(PDFバージョン:donnnoisann_yasugimasayosi)
中古自動車の販売店から若い家族の乗ったフィアットが出て行く。
販売員のアントニオは、客をにこやかに見送った。
一仕事終えて気持ちよく空を仰ぐ。さわやかな地中海の青空が広がっていた。
事務所に戻ろうとしたそのとき、敷地に車が入ってきた。
黒いBMWのセダン。こんな小さな中古車販売店にくる客が乗るような車ではない。どこかしら不穏な空気を醸し出していた。
アントニオは怯えた表情で周りに誰かいないか探した。ろくでもないやつに違いなかった。相手したくない。しかし、自分以外に接客スタッフは見当たらなかった。
BMWは駐車スペースに入らず、アントニオに向かって滑り込んできた。彼に用があるかのように目の前で停まる。
アントニオが後ずさりしかけると、後部座席のウインドウが降りた。
ロマンスグレーの髪の貫禄ある年寄りが顔を出した。冷徹な目つきがアントニオを見て笑みに変わる。
「相変わらずのようだな、アントニオ」
「……パオロさん」
「乗れ。話がある」
「あの、でも、まだ仕事が……」
「あとで俺に呼ばれたと言えばいい」
確かにそれで店長は黙るに違いなかった。パオロはマフィアの相談役(コンシリエーリ)である長老だった。彼に逆らえばこの街では食べていけない。
アントニオは戸惑いながらもパオロの隣に乗り込んだ。
BMWは静かに走り始めた。
パオロが切り出す。
「父さんのことだ」
アントニオは息を呑んだ。
実は彼の家は先祖代々続くマフィアであった。父親も絶大な権力を持つドンとして君臨していた。だが、数ヶ月前に病没していた。血縁からいえば一人息子であるアントニオが継いでファミリーを率いることになるのだが、彼にその気はまったくなかった。
幼いときから気が小さく、虫も殺せない性格をしていた。喧嘩には決して加わらず、むしろそういう雰囲気がある場所から一早く逃げてしまっていた。笑われ、意気地なしと蔑まれようと関係なかった。そんな彼が裏社会を牛耳るシンジケートを背負えるわけがなかった。
したがって父親もアントニオに継がせようとせず、堅気にさせていたのだ。
パオロもそのことをよく知っているはずだった。だが、言った。
「ドンを継ぐ気はないか」
アントニオは激しく首を横に振った。悲痛な声で答えた。
「ありません。当たり前じゃないですか。ぼくには無理です。できるわけがない」
「だろうな。もちろんわかっている。おまえにドンは務まらん。だがな、今のままでは無理やり担がされるかもしれない」
「ええっ? なぜですか」
「ファミリーが跡目をめぐって内部分裂をしているのは知っているな。ドンの座にふさわしい者がいないので、弱肉強食の争いが起きている。そんな状況で金も武力もない弱小グループは、生き残りを図るのに策略を巡らすしかない。たとえばカリスマの利用だ。ドンの血筋というやつだよ。伝統ある我がファミリーにおいてこれは大きい。おまえを祭り上げて絶大な影響力を得ようとするやつらがきっと出てくる」
「冗談じゃないですよ。だいたいぼくにそんな影響力なんてありません」
「おまえの存在だけでそれなりに影響力があるんだよ。長続きはしないだろうがな。その性格が知られたら……最悪の場合は殺される」
アントニオは真っ青になった。手が震える。
パオロはその手を力強く握った。
「安心しろ。わしがそのような真似はさせん。だが、堅気の生活は諦めろ」
「そんな……でも、ドンになんてぼくには」
「おまえの父親が遺したものがある。それでおまえは立派なドンになれる」
パオロはそう言うと、闇深い老獪な笑みを浮かべた。
アントニオの父親は生前、再生医療を手がけるベンチャー企業と契約していた。
そこでは脳をあらゆる検査方法で調べ上げ、その神経構造をモデル化して電子情報として保存するプロジェクトが行われていた。
これは将来、認知症などの病気、または事故などで脳の神経が損なわれたときに備えてのことだった。神経細胞が失われてしまうと、たとえ新しく神経細胞を再生させたとしても、神経の配線構造は以前とまったく同じにはならない。つまり機能は取り戻せても過去の情報までは再現できない。もし重要な記憶に係わっている部分だとしたら、永久に喪失してしまうことになってしまうのだ。
そこでもしものときは同じ配線構造の神経再生が行えるように、健康なときの脳神経を記録し、いうなればバックアップを取ったのである。
それがアントニオの父が大金をはたいて契約したプロジェクトだった。跡継ぎが期待できず、できるだけ健全な精神状態を保っておかなければと考えたからである。
しかし、脳神経の配線を人工的に操作して元の構造に戻す再生医療技術は、まだこの世になかった。よほどの技術革新が必要とされた。
それでもいずれは可能になるかもしれない。未来に望みを託してバックアップだけでも取っておいて損はない……というのがベンチャー企業の言い分だった。
そして、その技術革新が起きた。
まだ表向きに発表できない試験段階でしかなかったが、バックアップとして記録した神経配線構造のモデルを他人の脳に「ダウンロード」できるようになったという。
パオロはそのベンチャー企業に掛け合って、ドンのバックアップデータをアントニオに「ダウンロード」させることを認めさせたのだ。
それはマフィアのファミリーたちにも知らされた。
そんなことが本当にできるのかと疑うものは多かった。しかし、ドンがそのような神経再生を目的にベンチャー企業と契約していたのは事実だったし、まったくのデタラメとは言い難かった。
パオロの言葉を信用したものはドンが息子に宿って帰ってくると喜び、または恐れた。中には神を冒涜していると怒り出すのもいたが、だからといって主導しているパオロに逆らおうとはしなかった。
施術には一ヶ月が費やされた。
退院したアントニオは、ファミリーのドンの座についた。
外見は何も変わっていなかったが、ひどく無口になっていた。ほとんど言葉を発しないのだ。
だが、これがむしろドンらしさを周囲に感じさせた。アントニオの父親もとても口数が少なく、沈黙をもって相手に圧力をかけることが多かった。だから息子の変化は、まさしく父親の威厳が宿ったかのように見えたのだ。
またアントニオは父親の屋敷にこもり、ほとんど外に出なかった。人ともあまり会わなかった。たいていはパオロを通して命令や指示が出された。
セキュリティのことを考えればおかしなことではなかったが、人前に姿を滅多に見せないことで父親の人格が憑りついた息子という神秘性が高まる演出になった。
アントニオに面会できた数少ない人々は、書斎のソファに深く座り、黙って目配せする彼を恐れ、口々にあれは本物だと噂した。
ファミリーの内部抗争は一年足らずで終息し、誰もが競ってアントニオに忠誠を誓うようになった。
アントニオの書斎でパオロがワインが入ったグラスを傾けていた。
客はもう一人きていた。脳神経再生医療のベンチャー企業の社長である。
社長は注がれたワインを一口飲んだ。
「『ダウンロード』してもう一年ですか。こうもうまくいくとは思いませんでしたよ……あんなSFみたいな嘘で」
パオロは静かに笑った。
そのとおり、父親の人格をアントニオに「ダウンロード」したなんて話はまったくのデタラメだった。そんなことができるわけなかった。
施術の一ヶ月間はドンらしく見えるようパオロがアントニオに演技指導をしていた期間だった。裏ビジネスについてはパオロが取り仕切り、それをアントニオが判断したように見せかけていた。
すべてパオロが考えて仕組んだことだった。
「だが、おまえもドンをまんまとだましてプロジェクトの契約を結んだのだろう?」
社長は驚いて首を横に振った。
「まさかそんなつもりはありませんよ。本気です。いずれ本当に『ダウンロード』できる技術を開発したいと考えています。ですから今後とも研究資金の寄付をよろしくお願いします」
それはある意味、口止め料でもあった。
パオロはうなずいて執務机にいるアントニオに言った。
「おまえもよくやっている。この調子でこれからもわしの言うとおりに動けよ」
「はい」
アントニオは慎ましく返事をした。
パオロはほくそ笑む。アントニオを傀儡にファミリーの実権を握る企みは、すべてがうまくいっていた。もう笑いが止まらない。
アントニオはそんな二人を見つめながら、執務机の引き出しを開けた。サプレッサーを装着したベレッタが入っていた。そっと取り出す。
彼は生まれつきのシリアルキラーだった。
虫も殺せないのではなく、虫は殺せないが、人間は殺せる、そんな性格をしていた。
だが、実際に殺人を犯して、発覚しようものなら面倒なことになるのは周りを見てわかっていた。そのため興奮したら自分でも止められない殺人衝動を抑えようと、喧嘩や厄介ごとからはひたすら逃げていた。
ましてやマフィアのドンなんてと思っていたが、こうなっては仕方なかった。とりあえず一年で人間関係や組織の動かし方はわかった。この二人はもういらない。
血は争えないということだね、パーパ。
アントニオは内心つぶやきながら、躊躇なくパオロと社長に銃弾を撃ち込んだ。
(了)
八杉将司既刊
『まなざしの街6
報復の街・後篇』