
改札前は人でごった返していた。皆が改札機の上に設置された電光掲示板を見上げて、困惑した顔をしている。僕は事務所を出たところでその光景に出くわして、「ああ、またか」と内心で呟いた。
そのとき、駄目押しのように構内アナウンスが響きわたる。
『この先の踏切で遮断棒が折れていることが確認されました。また、走行中の列車が異音を検知したため、点検のため停車しました。現在、運転再開時刻は十八時頃を予定しております。なお、振替輸送はJRと阪神電車で実施しておりますので、お急ぎの方はそちらをご利用ください』
アナウンスが流れ出すと、困惑顔のお客たちの一部はがっくりと肩を落とした。この地域――神戸から兵庫県の西へと走る山陽電車の鉄道は、一部の区間が併走するJR神戸線との距離が大きく開いている。この駅に関して言えば、最寄りのJRの駅とはかなりの距離があった。徒歩で乗り換えをするには、少々ためらう遠さだ。
――まぁ、みんな困るだろうなぁ……。
絶望的な表情の乗客たちを残して、僕は駅務室に入った。線路トラブルが起きれば、駅員は忙しくなる。駅務室の中では、すでに同僚たちが各所との連絡に追われていた。これに加えて、窓口にやってくる乗客への対応の頻度も増える。
ふと見ると窓口に立っているのは、新人の吉田君だった。彼が、こうした線路トラブルを経験するのは、たしか初めてのはずだ。案の定、乗客の一人に険しい顔で詰め寄られ、青ざめた顔で固まっている。僕はすかさず窓口へ早足に近づいていった。
窓口では、何かをまくし立てている乗客の後ろに列ができはじめている。
「吉田君、このお客様には僕が対応するから、そっちを頼む」
そう声を掛けると、吉田君は、はっとした様子で僕へ目を向けた。『すみません』と言いたげなその眼差しに一つ頷いて、僕は窓口へ向き直る。そうして、あっと息を呑んだ。
先頭の客は、黄色と黒のはっぴを着た五十歳くらいの男性だったのだ。さらに頭にも同じ柄の鉢巻きをしている。あまりにも強烈な格好に、クレーマーと対決する覚悟をしていた僕もさすがに目が点になった。が、すぐに我に返る。そういえば、今日は甲子園球場でプロ野球の試合が予定されている。リーグ優勝が決まる大事な試合だから、球団ファンの同僚たちもそわそわしている様子だった。目の前のはっぴの男も服装を見るに同じ球団のファンのようだから、応援に行こうとしているのかもしれない。
「駅員さん、オレには時間がないんや。改札を通してくれ」はっぴ男は言った。
「申し訳ありません。列車の運転再開時刻は未定でして、お客様にホームに入っていただくとホームがいっぱいになってしまいますので……」
「多少、ホームが混雑してもええやろ。通してくれ」
「いえ、そういうわけにはいきません。お客様がホームから落下される危険性もありますし」
すると、はっぴ男は耳を疑うようなことを言い出した。
「じゃあ、オレだけでええから行かせてくれ」
いくら野球の試合開始時間が迫っているとはいっても、電車が動いていないのにホームへ行ってどうするのだろう。
なんだかあまり説得が通じなさそうな相手だ。早く運転再開しないだろうか、と僕は横目で駅務室の中をうかがった。しかし、朗報の気配はない。そればかりか、各所との連絡に追われていた同僚が「えっ?」と声を上げた。
「――交換するための踏切の遮断棒が紛失した? いったいどういうことなんですか!」
どうやら、あってはならないことが起きたらしい。この有様では運転再開は遠そうだ。僕は改めて腹を括って目の前の迷惑な客に告げる。
「申し訳ありませんが、運転再開までもうしばらくお待ちください」
「それが待っとれんのや!」
はっぴ男は激怒して、鳴り物を取り出して振り回す。応援グッズなのか、その鳴り物は赤く点滅しながらカンカンとけたたましい音を立てた。
あまりの騒がしさに周囲の客が怯えたような表情で後ずさる。僕も逃げ出したいところだが、そういうわけにはいかない。
「お客様、他のお客様に迷惑になりますので、どうか抑えて……」
「そんなん分かっとる! オレが遅れてしもたばっかりに、皆に迷惑をかけとるんや。オレが行けば全部解決する。電車も運転再開できる。さっさとここを通してくれ!」
はっぴ男はますます奇妙なことをまくし立てる。もしや、彼は野球観戦の待ち合わせに遅れてしまったのではないだろうか。それで、友人を待たせていることに罪悪感を覚えているのかもしれない。何しろ優勝が掛った試合なのだし。
だが、どう考えても彼の発言は正気の沙汰ではない。このままでは埒(らち)が開かない。警察を呼んだ方がいいのではないか。僕は吉田君に目配せをした。彼は怯えた表情で頷き、駅務室の奥の上司に報告に行こうとする。
そのときだった。
「もうええ! 勝手に通らせてもらうわ!」
はっぴ男が叫んで、突然、閉じたままの改札に向かっていった。改札を無理矢理に通りぬけて、ホームへの階段を駆け上がっていく。僕は慌てて駅務室を飛び出した。後を追いかけて、階段を上る。ホームに出て荒い息を吐きながら周囲を見回す。と、はっぴ男は西に向かってホームを走っているところだった。
行かせてなるものか。
僕ははっぴ男を捕まえようと後を追った。彼はホームの端にたどり着くと、ひらりと線路へ飛び降りた。と、そこへ踏切の故障個所へ向かう点検用の車両が走ってくる。このままでは、はっぴ男に衝突してしまうだろう。
――まずい、事故になる!
最悪の事態を想像した僕は、思わず立ち止まってぎゅっと目をつむった。しかし、数秒待ってみても、ブレーキの音や悲鳴などは聞こえてこなかった。ガタンゴトンと音を立てながら、カートは何事もなく進んでいく。
「先輩! あの人は見つかりましたか!?」
後から階段を上ってきた吉田君がそう声を掛けてきた。僕は困惑の表情のまま、首を左右に振る。
「いや……。急に消えた」
「消えた? そんなはずないでしょう。こっそり線路の外に出たのでは?」
常識的に考えれば、吉田君の推測が正しいのだろう。けれど、整備用カートが走ってきた速度とはっぴ男の位置を考えれば、常人の身体能力で逃げられるとは思えない。
――僕の見間違いだったのか?
何となく腑に落ちない思いで、僕はいったん駅務室に戻った。上司に乗客の一人がホームから線路に降りて走り去ったことを報告する。
「線路のトラブルの上に、別のトラブルが起きてしまったな」
上司は渋い顔をした。それはそうだろう。乗客が線路上で行方不明になったとなれば、安全確認のために彼を捜さなくてはならない。列車の運転再開がいっそう遅れそうだ。
すぐに各所に連絡をして、逃げたはっぴ男の捜索が始まった。僕はホーム上に設置されている監視カメラの映像の確認に回る。ホームのいちばん西側――はっぴ男が線路に降りた付近のカメラの映像を、モニターで再生しはじめた。
誰もいないホームを撮影していたカメラの画角に、しばらくするとあのはっぴ男が入ってくる。
そのとき、同じ駅務室内で無線に張り付いていた同僚が声を発した。
「――踏切の故障地点より連絡が入りました。紛失したはずの遮断棒が、なぜか警報機とともに見つかったため、今から交換に入るということです」
「遮断棒が見つかった、だって……? どこにあったんだ?」
上司がびっくりして問いかける。同僚は困惑した声で応じた。
「それが……なぜか応援に来た点検用車両に積んだはずのない遮断棒と警報機が載っていたと……」
二人の話を聞きながら、僕はモニターに釘付けになった。僕は見てしまったのだ。モニターの中で、ホームの端まで走ってきたはっぴ男が、ジャンプした瞬間に黄色と黒の細長い棒に変化するところを。その上、その棒が走ってきた点検用車両の荷台に収まる様子が映し出されていた。
――これは夢なのか?
僕は確認のため、慌てて映像を巻き戻した。しかし、ふたたび再生した映像には無人のホームを何事もなく通過する点検用車両が映し出されているだけ。もちろん、どれだけ捜索しても線路に消えたはっぴ男は見つからず、列車は間もなく運転再開された。
了
