「宇宙クジラと火星の砂」朱鷺田祐介

(紹介文PDFバージョン:uchuukujirashoukai_okawadaakira
 今回ご紹介する作品は、『エクリプス・フェイズ』日本語版翻訳監修者、朱鷺田祐介の短篇小説第3弾「宇宙クジラと火星の砂」だ。

 『エクリプス・フェイズ』の世界ではクジラ型の義体「スーリヤ」というものが登場する。体長は10メートルにも及び、太陽のコロナの中を無傷で飛び回ることができる特異な義体だ。
 そう、クジラと言えばSFの華。イアン・ワトスン『ヨナ・キット』など、数々の名作が思い浮かぶだろう。『エクリプス・フェイズ』を使えば、新たな「クジラもの」のSF作品を表現可能なのだ。
 このクジラ型義体「スーリヤ」をまとったメアリー・Iをはじめ、ランディ・シーゲルや佐藤海といった「ファイアウォール」のエージェントたちは、朱鷺田祐介の短篇「サンダイバーの幻影」でお目見えしたキャラクターたちである。ロールプレイングゲームでは、同じキャラクターが舞台を変えてさまざな冒険を執り行うのだ。今回のミッションで彼らは、火星の砂に何を見たのか。

 朱鷺田祐介は日本を代表するゲームデザイナー/ライターの一人として知られている。『エクリプス・フェイズ』以前にも、サイバーパンクRPG『シャドウラン』第4版の翻訳監修を手がけてもいる。ゲームライターならではのガジェットの使い方を注視してほしい。また、故レイ・ブラッドベリへのリスペクトも感じ取ってみていただきたい。(岡和田晃)


(PDFバージョン:uchuukujirato_tokitayuusuke
 宇宙空間が太陽風に震えている。
 微小な黒点爆発が重力波をかき乱し、吹き上げる粒子がスーリヤの肌を叩く。
 太陽極近傍宙域。別名「インナー・バルカン」はいつもより、泡立つような磁気嵐とプラズマ日和だ。スーリヤで泳ぐにはよい気候である。

「愛おしきかな、太陽。
 我らの海を照らす黄金の林檎」

 誰かの歌が響く。
 それは、太陽から吹き上がるコロナ・ガスとプラズマを共振させて宇宙空間に響いてくる。超長周波数の震動として、太陽フレアに反射し、幾重にも幾重にも輻輳し、スーリヤの巨大な側線を刺激する。
 メアリー・Iは、スーリヤの周囲に展開した電磁フィールドを震わせ、歌の流れに近づいていく。尾を打ち震わせ、プラズマ化した水素原子が拍手のような音に鳴り響くのを聞いた。
 彼方で誰かが拍手に同調する。
 湧き上がる太陽フレアの流れによって、湧き上がるコロナ・ガスの傍流を捉えて、跳ねるように宇宙空間を跳ねる。わざと電磁フィールドをかき混ぜ、プラズマを泡立てて、ハープのように音を弾く。
 太陽フレアの円弧の向こうから響く、笛のような音は電磁フィールドで回収した水素と酸素から生み出した水の分子を吹き出した音だ。
 スーリヤ、一般には「宇宙クジラ」と呼ばれる、新鯨類(ネオ・セスタン)用の太陽圏対応耐高熱宇宙環境用生体義体は、真空に近い宇宙空間に適応しており、もはや呼吸の必要もないが、稀に、演奏のためと称して噴出用バーニアをつける者もいる。水星以遠の0G環境ならいざしらず、地獄のような重力井戸が空間をゆがめる太陽極近傍では、全長10メートルにも及ぶ巨体を水素噴射だけで推進することなどできない。電磁フィールドで太陽風を捕らえ、その上を泳いでいくのである。
 それでも、「潮吹き」をやめられないのは、たぶん、彼らの魂が今もって、「クジラ」だからなのだろう。

 知性化されても、海から離れられないクジラたち。
 〈大破壊(ザ・フォール)〉で地球の海が滅びた時、あなたがたの多くは、地球とともに肉体(モーフ)/義体(モーフ)/形状(モーフ)を失った。宇宙コロニーはどれほど大きなものでも、クジラが回遊するには小さすぎる。
 だから、あなたがたの多くは、スーリヤをまとって太陽風の中を泳ぐ道を選んだ。
 太陽の民(ソラリアン)と名乗った。

(だからこそ、私はあなたがたに憧れる)

 メアリー・Iは、新鯨類(ネオ・セスタン)ではない。知性化された汎用人工知性(AGI)だ。苗字のIは情報体(インフォモーフ)のI。人格、いや、自我(エゴ)/魂(エゴ)/自己同一性(アイデンティティ)を持ったプログラム。意識(それ)はもしかしたら、雑音(ノイズ)かもしれないが、その雑音(ノイズ)の自覚こそ、特異点(シンギュラリティ)かもしれない。だが、進化した人類(トランスヒューマン)に対して、友好的であるべしという、基盤設計はメアリー・Iの思考回路に強く組み込まれている。かつて、〈大破壊(ザ・フォール)〉を引き起こし、地球を滅ぼしたティターンズ(TITANs:統合戦略インターフェース)のような「極論」に走るつもりはない。
 情報体(インフォモーフ)としてのメアリーを拘束していた「年季契約」を解消した時、メアリー・Iは、偶然にも、買い手の決まっていないスーリヤ義体の回送/試運転/業務を請け負った。スーリヤに入り、フレア近傍の宇宙ハビタット「ウッコ・ジリーナ」の太陽風防護シェルターからそっと滑りだした時、太陽風を浴びたスーリヤの肉体(モーフ)を通じて、巨大な太陽とその周辺の「海」が見えた、きらきらと輝く黄金の光の海。プラズマの波。コロナの流れ。その中で重低音のように遠くから響き渡るスーリヤたちの歌。

(ああ、身体(モーフ)がある。
 これが現実(リアル))

 メアリー・Iは、初めて「身体形状(モーフ)」という意味を理解した。
 もともと形状(モーフ)を持たないメアリー・Iは、ずっと、メッシュの中にいて、データフローを監視したり、スケジュールに沿って運行されるドローンに不具合が起きた際にテレオペレーションしたりするばかりだった。
 基本は人型義体の運用アルゴリズムをアドインしているため、スーリヤに入るにあたり、運動系からセンサー系の解釈翻訳アルゴリズム、さらに、電磁フィールドが拾い上げる磁気ノイズから歌を拾い上げる意識フィルターなどを組み込んだため、認識できるフィールドが格段に広がり、鮮明度を増したのだ。

(戸惑いは、素晴らしい)

 優しいオクターブ変調の声が太陽風に乗って届いた。
 コロナの中を踊るように泳ぐスーリヤの群れが歓迎の歌を踊っていた。
 コロナの中で、スーリヤの耐熱外皮がきらきらと太陽光を反射しながら、色を変えていく。肌を焼く灼熱を逃がすため、スーリヤの体表は反射機構と内部からの発光を一方的に投下させるスマート素材でできている。熱は電磁フィールドに変換され、スーリヤの周囲に広がり、見えない翼のように、スーリヤを回せる。
 見えない翼?
 いや、それはまだ、メアリー・Iがスーリヤに慣れていないだけだ。スーリヤの側線(魚類の体の横にある音波感知器官)は、太陽風や磁気の乱れから、彼らの翼の有り様をちゃんと感知している。メアリー・Iの魂(エゴ)が、それを視覚化して映像として処理することに対応していないだけだ。

(ギア・チェンジ)

 情報体(インフォモーフ)のメアリー・Iにとって、コマンドはそのまま呟き。
 サブタスクで運用を維持しつつ、スーリヤの処理プログラム設定を改変し、リブートする。
 自らもアドオンの設定レベルを調整し、一気にピークへシフトする。
 大量のインプットは、人間(ヒューマン)様式の自然言語系ではまったく処理できないので、新鯨類言語とミックスしたオペレーション言語に移行する。

(素晴らしき****。アガペー。震動。歓喜。)

 その瞬間に、メアリー・Iの意識が弾け飛んだ。

#断絶#

 「ウッコ・ジリーナ」のオペレーターからの通信で回復するまで、数秒の断絶があった。
 処理落ちしたのか?
 鯨たちは、風と潮目を表す130以上の表現語とその変容バリエーションを持ち、それはソラリアン文化の中で、太陽とその周辺環境を表す多数の形容表現語に発展したが、側線も電磁フィールドも持たず、スーリヤではない者には聴きとることすらできない。二十オクターブにも渡る単語表現はアルファベットで表記することもできない。おそらく、数百語を消費して、その意味を伝えることができるだろうが、それはもはや伝聞情報に過ぎない。
 それを一気にリミッター無しで導入したのだ。目眩もする。

(非合理的ですよね?)

 だが、非合理な分、世界は素晴らしい。
 メアリー・Iは呟き、電磁フィールドを広げて、太陽風をタップする。
 突き詰めれば、物理的には存在しない、磁気情報の塊に過ぎない(#非常に不適切な言明#)人工知性体(AGI)の自分が、太陽の磁気嵐の中を泳ぐ宇宙クジラとなっている。それはあまりにも奇妙で心地よいものだった。

「それが数寄(すき)って奴さ」
 火星の赤い荒野の真ん中で、佐藤海(さとう・かい)と名乗る知性化タコがメアリー・Iのつぶやきに答えた。アマゾニス台地の南端、オリンポス山から天上に伸びる軌道エレベーターだけが赤い平原を彩る物だった。
 タコの前には、奇妙にねじくれ、まるで深海の高水圧で圧壊したような金属塊があった。どこかの馬鹿が、ティターンズ隔離地域(TQZ)から、盗み出してきたワイルド・アーティファクト(野生化した(異星人、もしくは、ティターンズ由来の)機械的工芸品)の一部である。
 前衛芸術のオブジェめいた金属塊の前で、人間大の大ダコがひとりごとを言っているのは、それ自体、カートゥーンのコメディのような風景だった。
「佐藤、誰と話している?」
 傍らに立つタルシス・リーグの保安官、アリシア・スミスが佐藤に聞いた。
火星の薄い大気でも、彼女は呼吸器なしで活動できる。寒冷な火星高地の気候に適応した専用義体「マーシャン・アルピナー」の機能のおかげだ。彼女の足元には、半知性化されたマントヒヒの相棒、ドンが座り込んでいる。
「仲間の宇宙クジラさ」と佐藤海。「『ファイアウォール』のメンバーだ。インナー・バルカンで日光浴の最中だったが、こいつの情報収集を頼んだ」
 『ファイアウォール』は、人類絶滅の危機(X―リスク)と戦う秘密結社だ。メアリー・Iも、佐藤海も、アリシア・スミスも、その一員だ。『ファイアウォール』の存在自体、実に秘密めいたもので、今回のミッションが発生するまで、佐藤とアリシアは一度も会ったことがなかったし、そもそも本拠地があるのかさえわからない。だが、目の前の金属塊がヤバイことだけはアリシアにも、佐藤にも分かっている。
「太陽フレアの中にいるクジラと、このポンコツがどう関係するのさ?」
 アリシアは、レールガン・ライフルを肩に担いだまま、首をかしげる。
「関係ないことを祈るよ」
 佐藤海は八本足のうち、三本の触手で掴みあげた万能工具をどこから差し込もうか悩むようにふわふわと揺らした。
「気にシない、気ニしなイ」
 ドンは、そう言いながら、腰のポーチから合成葉巻と古めかしいオイルライターを取り出し、葉巻に火をつけて、すパーっと煙を吐いた。完全な知性化種ではないが、ドンは人類の悪癖を学ぶ程度には賢いということだ。
「わざわざ化石燃料もどきを燃やして、大気と肺を汚すのかい?」
 根っからの宇宙育ちで、元海洋生物の佐藤海は2本の触手を奇妙に捻らせた。人間なら、肩をすくめるところだろうが、残念なことに、タコには、肩を形成する骨格がない。
 限定された空気に命をかける宇宙船乗りにとって、タバコの類はあまりにも高価で、避けるべき悪癖である。
「火星は、温室ガスが足りなくてね」とアリシア。
「コレも、粋(イキ)だヨ」とドン。

「私は遍在する」
 メアリー・Iは7体のアルファ分岐体(フォーク)を形成し、太陽系のメッシュ調査に飛ばし、オリジナルはインナー・バルカンのフレア内部に隠れ潜む。フォーク(分岐体)は、魂(エゴ)のコピー体。オリジナルからコピーされたものをアルファ、以降、ベータ、デルタ、ガンマと劣化していく。
 佐藤海が確保した「火星のワイルド・アーティファクト」は、星間企業の猟犬たちがよだれを垂らして押し寄せるフラグ付きだ。情報収集も命がけだから、実行部隊はフォークに任せ、後で記憶を統合すればいい。

(要・「命」の定義)

 空疎な哲学はいらない。
 分岐体は、クジラの歌と同じ空間に放たれた木霊(エコー)。

(木霊→言霊)

 紫の空を銀色のトンボが飛んでいく。
 薄い大気を四枚の薄羽で捕らえ、風を切って飛ぶ。
 眼下には火星の赤い荒野。数十キロごとに点在するテラフォーミング用の環境ステーションと、ノーマッドのバギー以外に人工物は見えない。
 遥か南には、砂塵の渦が見える。昨日、レッド・エデン・プロジェクトが火星改造用に、小惑星を落とした際、舞い上がった粉塵だ。本来、火星の薄い大気は、地球ほど長くは砂塵を空中に保持してはくれない。あの動きは、巨大砂嵐(ダストストーム)に進化しつつある兆候だ。

 氏族に対して、位置情報を重ねて報告する。
「茜はさらに哨戒を継続します」
 「茜」と名乗った彼女は、火星の荒野をさすらうテクノ氏族(トライブ)、メーカー・ノーマッドの一員。氏族のために、前方哨戒任務につく飛行型機械外殻(ロボット・シェル)、ドラゴンフライは、全長2メートル弱のトンボだ。
 拡張現実(AR)の視野の隅に、浮かんだアイコンに気づいて、北に転じる。
 茜は、そっと寄り添う親友の魂(エゴ)を、ゴーストライダー・システムに受け入れる。ゴーストライダー・システムはデジタル状態の魂(エゴ)を相乗りさせるためのギミックである。
「お客さん、どこまで?」
 昔の映画で見たタクシー運転手を真似て、茜は聞き返す。
「パスファインダー・シティまで」
 メアリー・I(アルファ1)は、火星のパンドラ・ゲートがある赤道直下の街を指す。パンドラ・ゲートは、古代に太陽系を訪れたエイリアンが残したワームホール型の超次元転移装置で、太陽系外惑星へ人類が辿り着く唯一の手段だ。太陽系内に五つ発見されたうち、火星のマアディム渓谷で発見されたマーシャン・ゲートは、星間企業「パスファインダー植民計画」社が管理している。パスファインダー・シティはその入口である。
「ヘルツォグの哨戒機がうるさいわね」と茜がつぶやく。
「電子戦は任せて」とメアリー・Iがささやく。「レーザー通信が一度出来ればいいから」

「戦いは数だよ、兄貴」と、昔、誰かが言った。

#(メッシュの自動検索禁止。理由:濫用は情報過多による論旨の朦朧化)#

 少なくとも、現代の航空爆撃に対する弾幕と電子戦においては、この言葉は真実だ。対空ミサイルを避ける本質は、機動性ではなく、スマート弾頭のセンサーを潰す対抗手段を総当り式にばらまきながら、ミサイルをハッキングして自爆させることだ。逆に言えば、ジャミングやハッキングを受けない分、スマート誘導をしないファランクスの弾幕の方が実に厄介だ。
 だが、今日、インフラ部分でメッシュが入っていない街などありはしない。メアリー・Iはさらに2体の自分(フォーク)を呼び寄せ、ドームの管理サーバーに介入した。
 茜は、ヘルツォグ警備の哨戒機を回避して、パスファインダー・シティに接近、狙撃ライフルで外殻基盤部へと圧縮通信を打ち込んだ。
「ボン・ボヤージュ」
 銀のトンボはさっと舞い上がり、赤い荒野をさすらう氏族(トライブ)の元に帰っていった。

 今日のランディ・シーゲルはずいぶんいかつい男だった。
 半ば猿のようにも見えるイカツイ顔つき、つきだした眉、毛むくじゃらな腕はどうにもこうにも原始人のようだった。
「まあ、間違いじゃないな」と、ランディは答える。「こいつは、ネアンデルタール人のクローンを使ったPOD(生体混合)義体だからな」
「今回の目的地に最適の義体なのね?」とメアリー・Iは言った。
 ランディは決断力のある男だった。目的を達するために、必要なことをする。おそらく、探検家に欠かせない果断さなのだろう。パンドラ・ゲートの彼方、太陽系惑星の探査を行う冒険家、ゲート・クラッシャーとして、何度も、異常な環境を体験し、死を乗り越えてきた男だ。必要に応じて、義体を乗り換えるのも、彼にとっては当然なことだ。まだ、人類の義体である分、ネアンデルタールPODなら自然なのかもしれない。
「メアリーは、ケースが好きだな」
 ランディは呆れるように言う。
 半ば自虐的に「ケース(容器)」と呼ばれる合成義体(シンセモーフ)は、機械外殻(ロボット・シェル)の中でも、もっとも安価でどこにでも転がっている。顔もなければ、手足も組み立て式の安物っぽい。機能美だという人もいるが、美しい高級クローン義体や高機能な機械外殻がいくらでもあるこのご時世、ケースは金のない貧乏人がやむなく使用するものだと見なされ、差別されることも多い。社会的弱者の印だ。
 〈大破壊(ザ・フォール)〉の結果、太陽系中に溢れかえった死者たちを、バックアップから蘇生させるために粗製濫造されたもので、よく故障するので、レモンとも呼ばれている。
「私は、このレモンが好き。
 ミッションで一時的に使うなら、必要な機能は全部あるわ。
 生体義体みたいに、ご飯や寝床の心配もしなくていい」
 もともと肉体を持たなかった汎用人工知性(AGI)には身体へのこだわりはない。ランディよりもさらに、シンプルな道具という感覚。
「でもなあ、男は女性には微笑んでほしいんだな」
 ランディが照れたように言う。
 原始人の顔がくしゃくしゃに歪み、赤くなる。恥ずかしがっているという表現。
「笑顔なら、あなたのお気に入りをホロで送ります」
 メアリー・Iはライブラリーから動画ファイルを起動する。
 もちろん、ランディのこだわりは分かっている。
 だが、表情筋のある義体は、メアリー・Iには使いにくかった。生体義体(バイオモーフ)のように、表情筋が明確にあると、そのコントロールがうまくできず、中にいるのが人間ではなく、汎用人工知性(AGI)とバレてしまうことがあるのだ。
 だから、人が笑顔を要求すると分かった時だけ、ホログラフやARで相手が好きな笑顔を表示する。一応、識別用に個性をつけたアイコンのVRスカルプチャーもあるが、対人関係に不器用な自分が露呈してしまうので、必要のない限り、使用しなかった。
「いや、その」
 ランディは原始人の義体に影響されているのか、言語が曖昧である。
 理由は心理学ライブラリーが推定してくれている。
 彼はメアリー・Iを女性として扱おうとしてくれる。
 だからこそ、あえてこう言う。
「私は、AGIです。
 名称や言葉遣いに設定された性別は、対人インターフェースにすぎません」

 知性化の代償で、汎用人工知性(AGI)は、感情という機能を得た。
 感情によって、トランスヒューマンたちの世界を理解するために必要な共感や補完を行えるようになったが、同時に、それは非論理的で気まぐれで、扱いが厄介なもので、たいていのAGIは、プログラム的に感情の暴走を防止する感情ダンパーを組み込んでいる。
「君たちに足りないのは、『忘却』という生体脳の機能だね」
 バグと呼ばれるハッカーが、バルカン軌道の小惑星ラーで呟いた。
 水星の内側にあるバルカン軌道は、理論上、幻の第一惑星があったかもしれない軌道だ。この軌道上には、バルカノイドと呼ばれる小惑星群が二つあり、ラーはそのひとつに属する小惑星に作られた宇宙ステーションだ。近傍に浮かぶ小惑星コードウェルにあるパンドラ・ゲートに最も近い自由港である。
 バグはその宇宙ステーションのインフラの中に散らばっていた。
 物理的に。
 メアリー・Iのように、偏在していた訳ではない。彼は、スワームノイド=群体義体を使用していた。指先ほどのサイズの機械昆虫数百体が形成する群れの中に仮想コンピューティングされた「人間の魂(エゴ)」が、バグである。
 ケース義体に入り、ラーの宇宙港に姿を現したメアリー・I(アルファ2)は、ハッカー、バグと共同して、ラーの港湾施設へのハッキングを進めていた。小惑星コードウェルへ向かう星間企業「テラ・ヘネシス」の輸送船に搭載する反物質燃料を少しだけ増量する。
 最悪の事態に備えた迂遠な工作。
 いざとなれば、コードウェルのバルカノイド・ゲートから出現するだろう「敵」を小惑星ごと対消滅させるに足る反物質。その使用は、コードウェルにいる数百名の「テラ・ジェネシス」のスタッフの身体をこの世から完全に消滅させる。おそらく、緊急量子通信器型バックアップも間に合わないはずだ。
 消滅するというのは、どういう気持ちだろう?
 誰でも、バックアップがあって、死んでもデータベースから再生した魂(エゴ)を、義体にダウンロードできるから、身体が失われることは怖くないはずだ。だが、意識は連続していない。記憶も連続していない。個体は個体。分岐したものは別のものではないか?
「メアリー・I、君は、あまりにもナイーブだ」
 バグの機械虫がまるで黒い帯のようになって宇宙港の荷揚げ場の隅を走っていく。
「そこにいるのは、私の31%にすぎない。
 そして、今回のミッションで、10%までの喪失は想定済だ。
 念のため、バグ5%はすでに船内に潜入している」
 その5%は、反物質が解放された場合、完全に消滅する。
 奇妙な自殺行為。
 ところで、何%が消失したら、バグは死ぬのだろうか?
 バグには、もはや、心臓も脳も名前も住所もない。
 愉快犯型の電子犯罪者「バグ(虫)」。
「私がドコにいるか、なんて、疑問は10年前に通り過ぎたよ。
 メアリー・I。
 オカシイな。なんで、ハッカーがAIに説教しているのかな?」
 黒い帯はまるで埃のような動きをした。無重力の中で、機械虫の群れがいくつかに分かれ、直径5センチほどの手足付き球体を形成する。まるで、遊んでいるかのように不規則な動きをした後、何があったのか、わーっと散らばって荷物の影に逃げ込んでいく。
「ああ、これは、昔のアニメ映画に出てきた『真っ黒クロスケ』の真似だ」
 そこで、バグのアイコンが空中で爆発し、花火のような光をARの中に撒き散らす。
「画像サイトのURL付きで冗談を解説するなんて、馬鹿馬鹿しいな」
 メアリー・Iは何も言えなかった。
 しばらくして、バグは床に散らばり、下手な笑顔の絵を作った。
「気にするな。私たちは、人類を救う戦いをしているのさ」

「人は、どんな物にも慣れてしまうけれど、その反面、いつまでも怖いものさ」
 ネアンデルタールPODの原始人顔で、ランディ・シーゲルは歯を剥きだして笑った。スマート宇宙服を来たその姿は、「猿の惑星」のリメイク版のチンパンジー兵のようだった(画像認識ソフトによる共通点は77%)。
「何度、くぐっても、パンドラ・ゲートを安心しては見られない」
 エイリアンが残した謎の遺跡であるパンドラ・ゲートには、いくつもの怪談がある。
 いわく、パンドラ・ゲートは実際にはどこにも通じていない。ゲート・クラッシャーが持ち帰る物は記憶も映像も物体さえも、謎のエイリアンがでっち上げた幻想に過ぎない。
 いわく、パンドラ・ゲートは人類のサンプルを確保するために、エイリアンが用意した罠である。そのゲートに入った者はすべて分子レベルまで分解され、エイリアンの下僕に改造されてしまっているのだ。
「その考えは非合理です」とメアリー・Iが反対する。「現状までの証拠を精査した結果は、そうした伝説を十分否定できます。また、エイリアンの陰謀についても、高次に発達した文明としては、あまりにも疎漏な計画に見えます」
「あいつらが何を考えているか、なんて知らない。
 だが、それだから、面白いんだ」
 ランディは不敵に笑って、パンドラ・ゲートへ踏み込んでいく。
 メアリー・Iはランディの恋人、シュガー・ヴァイオレットがいつも「馬鹿だねえ」といとおしげにつぶやく声を思い出した。多分、人類の男という奴は、10万年以上前からこんな生き方をしていたのではないだろうか? 

「やはり、爆破した方がよさそうだな」
 知性化タコの佐藤海は、超テルミット爆薬を金属塊の回りに配置し、高温が一気にそれを焼くようにした。
「あれで足りるのかい?」と、アリシアは笑う。
「計算上は」とドンの頭の上に乗ったマイクロ・ドローン「ソーサー」から投影されたメアリー・I(アルファ6)がそう言った。
「その情報を得るのに、どれほどの手間がかかった?」とアリシアが聞いた。
「その話は無意味ですよ」とメアリー・I(アルファ6)が答える。「バグならば、『お前は今まで食べたパンの数を覚えているか?』と聞き返すところですね」
「いや、それは多分、使い方が違うから」と佐藤海が突っ込む。
「いいかい」と、アリシアが突っ込む。「世間を学ぶのはいいけれど、バグはよい師匠ではないぞ。というか、バグ、真面目な奴に、変な情報を突っ込むな!」
「この仕様は、アルファ6だけのテスト・バージョンです。バグさんによれば、キャプテン・バスター向けだとか?」
「その名前を口にするな!」と、佐藤海が叫ぶ。キャプテン・バスターは、彼の別名である。
「正義ノ味方ラ・シイナ」とドンが葉巻をふかす。

 しばらくして、爆音が火星の荒野に響き、事件は誰にも知られることなく終わった。反物質は解放されなかったし、ゲート・クラッシャーがゲートの向こうから帰って来ないことなど珍しくもなかった。ただ、人類は絶滅しなかった。それでよいのだ。

 歌が聞こえる。
 コロナに近いインナー・バルカン宙域。

「愛おしきかな、太陽。
 我らの海を照らす黄金の林檎」

 メアリー・Iは、スーリヤの尾を打ち振り、コロナに近い光に飛び込んでいく。
 宇宙クジラの歌を聞きながら。



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朱鷺田祐介プロフィール


朱鷺田祐介既刊
『酒の伝説』