(PDFバージョン:komatusakyounofusigi_toyotaaritune)
小松左京というSF作家が、なくなったことは、単にSF界の損失にとどまらない。日本文化にとっての損失でもある。
ぼくが、小松さんに出会ったのは、第一回、第二回の日本SFコンテストを通じてである。ちなみに、ぼくと平井和正さんが、最年少で、いわゆる第一期SF作家は、いち早く江戸川乱歩さんに認められてデビューしていた星新一さんを除いて、みな、このコンテストを通じて世に出たのである。小松さんは大阪、こっちは東京、いつも会うわけにはいかなかった。新幹線などない時代、年に一度か二度、貧乏学生が懐をはたいて、夜行列車で梅田駅にたどり着いて、筒井康隆さんが経営していたヌルスタジオへ転がりこむ。そこで、小松さん、眉村さん、堀晃さんなど、大阪の同志に出会えたのだが、そう年中いけるわけがない。そこで、小松さんとは、文通を始めた。今でいえば、メル友といった関係である。
おたがい、まだ収入が多くはない。一枚の葉書に、表面まで、あれこれ書きつらねて送る。小松さんも、あのころは、まだしも暇があったのだろう。すぐ返事が来る。SFのこと、文化、天文、地理のことなど、こっちが知ったかぶりで書いたことに、反論されたりする。博覧強記というか、多芸多才というか、いつもギャフンと言わされてばかりいた。
それ以後、半世紀にも及んで、お付き合いいただいたわけだが、小松さんといっしょにいて、不快な思いをしたことがない。これは、不思議な才能だろう。話は前後するが、ベストセラー「日本沈没」を書いていたころ、小松さんと酒を呑んでいても、話すのは地球物理学の話題ばかりだった。それだけ本格的に調べていたわけだが、決して知識をひけらかすような話し方はしない。いったん、小松左京という巨大な胃袋で咀嚼されたものを、面白おかしく語ってくれるのである。当時、プレートテクトニクス理論は、最先端の科学だった。
「太平洋プレートというものがあって、これが日本列島の下に沈みこむ。こんとき、引っ張りこまれかけた岩盤が、跳ね返ると、地震になる」
ゼスチャーも交えて、まるで講談のように、話してくれる。今なら、不幸な大震災のせいで、ほとんどの日本人が知っていることだが、当時は一部でしか知られていなかった。あんまり面白いので、ぼくも、簡単な地球物理学の入門書を買ってきて、読んでしまった。
小松さんは、上京すると、あれほど忙しいのに、必ず連絡をくれた。ぼくたち在京のSF作家は、小松さんから召集がかかったと、呼んでいた。そのとき在宅していたかどうかによって、その都度メンバーは変わるのだが、星新一さん、筒井康隆さん、平井和正さん、そして、ぼくなどが、電話を貰うなり、小松さんの定宿のホテルニューオータニへ駆けつける常連だった。ホテルの一室で、SFの話、進化論の話、最新の宇宙論など、あれこれ、喋りあうのだが、まさに知的サロンのような雰囲気だった。
なにかの会合の流れなのだろう、小松さんのほうから、拙宅へやってくることもあった。麻雀のためである。星さんから、我が家は、雀豊荘(ジャンとよそう)と命名される始末。新婚当時など、玄関のチャイムが鳴るので、あわてて飛び出してみると、小松さん、星さん、筒井さん、平井さんなど、SF仲間が立っている。勝手知ったる他人の家ということで、みんなゾロゾロ上がり込むと、さっそく麻雀ということになる。豪華メンバーで、ありがたい話が、新婚当時は、こっちにも事情がある。ときには、メンバー過剰で、小松さんが二抜けになったりする。「豊田くん、ちょっと机、貸してくれ」などと言って、なにも書いてない二百字詰めの原稿用紙を手に持って、ぼくの仕事部屋のほうへ出ていく。一時間ほどして、ちょうど半荘(ハンチャン)おわったころを見計らったかのように、小松さんが戻ってくる。いつも持っている黒い鞄に、ぱらぱらと原稿用紙をめくって確認してから、しまいこむ。さっきまで、なにも書いてなかった用紙は、ペンフレンド時代からお馴染みの体に似合わない細かい文字で、びっしり埋められている。麻雀を抜けている一時間かそこらのあいだに、二十枚ちかい原稿を書いてしまったのだ。しかも、座につくと「さあ、やるぞ!」などといって、さっきからいたみたいな雰囲気で、麻雀に集中し、しかも小憎らしいことに、勝ってしまう。小松さんの麻雀、けっして巧くはないが、なにしろ強いのである。ちなみに、筒井康隆さんと初めて対戦して勝った人はいないという神話があった。なにをやりだすか、まったく判らないので、面喰っているうちに、負けてしまうのだ。ただし、二度目からたいてい勝てるのである。星新一さんは、鷹揚な殿さま麻雀で、まったく勝負を気にしない。小松さんは、たぶん、どこかで、厳しい麻雀を体験したことがあるのだろうと、ひそかに想像している。
小松さんの切り替えの速さは、今の麻雀の例でも判る。もっとも忙しい時期には、シンポジウム、講演、座談会など、執筆以外の仕事が目白押しだった。ところが、それでも原稿の生産量は減らない。執筆の仕事と、シンポジウム、講演、取材など外へ出る仕事とが、相互にカタルシスになっているのだ。実際、ずっと執筆が続くと、どこか行きたいなと、漏らしていることもあった。
発足当時のSF作家クラブは、SFという新しい文学に市民権を与えようと、みんなが同志として連帯していた。仲良しクラブという性格は、今も変わらないが、当時は、誰でもいいから、メジャーなメディアに登場してほしいと願っていた。小松さんは、「日本アパッチ族」で、最初のステップを拓いた。小松左京論を展開するような柄ではないので、作家的な評価には、踏み込まないが、他のSF作家も、我がことのように喜んだ。「エスパイ」が、週刊『漫画サンデー』に連載され始めたころ、ぼくは、平井さんと、毎週交代で買った。「エスパイ」だけが読みたいからである。なぜ交代かというと、毎週買うだけの金がなかったからである。小松さんは、日本のSF作家として最初に、週刊誌の連載小説を書いたのである。このときの『漫画サンデー』の編集長の峰島さんには、ぼくたち、いわゆる第一期SF作家みんなが、今もって頭が上がらない。あのころ、よくぞSFの連載をさせてくださったと、自分のことのように恩義に感じているからだ。
小松さんとは、よく旅行した。SF作家クラブの事務局長だった大伴昌司さんは、怪獣ブームの仕掛け人として、話題になった人だが、37歳の若さでなくなった。その大伴さんのお墓参りが、SF作家クラブの行事として恒例化した。みんなが集まる口実がついたのだが、問題があった。大伴さんの命日は、小松さんの誕生日だったのである。しかし、小松さんは、自分の誕生日を放っておいて、お墓参りのほうに参加してくれた。
大伴さんの墓は、鎌倉にある。そこで、熱海だの網代だの、近くの旅館、ホテルで一泊ということになる。例によって、麻雀と馬鹿話で、徹夜になる。星さんが言い出したのだと思うが、大伴さんの次に誰が死ぬかという話になった。星さん流の飛躍で、次に死ぬ人と、その次に死ぬ人を、本命、対抗の馬券ならぬ死に券として、連勝複式で売ったら面白かろうというジョークになった。ところが、これは、賭けとして成立しなかった。なぜなら小松さんが、満票で本命に決まってしまったからだ。一日に四時間しか寝ない。タバコは一日に百二十本も吸う。酒も、がぶ飲みする。しかも、旅行が好きだから、年中、飛行機や車で移動している。さらに体重九十キロ、運動はしない。若死にする条件が揃いすぎていた。
仕事でも、小松さんと旅行した。水曜スペシャル「マヤ文明の謎」では、メキシコ、グアテマラ、ベリーズなど各地を、強行軍でひと月も回り歩いた。メキシコシティーのホテルで、明日からの重労働に備えて、テレビクルーもふくめて、巨大なステーキのディナーになった。ところが、これが、硬くて、なかなか噛み切れない。小松さん、あまり歯がよくないから、苦労していた。若いスタッフですら、肉と格闘している。翌朝一番、動物園へ取材に行った。ハグアル(ジャガー)は、マヤ、アステカの神だから、挿入カットのため撮影しなければならない。ちょうど、ジャガーの朝食の時間だった。係員が、何キロもありそうな巨大な肉塊を、檻に放りこんだ。ジャガーは、前足の爪で、肉塊を押さえつけ、噛みちぎろうとするのだが、さすがのジャガーにも、簡単には噛みきれない。その時、小松さん。
「おい、あいつは、プロだぞ」
スタッフ一同大爆笑。みんな昨夜のステーキを覚えている。我々が食べたのと、ジャガーの朝飯の肉とは、もちろん、同じ肉というわけではないが、肉食のプロであるジャガーにも噛みきれないものが、人間に噛めるわけがないだろう。
この旅行では、あとで永井豪さんが合流してくれた。メキシコのコロニアル風のホテルのプールサイドで、麻雀をやった。欧米の観光客から、ドミノゲームかと、よく訊かれた。
「猿の軍団」は、小松さんと亡くなった円谷英二氏との約束から、はじまった。有名な「猿の惑星」がヒットしたころ、小松さんは、ピエール・ブールが、仏印戦線で日本軍の捕虜となり、その怨念から書いた原作に、不満を持っていた。つまり、原作に登場する猿は、日本人がモデルということになる。しかも、京大の霊長類研究センターなどと交際のある小松さんにしてみれば、APE(類人猿)に関しては詳しいから、描き方のでたらめさが腹立たしいのである。原題は、「猿の惑星」ではなく、「類人猿の惑星」である。一方、円谷氏は、あの程度の特殊効果なら、メークアップも含めて、金さえあれば日本でも可能だと、公言していた。ふたりの不満が一致し、いつか日本でも、本格的な霊長類学(プリマトロジー)を踏まえた猿の映画を作りたいという約束になっていた。そこで、小松さんが、ぼくと田中光二さんに、声をかけてくれた。「惑星」におけるゴリラの描き方は、めちゃくちゃである。ゴリラは、平和主義者、森の隠者のような種(しゅ)で、ときには豹に殺されることもある。本気を出せば、ゴリラのほうが強いのだが、抵抗しないで殉じてしまうのだという。ゴリラと比べると、時に肉食もするチンパンジーのほうが、はるかに凶暴である。
そこで、ストーリーボードを、われわれ三人で作ったのだが、それぞれ回り持ちにして、その回の最後は、絶対に助からない、逃げられないようなシチュエーションを設定し、次回の担当が、それを解決するという方式を採った。黒沢明監督の脚本チームが、よくやった方法だという。小松さんの終わり方は、一見すると、続けるのが易しそうに見えて、実は難しいという厄介なラストになっている。ストーリーボードを作っても、脚本家が難をだすことがあった。つまり、解決したように見えても、無理がある設定になってしまうらしい。小松さんの頭の緻密さのせいである。
見もしないで「猿の惑星」のパクリのように考える人もいたが、きちんと考証して作った作品だから、玄人受けはした。今も、CSで何度目かの再放送を行なっている。
国際SFシンポジウムは、小松さんが、政治力、行動力を発揮して、実現したプロジェクトである。冷戦当時、SF作家といわず、日本、アメリカ、イギリス、ソ連(当時)の作家が、一堂に会したのは、これが最初で最後だった。小松さんの細かい気配りは、この時も発揮された。英米の作家は、こちらの招聘に応えて、個人でやってくる。こちらも、個人個人で対応すればいい。それに対して、ソ連の作家は、こっちから指名した人物が、来るとはかぎらない。先方から、政府に忠実らしい作家を人選して、代表団として派遣するシステムだった。H・G・ウェルズの研究家カガリツキーという評論家がいた。いつも、おどおどして、小松さんのそばにくっついているので、あれこれ訊きあわせてみた。すると、英米SFを研究しているというだけで、この機会に亡命するかもしれないという疑いを持たれているらしいと、わかった。そういう疑いを払拭するためには、かれは日本で、手柄を立てなければならないらしい。小松さんは、そう判ったとたんに、シンポジウムの席上で、このカガリツキーを立ててやりはじめた。いっしょに写真を撮ったり、握手したり、パーティーでは、特に喋らせたりした。小松さんは、日本側の委員長として、カガリツキーを重要視しているという証拠写真をプレゼントした。カガリツキーは、面目をほどこして、来たときとは別人のように、にこやかに帰国していった。
小松さんのおかげで、共産主義というものが、よく判った。
小松さんの思想上の軌跡に関しては、ぼくは語る任ではない。京大時代の共産主義運動への傾斜、のちのベ平連(ベトナムに平和をとする左翼運動)参加、いずれも、やがて袂を分かった。ぼくにも想像できる。人が大好きという小松左京は、人間性を無視したメリトクラシーを、嫌ったのだろう。
小松さんとは、外国へいったこともあり、英語を話す場面に、ずいぶん立ちあったことがある。いかにもカタカナを並べたような酷い発音だが、ちゃんと通じている。また、相手の話すことも、きちんと理解している。現在は、バイリングァルが流行っているが、ネイティブ・スピーカーと同じように発音するだけでは、国際的な役には立たない。それ相応の語彙と思想がなければ、薄っぺらなものでしかない。小松さんは、その意味で、日本人の英語の使い手だった。
これは、小松作品の底流に流れる特徴を、いみじくも表している。小松作品は、「日本沈没」にしても「果てしなき流れの果てに」にしても、世界的(イキュメニカル)(ecumenical)な要素と、地域的(パロキアル)(parochial)な要素から成り立っている。国際性と土着性と言い換えてもいいだろう。相反する二つの要素がないまぜになって、小松作品に厚い重みのある風格を与えているのだろう。