
*本作にはSF Prologue Waveに掲載した作品(「卵少女」【←リンク(https://prologuewave.club/archives/10554)をお願いします】、「落花生」【←リンク(https://prologuewave.club/archives/9217)をお願いします】への言及があります。未読の方は、是非ご一読ください。
愛宕山のみはらし台で、ウイスキーの小瓶を傾けながら、甲府盆地を見ていた。いつの間にかベンチの隣りに見知らぬ男の子がちょこんと座っていた。
「いただきー」
ウイスキーの小瓶を奪い取ると、口に運んだ。あっ、と止める暇もなく口に含み、すぐに私に向かって吐き出した。
「こんなまずいもの、毎日毎日。これをやめれば、もっと書けるって。せっかくそっちに居るってのに」
「そんなこと誰が言ったんだ」
「かあさんさ。他の人たちだって」
カッと来た。小瓶を奪い返して起ち上がると、男の子は背中を向けて逃げた。
「かあさん助けて、かあさん」
追いかけて角を曲がったところに、一人の女が立っていた。男の子はその女の腰に抱きついていた。
「きみは!」
以前『卵少女』という短編を書いた。詳細についてはSFPWで読めるので一読してもらいたい。私の著作『甲府物語』を読んだという少女から「会いたい」と呼び出され、少女が指定した場所がここ、みはらし台だった。
赤池聡美と名乗ったセーラー服姿の少女だったが、男の子が駆け寄った女性、豊かな黒髪をあげて、質素ながら端正な着物を着た三十路らしい女は、面影があるどころか赤池聡美に他ならない。
「赤池聡美さんですね」
「そんな名前じゃありません」
躊躇(ためら)いがちに俯くと白い項(うなじ)がまぶしい。
「いいえ解ります。あの時、ここで出会って、しかし突然消えてしまった。あれ以来、どれほどあなたに会いたかったか。しかしあなたを探す術は、私にはなく、ただこうして、この場所に来るしかなかった」
「かあさん、まだ明るいってのに、お酒飲んでるんだよ。臭くて臭くて、とても近くには居られなかった」
私を見つめる聡美、姿形や年齢こそ違え、見れば見るほど他人の空似などではないとこころに響いてくる。
「カチカチカチ」と拍子木の音がした。いつの間にか別の場所にいた。見覚えがある、遊亀公園だ。「はい、紙芝居だよ!」との声につづき、甲州弁まじりに紙芝居「黄金バット」がはじまった。見てくる、と男の子は駆け出し、他の子たちに混じって紙芝居の前に陣取る。いつの間にか、その手には水飴のついた割り箸が握られている。
水飴のように溶けている空間と時間が入り交じった中、しかし私の前には聡美が居る。私の思いが通じたなどと自惚れるつもりはないが、思いだけでは同じ甲府盆地に居るとしても出会える訳がない。彼女も私との再会を願ってくれたから。そもそも私に会いたいと思ってくれたのは彼女のほうだったのだ。
「あの子が、あの時、あなたのお腹に宿った卵だった……」
女は答えず、腰を捻って、紙芝居の方へ見返り、つぶやいた。
「あの時がはじめてではなかったんですよ」
言っている意味がわからずに黙っていると、彼女は言葉をつづける。
「いろいろありましたが、私は一人であの子を育てる決心をしました」
「なぜ、どうして……」
私が言葉に詰まった時、彼女の顎(あご)が微かにだったがぴくっと動いた。私を見つめる瞳に見る見る涙がにじむ。
「わからないんです。本当にあの卵がなんだったのかも。ただあなたに会ったことだけが、あの頃の私でなくなった今も、私の中に残っている。あのとき、なぜか解らなかったけど、この人に相談しなくては、いいえ相談なんかではなく、どうしても会いたい。どうしても。ただ、そう思って……」
とたんにそう遠くない場所から、獣の遠吠えが聞こえた。それに呼応するように紙芝居を見ていた男の子が、駈けてきて、どんと頭から私に体当たりする。尻餅をついた私を男の子は睨みつけながらも、両手を広げて、女の前に立った。私が動こうものなら、再度体当たりでも仕掛けてきそうだった。
「ウリ、止しなさい」
「でも、かあさんを泣かせた」
「お話ししたでしょ。あなたにも、いつかこの町を舞台にした物語を紡ぎ出せるようになってほしいって」
「やだ」
「何を言うの?」
「こっちで、かあさんといっしょにいたい」
「わたしだって、またきっと。そうして……」
言葉のつづきを待ったが女は口を開かなかった。潤んだ瞳で私を見つめている。その熱さに負けたわけではないが私は話を変えた。
「ウリ、というのかい?」
男の子は顔つきをいっそう険しくして、私を睨んだ。見返すうちに、ある記憶が浮かんでくる。見覚えのある顔、どこかで見た顔。そうだ『ふみちゃん』。幼い頃、地元放送局でカメラマンをしていたKさんが私の写真を撮り、それが賞をとって県民会館に展示された。私の記憶ではなく姉たちから聞いた話だ。
「びっくりしたわよ。『ふみちゃん』って題名がついて、飾られていたんだから」
そう言われて、嬉しいような恥ずかしいような気持ちで何度も見た、その写真にそっくりに思える。
「もしかして、君は私の……」
以前SFPWに「落花生」という作品を寄稿した。短篇集『甲府物語』にも収録されて、聡美だった彼女も目にしているはずだ。多分に梶井基次郎の「檸檬」に感化された作品だが、その時カットした文章が脳裏を過ぎる。甲府の街を描写する手本として「檸檬」にある文章そのままだったり、酷似し未消化だったりする部分もあるが、あらかじめ断った上で記載する。
◇ ◇
雨風や歳月に蝕まれて、再開発から取り残され、ほどなく廃墟となってしまう、そんな趣のある街、くすんだコンクリの壁は落書きと剥いだポスターで埋まり、あちこちえぐれて崩れ落ちそうで、その奥の木造家屋も傾きかかっていて、そのくせ、錆びたベランダに置かれた植木鉢のカンナが咲いていて、そこだけ色彩を浮かび上がらせていたりする。
そんな裏春日の狭い通りを歩きながら、ふと、ここが甲府ではなく、甲府から何百キロも離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。私は、できることなら甲府から逃げ出して、誰一人知らないような街へ行ってしまいたかった。
私はまたあの県立美術館が好きになった。常設展示されたミレーの「種を蒔く人」をはじめ、バルビゾン派と称されるヨーロッパの画家たちの絵画は、病んだこころに郷愁として染み入り、幼かった頃の甲府の街と重なり、変に私の心を唆(そそ)った。
それからまた飯田八幡神社の縁日で売っていた水飴が好きだった。一抱えほどもあるブリキ缶に入れられた透明な水飴に一本の割り箸を二つに折って差し入れ、一塊の水飴をすくい上げる。それに脇に置かれた食紅をちょんちょんとつける。色は紅だけでなく黄色、緑、青もあった。テキ屋のおじさんに何色とぶっきらぼうに訊かれ、色を答えると、それをちょんちょんとつけると折った割り箸を一本ずつ左右の手に持って、ぐるぐると掻き回すうちに、わずかな一点だったその色が全体に広がり、宝石のように輝き出す。
ほどよく混ざったところで手渡されたそれをすぐにでも甘く味わいたい気持ちを抑えて、日に翳(すか)したり、目を近づけて、しばらく楽しんでから、舐めてみるのが、なんともいえない享楽だった。それも水飴の塊を口に軽く含み、幽かな涼しい硬さといったら他にあるものか。幼い時よくそれを買い、口に入れては母に叱られたものだ。食紅が毒だと言うのが理由らしい。だが、その幼時のあまい記憶が大きくなって落ち魄れた私に蘇えってくるせいだろうか、まったくあの味には幽(かす)かな爽やかななんとなく詩美と言ったような味覚が漂って来る。
生活がまだ蝕まれていなかった以前私の好きであった所は、たとえば駅前にあった山交百貨店であった。甲府の老舗と言えば岡島百貨店なのだが、子どもの足では距離があった。飯田通り沿いにあった私の家から山交百貨店なら子どもでも一人で歩いていける距離だった。駅前にある山交百貨店も当時はかなりの賑わいであった。赤や黄のオードコロンやオードキニン。洒落た切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。煙管、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費やすことがあった。
母や姉と行って、買い物に付き合うほどの退屈はなく、それらの品々が憎しみの対象でしかないのに、一人できらびやかな店内に足を踏み入れると、それらは一変し、私のこころをとらえ、時めかせた。そして結局、わずかな小遣いで、一等いい鉛筆を一本買うくらいの贅沢をするのだった。しかしここももう今の私にとっては重くるしい場所に過ぎなかった。山交百貨店はすでに閉店し、ヨドバシカメラとなった店内は、昔に劣らぬ華やかさだったが、それらがみな、不筆の元凶のように私には見えるのだった。
◇ ◇
赤池聡美に会った後。私の中で変化があった。変化というのとは違う。長い間ずっと忘れていた。接点がなかったわけではない。しかし彼女が女子高生でセーラー服で通学していた頃、私は生まれていたかどうか、生まれていたとしてもまだ幼く、とても対等の話などできるはずはなかった。そうか、中楯プールに行ったとき、出会ったのはもしかして。
住んでいた飯田町の家から、子どもの足で二十分はかかった中楯プールで、近所に住んでいた中学生だったお兄さんに連れていってもらったはずだ。遊んでいたとき、私はその年上の少女と会った。六、七歳だった私より、十歳は年上だっただろう。私がついつい見つめているので、それに気がついた少女は「どうかしたの?」と声をかけてきた。私は「似ているなあ」と見つめつづけた。
「あたしが誰に似てるの?」「ジュリーに」当時、人気絶頂だったザ・タイガースのジュリーこと沢田研二に似ている。彼女は意外だったのか、それとも言われたことがあるのか。男女の違いはあれ、悪い気はしなかったらしく、むしろ笑顔で「ありがとう。うれしいわ」と言ってくれたのが、記憶の底から浮かび上がってくる。するとその記憶とどこかで結ばれていたかのような、もっと遠い記憶、といって良いものかもわからないけれど。
葡萄娘。
お蚕さん。
お屋形さま。
さらに過去にまでつながっている。つながっていると解るのだが、どんよりと暗い中、それらは濁った沼の底につづいているかのようだった。しかし沼などではないと、私の中にある思いが告げている。それはたとえて言うならば、時間という流れの中に沈み、その先がどこまでつながっているのか解らないが、先にあるものが何であるか、微かなパルス信号のように、神経に伝わってくる。彼女だ、赤池聡美、否、その名前で呼ばれたのはごくごく最近のことで、それ以前の様々な境遇で生まれ育ってきた彼女なのだ。一点つながっているのはこの地で生まれ育ち、また私も、私という以前の存在だった男も、この地で生まれ育っていた。そして知り合い、こうしてつながっている。
「出会って、どれだけの時間が経ったんだ?」
私の問いに、彼女ははっとやや厚ぼったいが愛らしい唇を開き、私を見た。その黒目がちな瞳に一気に吸い込まれる気がした。その奥に、過去が、私との関係が潜んでいる。どんどん瞳の奥に視線を進めていけば。
「だめです」
彼女は目を閉じ、うつむいてしまった。
「お願いだ、知っているなら教えてくれ」
「できません」
「なぜ?」
「それは……」
「わかった。それなら君の瞳を覗かせてくれ」
うつむきかげんに佇(たたず)む彼女に近づき、その両肩に手を置いた。
「顔を上げて」
顎に手を当てて、顔を上げさせる。もう一度、お願いだとくり返した。彼女の瞼が震え、微かに開き、その奥の瞳が覗いたとき、私は腰砕けになって、倒れてしまった。男の子がまたしても私に体当たりしてきたのだ。
今度はカッとなって、男の子を見つめた。場合によっては、取り押さえ動けなくして、その間に彼女と。しかしできなかった。眼前に立つ男の子の瞳から、止めどなく涙が溢れていたのである。
「これ以上、かあさんを苦しめないでくれよ」
「苦しめてなんかいない。ただ知りたいんだ。これほどまでに強い絆で結ばれていた人が私に居たことを」
「だったら、いっしょに来ればいい」
「いっしょにって」
何処へとまでは訊けなかった。その答えは訊く前に私の中で響いている。それでも自分でも信じられないくらい恐ろしさは沸いてこなかった。むしろ、そうした方が良い。ただ飲んだくれて、書けもしない創作にしがみついているよりも。
「わかった。そうするから――」
「だめです」
私の言葉を女がさえぎった。
「どうして? 君もそうしてほしくて、私の前に現れたんじゃないのか」
「そうじゃありません。ただ……」
「ただ?」
「ただ、どうしても会いたくて。ウリにも会ってほしくて、それで」
「それじゃ、この子は私とあなたとの……」
「ちがいます。あなたを思いつづけ、それで出来た子にはちがいありませんが」
「今の私の子だと言ってるわけじゃない。以前の、なんと言えば良いんだ、私だった男とあなただった女との間に」
「やめてください。そんな話はしたくありません。今こうして会っているのに」
女は少年の後ろに寄り添い、小さな肩に両手を置いて、言葉をつづける。
「あなたが書いた『甲府物語』を目にしたとき、あなたの中にまだ記憶のようなものが残っている、つながっている。もしかして待っていた時が来たのかしら。そう思ったら、どうしても会いたくて」
「それなら」
「いえ、間違いでした。そして今回、こうして現れたことも」
「いいや、間違ってはいない」
私の言葉に彼女は顔を上げた。私たちは見つめ合った。そして気づく。彼女の瞳の奥に潜んでいる絆が、時間の壁を越えてつながっている、少しも途切れていないことに。
「とうちゃん」
ウリが私に抱きついてきた。私はその小さな身体を全身で受け止めた。しかし、力を込めようとすると、私の両腕は、その身体を通り抜けてしまいそうになる。思わず苦笑した。体当たりは出来るくせに、抱けないなんて。
ウリ自身も、それに気づいたのだろう。私から一歩離れ、ごめんなさいとつぶやく。
「わかった」
私は立ち上がった。本当は何もわかってなどいない。何一つ理由はわからなかったけれども、私はこの世界に居てはいけない男なんだ。少なくともそれを望んでいる。
「ありがとうございます」
女が言った。男の子は泣き笑いするように複雑に、唇を振わせ、私に訊いた。
「帰っちゃうの?」
ウリに言われると、途端に決心したはずのこころが揺さぶられる。やっぱりいっしょに行こう。このまま、この親子と暮らそう。酒なんか飲まない。二人のために働きながら、筆を執ろう。そんな思いを、知らず知らずに口走っていたらしい。
「だめです」
女が首を横に振った。
「どうして」
「物語を紡げるのは、こっちではありません。そっちだけなんですから」
その一言が私の心身を打ちのめした。酒はどうでもいい、しかし――。
「帰りましょう」
ウリの小さな肩を抱き、私に背中を向けて歩き出した。ウリは振り返ったけれど、女に促され、私から去っていく。
「待ってくれ」
二人が振り返る。ウリに向かって微笑み、彼女を見た。ありがとう、と作り笑顔だったが微笑むと、彼女も同じようにぎこちないけれども笑い返してくれた。
◇ ◇
甲府の火事は、沼の底の大焚火(おおたきび)だ。……けだものの咆哮の声が、間断なく聞える。「なんだろう。」私は先刻から不審であった。「すぐ裏に、公園の動物園があるのよ。」〈太宰治「新樹の言葉」〉
さらにまた聯合機の攻撃はこれまでの東京の例で見ても、まず甲府全市にわたるものと覚悟しなければならぬ。……甲府には、医者が無くなる。そうすると、この子は失明のままで、どうなるのだろう。……子供たちはもう蒲団の上におろされて、安眠している。親たちは、ただぼんやり、甲府市の炎上を眺めている。〈太宰治「薄明」〉
◇ ◇
みはらし台に戻っていた。甲府盆地を見下ろす恰好で立っている。甲府の街が踊っていた。モノクロで鉄砲水に飲まれていく家々、軍配団扇を手に人びとを鼓舞するお屋形さま、賑やかな町中には店に明かりが灯り、着飾った男女が生き生きと闊歩している、昔の桜座か芝居小屋から歓声が聞こえてくる、甲府電気館と看板の出た映画館から笑顔で人びとが出てくる。色も音も時代もすべてが混沌とした盆地の前に、女とウリが立っている。女の思いが伝わってくる。
「わかっていただけたはずです。まだそっちでやることがあるって」
わかっている。しかしできないから、うまくいかないから苦しいからつらいから、それでも私はまだ――。首を縦に振ると二人そして盆地に背を向けて、歩き出した。夢見山まで行って頭を冷やそう。
〈できることなら甲府から逃げ出して、誰一人知らないような街へ行ってしまいたかった。〉
とんでもない気の迷いだ、勘違いだった。私が生きられるのは、ここしかない。この地が、この地に生きた人びとが、こんな私を生かしてくれている。視界が滲み、図らずも慟哭した。
「私を迎え入れてくれるただ一つの故郷よ。私はここにしがみついて――」
彼女、あの子は故郷がくれた……。私に生きて、書けと。
ウイスキーの小瓶の蓋を開けようとしたが、脇の茂みに放り捨てた。背後から伝わる喧噪を、思いを、混沌を、背中で感じながら、振り返らず、歩を進めた。断ち切ったわけではない。むしろ蜘蛛の糸ほど細いかも知れないが、決して切れることのない絆を満身に感じながら。(了)
