「ザイオンズ・チケット・トゥー・マーズ1」伊野隆之

(紹介文PDFバージョン:zionstickettomarsshoukai_okawadaakira
 伊野隆之の最新作「ザイオンズ・チケット・トゥー・マーズ」をお届けする。
 伊野隆之はこれまで、タコ型義体に入ることを余儀なくされたザイオン・バフェットを焦点人物とした「ザイオン・イン・アン・オクトモーフ」および続篇にあたる「ザイオン・イズ・ライジング」を発表してきた。本作「ザイオンズ・チケット・トゥー・マーズ」は、(ひとまず)その完結編にあたる力作だ。

 これら伊野隆之の〈ザイオン・バフェット〉シリーズは、タージとインドラル、ザイオンとマデラ、二組の凸凹コンビの因縁がひとつの読みどころとなっている。ポストヒューマンSFの世界だからして、タージとザイオン、インドラルとマデラの関係はしばしば入れ替わり、それがストーリーに新たなドタバタと興趣を添えるのだ。繰り返される、独特のおかしみを孕んだやりとりは、もはや伊野節というほかなく、滋味すら感じさせる仕上がりになっている。

 伊野節に身を任せながら「ザイオン・イン・アン・オクトモーフ」と「ザイオン・イズ・ライジング」と読み進めてくれば、伊野隆之のSFが、何よりも組織に生きる個人と、しがらみを逆用した処世のあり方を描いたものだということがわかってくる。コンゲーム小説の巨匠ジェフリー・アーチャーから、『ナニワ金融道』に至るまで――浮世のしがらみに縛られた人々の腹の探り合い、ハイパーコープ・ソラリスを取り巻く権謀術数は、いったいどこに漂着するのだろうか。とくとご堪能されたい。

 ところでSFファンとして知られる落語家・立川三四楼の高座がSFセミナーやSF大会で人気を博し、田中啓文や牧野修、北野勇作らがSFと落語の境界を解体していき、また「SFマガジン」では山崎健太「現代日本演劇のSF的諸相」が連載開始されるなど――意外に思われるかもしれないが――SFは舞台や話芸に親和性が高い。となれば、〈ザイオン・バフェット〉シリーズも、舞台化すると、いっそう面白くなる作品なのかもしれない。もともとロールプレイングゲームは会話が主体となるゲームなので、なおさらだ。かく言う解説者自身、「オーシャン・ブリーズ」のくだりで「またか」と吹いてしまった(笑)。

 「ザイオン・イン・アン・オクトモーフ」と「ザイオン・イズ・ライジング」は、おかげさまで好評だった。「ザイオンズ・チケット・トゥー・マーズ」は3回連載、という形で提示させていただく。デビュー作『樹環惑星――ダイビング・オパリア――』をはじめ、伊野隆之は組織と社会を精緻に描きぬく、イマドキ稀有な膂力を有した書き手だった。細かな描写を読み込めば、読み込むほど、“人間”の裏がわかる。ヘタするとポストヒューマンは、旧来型の人間性を超えた社会性があるのかもしれない。組織の力学の裏の裏まで知り尽くした、海千山千の作家・伊野隆之の“本気”を、存分にご堪能いただきたい。就職活動の季節だが、就活生の皆さん、社会人の皆さん、とりわけ中間管理職の皆さん、〈ザイオン・バフェット〉シリーズは読んでおいたほうがいいですよ。(岡和田晃)

(PDFバージョン:zionstickettomars01_inotakayuki
※この作品は、過去のザイオンシリーズの続編となっています。ぜひ、併せてお読みください。

 頭の芯に鉛を突っ込まれたようで、まともに考えることができない。考えるという行為を忘れてしまったのか、ぜんぜん頭が働かない。意識というソフトウェアが、脳というハードウェアの使い方を忘れてしまったような感覚だった。
 ……俺は、マデラ・ルメルシェ。金融企業複合体、ソラリスコーポレーションの中級パートナーだ。俺は俺、なのに強烈な違和感があった。
「……覚醒プロセスを完了しました」
 そんな声が聞こえた。聴覚領域への直接入力なのに、マデラには、妙に遠く聞こえていた。
 ……俺はなにをやったんだ?
 不安、恐怖、焦燥、そういった感情のカクテルがマデラの義体を強ばらせ、効率化されているはずの心臓を締め上げる。覚醒プロセスとは、ダウンロードされた魂(ego)が、新しい義体の中で目覚めるプロセスだった。
「俺はなにをやったんだ?」
 マデラは、両手を見て、顔に触る。感触は記憶通りで、違和感はない。マデラがいるのも金星の大気上層に浮かぶ北極ハビタットにある執務室で、周囲に見えるものも、記憶にあるとおりだった。

 マデラは地球産の高価なマホガニーの机に向かい、投影されたアマゾンの熱帯雨林や木星の大赤班といった太陽系中の絶景に囲まれている。そんな状況は、記憶にある執務室と何の変化もない。マデラの背後には、燃えるような金色のフレアを模した巨大なソラリスのエンブレムがあり、訪れる者に太陽系の金融市場を支配する、ソラリスの威光を知らしめているはすだった。
 豪華な執務室は、ソラリスの中級パートナーとしてのマデラのステイタスを示すものであり、徹底的に情報武装されたマデラを守る砦でもあった。
 それでも、マデラは落ち着かない。
 最後の記憶ははっきりしていた。定期的な魂(ego)のバックアップ。万一の事態に備えた安全保障措置で、ちょっとした保険のようなもの、だったはずだ。
 ……けれど、今の俺は、そのバックアップだ。そんな認識が、マデラに重くのしかかる。
「俺がなにをやったのか、ちゃんと説明しろ。俺はおまえに言ってるんだ!」
 突然、マデラが怒鳴りつけたのは、執務室に投影されたブルーの髪の少女だった。マデラ自身のサポートAIであるミューズにインストールされたセクレタリーで、スケジュール管理だけではなく、アポ取りや簡単な調査を任せることもできるし、マデラ自身の状態をモニターし、必要なアドバイスをすることもある。最高レベルではないが、十分に実用的なセクレタリーAIだ。
「覚醒プロセスは正常に終了しましたが、強度の緊張と、興奮状態にあります。いつものオーシャンブリーズを処方(インストール)しましょうか?」
 マデラは鎮静剤ソフトウエアのPRフレーズを思い出す。……海辺の穏やかな風があなたの心をリラックスさせてくれるでしょう。オーシャンブリーズは、ビジネスシーンの最前線で戦うあなたに、心安らぐひとときを提供します……。それだけで、まるで条件反射のように、マデラの中の緊張が薄れていく。
「そうしてくれ」
 唐突に海を渡るさわやかな風がマデラの肌を撫でる。
 ……今の俺は覚醒したバックアップで、バックアップをとった方の俺ではない。
 鎮静ソフトウェアの影響下で、新たにダウンロードされたマデラは、冷静に考えることができるようになっていた。
 ……ということは、そのバージョンの俺は死んだのだ。なぜ死んだのか、なぜ死ぬようなことをやったのか。最終のバックアップ時点、つまり、今の俺を記録した時点から、現時点までの間に何があったのか。
「状態に改善が見られました。ところで、先ほどの指示は、まだ有効でしょうか?」
 小首を傾げてセクレタリーが言った。
「ああ、早く始めてくれ。俺に、前のバージョンの俺に何があったのか知りたい」
 最後のバックアップからの時間経過は、およそ三百時間だった。金星の上層風が赤道を一周するスーパーローテーションを基準にしたとしても半日に満たないが、失われた地球を標準とする標準時間では約二週間程になる。
 ……俺は、どのくらい不在だったのか。標準時間で三日もあれば、状況が変化するには十分だ。
 そう、バックアップの直前、マデラは監督官の訪問を予告されたのだった。
 ソラリスのエージェントにとって、監督官の訪問自体はさほど珍しいことではない。各惑星の営業区の状況把握のために、標準年に一回程度はあることだったが、タイミングが悪かった。マデラの記憶に不愉快な緊張感がよみがえる。
 ティターンズ戦争後の復興需要に支えられた好調な金星経済にもかかわらず、マデラの管轄する北極エリアの利益が伸びていなかった。営業区で最大の企業体である北極鉱区開発公社からは、大きな利益を上げていたにもかかわらず、営業区全体としての業績がさえない。せっせと働き、金利を吐き出してくれる公社以外の顧客の数が、このところ減ってきているのだった。
 事前に通告された営業成績の評価が、事業環境を加味すると金星全域で最低になるというのは、ありがたくない評価だった。そんな状況で、ソラリスの本部から監督官がやってくると予告されるのは、余計なストレス以外の何者でもなかったろう。
「バックアップ直後の監督官との会見以降の記録を再現します。目を閉じリラックスしてください」
 セクレタリーに促され、マデラが目を閉じると、ゆっくりと椅子の背が倒れていく。マデラはさわやかな潮風を感じながら大きく息を吸う。
 マデラをサポートする情報システムであるミューズは、マデラの義体に起きたことを全て執務室のシステムに記録している。蓄積された記録が、ミューズを介して新たにダウンロードされたマデラの意識に流入し、再生される。それは、まるで、他人の記憶を盗み見ているような感覚だった。
「……金星は恵まれた惑星です。中でも、北極エリアは経済的なポテンシャルが高い。ですから、現状のような成績が続けば、営業区の再調整を検討する必要に迫られるかもしれません」
 監督官の声が聞こえた。実際にそんな言葉をかけられたら、マデラは義体を強ばらせ、沸き上がる屈辱感を必死で押さえ込むことになるだろう。けれど、それはこのバージョンのマデラに起きたことではなかった。傍観者であるマデラは、直接の体験でなかったことにほっとする。
「……ボボボ、ボス、大変れす、すげー大きな契約になりそうれす」
 あわてた様子のインドラルからの連絡だった。マデラの部下で、アップリフトとのビジネスを担当させているエイヴィアンモーフ、カラスの義体が小刻みに翼を動かしている。
「……くそタコのタージの奴、うまいことアルマドの野郎に取り入りやがったんで」
 マデラは覚えていた。アルマドは北極鉱区の独立した鉱山主で、何を好き好んでか、アップリフトに鉱区を売ろうとしていた。そう、アルマドの部下からコンタクトがあり、鉱区の譲渡先になりそうな鉱山主の紹介を頼まれたのだった。
 マデラが紹介したのは、後々、搾り取るのに都合の良さそうなタコ、アップリフトのタージだった。本来なら、もっと稼いでいていいはずなのに、いつも借金漬けで、金利を払い続けている。言ってみればマデラの上得意だった。アップリフトにしてはよくやっているのかもしれないが、しょせんはその程度の鉱山主だ。
 今のマデラは、タージを紹介したところまでは記憶している。それから先は、バックアップである現在のマデラにとっては未知の領域だった。
「……アルマドの野郎、どういうわけか、タージのタコ野郎が気に入ったみたいで、鉱区一つじゃなく、全部の鉱区の開発権を譲る気になったんでサァ」
 その後の展開は予想外だった。今のバージョンのマデラにとって予想外だったし、前のバージョンのマデラにとっても驚きだったろう。
 アルマドは保有する百以上の鉱区をすべてタージに売ろうとしていた。もちろん、毎月の金利の支払いにも苦労しているタージは、契約のために膨大な額の融資を受けるより他なく、融資元はソラリスコーポレーションしかいないはずだった。
 ソラリスの内規は厳格で、パートナーでもないインドラルには、大きな契約を結ぶ権限はない。一方で、アルマドは、すぐに契約しないなら、別の融資元と話を付けると言う。
 前のバージョンのマデラは焦ったことだろう。今のマデラにもよくわかる。営業成績が振るわないのは、マデラ以外の資金源に顧客を奪われていたからだし、この契約を奪われたら、マデラの受けるダメージは計り知れないと思ったはずだ。
「……わかった。これからおまえにエゴキャストする」
 その言葉がマデラを驚かせる。どう見ても安全なエゴキャストには思えない。一方で、前のバージョンのマデラが切羽詰まっていたのも事実だった。
 ……俺は、はめられたのか……?
 リスクを取らなければ、ビジネスの成功はおぼつかない。成功したければ、リスクをとれ。ソラリスのエージェントとしてマデラに叩き込まれた信条の一つだったが、それにしても大きすぎるリスクだった。
「……気にしなくていい。ビジネスにはスピードが必要だ」
 前のバージョンのマデラが言い放った。
 記録はそこで途切れていた。エゴキャストしたマデラに何があったのか、インドラルの義体を見つけだし、記録のサルベージをしなければ確認できない。

 ささやかな勝利と言ってもいい。ザイオンは足下に横たわるカラスの義体を見下ろす。翼が妙な方向にねじ曲がり、胸郭は押しつぶされ、頭にも大きな陥没がある。生体義体(バイオモーフ)に生命兆候はなかったし、こうなっては魂(ego)の器として機能しない。
 復讐には自己満足以上の意味はない。ザイオンはよくわかっている。ソラリスのエージェントであるマデラは、当然のようにバックアップを取っているだろうし、インドラルですらバックアップをとっているだろう。ささやかな屈辱と恐怖の時間を与え、貴重な財産でもあるインドラルの義体を破壊したことで、ちょっとした復讐になったとザイオンは思う。破壊された義体の後始末は、鉱区を流れる水銀の川にでも放り込めばいい。
 マデラのバックアップの起動がどれくらいのタイミングになるか、ザイオンは自問する。破壊された義体が発見されれば、その時点で、マデラの魂(ego)と、インドラルの魂(ego)も破壊されたと判断されるだろう。そうなれば、時間をおかずにバックアップが起動される。一方で、義体が発見されなくてもバックアップが起動されることもある。金星の大気の底であってもネットワークは存在し、いつまでも接続を絶っているという状況は、異常な状況だと判断されるだろう。公式の捜索が行われるし、それでも発見されなければ死亡宣告がなされるのだった。
 これからが勝負だった。ザイオンは、マデラによって金星に閉じこめられている。ザイオンが普段使っているオクトモーフのIDは改変が終わっており、金星内では自由に行動できるが、惑星外に出るとなると義体のIDだけではごまかせない。ザイオンの魂(ego)は、オクトモーフへのダウンロードの際に多額の債務を負っており、マデラとの契約が解除されない以上、ザイオンが金星から出ようとすれば、必ず連絡がいくことになる。結局のところ凍結状態からザイオンを復活させたのはマデラだったし、権利関係からすれば、マデラの方が圧倒的に有利だった。
「これで満足なのか?」
 磨きあげた金属のボディが横にいた。機械の義体としては最下級のケースでも、手入れが行き届いている。見えないところもアップグレードされているのだろう。膝がきしむ音もなく、声をかけられるまで気づかなかった。
「いや、まだこれからだ」
 ザイオンが答えた。マデラの魂(ego)のバックアップが起動されるまでに、必要な準備を終えなければならない。
「あまり時間があると思わない方がいい。北極鉱区開発公社の保安部はそれなりに優秀だ」
 マデラのオフィスには、インドラルの義体にエゴキャストした記録が残っているはずだった。となれば、直ちにインドラルの痕跡の追跡が始まるだろう。
「自分の経験から言っているのかな、カザロフ?」
 カザロフは、北極鉱区開発公社の保安主任だった。表向きは契約期間の満了との説明だったが、公社の上層部との軋轢もあって、実質的には解雇されたらしい。
「気を抜くなと言っている」
 アクバルが公社を離れたカザロフを拾ってきた。多くの作業員を抱える鉱山では、事業規模の拡大に伴い、必然的にトラブルが増える。優秀な保安要員の確保は、鉱区の管理には不可欠で、カザロフは拾いものだったと言っていい。なにしろ、一人で公社を離れたのではなく、優秀なチームを連れていたのだ。そのおかげで、今、ザイオンが管理する鉱区は、アップリフト解放戦線による扇動の影響を受けていない。
「わかっている。これからが本番だ」
 いくつもの鉱区の開発権を有しているとはいえ、金星にいては、所詮、アップリフトの鉱山主でしかない。持ち前の経営感覚で北極鉱区では有力な鉱山主にのし上がってきたものの、太陽系規模でいえば、やっと最底辺を脱したところだ。ティターンズの攻撃により地球が失われる前にザイオンが築いた金融帝国が、今、どうなっているのか。ザイオンが静的なデータとして凍結されていた間に何が起きたのか、金星にいては知りようがなかった。
「うまくやるんだな。マデラは間抜け野郎だが、それなりに鼻がきく。奴の魂(ego)に何回でも屈辱を味わせてやってくれ」
 そうカザロフは吐き捨てる。
「嫌な思いをさせられてきたようだな」
 金星には階級があり、階級があれば搾取がある。搾取があれば、搾取に対する反抗があり、反抗があれば抑圧がある。そして、抑圧は多くの場合、非人道的な汚れ仕事を意味している。以前のカザロフは北極鉱区開発公社の保安主任であり、汚い現場はいやと言うほど見ているだろう。
「おまえには関係ない。マデラがなぜおまえに執着しているのかは知らないが、おまえが手の届かないところにいけば、奴は歯がみして悔しがるだろうな」
 カザロフは、マデラの指示でザイオンを追っていた。あと一歩のところまで迫っていたと言っていい。だからだろう、公社を離れたカザロフは、アクバルに拾われてすぐに、自分が追いかけていた獲物に気づいた。
「そうだな。おまえの言う通りだ」
 一時的にせよマデラの魂(ego)に死をもたらし、空白の時間を作る。それは、ザイオンが完全な自由を手に入れるための計画の一部だった。

「タタタ大変でサァ!」
 がなり立てるインドラルの声が、マデラの耳に突き刺さる。不在の間に積みあがった処理すべき案件に取りかかっていたところを邪魔されて、マデラはいらついていた。
「もう少し落ち着いて話せないのか!」
 インドラルのバックアップを起動し、新たな義体を与えたのが、間違いだったような気分になる。インドラルに任せているアップリフトの顧客は多く、ビジネスを動かすには必要なことだったが、カラスの義体の発する不愉快な声にはいつまでたっても慣れなかった。
「でもボス、大変なんでサァ」
「どうでもいいから、落ち着いて話せっ!」
 つい、マデラの声も大きくなる。
「ヤツが、タージのタコやろうが」
 前のバージョンのマデラ自身に何が起きたのか、その答えを知っていそうなのが、タージというタコの鉱山主だった。前のバージョンのマデラは、タージとの融資契約のため、地表へとエゴキャストした。エゴキャストした先は、アルマドという鉱山主の持つ鉱区の一つで、タージへの鉱区の開発権譲渡契約に立ち会い、タージが代金を支払うための融資契約を締結する予定だった。
 そこで何があったのか。記録上、融資契約は締結されておらず、インドラルとタージの間の契約は、従前の契約のままだった。
「タコがどうした?」
 新たな融資契約は行われず、インドラルとマデラの魂(ego)が失われた。売買されるはずだった鉱区の開発権はどうなったのか、それすら今のマデラは知らない。地表の開発権を管理している金星政府のデータベースは、最新の状況を反映していなかった。
「タージのやろうが、ローンの完済を通告してきやがったんで」
 資産管理情報の提供がローン契約の条件に入っていたから、アップリフトの鉱山主、タージの財務状況は、細部に至るまで把握していたはずだ。売掛金の回収状況や、精製前の鉱石の簿価、従業員への労働債務、掘削機械の残存簿価に至るまで、すべてが完全な監視下にあり、夜逃げされぬ程度に絞り取ってきた。そんな状況で、毎月の金利を払うのに汲々としていたタージが、多額の債務を完済できるはずがない。もし、完済したのが事実なら、それこそ宝くじが当たったとしか思えない。
「くそっ、何があったんだ?」
 ローンが完済されたことは大した問題ではない。顧客名簿からアップリフトが一人抹消されるだけで、マデラの管理する融資残高の総額からすれば微々たるものだ。けれど、完済の背後には必ず資金源があるはずで、その資金源は顧客を奪うことで、マデラの営業成績に影を落としている。
「ヘイ。耳をそろえて完済です!」
「そんなことはわかっている!」
 一番深刻な問題は、手がかりを失うことだった。契約が切れることで、マデラが持っていたタージに対する権利のいっさいが消失する。前のバージョンのマデラに何があったのか、それを知るための有力な手がかりであるタージに対して、マデラは何もできなくなったのだ。
「でも、これであいつのタコくさいハビタットに行かずにすみますんで」
 満足そうなインドラルの言葉に、マデラは愕然とした。
「完済はどうでもいいんだ、完済は!」
 重要なのはそういうことじゃない。
「一銭残らず完済です。タコ臭いタコ野郎ですが、立派なタコです。俺たちアップリフトにも立派なヤツがいるんでサァ」
 インドラルのマジメくさった口調に、マデラの中で何かが音を立てて崩れていく。所詮はアップリフトに過ぎないインドラルは、結局のところ、ビジネスの本質を一切理解していない。
「もうタージのことはどうでもいい。次の客の取り立てにいってこい!」
 マホガニーのデスクを拳で叩くと、マデラの腕の強化された骨が軋んだ。
「ヘイッ!」
 飛び上がるようにして執務室から飛んでいくカラスを思わず睨みつけるマデラ。所詮、カラスはカラスでしかない。その意味では、タージの元へインドラルを行かせたマデラ自身の判断ミスだったのだが、マデラはそのことに気づきもしない。
「血流が冗進し、強度の興奮状態にあります。いつものオーシャンブリーズを処方(インストール)しましょうか?」
 ……海辺の穏やかな風が……。マデラの意識の中で始まったPRフレーズの自動再生を、意志を振り絞って押しとどめる。状況は変化しており、鎮静剤をゆっくり吟味している余裕はない。マデラの周囲では何かが起きており、結果として前のバージョンのマデラが破壊されている。
「それでいい。急いでくれ」
 海を渡るさわやかな風がマデラの頬を撫でる。
 かつかつでやっていたタージがローンを完済したのであれば、どこかに資金源があるはずであり、その資金源はマデラの顧客をごっそりと奪いかねない。不吉な兆候は、前のバージョンのマデラの時に、すでに現れていた。
 冷静さを取り戻したマデラは、状況を正確に理解できるようになっていた。融資契約を奪われた金融エージェントには、はっきりと「無能」という烙印が押される。そうなってしまえば、今までソラリスの中で築いてきたキャリアが、中級パートナーという地位とともに瓦解するだろう。それどころか、もし本部の査察官に調査をされることになれば、過去の資金管理状況を細々と調べられるだろうし、ザイオンに関する不適切な、しかも少なからぬ支出を追求されることになるだろう。ザイオンの魂(ego)を発見しながら適切な対処をしなかったことで、最悪は、何らかの処分をされることにもなりかねない。
 インドラルの報告は、そんなシナリオを想起させる。
 マデラは追いつめられていた。そして、追いつめられた状況を打開する手がかりは、前のバージョンの死の手がかりでもあるタージというアップリフトだったが、そのタコもマデラの手からするりと、いや、タコだからぬるりと逃げて行こうとしていた。
「マデラ様、地表からの優先メッセージです」
 さわやかな気分にもかかわらず、ネガティヴなスパイラルを描いていたマデラの思考に、軽やかなセクレタリーの声が割り込んだ。
「誰なんだ。俺は今、忙しいんだ」
 普段なら怒鳴りつけていただろうが、オーシャンブリーズの効果で、今のマデラはイラつかずにすんでいる。
「認証データによれば、カザロフ様からです」
「カザロフ? 誰だそれは?」
 どこか聞き覚えのある名前だった。
「カザロフ様は半年ほど前まで、北極鉱区開発公社の保安主任でした。最新の情報では、北極鉱区の複数の独立鉱山主を顧客にした保安コンサルタントをされてます」
 セクレタリーの説明を聞くまでもなかった。マデラを支援する情報システムであるミューズは、カザロフに関する詳細な情報をマデラにダイレクトに伝えてくる。
「ヤツが何の用事があるんだ?」
 無能で、要求の多い保安主任。ザイオンを逃がした上、逃がした理由をマデラが十分な情報提供をしなかったからだと言い訳をした。その上に、逃げ出したザイオンを見つけだすどころか、暗に保安部門の予算不足を言い募り、保安業務の実施方針でも公社の幹部と対立していた。より効率的な保安体制の確立のため、カザロフとの契約を更新しないという公社の方針はマデラ自身が決めたことではなかったが、反対する理由は何もない。逃げ出したタコの捜索だけではない。いろいろな面で、カザロフは甘かったのだ。
「情報が不足しています。ただ、捜し物が見つかったと」
 マデラが探していたもの、カザロフに探させていたものは一つしかなかったし、それは、覚醒までの間に積みあがった下らない雑件よりも優先すべきものだ。
「なぜそれを早く言わない?」
 マデラの言葉は、オーシャンブリーズの効果で、意に添わず落ち着いたものだった。



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伊野隆之プロフィール


伊野隆之既刊
『こちら公園管理係4
 海から来た怪獣』