
「カルタゴ:消えた商人の帝国(第12回)」服部伸六
VII カルタゴの教訓
●国境のない宗教文化
●人種偏見のよりどころ
●セム種という分け方への疑問
●フェニキア人の末裔
●日本人は魚くさい
●差別のない世界へ向けて
[太字→]VII カルタゴの教訓
国境のない宗教文化
今まで見て来たように、カルタゴが栄え、そして亡びた、キリスト教以前の古代には人種上の偏見はほとんどなかった。
なるほどホメロスのいう「強欲なイカサマ師」とか、またプラウトゥスの芝居の中の「ググワ」とかいう評判は、褒め言葉ではない。だからと言って、根絶やしにしなければおさまらないというほどの強烈な憎悪でもなさそうだ。ローマ人の敵とされたのは海上の覇権を誇っていたカルタゴ人であって、バールやアナトという神々を信仰する異文化の住民ではなかったのだ。その証拠にカルタゴから持ち帰られた文化遺物はローマで珍重されたし、アナトを祀る神殿もローマに造られた。また、ローマの東方の護りであったレバノンのベッカ高原にある壮大な神殿は「バール・ベック」と名づけられもしたのである。それは別の名を「ヘリオス神殿」とも呼ばれてバールがヘリオスと同格であることが認められていたのである。神々には国境はなかったのだ。
ジェローム・カルコピーノが引用している、ハンニバルとマケドニア王フィリップ五世との同盟条約の前文を見れば、古代人のこのような宗教観をうかがうことができる。
「ゼウスとヘラとアポロンの前で、カルタゴ人の神々とヘラクレスとイオラオスの前で、アレスとトリトンとポセイドンの前で、われらと共に戦う神々と太陽と月と大地の前で、川と湖と海洋の前で、カルタゴの主人である神々の前で、マケドニア及びギリシア全土の主人である神々の前で、遠征に参加した諸人民の前で、それらの神々の主宰の下で、ハンニバル将軍は誓う……」
と、その条約は始められている。何とまあ、思いつく限りの神の名が並べられたものだろう。この前文を見る限りカルタゴ人の神バールがローマ人の神になったとしても、それはいささかも不自然ではなかったのである。いや、もっとつきつめて、ギリシア人やローマ人の神の根源[オリジン]がエジプトやバビロンにあったとすれば、ローマ人にとっても、カルタゴ人の信仰の対象だったオリエント生れの神は自分たちの神とは異神とはみえなかったのかもしれない。人種偏見が古代にはなかったのは、こういう宗教意識と一致していたものであろうか。このことを、いまの言葉でいえば異文化意識は存在しなかったのだ。
だが、それにしてもなぜ、その後の歴史のなかでカルタゴは不当にも無視されてきているのだろうか。
人種偏見のよりどころ
この本のはじめのところで私は、ザマの古戦場を視察したときのウィンストン・チャーチルの感想を引用しておいたが、それは西欧人の常識ともいうべきオリエントの民に対する西欧人の優越感、すなわち人種偏見のごくありふれた姿を知っていただくためであった。
西欧人優位、あるいはインド=ヨーロッパ人種の優位という常識に対して矛盾するものが生れてくると、それは何となく変な目でみられた。T・E・ローレンス (アラビアのローレンス) の場合がそうである。彼の奇矯な行動は、彼がある有名人の私生児であったという特異な生い立ちから説明されるという塩梅[あんばい]である。
そういう西欧人の偏見の根には、2000年もまえのイエスの磔刑事件があるのではなかろうか。
『キリストはなぜ殺されたか』(J・カーマイケル著、西義之訳、読売新聞社刊) という本がある。その中で、イエスはローマの政治的な支配の論理に対して「神の律法」を主張し、「神の国が近づいた、悔い改めよ」と真向うから抗議したから殺されねばならなかったのだ、と述べられている。著者は、その論拠を長ながと推理しているが、それは次の短い文章に要約できるだろう。
「ユダヤ人たちは、イエスを殺す何らの理由もなかったし、また実際に殺しもしなかった。殺したのはローマ人なのだ。」
エルサレム占拠という武力革命を煽動したというので、ローマ人はイエスを亡き者にするため、自ら手を下さず罪をユダヤ人に着せようと、目論んだ、というのがカーマイケルの推理である。
西ヨーロッパ人のユダヤ人憎悪は、「政治的人間」であったローマ人の企みに由来していると、婉曲に示唆しているかにみえる。
このようなユダヤ人嫌いが、その後、何世紀かを経て噴き出すのがヒトラーのユダヤ人虐殺である。ユダヤ人憎悪がどのようにして西欧人社会に入りこみ、そこに毒素を振り撤いたかについては次節で述べるが、ナチスの悪業に対するユダヤ人の怨念は四十年を過ぎた今でも消えることはない。
その鮮やかな例証は、1985年のボン・サミットに際して期せずして起った出来ごとだった。五月八日はベルリン降服の日に当っていた。西ドイツ首相のコールは折からサミットに参加のため来ていたレーガン米大統領をビットブルクにあるドイツ軍兵士の墓参に連れ出すのに成功した。ドイツの古傷の罪悪を忘れて貰う公然たる儀式とすれば成功のはずであったが、そこには落し穴が待っていた。ビットブルクには旧ナチスの親衛隊の墓もあるということがわかり、米国のユダヤ人の勢力の強い社会で非難の声が巻き上がったのである。ナチスの亡霊がまだ生きていたのだ。それに最近のワルトハイム元国連事務総長の場合をみれば、ますますはっきりする。
カーマイケルの前記の本は、訳者の「あとがき」によると、いったん本になったものを、西ドイツの週刊誌「デア・シュピーゲル」が連載し、多くの読者の関心を集めたということである。このことは旧ナチスの古傷が忘れられず、未だにドイツ国民の心に残っている証拠でもあろうか。
そこへ行くと日本人は忘れっぽい楽天家と言ったらいいのだろうか。日本帝国主義の被害を受けた隣国からの批判がないと、古傷を思い出そうともしないのだ。まして、押しも押されぬ経済大国になりながら、国連憲章の「敵国条項」は未だに手つかずであるということだし、大国として当然占めていいはずの国連安保理事会の常任理事国の椅子を得ることができず、非常任理事国の改選のたびに票集めに右往左往する始末である。
セム種という分け方への疑問
ユダヤ人嫌いは、また拡大されてセム嫌いにまで至ることがある。フェニキア人もユダヤ人も、またアラブ人も、このセム種のなかに包み込まれて、インド=アリアン種[編註 : 一般にはアーリア人種と表記されている]の差別の対象となっている。
そして、世界征覇を志していた「政治大国」ローマの進路をはばむ邪魔者として抹殺の憂き目に逢ったのが、ユダヤ人とカルタゴ人である。ユダヤ人はそのあと世界各国をさ迷い、いわゆるディヤスポラの民となったが、それでも周知のとおり天才的人物を多数生んだから、ユダヤ人の関与なしには現代文明はあり得ないと考えられている。しかるにフェニキア人は抹殺されたまま、その血を受け継ぐ子孫は、あたかもないもののように思われ、カルタゴという古代の大国があったことさえ疑われる始末である。
私はさきに、アラブ史家ピエール・ロッシの説を紹介しセムという人種差別がドイツの学者の説に由来したことを記しておいた。
ピエール・ロッシは、また「イスラム百科全書」という古文書を持ち出して、この百科全書の編纂者自身アラブ人でありながら、そのなかに「セム」という項目が見当らないことを指摘している。つまり、セム種という区分やセム種排斥は近世になってからの人為的な創作だとしている。
ところが、この人種差別思想を優生学という、科学の裏づけがあるかのような装いをこらして登場したのが、ゴビノ伯ジョゼフ・アルチュールというフランス人だということである。
この男は人類学者を自称しているものの本来は哲学に親しんだという外交官である。19世紀の半ば、ちょうどダーウィンの『種の起原』が発表される三年まえ「人種不平等に関する考察」という論文を発表し、インドの北方に紀元前2000年のころ住んでいたというアリアン人という種族を「創作」したのである。この種族が世界文明の[太字→]母体[太字→]となった文明を作っていたが、そのなかで最も純粋のアリアン人文明の継承者がゲルマン民族であったと言い出した。
しかしゴビノ伯自身は反セム思想をもってはいなかったといわれるが、その後反セム、反ユダヤ思想を立てて世論を迷わしたのは、これもフランス人のヴァシェ・ド・ラプージュという人物である。1854年生れのこの男は、医学、言語学、動物学などあらゆる学問分野にわたって学識を深め、モンペリエ大学図書館の司書をしたことのある、今でいえば学際に跨る知識人だった。彼はダーウィンが動物学で試みた進化論の「自然淘汰」という概念を人間社会に応用して「社会淘汰」という概念を導き出したのである。彼の著作『アリアン人種の社会的役割』と『人種と社会環境、人類学論考』が出版されたのは1896年だった。彼の説によると、北方民族が人類のなかで最もすぐれた文明を造り得る能力のある種族で、黄色人種、黒色人種は、この北方白色人種に奉仕して役立つ限りにおいてのみ有用であるという、極端な人種差別論を展開した。
またラプージュは、ユダヤ人はアラブ人と同種族に属しながら、中東世界から世界の各地に移民して、新聞をはじめ銀行、商業の分野で重要な役割を占めるようになり、そしてアリアン人種にとって恐るべき脅威となっているとの論説を発表した。彼の論文はドイツで発行されていた人類学誌に掲載され、ドイツ人から熱い共感をもって迎えられたという。
彼の論文を読んだドイツ皇帝、ヴィルヘルム2世は「フランス人には偉い人物がいるものだ」と、あるフランス人に語ったという。そのフランス人は、そんな人物は知らない、と答えると皇帝は「きみはヴァシェ・ド・ラプージュを知らないのかね」と言って、そのフランス人の無知をなじったという話が伝えられている。
ヒトラーは1924年から二年間の獄中生活のなかで『わが闘争』を書いてアリアン人種の優秀性を説き、ユダヤ人種の存在はアリアン人種の血を汚すものだと糾弾したことはつとに有名である。彼の思想の根底をなしたのは、ダーウィンの進化論の思想が歪められた形で生れたネオ・ダーウィン主義の教義だったのである。この思想によって、優秀民族は劣等民族を支配する権利があるという狂信にまで発展することになった。
以上、私は近代の人種差別論が生れるいきさつを略記したのだが、じつをいうと、これはコレージュ・ド・フランス教授のジャック・リュフィエの近著『生命あるものについての考察』(Jacques Ruffié 《Traité du vivant》Fayard, 1983) の進化論に関する部分の要約である。彼は結論としてこう書く。
「ダーウィン主義、とくにネオ・ダーウィン主義を振りかざして、われわれの世紀を最悪の惨虐にみちびいた人種差別論をつくり出すに至った人たちがいる。
だが、その理論が乱用されたからといって、チャールズ・ダーウィンの、特に優れた精神を尊重しないというのは間違いである。彼なくしては西欧思想の歩みは、現在のごときものにはなっていなかっただろうし、極めて貧弱なものとなっていたに違いない。」
ここで「人種差別論を作り出した人びと」といわれているのは、さきに上げたゴビノ伯やラプージュなどのネオ・ダーウイン主義者たちのことである。
この思想が19世紀末の帝国主義的領土拡張戦争の基盤となったことはいうまでもない。日本もこれに感染していたのである。
残酷な結末に終った世界大戦の反省から、この誤った思想の息の根は断ち切られたように見えながら、まだその後遺症は世界の各地から取り除かれていない。航空機ハイジャックや南アフリカのアパルトヘイトなど、その燃え残りの火はくすぶっている。人間の優劣は、その置かれた環境や教育によって生じる差であって、天性のものではないと、私は思う。
次節で私は、環境や教育に恵まれない、カルタゴ人の同胞であるフェニキア人の末裔のことに触れてみることにする。
フェニキア人の末裔
フェニキア人の末裔と目されている人たちと言えばレバノンに住む人たちが先ず考えられる。
彼らの国土は大昔から東西の十字路にあたり、大国の野心のままに踏み荒されて来た。第二次大戦後になってようやく自前の国となって独立することができたが、独立はしたものの内紛の繰返しでゴタゴタは絶えず、教育はすすまず、封建的な気風は昔のままで、それに嫌気のさした人たちは新天地を求めて海外へ流出して行った。
そこで、こうして故国を後にしてアフリカヘ移住した人たちの後を追ってみることにする。彼らはアフリカの宗主国だった英国やフランスの植民者のように主人顔はできない。だが顔の色は白いから黒人たちからは一目おかれている。そこで本国の国力を背景にした宗主国人のようなわけには行かないまでも、うまい金もうけの道はかなりころがっているのだ。いわば、ヨーロッパ人と黒人との中間にある民として適当な生活の場を見出していたのである。そこでアフリカに駐在していた日本人たちは彼らのことを「レバ・シリ」と呼んだのである。幾分の軽侮をこめて。
私はコート・ジボアール共和国の首都、西アフリカの小パリといわれたアビジャン市に三年余りいたことがある。そして、そのころ日本から当所の経済調査に派遣されていた学徒と知り合いになったが、彼はあるとき、北の国境を越えてマリまで旅行したことがある。旅行から帰ってから彼は次のような話をしてくれた。昔からアラブ文化が浸透している国境の農村地帯に行って彼が驚いたのは、黒人の世界にただ一人で頑張っているレバノン出身の商人の存在だった。そのレバノン人は日用雑貨を商う小さな店をもっていて、黒人農民に日用品を売りつけながら、それを掛け売りにしたり、たまにはカネそのものを貸したりしているという。レバノン人商人はその代金を年に一回のコーヒー豆の収穫のとき回収するのだということだった。しかもかなりの高利をかけてであることは勿論である。ディヤスポラ (離散) の民の生活の仕方というのは昔から少しも変ってはいないのである。そうやって小金を蓄えた商人が、やがて大金持ちになった例は昔からいくらもある。ユダヤの財閥というのも、もとを正せば、こういう人たちだったのだろうか。世間体[てい]もおそれず、異民族のあいだで、孤独に耐えて生きて行った人たちだったのだろうか。
日本人は魚[ウオ]くさい
セムでもハムでもない日本人はこれまで国際社会の新参者とか「ヨソモノ」とか呼ばれて差別とまでは言わないにしても、少なくとも珍らしいものとして扱われて来たことは、明治以来の日本の歴史に刻みこまれている。よく言われるように、外国に住む日本人が、日本人同志のあいだだけの狭い付き合いに終始して、パーティなどで広いホールの片隅に小さなグループをつくり、外国人と広く交流しないという非難がある。これなど、世界の主流である西欧文化との「ナジミ」の薄さを日本人自身が意識した上での「ツツシミ」とも取れる。日本人自体が先方の抱く差別観に力を貸しているのだ、とも言えそうである。
そこへ行くと、西欧人に徹底的に植民地化された、たとえばハム種の末裔といわれるアフリカ黒人のある人たちの物オジしない態度に比べると極めて鮮明な対比をなしている。
「植民地人は植民者と闘う前に、彼を賞讃し、彼を真似る。黒人は反抗の最中にあっても、白人に憧れ、それに合わせて自分を変えようと努める」(アルベール・メンミ『イスラエルの神話』、菊地昌實ほか訳、1983年、新評論社)
とユダヤ人であるメンミは書いている。
それにつけても思い出されるのは、1960年代末のあるとき、フランスの週刊誌に出ていたゴシップ記事である。
ヘンリー・キッシンジャーが、まだニクソン大統領の補佐官だったころのことだと思うが、彼が親しい友人に話していたという打明け話である。「日本人は魚くさい」という見出しの記事だ。
それはパリの旅先だったので、切抜きもしていないが、その記事は私に鮮烈な印象を与えた。というのは、それからのち、私はミルクを余計飲み、風呂では体をよく洗い「魚くささ」を取り除けるよう心がけることにしたからである。
ところが最近になって、ある英語学者から、英語で「魚くさい」というのは「いかがわしい」とか、「ウサン臭い」という意であると教えられた。なるほど fishiness という単語には、「生臭い」とかいう意味のほかに、俗語として「怪しいこと」とか、「いかがわしいこと」とかの意味がある。「ウサン臭い」というのが適訳かもしれない。
無表情で、何を考えているのかよく分らない日本人、という評価なら、あるいはぴったりの形容詞かもしれない。キッシンジャーは、たぶん、何かの会議の席で日本人と交渉したのであろう。「前向きに検討しましょう」が、じつは彼の受け取った期待とは反対の結果になったことを「ウサン臭く」て信用できないと考えたのだとすれば、まさにありそうなことである。キッシンジャーは、意味あいまいな日本人の言動のウラに、西欧人の常識では計り切れない異様な文明が出現しつつあるとの予感を抱いたとすれば、まさに極めて今日的であるといえるだろう。
カルタゴ人も、どうやら「ウサン臭い」とされて嫌われたようである。カルタゴ人が身につけていた異習はギリシア=ローマ人にとっては村八分に値したのであろうか。後世に弁護人を持たないカルタゴ人には擁護のための席さえも取ってはなかったのだ。
[カルタゴ 第12回 終]
