「『ドン・キホーテ再入門』その6」樺山三英

『ドン・キホーテ』再入門 その6 樺山三英

『ドン・キホーテ』と現代
 さて。遍歴の騎士を追いかけて、ずいぶん遠くまで来てしまいました。ついには民主主義の誕生という、だいぶん大きな話に至りましたが。フエンテスの「読み」はしかし、やはり十分傾聴に値するものだったように思います。『セルバンテスまたは読みの批判』は邦訳でも200ページほどと短めなので、未読の方はぜひ読んでいただきたい本です。ただここで一点、疑問も投げかけておきたい。この本は『ドン・キホーテ』によって誕生した近代小説を論じたものです。がそればかりではなく、その行く末、さらにその先を論じるところで終わっています。その結末部分で、フエンテスが持ち出してくるのがジェイムズ・ジョイスです。ホメロス以来の叙事詩の伝統、その流れを受け止めつつ、近代小説の最終形として書かれたのが『ユリシーズ』だった。そしてその先にある、新たな段階に至ろうとしたのが『フィネガンズ・ウェイク』であるというわけです。『フィネガンズ・ウェイク』は一見英語の文章で書かれながら、その綴り字のなかに多数の言語の響きを潜ませ、幾通りにも読める夢の言語で書かれた作品です。フエンテスは、セルバンテスが「読み」の批判を試みたように、ジョイスは「記述」の批判を試みたのだと言います。『ドン・キホーテ』が人々に複数の「読み」を促したように、『フィネガンズ・ウェイク』は万民に「記述」をもたらすのだと。この作品によって、近代小説はついにその役割を終え、新たなステージに進むだろうと。この見解は、たしかにただしいものかもしれない。いくつもの言語を取り込み、無限の読みと記述に開かれた作品。いわば言語のユートピアの到来。まさに夢のような――否、夢そのものである言語。しかしそれはほんとうに実現可能なのか、という疑問は残る。周知のように『フィネガンズ・ウェイク』は「読めない」ことで有名な作品です。先ごろ亡くなった故・柳瀬尚紀氏による驚くべき訳業もありますが、これは翻訳者本人の「読み」に支えられた別の創作と見なすべきでしょう。ほんとうに同書を読もうと思うのなら、原文に向き合うしかない。そしてその無限に豊穣な語の連なりから、無限の読みを導かなければならない。もちろん、それができる人はいるはずです。ジョイスやフエンテス並みの知性があれば、それも可能でしょう。しかし現実問題として、それだけ強靭な知性の持ち主が、いったいどれだけいるのだろうか。やはり疑問を抱かざるをえない。少なくとも自分には無理だし、多くの人々にとっても事情は同じではないでしょうか。自分の不勉強を棚に上げて、文句を言っているわけではありません。ただフエンテスの議論(あるいはジョイスの作品)は、やはりあまりにも知的強者を前提にして書かれているように見える。もちろん、それでいいのだという見解はありえます。文学とは本来、そうした孤独で無為な営みなのだと。しかしここでは最後に、あえて文学の問題を度外視して、もう少し現代の問題に接近してみたいと思います。

『フィネガンズ・ウェイク』の主要人物ハンフリー・チップデン・エアウィッカー(Humphre Chimpden Earwicker)はHCEの略語で言及されます。それは人名であると同時に「Here Comes Everybody」を意味するものだと言われます。フエンテスが言う「万人の記述」のイメージは、ここから垣間見られたものかもしれません。すべての人がこの場に集い、読みそして書くことで実現する言語のユートピア。複数の声が複数のまま、抑圧や規制を受けることなく自由に語り出す祝祭――。ところでこうした夢のような情景は、何かを連想させないでしょうか? そう、いまとなっては遠い昔(とはいえせいぜい20年ほど前ですが)インターネットの黎明期に、ネット空間について論じられた希望的言説に非常によく似ているのです。誰もが書きたいことを書くことができ、読みたいものを読むことができる空間。雑多であるが故に自由で、何者にも阻害されることのない場所。グローバル・ネットワークを予言したマーシャル・マクルーハンが、ジョイスの研究者でもあったことは、おそらく偶然ではないのでしょう。彼の主張は、書字と印刷の文化が人間の経験を解体し、知性と感性を分解してしまったということ。そしてその抑圧を取り払った先に、原初的世界像が開かれるであろうということでした。そうした前提を元に、電信技術の発達により、もっと直接的な仕方で世界中の人々が結びつく、そんな未来像が描かれたのです。そのあまりにも多幸的なユートピアの源には、『フィネガンズ・ウェイク』が描くHere Comes Everybodyなヴィジョンがあったのかもしれません。

 しかし現実はどうだったのか。21世紀に入りIT技術は飛躍的に進歩し、誰もがスマホを持ち歩き、SNSで繋がる時代が来ました。では人々は、言語のユートピアに到達できたのか? 現状を見れば、ほど遠いことがわかるでしょう。ネット空間はむしろ閉鎖的で狭い偏見に満ち、憎悪を焚きつけることに特化しています。大きくて威勢のいい声ばかりが注目を集め、小さな声は見向きもされない。多くの人は耳障りのいい、自分に好都合な声だけ受け入れ、不都合な声には耳を塞いでしまう。もっと悪い場合、自分が与する声以外のものを、敵とみなして排除しようとする。差別は助長され、ヘイトスピーチは街頭に溢れ、現実に人々を傷つけている。小さな瑕疵をあげつらい、寄って集って吊し上げて叩き、炎上騒ぎを繰り返し、疑似的な祝祭を味わう。あげく騒ぎがひと段落すると、そ知らぬ顔で立ち去っていく。人間の感情の醜いところばかりが増幅され拡散していく、ネット空間はそんな場所になりつつあります。みんながジョイスやフエンテスのような、高い知性の持ち主であれば、こんなことにはならなかったはずです。しかしすべての人間に、そうした水準を期待することには無理がある。複数の異なる声を聞きわけるには、それなりの訓練が必要だからです。そうした耳を涵養するには、十分な暇と時間と余裕が必要で、でも我々が生きている現代には、それほどのゆとりは残されていない。だからと言ってジョイスを羨んでも、フエンテスを責めても仕方がないでしょう。我々の時代の問題は、我々の手で解決するしかありません。そのためには遠いユートピアに目を向けるのではなく、もう一度足元を見るべきではないでしょうか。つまり『ドン・キホーテ』に始まる書物の文化について、改めて考え直す必要があるのではないか。そう思うのです。
 そこでひとつだけ、手掛かりとして挙げておきたいのがD・H・ロレンスの『黙示録論』です。ロレンスはジョイスの同時代人ですが、ある意味対極の立場にいた人物です。『チャタレイ夫人の恋人』で有名なこの作家は、炭坑夫の息子として生まれ、苦労しながら学業を終え、ヨーロッパ各地を放浪しながら創作を続けました。ジョイスと違い、簡潔な文体を駆使して数多くの作品を残しています。『黙示録論』は晩年に書かれた最後の作品です。「ヨハネの黙示録」――聖書の末尾に位置するこの異形の書に描かれているのは、おそるべき復讐の情念だとロレンスは言います。迫害され痛めつけられた民衆が、敵が滅ぼされ、自らが救われることだけを願う。その情念が寄り集ってできたものが「黙示録」なのだと。ロレンスは、そのような復讐の念に支えられたキリスト教道徳全般を否定します。しかしおもしろいのは、その一方で肯定的な側面をも掘り起こそうとしているところです。「黙示録」には、聖書の他の部分にはないような古代的な神話イメージが書き込まれています。「バビロンの娼婦」や「大いなる赤い龍」といった、近代的キリスト教が抑圧してきた異教的要素が数多く隠されている。ロレンスはそこに、わずかな救済の希望を見出すのです。

「黙示録」は、たしかに奇妙なテキストです。聖書全体の締めくくりに位置しながら、それまでの書物としてのまとまりを大きく損なうような、異形のイメージを提出してくる。これは大きな謎と言っていいでしょう。そもそも書物という媒体は、聖書を原型にして成り立ってきたという経緯があります。だからこそ始めと終わりと中間を持つ、首尾一貫した世界が展開されることになっている。しかし原型である聖書そのものが、じつは自らの内にその一貫性を損なう、特殊な部分を持っていたとしたらどうでしょうか。聖書をはじめて民衆語(ドイツ語)に翻訳したマルティン・ルターは「黙示録」を忌み嫌っていたと言われています。おそらくこのテキストの持つ、危険性を察知していたからではないでしょうか。締めくくりであるはずの結末が、同時にその書物のまとまりを解し、思いがけない外部への通路を切り開いてしまう。ロレンスがその生涯の最後に、きわめてアクロバティックな仕方で示したのは、こうした両義性を捕まえ、そこを掻い潜る方法だったのではないでしょうか。書物は一見、外部との繋がりを失くし閉じていくように見えるところで、現実と繋がっているのかもしれない。思えば『ドン・キホーテ』が繰り返し語っていたのも、こうした事態だったかもしれません。それ故にこそ、この作品は近代小説の起源と呼び称されているのではないか。そう思えるのです。先に述べたことの繰り返しになりますが、『ドン・キホーテ』はメタフィクションの起源であるがゆえに偉大なのではありません。17世紀初頭、まだ書物と現実の関係が、今ほど定まった枠組みを持っていなかった頃。そんな時代に、物語の意味について真摯に考え、試行錯誤の末に書かれたからこそ偉大なのです。我々はこの事実に、もっと素朴に驚いていい。いま、書物以後の時代にさしかかりつつある我々にとって、幾度も立ち返るべき参照点として、この遍歴の騎士の物語はあります。すでに評価の定まった古典としてではなく、新たに読み解くべきアクチュアルな書物として。

終り

(初出:シミルボン「樺山三英」ページ2016年10月21日号)

採録:川嶋侑希・岡和田晃