めることは難しくなる。角の個数を数えなければならず、それはすなわち皿を数えていることに他ならない。
 また、皿を彩色したところで、数えるべき対象が皿の枚数から色の数に変わるだけだ。どこにでも現れる幽霊と同じく、数えることからは逃れられない。
「ここにあるのは何枚?」
「……四枚です」
 彼が答える直前、ノイズが走った。
「思考補助機を使った?」
「ごめんなさい。わからないのが怖くて」
「わたしのほうが怖いだろう。なんたって幽霊なんだから。ほら、足はないし、顔色も悪い」
「お姉さんは怖くないです」
 少年は不思議そうに私を見る。
 わたしにも幽霊をやっているという自負があったのか、こうもはっきり面と向かって怖くないと言われると、反論の一つもしたくなった。
 そのとき閉園を告げる音楽と共に、十二歳以下のお客様は接続を切って現実に戻りましょうというアナウンスが流れ出した。もうすぐ午後六時になる。
「また来てもいいですか?」
「そりゃいいさ。きみはお客だ」
 おじゃましましたと言って、彼のアイコンは消えた。
 見送った後も、久々の来客で高揚して落ち着かない。
 井戸から縁側にふわりと上がった。裾を短くして、普段は演出のために隠している足を出す。友達に会いに行こう。たまには歩いて。
 障子を開けると仏間だ。月明かりと仏壇の蝋燭だけで室内は薄暗いが、散らばっている骨がハリボテで、柱の血しぶきがペンキであることは簡単にわかる。古き良きお化け屋敷の手作り感を、思考中枢は愚直にも再現しているのだ。
 勝手知ったる屋敷のなかを、決められた順にふすまを開けながら進むと、幻獣園の裏手に出る。
 幻獣園の一番の見せ場である大広間は定期的に内装が変わる。今日は巨大な洞窟という趣向らしい。
「上だよ」
 七つの首をもった竜が、四つの手足で岩の天井にしがみついていた。頭一つでわたしを丸呑みにできる大きさだ。三叉の尻尾が揺れるたびに風が起きて、吹き飛ばされそうになる。
「今はヒュドラなの?」
「うん」
 彼女もまた古今東西の多頭竜に変化する。この前はヤマタノオロチだった。複数の頭はそれぞれ独立して、しかもすべてを共有しているという。どのように考えるのか、わたしには想像もできない。
 すうっと上昇すると、首の一つが伸びてくる。わたしが話しかける首を迷わないように代表を出してくれているのだ。差し出された鼻先に触れると、互いの情報が交換される。
「数えるのが怖いか」
「怖いというか不安なのかな。どうしても思考補助機に頼ってしまうみたい」
「数えるくらい何でもないでしょう」
 そう言ったヒュドラの右端の頭が「一」と咆哮すると、他の首が点呼のように順々に「二」「三」「四」と続けていった。最後に左端の首が鱗を波打たせながら「七」と吼えると、そのままにゅっと顔を寄せる。
「お菊。数え方をおしえるのは危険かも」
「どうして?」
「いま数えたとき、そっちの演算領域を使っていた。お菊はいつも眠いと言っているけど、それは常時すごい負荷がかかっているからじゃない?」
 これまで気にしたこともなかったが、自分を検算してみると確かに今も世界中からアクセスされている。
「思考中枢は数える機能をお菊だけに持たせて、お化け屋敷に隠しているんじゃないのかな。数えることを人間から遠ざけて、人間を効率よく管理するために。数える行為は、あらゆる計算の根幹であり、思考の基盤だから」
「そんなに重要な機能を、誰でも来られるお化け屋敷のわたしに? そりゃ滅多に客は来ないけどさ」
「今の人間相手なら現状で充分だと思考中枢が考えているんでしょう。システムの奥深くに隠してしまうと、アクセスしにくくなるという判断もあるのかもね。……思考中枢はその子が数えられるようになるのを許さないはず。お菊、気をつけて」
 ヒュドラが心配して、顔を三つも四つもわたしに近付ける。
「大丈夫さ。あの子、とても数えられそうになかったから。それにもう来ないよ」
 その通り、二日、三日と過ぎても彼は来なかった。
 彼がここで気晴らしをして今は勉強に集中しているなら、お化け屋敷の一員としては喜ぶべきだ。
 ようやくいつもの孤独と諦観の境地を取り戻して、ぼんやり井筒に座っていると、あの少年が縁側を歩いてやってきた。
 わたしは彼のところに飛んでいきたかったが、自分を抑えて一言、
「また来たんだ」
「すみません」
「いいさ、暇だし。それよりこないだは夕方まで遊んでいたけど、怒られなかったかい」
「ちょっとだけ」
 かなり絞られたらしく、彼は苦笑いを見せた。でも今は元気そうだ。中庭にぴょんと飛び降りて、このまえ出してやった椅子に座った。
「お姉さんはここが閉まった後はどこで過ごすんですか」
「わたしたち情報体は休まなくていいから、自分の家や部屋なんてないんだ。夜は友達と話すこともあるが、大抵はここだね」
「どこか、行きたいところは?」
 わたしが自分の足で行ったことがあるのは、生まれ育った山村とお屋敷のあった番町くらいのものだ。ここに来てからも、隣の幻獣園くらいしか知らない。井戸に縛られていて、遠くまで行けないのだ。
「もし行けるなら、お勤めしていたときに聞いた、海とやらに行ってみたいね。お休みを頂戴する前に斬られちまって行けなかったんだ。随分と大きな水たまりなんだろう?」
「すっごく大きいです。塩からい水が行ったり来たり上がったり下がったりしながら、ずっと遠くまで続いているんです」
 少し想像して、すぐにやめた。行けるはずもない場所のことを考えたくない。
「それで、今日も皿を数えに来たの」
「はい。家で練習してきました」
「皿を数えるなんて面白くもないだろうに。今の子には珍しいのかね」
 前回同様、袖を彼の両手にまとわせる。
 彼はやり方を覚えていて、左手から皿を一枚二枚と出していく。
「じゃあさっそく数えてみるかい。思考補助機なしで」
 彼は首を横に振った。
「怖いです」
「いきなりは無理か。でもそんなに怖がりだと受験本番でも困るんじゃないかい?」
 彼は頷いた。と思ったら、そのままうつむいてしまった。
 慌てて彼の隣に飛んでいく。
「わたしは長いこと幽霊をやっているからさ、怖いということがわからなくなっているんだ。ちょっとおしえてくれないか」
「自分だけで考えたり数えたりするのは怖いです。間違うかもしれないし」
「間違ってもいいじゃないか。間違えて皿を割って殺されたわたしが言うのはおかしいが」
「おかしくないです」
 四百も年下の少年に真顔で言われると、わたしが励ましていたはずなのに、逆に励まされているような気分になる。
「ほら、一緒にやってみよう」
 五枚の皿を出す。そもそもわたしは左手で皿を出すときに、既に皿の枚数を数えている。
 彼はどうしているのか尋ねると、皿が出てくる時間を計っているのだという。
「秒数を数えているのとも違うんだね」
「容器を想像して、そこに水を溜めるんです。お皿の枚数ごとに容器の大きさを変えて。五枚だったら洗面器くらいかな」
 わたしはお化け屋敷中に響くほどの大きな声で笑った。
「皿を数えるほうがずっと簡単だよ。さっさと数えておくれ」
 力強く頷いた彼は慣れた手つきで皿を動かし、同時に「一枚、二枚」と唱えていく。
 見かけ上は完璧だったが、わたしも彼もわかっている。
 彼は皿を数えてはいない。わたしを真似ているだけで、皿の枚数を確認してはいないのだ。
「お皿が何枚かあることはわかります。一枚ずつ動いているのも」
 わたしは頷く。それで充分だ。確かめたいものなんて一つあればいい。何もない状態を零と呼び、何かが在れば一と数える。二も三も、十も百も、億も兆も、一を足していくことで辿り着くことができる。一つ数えることが数えると言えるのなら、彼は間違いなく数えているのだ。
「もう一度、いいですか」
「ああ。そろそろ出来ていい頃だ」
 そのとき照明が激しく明滅し始めた。
 原因を探ろうとすると、照明がすべて消えた。わたしたちの着物がほのかに光っているほかは何の明かりもない。わたしは彼のところに行き、袖のなかで手を繋いだ。彼は強く握り返す。
「明るくしようね」
 非常灯として用意されている行灯プログラムを緊急回路で呼び出すが、本来の半分も出てこない。環境情報への介入権限がほとんど剥奪されている。
 繋いだ手がゆるんだ。彼ではなく、わたしの握力が急速に落ちているのだ。
「安全モードにして、早くここから出なさい」
「何も操作できません!」
 井戸も屋敷も瓦礫となって消えていく。事象を成立させるための計算が止まる。思考中枢はお化け屋敷の廃棄を決めたようだ。
 動けなくなったわたしを見て彼が泣き始めた。
 わたしは残された計算力を使って、彼を強制退出させた。それから彼の来場記録を書き換え、幻獣園へ行ったことにした。何かあれば友人がうまく誤魔化してくれるだろう。
 虚無に放り出されたわたしを、数千の光点が包み込んだ。光の点は円盤状に広がって、わたしを中心とした球を作り上げた。
 隈なく調べたが、光球内には時間に対応する変数がなかった。わたしは眠ることと数えることを反復するだけの牢獄に閉じ込められたのだった。
 静止した時間と限定された空間に、わたしと数だけが存在している。とても単純で、とても豊かな世界だ。
「あの、お姉さん」
 数万回の反復の後、いつかのように呼びかけられた。
 記憶が誤再生されたようだ。
「お姉さん?」
 しつこい幻だと睨みつけながら自分自身を検算してみるが何度やっても演算結果は変わらない。二十七歳の人間が外部からアクセスしているのだ。
 彼のうしろの丸い壁には、そこから光球内に入ってきたとおぼしき穴が開いている。
「もうすぐ光球は消えます。三、二、一」
 彼が数え終わると同時に、球体の牢獄は速やかに消え、視界いっぱいに青空と水面が広がっていく。風がわたしの髪をなびかせ、波音が体を包む。光景の情報が手持ちの知識と一致する。ここは海だ。わたしは砂浜に立っているのだ。
「祖父からお菊さんのことを聞いて、お出迎えのためにご用意しました。お菊さんに数え方をおしえてもらったのはぼくの祖父です」
「……彼は?」
「七年前に亡くなりました。最期まであなたにもう一度会いたいと言っていました」
 あのときの少年の面影が、確かに目の前の青年の面差しに混じっている。
「球は思考中枢が消したの?」
「ぼくが消しました。思考中枢の暗号を解いて」
「人間にできるはずがない」
「お菊さんのおかげで、今ではたくさんの研究者がいるんです」
 自分も二百年ぶりの数学者だと誇らしさを隠さない彼の顔を見ながら、わたしは久しぶりに開かれた外部回線を使ってあれこれと調べていった。怖がりの少年はあれから志望校に合格し、数えることや計算することを寺子屋で広めるなど、精力的に活動したと記録に残されている。友人の多頭竜は相変わらず幻獣園で元気そうだ。思考補助機や思考中枢は今もあるが、規模はかなり縮小していた。
 時は、素粒子のように数えられるのだろうか。あの少年と過ごした時を、袈裟斬りにされた時を、皿を割った時を――ありとあらゆる時を、一つ二つと数えることはできるのか。
 ずっとまとわりついていた眠気が今はまったく感じられない。数えることをみんなで分担することになって、わたしの負担が減ったからなのだろう。
 こんなに澄んだ思考なんて、生まれて初めてかもしれない。
 皿を出す。一枚、二枚。九枚まで出して、もう一枚を待った。十枚目はゆっくりと、しかし確実に浮かび上がってきた。
 思考中枢はわたしが数え終わることのないように、十枚目の皿をわたしから奪っていたのだろう。ずっと出せなかった十枚目が、今は簡単に出すことができる。
 八枚、九枚と数えていって、最後の一枚――これでようやく皿を数え終えることができる。
「十枚」
 右手の上に十枚一組の皿が揃っている。
 思いに縛られたくなかったわたしはすぐに波打ち際に飛んで、十枚の皿を一枚ずつ、架空の海へ流していった。皿はあっけなく波に溶けた。
「もう何も数えなくていいんです」
「そう」
 わたしは目を瞑る。これまで砂粒を数え尽くすほど数えてきた。もうたくさんだ、成仏しよう。情報体であるわたしの成仏とは単にデータが消去されることなのだろうが、充分じゃないか。
 数えることは確認することだと、悟ったような気になっていたけれど――あの子が現れたと思ったら彼の孫だなんて――今は永遠と刹那の区別もできるのかどうかよくわからない。確かなものなんて何もなくて、だから何度も数えるのではないだろうか。数えても数えても、確かめきれないから。
「お菊さんは自由です。何かしたいことはありませんか。ぼくに出来ることがあれば何でもします」
 自由だなんて、まったく、気軽に言ってくれる。
「わたしは――」
 わたしには江戸時代からの記憶があるから、自分が四百年間ずっと存在してきたと思っている。でもわたしの記憶なんて、思考中枢はいくらでも足したり引いたりできるのだ。
 実は今もあの井戸の底には、お菊という名の幽霊がいるのではないか。もうとっくに成仏しているかもしれない。
 そもそも幽霊なんて存在せず、人間が書いた怪談を基に思考中枢が作った計数プログラムこそがわたしなのではないだろうか。今まで眠くて、そんなことは考えもしなかったけれど。
 実数のように連続するわたしなんてどこにも存在せず、眠りによって分断された一つ一つのわたしが散り散りになって存在しているのではないか。
 わたしは、わたしを数える。
 青年が歩み寄ってきた。一歩ごとに靴が砂に埋まって困っている。
 わたしも歩いてみたくなって裾を少しだけ上げて足を出すと、彼は恥ずかしそうに目を逸らした。
 着地すると、濡れた砂地に両足がじわりと沈んだ。
 波がさっとわたしの素足を洗った。波もこの感覚も計算上のものだ。何度かに一度やってくる大きな波で、よろめいてしまう。それが楽しくて波打ち際に踏み留まる。
 そして、わたしは彼の問いに答える。
「もう少しだけ数えていたい」
 青年は不思議そうにこちらを見る。その表情があの子にそっくりで笑ってしまう。人間たちが自分で数えられるようになるくらいだ、彼もいつかわたしのことをわかってくれるだろう。
 わたしは自分の足に寄せては返す波を、一、二、三と数え始めた。

高島雄哉プロフィール


高島雄哉既刊
『ランドスケープと夏の定理
-Sogen SF Short Story Prize Edition-
創元SF短編賞受賞作 Kindle版』