『エドワード・ルーカス・ホワイト「夢魔の家」「千里眼師ジャーヴァスの石板」の夢分析』吉川舞美

エドワード・ルーカス・ホワイト「夢魔の家」「千里眼師ジャーヴァスの石板」の夢分析
                                    吉川舞美

一、怪奇小説を「夢」そのものとして読む
 
 エドワード・ルーカス・ホワイトは歴史小説家として数々の長編を上梓してきたが、怪奇幻想小説の作家でもある。今日ではむしろ後者として文学史に名を残しており、そうした怪奇幻想小説の代表作の一つが『ルクンドオ』(1927)だ。この作品は短編集なのだが、序文にあるような夢で見たことを物語として表現したという情報が、読者への先入観に相俟って、物語の不可思議さを増幅させている。
 無論、本当にホワイト自身の夢に取材したものであるかは疑わしくもあり、鵜呑みにできるほどの信憑性はない。しかし私はここであえて、本書がホワイトの夢であると仮定して論を進める。具体的には、本書に収録されている二つの短編小説「夢魔の家」と「千里眼師ヴァーガスの石板」を考察する。

二、「夢魔の家」の夢分析

 「夢魔の家」は、著者ホワイト自身が、夢を「一字一句違えずに書いたもの」(1)と書いている。あらすじは以下の通り。車が故障し、「兎口」の少年に出会った主人公は、森の中にある彼の家で一晩を過ごすことになる。少年の母は三年前に亡くなっており、父は留守にしているという。少年の家で主人公はヴェールで顔を撫でられる怪奇現象を体験する。しかしその正体は少年の母の幽霊だという。その夜、主人公は生々しい悪夢を見る。何かが部屋にいてこちらに近づいてくる。目を覚ますと少年はいない。実はあの少年は半年前に死んだ幽霊だったのだ……。
 悪夢的な情景ではあるにせよ、本作が「夢」たる所以は何だろうか。E・A・ガイゼル『夢分析の手引き 心理療法の実践のために』(2015)では、「夢は各個人のなかで始終繰り返されている精神内界の過程を反映している。(中略)過去、現在、未来のあらゆる真実を担っているが、それは意識に時が告げられる前に消えてしまう、というよりはその姿を変えてしまう。しかしそれは実在し、そのメッセージも実在する。したがって、適切な吟味をおこなえば、夢を理解することは可能である。」(2)と説明されている。本作を作者ホワイト自身の夢だと仮定すると、作品内で主人公も夢を見ていることから、ホワイトは夢のなかでもまた夢を見たことを短編小説として記述したことになるだろう。
 こうした重層的な構造があるため、本稿では物語内で主人公に対してではなく、この物語に登場する事例を手がかりに、作者ホワイト自身の夢の分析をしていく。参考にするのは、アルテミドロス『叢書アレクサンドリア図書館第二巻 夢判断の書』(1994)である。まず、「向かい側には果樹園がある。」(3)この果樹園は具体的に何の果樹園かは明記されていない。仮にその果樹園がリンゴだったとする。リンゴの場合は「妻や恋人のことで悩んでいる男にとって、幸福な愛を予言する。」(4)また、葡萄の場合は「たいていの場合、直接または間接に女から利益を得るだろう。」(5)と、アルテミドロスは述べている。
 そして出会った少年が実は死者だったということについては以下のように書かれている。「死者が親切で、いっしょにいて楽しいひとであったなら、その夢を見たひとは、当分のあいだ、幸せに暮らせるだろう。」(6)少年が親しみのある感じは物語の中に書かれていないが、車が故障し、困っている主人公に対して自分の部屋を寝床として貸した少年は、親切ではあるといえる。
 次に主人公が少年の食卓で食べた鶏肉、白パン、黒パンはどうだろうか。『夢分析の手引き』において、鶏肉は「鶏の肉を食べると、女または裁判から利益を得られる。」(7)とあり、白パンと黒パンは、「貧乏にふさわしいのは黒パンであり、金持ちにふさわしいのはきれいな白パンである。これが入れ換わると、禍の知らせになる。つまり、白パンは貧乏人にとって病気を表わし、黒パンは金持ちにとって貧困を表わす。」(8)と論じられている。
 最後は主人公が悪夢から目を覚まし、少年に会わずに少年の家を後にする場面である。「朝方家を出るとき、だれかに引き止められたり、家の中に閉じ込められたりせず、すんなりと外出できる夢は吉。自分が望んで決めたとおりのことが実行できるだろう。」(9)と、アルテミドロスは説明している。アルテミドロスの夢分析から、「夢魔の家」を読み解くのであれば、いかにも不安げな物語内容とは逆に、ここにはホワイト自身が妻(女性)に恵まれ、幸せに暮らせていたことが垣間見えてくる。

三、「千里眼師ヴァーガスの石板」の夢分析

 二つ目の物語は「千里眼師ヴァーガスの石板」である。この物語についても本書のあとがきに、「きっとわかっていただけましょう、「ピクチャーパズル」や「千里眼師ヴァーガスの石板」や「豚革の銃帯」のような筋立ての夢を見れば誰だって、どうしても自分の内に収めておけなくなり、物語に書き起こしてしまうということを。」(10)と書かれており、夢に取材したものであるとの前提がある。
 あらすじは次のようなものだ――ルヴェリン夫人は千里眼師の家を訪れる。ここに訪れたのは一月以上前の夢と一昨夜の夢が理由であるという。そして夫が自分のことを愛していないというのが、夫人の相談内容だ。それも夫の前妻が埋葬される前の晩、夫が彼女の棺とは別にその棺と同じくらい重い棺を用意したという。千里眼師は夫人の相談に乗ることにした。石板に書かれていることを信じた夫人はその棺を開けることを決心する。その棺の中には、その場に同席していたはずの夫が入っていたのだ。
 この物語もホワイトの夢だと仮定すると、期間こそ空いてはいるが、物語の中でさらに二回夢を見ており、合計三回夢を見たという事になろう。この物語に登場する夫人は、「年齢を経てなお非常に美しく、その気高さは本人の美しさと、ことのほか率直な性格に裏打ちされていた。」(11)とある。これは南博編『近代庶民生活誌 第19巻』(1922)によれば、「夢に美婦人を見れば運勢回復して意外なる利益又は便りに接すべし(吉)」(12)と書かれている。日本の生活誌ではあるが、『ルクンドオ』と同時代の言説として、何かしらの照応を感じさせる。そして最後、棺に入っている夫を見て夫人は悲鳴を上げる。その悲鳴にはどんな感情が含まれているのかは読み手側の受け取りによって変わるが、この悲鳴を悲しみの悲鳴と捉えるとする。前の節で引いたアルテミドロスによると、「ひとの死を始めなにかのために泣いたり嘆いたりする夢、あるいはもっと一般に悲しむ夢は、何かに対する喜びや、物事がうまく行ったことに対する満足感の予言である。」(13)と書かれている。ここからも「夢魔の家」と同様、ホワイトが妻(女性)に恵まれ、幸せに暮らせていたとことがわかってくる。

四、夢の吟味

 事実、ホワイトが最後に刊行した著書は自叙伝であり、『結婚』(1932)というタイトルである。この自叙伝は、妻との幸せな生活の思い出を書いたものである。
 気になるのは、どの作品も夢だとする割には、矛盾や破綻が少なく、つまり小説として体裁が整っている。にもかかわらず、ホワイトは繰り返し、自作を夢の記録だと述べてきた。実際、独特の迫真性が備わっている。真実は今となってはわからないが、他の作品にも夢分析を施してみると、新たな発見があるかもしれない。
 最後に、E・A・ガイゼルを引く際にも述べたように、夢は真実を担っているが、意識に時が告げられる前に消えてしまい、その姿を変えてしまう。もしかしたら、ホワイトは実際に物語の元となる夢は見ており、しかしその夢は完全ではないが消えてしまったからこそ、作品を作り込むことで、その手触りを伝えようとしたのかもしれない。そのうえで、執筆によって夢を吟味し、自分が見た夢が照らし返すものが何なのかを懸命に理解しようとしていたのではないか。

【参考文献・引用文献】
・アルテミドロス『叢書アレクサンドリア図書館第二巻 夢判断の書』(国文社 1994年10月20日 城江良和訳)
・ガイゼル、E・A『夢分析の手引き 心理療法の実践のために』(創元社 2015年11月20日鑪幹八郎監訳 茂野良一・丸山公男・本間望・鈴木由紀子訳)
・南博編『近代庶民生活誌 第19巻』(三一書房 1992年12月31日)
ルーカス・ホワイト、エドワード『ルクンドオ』(アトリエサード/書苑新社 2018年10月7日 遠藤裕子訳)
・ユング、C・G『ユング 夢分析論』(みすず書房 2016年8月25日 横山博監訳 大塚紳一郎訳)
【注釈】
(1)『ルクンドオ』p.329
(2)『夢分析の手引き 心理療法の実践のために』p.002
(3)『ルクンドオ』p.286
(4)『夢判断の書』p.89
(5)同前、p.90
(6)同前、p.191
(7)同前、p.86
(8)同前、p.88
(9)同前、p.114
(10)前掲『ルクンドオ』p.329
(11)同前、p.172
(12)前掲『近代庶民生活誌 第19巻』p.440
(13)前掲『夢判断の書』p.192

※本稿は、岡和田晃が2024年度春学期に東海大学文芸創作学科で改稿した幻想文学論の優秀作を改稿したものです。「SF Prologue Wave」掲載にあたり、文体を岡和田がスタイライズしています。査読コメントをいただいた伊野隆之氏に感謝します。