
湖の底から浮かび上がってくるように、拡散していた意識の焦点が合った。
そうだ、また、ここに戻ってきた。
下の方から淡い光が差し込んできて、ドーム状の天井を照らし出している。
広いホールのようだ、と自分が存在している世界を認識したとたん、赤い光に射られるような強い刺激を受けた。
赤いドレスの少女がスツールに腰かけていた。レースやフリル、リボンが多用された真紅のベルベット生地のドレスの背に、緩やかなウェーブのかかった赤毛が垂れている。白い空間のなかで、紅一色の少女の存在感は圧倒的だった。
呼びかけるより先に、少女は振り返った。
薔薇の蕾がほころぶように、頬がほんのり赤らんで、笑みをつくる。
「お目覚めですか」
わたしより先に、少女のほうから話しかけてくれたことに心を動かされた。
「よかった。一人だけ先に目覚めてしまって、寂しかったの」
白いスツールの上で、少女は微笑んだまま両足を揺らした。
「正確には目覚めたとは言えないよ。訓練で叩き込まれたでしょう、長期の睡眠中には、一時的に眠りが浅くなることがあるって」
説明をしているうちに記憶がさらによみがえり、苦笑したくなった。
ここは宇宙船内部、わたしたちは現在、長期睡眠技術によって星間移動中だ。
したがって、目覚めたと感じている今この瞬間も、現実には深い夢の中にいる。人工的に抑えられている脳の覚醒レベルが何らかの理由で少し上がったという状態にあるはずだ。本格的に覚醒したわけではないのだから、この少女は現実の人間ではなく、わたしの夢のなかの人物だ。そういうものに、現在の状況を理解させようとして何の意味があるだろう。ここは少女の思い込みに調子を合わせて、会話を楽しむのが正解だ。幸い、少女はわたしの説明によって態度を変えることがなかった。さっきまでと同様、無邪気に質問してくる。
「あなたは、どうして、このプロジェクトに参加することにしたんですか」
「さあ、どうしてかな」
人為的なブロックをかけられているのか、覚醒レベルの問題なのか、プロジェクト参加の理由は、本当に思い出せなかった。宇宙飛行のための訓練を受けたことは覚えているが、そのもっと前、どうして訓練を受けることになったのか、あるいは、どんな暮らしをしていたのか、その記憶はよみがえってこない。
少女は微笑みながら、わたしの返事を待っている。
「もしかしたら、宇宙の果てで、見たこともないものを見たかったのかもしれないな」
「見たこともないものなんて、宇宙の果てまで行ったって見えないでしょう?」
「え?」
「だって、見たことがないんでしょう? 見たことがないものが、たとえ目に映ったとしても、それを見たって認識することはできないんじゃありませんか」
少女と思い、夢の中の人物と思って、あなどっていた気分が吹き飛ぶ思いだった。
「そんなことを言い出す、君はいったい誰なんだ?」
少女は微笑んだまま、わたしをみつめていた。その虹彩がルビーの色をしていることにようやく気づく。
「どこかで会ったことがあるだろうか? 訓練中に? それとも、私生活で? だから、こうして、わたしの夢の中に出てきたんだね?」
「さあ、どうでしょう」
「じゃあ、質問を変えよう。君は、どうしてこのプロジェクトに参加したんだ?」
「なりゆき任せっていうのかな」
彼女の相手をするのは、空気を集めて形をつくろうとするようなものだった。それとも、寄せる波を素手で押し返そうとするようなものと言うべきか。
一度でも会ったことがあるのなら、こんなに印象的な子のことを忘れるはずがない。この子のことを思い出せないのはきっと、この少女が現実生活のなかで会った人間ではなく、わたしの深層意識がつくり出した仮想人格だからだろう。
「ねえ、そんな難しい顔をするのはやめませんか。わたしたちは今、二人きりなんだから、難しいことなんか、考えなくていいでしょう」
少女は立ち上がり、両手を広げて、くるりと回転してみせた。膨らみをもたせたドレスが少女の体について回る。
「あなた、踊れる?」
ふたたび意表を突かれた。
そういえば、わたしは踊れるんだろうか。
少女にリードしてもらうなんて、恥ずかしいな、という意識が生まれた。
そんなことを思うのは、わたしが年長で、男だからか。
いや、待てよ。本当にそうだろうか。漠然と自分のことを男だと思い込み、宇宙飛行について、この子より知識があるから年上だと思っていたけれど、性別や年齢を確認することのできる、わたしの肉体はどこにも見当たらない。
「ほら、また難しい顔をしてる」
「君は誰だ? いや、わたしは誰なんだ?」
「そんなこと知ってどうするの? ここにはあなたとわたし、二人だけしかいないって、本当には分かっていないのね」
少女がわたしの手をとってくれた。いいや、少女が手を差し伸べてくれたからこそ、わたしに手ができたのだ。音楽が鳴り始め、少女がわたしをリードしてステップを踏み始める。これはワルツだろうか。明るい華やかな曲に合わせて足を動かす。そう、わたしは足も動かせる。ワン・トゥ・スリー、ワン・トゥ・スリー、ステップ、ステップ、スウィング、ステップ、ステップ、ターン。ピアノの音色が走り、バイオリンが響く。
その中心にあるのは少女の笑顔だった。きらきらした紅い瞳がわたしから離れない。汗ばむ額にかかる髪、その髪が肩を流れ、背中がわたしに預けられる。
白一色のホールとばかり思っていた場所に、いつの間にか色がついた。
緑の木々に囲まれた、ここは高原の一角だ。木々の枝には黄金の縁取りのある朱色の小旗が飾られていた。日に照らされて、音楽隊の演奏する金管楽器も光っている。おいしそうな食べ物の匂いがした。ソーセージにザワークラウト、山積みのオレンジに、絞りたてのジュース。おしゃべりに夢中になっている貴婦人達の笑い声も聞こえる。そうしたすべてを見下ろすように、雪をかぶった山々が林の上に連なっていた。
美しい季節、美しい木々、美しい人々。
木々を吹き抜けてくる風に合わせて、わたしは少女と踊る。
「幸せ過ぎて、なんだか怖いみたいだ」
「怖いってことはないでしょう?」
少女はそう言って笑った。
「もっと先へ行きましょうか」
わたしはうなずくことすらしなかった。笑顔の少女と踊る喜びが強すぎて、少女の意志と自分のそれとを区別することができなくなっている。
金管楽器の奏でる音楽は途切れることなく聞こえていた。
少女とステップを踏み続けて、わたしは断崖絶壁の前に立った。
「もう怖くはないでしょう?」
わたしたちはステップを繰り返して、雲の流れる空を渡った。
はるか下には、長い年月のあいだ、崖を削り続けた川が見えている。
わたしは少女の手を強く握りしめ、少女の体をわたしに引き寄せてから、宙へと放った。
空中で、少女は猫のように前へ回転した。
赤いドレスは大きく広がって、青空のなかに巨大な薔薇が花開いたようだった。
リンゴンリンゴンリンゴン。
祝福の鐘が鳴り響く。
今まさに、何かが成就しようとしている。
幸せの象徴たる薔薇が落ちてくる。
ラ・ヴィタ・ローザ。薔薇色の人生。
笑顔の少女が、両手を伸ばして、わたしの腕のなかへ飛び込んでくる。
さあ、今こそ、しなやかな体を抱きすくめるのだ。その赤い頬に頬ずりして、そして、それから。
けれども、現実と紛うばかりの抱擁のイメージの一秒前、わたしは恐れてしまった。
落ちてくる少女をちゃんと受け止められるのか、不安になった。
それがいけなかったのだろう。
しっかりと少女を抱いたにもかかわらず、断ち切られたかのように音楽が消えた。
少女は薄くなっていった。少女の体温が感じられない。高原の空に満ちていた光も波が引くように弱まっていく。光度は落ちる一方だ。どこまでも暗くなる。少女の体に、その向こう側にあった何か別のものが映り込んでくる。
わたしはあらん限りの力で少女を抱きしめながら、薄れていく少女の笑みを見つめた。
「大丈夫、心配しないで、わたしはずっと、あなたといるから」
そう言った少女の胸から下はすでに消えていたし、瞬く間に肩から手首までも消え、最後に残った少女の笑顔と、わたしの掌の中にあった少女の手も消えた。
「待ってくれ、行かないでくれ」
発したはずの言葉は、わたしにさえ聞かれることのないまま、虚空に消えていった。
わたしは宇宙空間に独りだった。
漆黒の闇のなかに、星々が光っている。
何だ。何が起きたんだ。
わたしたちは白いホールにいたはずじゃないか。わたしたちを運んでいた宇宙船はどうなった? 一体、ここはどこの星域だろう。四方八方を見回しても見当がつかない。どこまでも遠い星が、わたしを囲んでいる。
わたしは、ああああああああと叫んだ。いや、叫んだ気になった。叫んでも叫んでも、声は聞こえない。わたしには拠りどころとすべき自分の体すらなかった。心臓の鼓動だけでも感じられたら、この鋭い孤独感を紛らわすことができただろうに。これなら闇に包まれているほうがましだ。闇の中では自分も消えることができる。けれど、なまじっか光点が散らばっているために、それらと自分との絶対的な隔離を意識せざるをえない。
わたしは独りだ。誰とも、何とも、つながることができない。星々ですら、体のないわたしを見ることがない。 そしてまた、じわじわと思い出したくもない事実が思い出される。これは夢だ。わたしは夢を見ているのだ。そして、その夢から覚める方法を知らず、いつになれば覚めるのかも知らない。夢の中では、死ぬことすらできない。
どうしたらいいんだ。何をすればいい?
さまざまに輝く星を眺めているうちに思いついた。
わたしが出発した星を探してみよう。
手がかりは何もない。自分がどんな恒星系からやってきたのか、記憶に残っているとは限らない。けれど、この大量の星々を一つ一つ見ていけば、ぴんとくる星があるかもしれない。光り方が他とは違っているかもしれないし、リングがあるかもしれない。どれか一つでも、わたしの知っている星をみつけられれば、わたしは、その星にすがって正気を保つことができるだろう。わたしを送り出した星が存在するのなら、わたしの目的地だった星もまた、夢想のなかにだけ現れる星ではなく、わたしはいつか、そこに到着することができ、今この瞬間のこの夢も無駄にはならないと確信できるだろう。
時間だけはたっぷりある。
わたしは千、二千、三千、一万、二万、三万の星を一つずつ凝視して確認した。見るほどに、星の色や光の強さの違いを区別できるようになり、ずっと遠くの星をみつけることができるようにもなって、確認すべき星の数は増えていった。百万、二百万、三百万、一千万、二千万、三千万、そして、一億。
計る術もないまま、時は流れた。その間に、超新星爆発があり、星間ガスからは原始星が生まれて、確認すべき星の数は変化し続けた。
それでも、わたしが見える範囲の星をすべて確認し終える時は来た。
どこにも既知の星は見当たらなかった。
未知の星域で、わたしはたった一人だった。
莫大な時を費やして、知り得たのはそれだけだった。分かってしまったその後で、いつまで、ここにいなければならないのだろう。こんなの、死ぬよりもひどいじゃないか。
わたしは誰とも知れない誰かに抗議した。
このまま星々を見続けるしかないっていうのか。
そうしたら、どうなる? 遠い星を見て見て見続けていったなら? たとえば、あの赤く光る星、あの星だけを見続けて親友よりも深く知るようになったら、何かが変わるのだろうか?
「もっと先へ行きますか?」
呼びかけられた声に、心の奥深くで「これ以上は無理だ」と、声とも、判断ともつかない、何らかの意志のようなものが答えた。このまま行けば、わたしは人ならぬ者になってしまう。
「了解」
発動したのは別の夢だった。わたしではない、何者かの夢が差し込まれたらしい。
視界いっぱいに広がる星に変化はなく、変化したのはわたしだった。わたしにふたたび足が生え、大地が、すなわち惑星がわたしをつなぎとめてくれるようになった。わたしは地面に足をつけて、夜空、すなわち惑星の影のなかに現れた恒星たちを見上げた。
隣には人の気配を感じた。寄り添ってくる、体温さえ感じ取ることができた。
別の意識と熱の存在に驚喜していると、その人が呟いた。
「流れ星、見られないかな」
「どうして」
「願いごとができるでしょ」
「踏みしめる大地があって、そばには君がいてくれる。これ以上、願うことなんてないよ」
「そう? 願いごとは幾つあってもいいんじゃない?」
「そうだな。そうかも知れないな」
「じゃあさ、何を願おうか」
「君がずっと一緒にいてくれるように」
そのとき、空から星が落ちてきた。
「お帰りなさい。気分はどうですか」
カプセル越しに、丁寧で穏やかな声に語りかけられる。
「今は何年ですか」
訊いてしまってから後悔した。目の前にいる、白衣に身を包んだ人は、職業的優しさをこめて答えてくれるだろう。しかし、その答えに何の意味がある? このわたし自身が、どこの星域の、どの時代の誰であるかを思い出せないでいるのに、M一○三年とか紀元六万八千年と答えられても何の役にも立たない。
「やめておきます。答えないでください」
「プロジェクトへの参加によって、一時的に時間感覚がなくなることはよくあることですよ。実際に聞けば思い出せるかもしれません。今年はXXXX年です。どうですか」
その四桁の数字には聞き覚えがあった。
それが嬉しかった。わたしはついに目覚めたのだ。透明なカプセルの向こうに、多くの医療機材が据えつけられている光景にも見覚えがあった。
ここは睡眠研究所内のプロジェクトルームだ。
わたしは長期睡眠技術開発プログラムに参加して、ここで眠りに就いた。
そうだ、思い出した。ほんとうに戻ってきたんだ。
「わたしが眠ってから、どれくらいたったんでしょう」
「ちょうど、一ヶ月です。ドクターストップをかけてからも、なかなかお目覚めにならないので、皆で気を揉んでいたんですよ」
親しげに話してくれる人が、担当の衛生管理士であることも思い出した。名前も知っているはずなのに、それはうまく思い出せない。長期睡眠の後遺症だろうか。長くお世話になってきた人だから、あらためて名前を聞くのははばかられた。わたしがためらっていると、その人は「少し外しますね」と挨拶して、わたしを囲むカプセルのそばから離れていこうとした。
「待って」
「はい?」
「どうか、一人にしないでください」
「でも」
「怖い夢を見たんです。その夢の感触が薄れるまででいいんです。どうか、お願いします」
その人は少し困ったような顔になったが、「分かりました」とうなずいた。
「それがお望みなら、しばらく、おそばにいるようにします」
カプセル越しに、その人の顔がアップになった。わたしが寂しくないように顔を近づけてくれた、その心遣いが嬉しかったが、そんなふうに優しくしてもらうと、かえって恐れがつのった。
赤いドレスの少女は突然、消えてしまったのだ。完全に覚醒したという判断が、わたしの思い込みにすぎなかったら、この人だって消えてしまうかもしれない。
「あなた一人だけじゃ、ダメです。この施設には他にも人がいますよね。その人たち全員に来てもらえますか。わたしの気持ちが落ち着くまで、ずっとそばにいてもらいたいんです」
わたしの要望はただちにかなえられた。
たくさんの人が白い部屋に入ってきた。誰のことも思い出せない代わりに、誰がどんな感情でいるのかは手にとるように分かった。笑っている人は、わたしの願いを面白がっているのだろう。わたしを気の毒がっている顔もある。仕事を邪魔されて迷惑がっている顔もあるし、思いがけず被験者に面会できて興味深く思っている顔もあった。
「君のおかげで、十分なデータがとれたよ」
「一ヶ月の間、どんな夢を見ていたんだ?」
「回復したら、いろいろ話を聞かせてもらうから、よろしく頼むよ」
今や、わたしのカプセルは、白衣の集団によって三重四重に囲まれていた。
「これで満足かね」
責任者らしい人物から訊かれたが「満足です」とは言いかねた。
わたしに体があったなら、この大勢の人たちから、しっかり抱きしめてもらえただろう。けれど、カプセル越しに話すだけでは、いくら人が集まってちやほやしてくれても、どこか空しさが残る。
今のわたしは、透明のカプセルに守られて生き続ける、頭部だけの存在だから。
だいぶ記憶がはっきりしてきた。
「疲れませんか」と声をかけてくれた衛生管理士さんの名前も思い出す。
「原口さん、ありがとうございます。こんなわがままを聞いてもらえるとは思いませんでした。みなさん、お忙しいでしょうから、そろそろ本来の仕事に戻ってもらったほうがいいんでしょうね」
わたしは津島マキコ、三十代の女性だ。
三年前の事故の際、救急医療士によって素早く注入された低温睡眠剤のおかげで医療センターへ運ばれるまで生き延びたが、首から下の損傷はひどすぎて、延命のためには頭部を切り離すほかなかった。それでも、生きてさえいれば、いずれは脳波で動く義手義足、義体ができるはずだ。今回、長期睡眠技術開発プロジェクトへの参加を決めたのは、睡眠技術のさらなる進歩のためにと説得されたからだが、医療ケアの経費および義体の資金を稼ぐためでもあった。
わたしは夢見ることのプロとして、生き延びることを選んだのだ。
幾重もの人の輪の外側で「最後の一人が来た」と声があがった。家族が面会に来ていたために、こちらへ来るのが遅れた職員がやってきたという。
「家族?」
小さな女の子が白一色の人垣のなかから現れた。
その子は赤いドレスを着ていた。誕生日で特別にお母さんと会える日だからと、お洒落をしてきたそうだ。赤いベルベット地の、装飾過多なクラシカルなドレスだった。赤い髪はまだ短く、肩のところで切りそろえられている。
ルビーの色をした虹彩がわたしをみつめた。そうしてみつめられているうちに、わたしは今この瞬間もまた、覚醒していると思い込みながら見ている夢の一部ではないかと思い始めた。今度もまた、女の子のほうから訊いてくれる。
「あなたは、どうして、そんなところにいるの?」
「かくれんぼをしてるのよ」
「そう」
会話が途絶えてしまう。
もう少し、話していたい。焦って言葉を絞り出した。
「あなたは今までどこにいたの?」
「忘れちゃった?」
「ごめん。あまりにも遠くまで旅してきたものだから」
「それで、見たことがないものを見ることはできた?」
「そうねえ、あなたが言っていたとおり、見たことがないものなんて見えないのかもしれないわね」
どこからともなく差し込んでくる淡い光が白い天井を照らし出していた。
少女のドレスが衝撃的なほど赤い。