(PDFバージョン:hasinosita_tamarumasatomo)
窓の外には見事なオーシャンビューが広がっていた。
「うわぁぁ」
と、ぼくは思わず感動のため息をもらす。
青い空に、白い雲。太陽の光を受けてキラキラと照り輝く海。そして、瀬戸内に広がる緑の小さな島々……。
絶景とはこのことだなぁと、ぼくは強くそう思った。すっかり言葉をなくしてぼんやり景色を眺めていると、遠くのほうを大きな船がゆったり通りすぎていった。
「そんなに驚いてくれたなら来てもらった甲斐があったよ」
いとこのサトシくんは、うれしそうに言った。
「ほぉよ。わしもつくった甲斐があったというもんよ」
つづいてじいちゃんも、おんなじようにそう言った。
ぼくは、じいちゃんのつくったマンションの一室、サトシくんの新居に遊びに来たのだった。
じいちゃんがつくったからには、ほかのマンションと一緒のものになるわけがない。当然のように、サトシくん一家が住むマンションも、普通のものとはわけがちがっていた。何が変わっているかって、建ってる場所が普通じゃちょっと考えられないところだった。
それはなんと、橋の下。
はじめて聞いたときは、ぼくもびっくりしてしまった。
「いま、なんて言ったの!?」
「橋の下、じゃ」
「じいちゃん、ボケちゃったの? いまはサトシくんの家の話をしてるんだよ」
「なに言っとるか、わしはまだまだ頭脳明晰じゃわい。信じられないならば、理解するまで何度だって言うてやろう。サトシが住んどるマンションは橋の下につくったんじゃよ。このわしがな」
じいちゃんと一緒にサトシくん家に遊びに行くことが決まった日、ぼくがふと場所を尋ねると、じいちゃんはそんなことを言ったのだった。
「本当に……?」
何度聞いてもぼくはそのマンションが想像できず、まだじいちゃんのことを疑っていた。
「もちろんじゃ」
「それなら、どこにあるのさ」
「シラナミ大橋じゃよ」
その言葉に、ぼくはまたまた驚いた。
シラナミ大橋というのは、シラナミと略して呼ばれる瀬戸内にかかる大きな橋のこと。何本ものワイヤーに支えられた真白な橋の存在感は圧倒的で、それでいて景観を壊すことなく自然の雄大さの一部にうまく溶けこんでいる。ぼくも前にお父さんと一緒にサイクリングに行ったことがあって、穏やかに広がる美しい瀬戸内海にうっとりしながら、橋の上からいつまでも景色を眺めていたのを鮮明に覚えている。
「前にシラナミに行ったときはマンションなんてなかったけど……」
「ちょうどそのあとに建設がはじまったからのぉ」
そもそもはじゃ、とじいちゃんは言う。
「どうしてそんなことになったのかと言うとじゃな。橋の下、つまり橋と海とのあいだには何にもない使われとらん大きな空間があるじゃろう? その空間をなんとか有効利用できんもんかと思案したのがことのはじまりだったんじゃ。
そしてそのヒントは、高架下に転がっておった。あるときわしは、その高架下の空きスペースで商売をやっておるもんの事例をテレビで目にしてのお」
そういえば、と、ぼくはニュースのことを思い出した。都会のほうでは、高架下の空いたスペースを利用していろんなお店がつくられていると聞いたような覚えがある。
「それでじゃよ。わしはシラナミの下にも細長い町をつくってやろうと考えついたというわけじゃ。もっとも、船が通るじゃまになってはいかんから航路は確保せんといかんし、景観を損ねるようじゃあ意味がないからそれも気にせにゃならんかった。その点をうまく盛りこんで案をひねりだすのが難しかったのお。が同時に、楽しい作業でもあった」
じいちゃんは相変わらずスケールが大きいなぁとぼくは感心してしまった。
「わしは考えたことをすぐさま企画書に落として役所に提案した。これまでの実績のこともあったようじゃし、何よりわしのはじきだした経済効果の試算が役人たちには刺さったようでの。ほどなくして実現に向けて動きだすことになったんじゃ。サトシの住むマンションは、その町の建設計画の第一段階のひとつとして建てられたものなんじゃ。
その建設現場もおもしろくてなあ。建物は、普通は下から順に積み上がるようにして建っていくもんじゃろ? しかしこっちは橋の上から下へ下へと伸びていく。橋から吊り下がったマンションなんてわしも初めてじゃったから、現場に足を運ぶたびにワクワクしたわい」
ぼくは、じいちゃんのその気持ちが少し分かるような気がした。
「橋の下ってのは、そういうことだったのかぁ」
「ほぉよ。シラナミの下だから、当然、眺めも最高じゃ。行くのを楽しみにしとるといい」
――じいちゃんからそう話は聞いていた。
でも、実際にそこからの眺めを目にすると、それは想像をはるかに超えた素晴らしいものだった。ぼくはマンションのベランダから時間も忘れて瀬戸内海を眺めつづけた。
「いいなぁ。ぼくもこういうところに住んでみたいよ……」
「まあ、サトシのところはちょうど家が古くなっとって引っ越しのタイミングが合っとったからのお」
「じいちゃんも、ここに住めばいいのに」
言ってから、何気なくつぶやいたその言葉が思いのほか良い案なんじゃないかと気がついて、ぼくは自分で自分の言葉に賛同して言った。
「そうだ、そうしなよ! それならぼくも学校帰りに毎日ここに寄れるじゃん!」
「ははは、学校帰りに寄るにしちゃあ、ちと遠いわな。それにわしには鉄工所があるからのお」
がっかりするぼくに、サトシくんは声をかけてくれた。
「気に入ってくれたのなら、いつでも遊びに来なよ。ほかのフロアにはまさくんと同じ学年の子もいるし」
ほかのフロア、という言葉で、ぼくはふと、あることに気がついた。
「そういえば、ここがマンションの最上階ってことは、このフロアが一番景色がいいってこと?」
下の階ほど、海にどんどん近くなる。ということは、遠くの景色は下に行くほど見えにくくなるということだ。同じマンションでも、大きなちがいがあるんじゃないかとぼくは考えた。
「まあ、一応、遠くまで一番よく見渡せるのはこのフロアだね」
「サトシくん家はお金持ちだなぁ」
「なに、親類特権じゃよ」
じいちゃんが横から口をはさむ。
「どういうこと?」
「わしのコネで、な」
その先は言わんでも分かるじゃろうと、じいちゃんはぎこちなく片目をつぶった。サトシくんが微笑んでいるのを見て、ようやくぼくにも事情がのみこめた。
と、サトシくんが口を開いた。
「一番遠くまで見えるのはたしかにこのフロアだって言ったけどね、でも、一番景色がいいのがこのフロアとは限らない。少なくとも、ぼくが一番好きな場所はほかにあって」
「おお、サトシの場合はそうじゃったな。たしかにそれも間違ってはおらん」
二人は顔を見合わせてニヤニヤしはじめた。ぼくは、その意味が分からずにもどかしい思いだった。
「なんのことか教えてよ。二人で笑ってないで」
こんなに素敵な景色が見える階なのに、一番じゃないとはどういうことだろう。ぼくはちんぷんかんぷんで、首をかしげるばかりだった。
「行ってみる? どうせあとで一緒に行こうと思ってたところだったし」
「それがええ。百聞はなんとやらじゃからの」
大きくうなずくと、ぼくはサトシくんとじいちゃんに連れられて部屋の外へと出て行った。
「これで行くの?」
「ほぉよ」
エレベーターに乗せられると、外の景色が一望できた。扉が閉まって、下へ下へとくだっていく。目の前の景色はだんだん低くなっていく……。
「うわぁぁぁぁ」
チンと音が鳴って扉が開いた瞬間に、ぼくはさっきよりももっと大きな声で言った。
「これがこのマンションの大きな売りというわけじゃ」
そこにあったのは広大な海だった。でも、上で見た景色とはまったくちがっていた。
それはなんと、海の中にある階だった。
「ここは共用スペースになっておってな」
フロア全体がひとつの大きな広場のようになっていて、多くの人でにぎわっていた。壁は全面透明で、360度、遠くのほうまできれいな海がつづいている。降りそそぐ太陽の光で、フロア全体が自然の青で染まっていた。
ぼくはもう、何も言葉を発することができなかった。
壁に近づいていきながらぐるりと周りを見渡すと、人だかりができているところがあった。そちらに近寄ると、その透明な壁の向こう側、海の中に人影が見えたから驚いた。
それはボンベを背負って優雅に泳ぐダイバーだった。周りには銀色の魚がたくさん集まっている。ダイバーが、ひと振り、ふた振りと、えさをまく。
と、そのときだった。素早い動きで小魚の群れを追う大きな影が、ぼくの視界を横切った。
「イルカだ!」
興奮で大声をあげたぼくに、サトシくんは言う。
「その様子だと、さっそく気に入ってもらえたみたいだね。上のフロアもいいけれど、ここがぼくの一番好きな場所ってわけさ」
そして、ぼくが尋ねる前に、サトシくんは秘密基地を見せるときみたいな声で言った。
「ようこそ、地下の天然水族館に!」
田丸雅智既刊
『夢巻』