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(「続・犯罪のない街」)(朗読はこちら)
善人(よしひと)が「犯罪のない街」に引っ越して2年がたった。
転勤先の同僚は、皆、有能である。
たとえば、こんなふうに。
○
「もともと、これは、善人さんの部署の仕事なんですよ」
「え? そうなんですか??」
Hさんの言葉に、善人は驚いた。
「でも、昨年はそちらの部署のK君がやっていたじゃないですか」
昨年のことなら、善人も知っている。
「それがね…」
Hさんは声をひそめた。
「定年退職したJ氏が、若手のK君に『ちょっと手伝って欲しい』って頼んだんですよ。部署がちがうのにね。K君は断れなかったみたいで。それで、皆さん、うちの部署の仕事だって思ってしまったみたいなんですが、本当は違うんです」
全くの初耳だった。
「それで、今年はそのまま、私がやれっていうんですよ。おかしいでしょう?」
「はあ」
「絶対におかしいと思います」
「……。」
「それで、今度の土曜日の午後1時から、説明会があるんですけど、来てもらえますよね?」
「どうして、僕が行かなくてはならないんですか?」
「もともと、善人さんの部署の仕事で、私のほうはボランティアですからね」
善人は気づいた。なるほど、要するに、説明会を僕に担当させたかったのだな。確かにかったるい仕事である。しかし、それをHさんが善人を指名して依頼してくるのは、変である。
「Hさんに、その仕事をやれって言ったのは誰ですか?」
「部長です。でも、部長はいきさつをよく知らないみたいで……」
「ならば、部長にいきさつを説明すればいいじゃないですか。それで、本来、うちの部署の仕事だったとしたなら、うちの部長がひきうけて誰かの仕事をして割り振るでしょう。そんなふうな事情だったら、もう割り振っているかもしれませんよ。確認してみたらどうですか? 少なくとも僕は言われていないし、勝手に動いたら、その人に迷惑でしょう?」
善人のことばに、Hさんはムッとした顔をして離れていった。
○
善人は、手にした紙にボールペンを走らせていた。
紙には、こう印刷されている。
紛失事故にご注意下さい。
次の質問に照らし合わせて、日ごろの職場習慣の中に、紛失事故にむすびつく要素がないかどうかチェックし、報告してください。
質問項目1 書類は全部、3つ以上鍵のかかるところに保管していますか? YES NO
質問項目2 鍵の保管も、3つ以上、鍵のかかるところにしていますか? YES NO
質問項目3 鍵をいれてあるところの鍵の保管も、3つ以上鍵のかかるところにしてありますか? YES NO
質問項目4 鍵をいれてあるところの鍵の保管をしてあるところの鍵の保管も、3つ以上鍵のかかるところにしてありますか? YES NO
質問項目5 席を離れる時は、必ず書類を3つ以上、鍵のかかるところに保管していますか? YES NO
質問項目6 すべての鍵を、半年に一度、新しいものにとりかえていますか? YES NO
質問項目7 取り換える時の鍵は、すべて正しく廃棄していますか?(正しい廃棄とは、町の発行する「鍵処理証書」を購入した上でそれを添付し、決められた時間に決められた場所に、必ず本人が持参することを指します) YES NO
質問項目8 鍵の代金および処理費用は、すべて本人が負担していますか? YES NO
質問項目9 すべての鍵のスペアキーも同じく管理してありますか? YES NO
質問項目10 盗難に備えて、すべての鍵の場所は本人しかわからない対応がしてありますか? また、万一、本人に何かあったときに備えて、本人以外でも、書類が取り出せるようになっていますか? YES NO
質問は以上です。
ひとつでもNOがある場合は、至急、改善して下さい。
次の調査までに改善されない場合は、減給処分などの対象になりますので、ご注意下さい。
善人は読みもせずに、一気に全部YESに○をつけて、提出箱のなかに放り込んだ。提出箱はポスト型で、もちろん3つ鍵がかかっている。
この「質問項目」の書類は、3日に1回、提出しなくてはいけないのだ。
もちろん、これをいちいち守っていたら、仕事にならない。
○
「説明会資料です。ここに置きます」
Hさんが書類を善人の机に置くなり、去ろうとする。
「ちょっと待ってください」
善人はあわててその後を追い、机を離れた。
「説明会の担当は、あなたじゃないんですか?」
「その説明は、先日したでしょう? 本来、私の仕事じゃないんですから」
「J氏がK君に頼んだとおっしゃっていましたよね? K君に確認したら、それはもう十年以上前からそちらの部署の仕事になっていて、J氏がどうとかいうことはないって言っていましたよ」
本社勤めになったK君と、善人はメル友なのである。
「J氏がK君にって、何をおっしゃっているんですか? 私、そんなことを、言った覚えはありませんよ」
「僕の記憶違いですか?」
「そうでしょう」
「では、僕がこれを受け取る理由はありませんよね」
善人は、今、Hさんが机の上に置いていった書類を、目の前に突き出してやった。
「あっ、私の書類だ。どうして、あなたが持っているんですか?」
「何を言っているんだ!」
「大声を出さないで下さいよ。パワハラですか? それに、善人さん、書類を保管せずに机を離れているじゃないですか。大声のことは勘弁してあげますけど、書類の保管義務を怠ったことは報告しておきますからね。見てしまった以上、仕方がありませんから」
善人はあわてて机のところに戻った。
机上からは、今とりくんでいた書類が消え失せていた。
この職場では、このように忽然とものが消えることがしばしばなのだ。
これは、盗難にも紛失事故にもならない。規則を守らなかった本人の落ち度である。
○
善人は、職場がこのようになってしまったいきさつを調べてみたことがある。
十年ほど前に、上司が部下の「給料査定」をするようになったのは、誰でもが知っている。その当時は、給料査定のありかたの正当性をめぐって裁判になったりもしたのだが、最高裁が「上司の権限」を多く認める判決を出した頃から、流れが変わった。
この職場では、「査定割合」を定めている。「優」「良」「可」「不可」の四段階で、それぞれ「2割・4割・3割・1割」と決められている。「不可」になると、給料は大幅に減額されるし、下手すると、首があぶない。となれば、自分がそれにならないようにするために、一番手っ取り早く確実なのは、誰かを「不可」にしてしまうことである。
この職場では、よく自殺者がでる。
もちろん、それは、自殺する人の個人の判断の結果であるから、防ぎようがないのである。
善人は、今日もため息をつく。
「ああ、こうして有能な人が残るんだなぁ。僕もそろそろ見習わないと……」
(了)
宮野由梨香 協力作品
『しずおかの文化新書9
しずおかSF 異次元への扉
~SF作品に見る魅惑の静岡県~』